3-6
午前中にそのようなことがあったので、その夜セーナーヴィーの部屋に向かう、ラウサガシュの足は浮ついていた。月の障りの間は床を辞退するのが後宮の決まりだが、その他の理由でラウサガシュが、彼女の部屋に渡らなかったことはない。
「セーナ」
抱き締めながらそう呼ぶのを待ち切れない気分で、宦官が仕切りを分けた室内へラウサガシュが踏み込むと、険しい顔をした年嵩の女官が、口の前にしぃっと人差し指を立てた。
「お静かに、陛下」
ラウサガシュが拍子抜けをしたことに、寝衣姿のセーナーヴィーは、籐椅子に掛けたままうたた寝をしていた。その膝の上には、直前まで眺めていたらしい巻軸が広げられている。
「何だセーナ、俺を待たずに寝てしまったのか」
「お疲れでいらっしゃるのですよ。よいところへお越しになられました陛下、露骨にがっかりなさってないで、セーナーヴィー様をご寝台へお運び差し上げてくださいまし」
セーナーヴィー付きの筆頭女官は、アズカヤルの乳母をしていた貴族婦人である。できる女性であるのはもちろんのこと、そうやって国王ラウサガシュの尻を叩けるくらい、後宮内での立場は強い。
「仕様がないな」
お預けをくらったラウサガシュは、無防備な寝顔を晒しているセーナーヴィーの手の中から、滑り落ちそうになっている巻軸を取り上げた。
就寝前にこんなものを読んでいるから眠くなるのだと、文句をつけたい気持ちでそれを巻き上げようとしたラウサガシュは、ふと目に飛び込んできたその内容にぎょっとした。
「なん……だこれは……?」
焦って傍らの机を見れば、同じような巻軸が五つ六つ積まれている。それらを次々と紐解いてゆくうちに、ラウサガシュは完全に顔色を失っていた。
「セーナ!」
広げたままの巻軸を放り出し、紙面が重なる机上にどんと手をついて、ラウサガシュはセーナーヴィーの肩を掴もうとした――、ところを、脇から女官に袖を引いて止められた。
「お鎮まりを、陛下」
「しかしだな!」
「陛下、セーナーヴィー様をお起こしして問い詰められる前に、老婆心ながら陛下には、わたくしから苦言を呈させていただきたく存じます。この期に及んで陛下は、こんなに間近でこれほど陛下が騒がしくなさっていても、セーナーヴィー様がお目覚めにならない理由をまるで解していらっしゃらない。とても見過ごしてはおれませぬ」
女官の言葉通り、セーナーヴィーは昏々と死んだように眠っている。彼女の眠りはいつも深い。ラウサガシュの腕の中で、毎夜落ちるようにまどろんでゆく。それは満足のゆく房事の後に限るものだと思ってきたが――。
セーナーヴィーの側から離れ、ラウサガシュは長椅子にどさりと身を投げた。ばつが悪い気持ちで、くしゃくしゃと髪をかき混ぜる。
「苦言とは聞き捨てならんな、言ってみろ」
尊大にふんぞり返りながらも、疲れているのだというセーナーヴィーを気遣って、ラウサガシュは声を潜めた。女官は一礼をしてから進言を始める。
「はい。独身時代、手当たり次第に漁色をなさってきた陛下が、ご結婚後は憑き物が落ちたかのようにご正室様一筋でいらっしゃる、誠にめでたいことでございます。ですが陛下、陛下は、夜毎陛下のお渡りを受けられる、セーナーヴィー様のご負担を顧みられたことがおありですか?」
「セーナの、負担?」
思いもよらないことを問われて、ラウサガシュは眉を寄せた。セーナーヴィーに一日も早く心を開いてもらいたい一心で、ラウサガシュは彼女の部屋に通い詰めている。それの何が悪いのか?
「はい。男と女の体力には、基本的に差があります。セーナーヴィー様はお口では陛下と対等に渡り合い、男性の衣服も粋に着こなせる、ある意味非常に男らしいお方ではありますが姫様育ちの女性です。まして猛獣並みな陛下とでは……、ああっ、考えるだに恐ろしいっ」
「おい、真面目に話せ」
「大真面目にございます。
陛下はご存知なかったかも知れませぬが、これまで陛下の夜伽を務めてきた娘たちは、翌日通常業務を免除されておりました。また、セーナーヴィー様が、王妃陛下としてお輿入れされていたならば、ご公務やお客様とのお約束でもない限り、日中はゆったりとお過ごしいただくこともできていたでしょう。
前提としてここまで、よろしいですか?」
「うむ」
「なれどセーナーヴィー様は、他ならぬ陛下のご要望により、政にも参加する女王陛下でいらっしゃいます。朝議への出席や、執務のお手伝いだけでも疲労されておいででしょうに、ご正室様として後宮の切り盛りや、各国大使夫人とのご交流もこなされ、未だわからぬことが多いからとお勉強にも励まれて……。
おまけに陛下の鶴の一声で、お供にしてこられた侍女たちをみな、お国へ帰していらっしゃいます。わたくしどももお心にそえるよう精一杯に努力してはおりますが、経験不足やお国柄の違いはそう簡単に埋められるものでなく、人を使われる上でのご不便もお感じでしたでしょう。
ラウサガシュには耳よりも胸が痛む忠告を終えて、女官はしずしずと引き下がった。
夜毎熱く営むことで情は生まれる、僅かなりとも愛は育まれているとラウサガシュは考えていたのだが、とんだひとりよがりであったというわけだ。女官の諫言がこれほど応えているからには、自分はもう相当に、セーナーヴィーに惚れ込んでいるのだろうと、侘しさの中でラウサガシュは自覚した。
「一つ確認しておきたいことがある」
「何でしょう?」
「セーナは、朝は食欲がないからと朝食を共にしてくれないが、あの理由は本当か?」
それなりに固まってきていると思っていた、夫婦の基盤を足元から崩されて、ラウサガシュは懐疑的になっていた。女官はそれを察したらしく、真っすぐにラウサガシュの目を見てありていに答えてくれた。
「本当です。朝は毎日お水と、果物をほんの少ししかお口になさいませんので。ただ」
「ただ?」
「嘘はついておられませんが、隠してらっしゃることはあります。毎朝陛下を見送られて後、セーナーヴィー様はお時間いっぱいまで臥せっておいでです。二度寝をするなどだらしないことだから、陛下には内緒にしていて欲しいとおおせでしたが……」
明かしてしまいました。申し訳ありません――と、起きる気配のないセーナーヴィーに向けて女官は詫びた。忠義者の女官に不忠を働かせてしまうほど、セーナーヴィーの過労の度合いは深刻であるらしかった。
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