第8話 Awareness and share 認識と共有

 ドゥブロヴニクの港が見えてきたのは翌日の昼過ぎだった。天気もいい上に風光明媚。ダリオによれば、アドリア海の真珠、とも呼ばれている美しい港街なのだそうだ。もちろん、「これでヴェネチア人さえいなければ最高なのですが」と付け加える事も忘れない。

 例のごとく小舟が臨検にやってきて、彼らが差し出す書類にサインさせられる。しかし、言葉だけでなく、文字まで読み書きできるのは最高だ。この能力さえあれば世界のどこでも暮らしていけそうだ。


 港に入るとダリオとロザリアに造船所に連れて行かれ、イスラム船の値段交渉が始まった。当然造船所の親方とすれば安く買い叩きたいし、こちらは高く売りたい。すったもんだとやり取りがあったあと、結局は俺の騎士と言う身分が物を言い、こちらの言い値で引き取ってもらう。その額25リラ。リラというのはヴェネチアの通貨単位でシルヴァーノに聞いたところ日本円で4万円程度らしい。つまり百万円だ。


 その金は俺が自由に使っていいと言われたが、丁重にお断りした。百万とか言われても正直困る。何しろこっちは家賃5万2千円。生活費全て合わせても12、3万で済んでしまう貧乏人なのだ。そんな大金渡されても何を買えばいいのかすらわからない。取り敢えず小遣いとしていくらかを受け取ると、待っていたヒュリアを連れて街に繰り出す。ロザリアは船の補修やらで忙しいし、シェラールは漕ぎ手のフェデリーゴ達と飲みに出かけた。アイツ、俺の護衛だって事完全に忘れてるよね。


「兄さんがいなくても私がいます。私のほうが腕も立つし安全ですよ? 」


 ニコって笑うヒュリアを見ているとすべてのカラクリが理解できた。つまりはだ、シェラールはヒュリアに言われて俺の傍から追い払われたというわけか。


 流石はアドリア海の真珠と呼ばれるだけのことはある。ドゥブロヴニクなどと舌を噛みそうな名前だが、街並みはとても美しい。元々はラグーサ共和国というのだそうだがシチリアにもラグーサと言う街があり混同するので皆、ドゥブロヴニクと呼びならわしているそうだ。このあたりは色々な人種が住んでいる。赤毛のギリシャ女も魅力的だが金髪で背の高いスラヴ人も美しい。そしてオリエンタルな雰囲気のヒュリアと同じトルコ人の姿もちらほら見かける。いくらか小さめで黒髪の多いイタリア人も明るい雰囲気が顔に出ていて魅力的だ。


 すれ違った金髪のスラヴ人に目を奪われ、鼻の下を伸ばしているとヒュリアに袖を引っ張られた。だってしょうがないじゃない、みんなノーブラなんだもの。拗ねた顔で、俺の腕を抱え、胸を押し付けるヒュリア。ええ、貴方の成長途中のお胸も素敵ですとも。


 ヒュリアは前にアッコンの市場で買ってやった若草色のワンピースを着ていた。そうだ、折角だからもらった小遣いでヒュリアに何か買ってやろう。そう思い立って広場に向かう。広場では屋台が立ち並び、様々な物を売っていた。この風景はアッコンでもガンディアでもここでも一緒で、あちこちに買い物客と店主がやり取りする声が聞こえる。

 俺はその中から小洒落た銀細工を扱う店を見つけ、品物を眺める。指輪はまだ細い彼女の指には大きそうだし、宝石のついたネックレスともなるとそれだけ豪華すぎて似合わない。熟慮に熟慮を重ねた結果、小さな十字架をモチーフとした銀細工が付いている革紐のネックレスを買う。

 ヒュリアの首にネックレスをかけてやると、彼女は年相応の可愛らしい笑顔で喜んでくれた。うんうん、この笑顔が見たかったんだよ。代金は二つで10ソルド。円にして二万円ほど、とシルバーアクセにしては高かったが、手作りの一品物だと思えばそのくらいはするのかもしれない。ロザリアにもと同じものをもう一つ買い、ヒュリアと腕を組んで歩いていると衣料品を扱う店のオヤジから声をかけられた。


「騎士様、最近の流行をご存知ですか? 今時そんな地味なグレーのタイツを穿いてる方などいませんよ。ああ、もしかして十字軍帰りですか。なら仕方ありませんね、あちらの流行は10年は遅れてますから」


 などと勝手に話を進めて、よりにもよって右足と左足で色の違うタイツを勧めてきた。右足が黄色で左が赤。そんなド派手な物をとてもじゃないが穿く勇気はない。そもそも今穿いているピッチリしたこのタイツだって相当恥ずかしいのだ。


「そんな地味な格好で故郷に戻ったら笑われますよ? 騎士様は良くても従者の方々が恥ずかしいでしょう? 」


 そう言われると困る。確かに自分の主人が貧乏臭い格好をされるのは嫌だろう。ましてや流行遅れともなればなおさらだ。主人に言われるがまま、その派手なタイツと羽飾りのついたつばの広い帽子を買う。主人の見立てによれば、俺の付けているベルトは一級品らしく、滅多に目にすることがないレベルだと言う。まあ、元の持ち主が道楽息子だったし。

 ベルトだけ一級品なのに服があまりにもみすぼらしかったので思わず声をかけてしまったということだ。オヤジの話が上手だったこともあり、勧められるがままに半袖の刺繍が施された上着なども胸の前に当ててみる。ヒュリアが良いと言ってくれたラピス染めの紺色の上着を買うことにした。上着とタイツ、それに帽子、3つでお値段はなんと2リラ(約8万円)。ロザリアからは小遣いとして4リラ貰っていたので買えない事はないが、普段1980円の服を着ている俺にはあまりにも高く感じる。でもさっきも言われたように、俺が変な格好をしていると皆が迷惑するのだ。そう考えればこのくらいはいいか、と決意をし、購入した。


 荷物は船に届けるよう店主に依頼し、俺はヒュリアと街を歩く。ギリシャ色が色濃く出たこの街は優雅というかとても洗練されている。途中、甘いぶどうの絞り汁を飲んだり、露天で売っていた焼いた肉を食べたりしながらしばし、楽しい時間を過ごす。だが、よほど神とやらに憎まれているのか、俺の素敵なひと時は酒場の前で終焉を迎えた。


「やれやれ~! ヤッちまえ! 」


 昼間っから酔っ払ってケンカを煽っているのはフリオをはじめとする漕ぎ手の面々だ。その前では酒場から取っ組みあったまま、転がり出てきた二人の男。坊主頭に汗が光るフェデリーゴとチョイ悪系のイケメン、シェラールだ。お互いすでに何発ずつかもらっているらしく、鼻や口から血を流している。俺はフリオを捕まえどうなっているのか尋ねた。


「あ、大将! いえね、ありゃ喧嘩ってわけじゃねーんで。シェラールの野郎が見所あるんでフェデリーゴの兄貴が自分の後釜に据えるって言い出したんで。とは言えこの世界は腕っ節ですからね。一つその腕を見てやろうってなもんですよ。シェラールは嫌がったんですがね、兄貴が意地になっちまって、もし俺に勝てたら今すぐ漕ぎ手頭を変わってやるなんて言って奴をぶん殴っちまった。

 こうなりゃ止めんのは野暮ってもんで、俺たちゃ新しい頭の実力を拝ませてもらおうってこうして見守ってるんでさぁ」


 相変わらず馬鹿だ。バカにつける薬はないと言うが本当のことかもしれない。どこの世界にそんな理由で殴り合う馬鹿がいるのか。俺は半分呆れ顔で血まみれになって殴り合う二人を見ていた。


「全く、兄さんは相変わらず弱いですね」


 ヒュリアは俺の手を掴んだままケラケラと笑っている。フェデリーゴの巨体といい勝負してるのにあれで弱いとか。一体彼女の強さの基準はどこにあるのだろう。


「そもそも殴るというのが良くないですね。ああいう時は拳じゃなくて貫手で突くんですよ」


 ああ、そうなんだ。でもそんなことしたら死んじゃうよね。


 漕ぎ手の連中に混じって、タチの悪そうな地元の連中がトラブルの匂いを嗅ぎつけたかのように目を光らせながら様子を見ている。リーダー格と思われる中年の顔に傷の入った男が俺達に気づき、ちょうどいいカモとでも思ったのか大股で近づいてくる。


「ヒュリア、そろそろ行こう。何か変な連中に目をつけられたみたいだ」


「それはちょうどいいですね。さっき言った事を証明するチャンスです! 」


 ちょっと待って。なんでそこでノリノリなの? 俺は逃げるから。悪いけど俺、君たちみたいに特殊な生まれじゃないから。そう思って振り返るとそこはすでに地元の連中によって封鎖。通行止めだ。


「なあ兄さん、アンタ、あいつらの知り合いかい? 」


 予想通りというかなんというか。俺の前に立ちふさがったのは先ほどの傷面の男だ。後ろの面々はコイツの手下に違いない。


「え、ええ、まあ」


「困るんだよねー、よそ者に真昼間から道の真ん中であんなことされちゃ。地元の俺たちの顔ってもんが潰れちまう。なあ、わかんだろ? 」


「そうですよねー、いやあ、俺もそういうこともあるんじゃないかと思ってました」


「だろ? だったらどうするかもわかるよな? ま、ここじゃ人様に迷惑だ。こっちに来てもらおうか」


 俺とヒュリアは男達に囲まれて、人通りのない裏道に連れ込まれる。なぜだろう、思ったより怖くない。流石にイスラムとの戦いで場馴れしたのか?


「で、兄さんよ、どうしたらいいか答えてくれるよな? 」


「どうしたらって言われても困るんですが」


「はぁん? 解ってねーな。いいか、テメエは、ここで、身ぐるみ剥がされて、女取られて、泣きながら帰るんだよ! それが嫌なら有り金前部差し出しな」


「えっと、それもちょっと」


 そう言ったが速いか突然俺は傷面の男に殴られた。ガシっと衝撃があり、口の中に鉄の味が広がる。ペッと吐き捨てると一固まりの血が地面に広がった。


「あんまし舐めてんじゃねーぞ? 」


 そう粋がる傷つらの男が突然、うっとなってパタンと倒れた。見ればヒュリアが一瞬の隙をついて顎の下に貫手を存分に喰らわせていた。


「ね、こんなに簡単なのに。兄さんにはホント才能というものが感じられません」


 最高の笑顔で振り返るヒュリアの指先はどうだ!とばかりに鋭く固められていた。突然の事に驚いて満足に身動きもできない手下達。


「さて、お主らは我が主、ジョルジオ様に手出ししたのじゃ。万が一にも生きて帰れるとは思わぬことじゃな」


 ラテン語でそう言い捨てると、ヒュリアは二人目の男の下に燕のような軽やかさで近づいたかと思うと今度は貫手でみぞおちを深々と突く。ぐぉぉ、と踞る男、うん、その痛さと苦しさはわかる。


 次の男はさらに悲惨だった。気を持ち直してヒュリアに殴りかかったは良いものの、あっさり躱され逆に金的を蹴られて悶絶する。その男の耳の後ろあたりをヒュリアが貫手で突くと、男はまるで糸の切れた操り人形の如くパタリとうつぶせに倒れ込んだ。


 最後に残った男は、腰に隠し持っていたナイフを抜く。まずい、表情に余裕がない。アイツ、ヒュリアを殺す気だ。


「なんじゃ、小娘一人に刃物とはのう。所詮お主らの実力なんぞそんなもの。潰されてもさほど困るような顔でも無かったということじゃな」


「う、うるせえ! 俺たちゃ舐められたら生きていけねーんだ! 」


 そう言う男の手は震えていた。おそらく人を殺したことなどないのだろう。よく見ればまだ幼さの残る顔をしている。


「それじゃあ仕方がないのう」


 そう言いながらスタスタと歩み寄るヒュリア。男は緊張に耐え切れなくなったのか、「うわぁぁ!」と叫びを上げてめちゃくちゃにナイフを振り回す。


「そうではない、こうじゃ」


 その振り回されたナイフを腕ごとつかみ、気絶した仲間の背中に刺さるよう誘導する。グサっと嫌な音がして、俺を殴った男は一瞬体を痙攣させたかと思うとそのまま動かなくなった。


「お、俺じゃねぇ、俺がやったんじゃねーぞ! 」


 男は腰を抜かしたのか、ナイフから手を離し、へたりこんだまま後ずさる。ヒュリアは刺された男からナイフを抜くと、もう一人の悶絶する男に向かい、無造作に投げつけた。こめかみの辺りに刺さったナイフはそのままその男の生命活動を停止させる。


「お、お前、それでも人か! 」


「最初にいったはずじゃがの。生きて帰れると思うな、と」


「ちょ、ちょっと待ってくれ、俺は言われたままについてきただけで、まだ何にもしちゃいねーだろ? なあ、頼むから殺さないでくれ! 」


「ダメじゃ。そもそも我が主ジョルジオ様は騎士じゃ。その騎士を殴りつけたとあればどちらにしろ縛り首。どちらにしろ死ぬのであれば今死んだ方が楽であろう? 拷問の末に縛り首とあれば痛いだけ損じゃからの。そうは思わぬか? 」


「嫌だ! 死にたくねーよ! 頼むよ、頼むから助けてくれ! なんでもするから! 」


「お主らとてそう命乞いする相手を鼻で笑いながら嬲り殺して来たのじゃろ? たまたま自分の番になっただけじゃ。あきらめるのじゃな」


 ヒュリアは笑顔のまま、その若い男を突き殺した。やだこの子、素手で人が殺せるとか、一体どんな修行してきたわけ?


 不思議なものであれほど悩んでいた命を奪う罪深さについては何一つ感じない。ヒュリアの言うとおり、彼らは生きている限り、誰かを脅し、嬲り殺すのをやめないだろう。まるでライオンがシマウマの群れを襲うのが当たり前のように、ヒュリアが彼らを殺すのが当たり前に感じる。ただそれだけだった。


「ね、こういう風にすればすぐに終わるのに。好き好んで痛い思いをする兄さんの気持ちがわかりません」


 最後に気絶したまま動かない金的を蹴られた男に止めを刺しながら、ヒュリアは明るくそう言った。まるでお手伝いした事を褒めてもらいたくて仕方がない子供のような笑顔で。

 俺は彼女を軽く抱き寄せ頭を撫でてやる。何故か無意識に涙が出た。幼くして、人の命を奪うことにためらいを感じない彼女の生い立ちに同情してなのか、はたまた人が目の前で死ぬ事に何の抵抗も感じなくなった自分への哀れみなのかはわからない。おそらくその両方だろう。ただ、はっきり解ることは、俺が今までとは違う、現代人としては明らかに間違っている感性を手にしてしまったと言う事だけだ。


 彼らの遺体はそのままに、俺たちは船へと戻る。ロザリアに買ってきたネックレスはなんとなく渡すタイミングを失い、部屋の長持にしまいこんだ。ベッドでしばらくゴロゴロしていると、顔をパンパンに腫らしたシェラールがフリオの肩を借りながら戻ってきた。


「よぉ、お帰り。随分派手にやられたみたいだな」


「へへ、でもきっちりフェデリーゴの奴をやっつけてきたぜ。今日から俺が漕ぎ手の頭だ」


「そうか、そりゃよかったな。で、フェデリーゴは無事なのか?」


「ああ、殺しちまうようなヘマはしねえ。気絶しただけだからしばらくすりゃ目を覚ますさ」


「そうか」


「あれ? 随分つれなくねーか? 俺ぁアンタの為に必死で戦ったんだぜ?」


「俺のため?」


「ああそうさ。一の子分がうだつの上がらねぇ下っ端じゃ締まらねぇだろ? 大将、アンタの右腕はこの俺だ。漕ぎ手の奴らもそれでいいと言ってくれてる。この前みたいに突っ込む時は俺がアンタに変わって一番で飛び込んでやるさ」


「そっか、そこまで考えてくれてるなんてな。ありがとう」


「なーに言ってんだよ! 俺達はすんでの所でアンタに助けてもらったんだ。どんな事してもこの恩だけはキッチリ返すさ」


「そうか、頼りにしてる」


「ああ、任せとけって。流石に体がボロボロだ。わりいけど先に休ませてもらうぜ」


 それだけ言うとシェラールはアザだらけの体をベッドに横たえ、寝息を立て始めた。


 みんなそれなりに頑張ってんだな。それに比べて俺はなんて中途半端なんだ。イスラム船の時もそうだが今日だって、俺は敵を攻撃するのに躊躇った。自分の現代人としての常識がそんなに大事なのか? 仲間が危険にさらされても俺は自分の罪悪感を優先するのか? 

 だから俺は何もしないのか。言われるがまま動いて責任逃れをしているのか。「本当はやりたくないんだけど周りがやれって言うから」そういう逃げ道を無意識の内に考えてた訳だ。情けない。なんて情けないんだ俺は。いつまで被害者づらしてるつもりなんだ。シルヴァーノが言ってたように、今俺が彼らとこうしてここに居るのは全て自分の選択した結果だろう? なのに何故他人事のフリをする? よしんば二十一世紀に帰れたところで自分に何があるというのか。

 ……やめよう。病気になりそうだ。そう、ここでの俺はフリーターの坂崎丈治じゃないんだ。騎士、ジョルジオ・マセラティなんだから。全部は無理でもできることから少しずつはじめよう。ここに居るシェラール達が殺されたらきっと辛い。今まで経験したどんなことよりも。ならばそうならない為にはどうする? そう考えればやるべき事は見えてくるはずだ。


 翌日、俺は届いていた新しい服を身につける。いくらか腫れが引いたシェラールにはそれまで俺が着ていた服を着せ、2人で漕ぎ手の連中がいる二層目の甲板に行く。彼らは俺たちの姿を見つけると、左右に並び出迎えてくれた。


「大将と新しい頭だ。皆、姿勢を正せ! 」


 フェデリーゴの怒号が響く。彼もまた顔中が傷だらけで右目などは未だ、青タンで膨れ上がり半分も開いていない。しかしあの漕ぎ手の連中がこうも行儀よく並んでいるのを見ると、思わず笑ってしまいそうになる。


「全員、楽にするでござるよ。大将から皆に話があるゆえ心して聞くでござる」


「あ、うん。皆聞いて欲しい。君たち漕ぎ手は戦いともなれば誰よりも勇敢な切り込み隊だ。だが、その分危険も大きい。慣れた人間が減ることは船の運行にも響くし、仲間が死ぬのはとても辛いことだ」


「へ、命大事じゃ漕ぎ手は務まりませんぜ。俺たちゃ切り込んでなんぼだ。なあ、みんな? 」


 フリオがそう言って混ぜ返す。それに煽られた連中がそうだそうだと声を上げた。


「ああ、たしかにそうだ。だが死にたいやつなんか誰もいない。だから少しでも死なないような工夫をしようと思う」


 皆の視線が俺に集まる。半分は期待感で半分は侮蔑と言ったところか。まあ、概ね予想通りだ。


「まずこの中に盾を使う奴はどれだけいる? 」


「大将、盾なんてのは臆病者の使うもんだ。甲板の奴らみたいにね。俺たちゃ斧を相手に食らわす、それが役目だよ」


 フェデリーゴの言葉が全てなのだろう。確かに前回のイスラム船との戦いでも彼らはロクに鎧もつけず、斧を抱えて勇敢に乗り込んでいった。勇気こそ最上の美徳。彼ら力自慢の勇者たちにはそれが全てなのだろう。


「なるほど、勇敢だな。だがこれからは皆の中の半分には盾を持ってもらう。盾を持った者は誰よりも先に敵船に乗り込み、後続の道を作るのが仕事だ。とても勇気のいる役目だと思うがやりたいやつはいるか? 」


 互いに互いをキョロキョロと見回すものの誰ひとりとして手が上がらない。気恥ずかしいのもあるだろうし、盾=臆病と言う彼らの常識が手を上げるのを躊躇させるのだろう。


「ならばフェデリーゴ、お前が盾を持つんだ。シェラール、力のありそうな奴を中心に盾を持つ人間を選び出せ」


「畏まってござる」


「残りの半分は切り込み役だ。両手持ちの大斧で敵をガツンと始末するのが役目だ。いいな? 」


「でも大将、だったら全員大斧もって突っ込んだほうがいいんじゃねーのか? 」


「フェデリーゴ、それじゃあみんな矢の餌食だ。まずは盾持ちが矢を受けないように切り込んで道を作る。そこにでかい武器持った残りが突っ込めば負けないとは思わないか? 」


「そりゃあ、そうですけど」


「とにかくそれで行く。俺はもう誰も死なせたくないんだ。鎧や兜もしっかりしたものを調達する。だからお前たちも俺の言う通りにしてくれ」


「ま、フェデリーゴの兄貴、大将にここまで言われちゃそうするしかねーですよ。あっしもジャンみてぇな若い奴らが死ぬのを見送るのは懲り懲りですしね」


 フリオがそう言うとフェデリーゴも渋々ながらに頷いた。そして何か吹っ切れたように爽やかな顔で言った。


「いいか! 盾持ちになったやつらはこの俺がみっちり鍛えてやる。どんな相手でもぶちのめして道を作れるようにな! 」


 と言って気勢を上げた。


「シェラール、あとはお前の仕事。みんなを振り分けたら甲板で演習だ。俺はダリオ殿と話しをしてくるからあとは任せる」


「了解でござる」


 シェラールが一人ひとりの名を呼んで、二つの隊に分けていくのを見ながら俺はその場を離れ、ダリオを探した。


「ここにいたんですか。随分探しましたよ」


 ダリオは厨房で女たちを相手に聖書の逸話を話聞かせているところだった。なんでダリオにだけ敬語なのかって? そりゃこの船で唯一俺より年上なのが彼だからだ。年上で聖職者の彼には相応の敬意を払って当然だろう。


 修道士ダリオ(32歳独身)を見つけた俺は、説話のキリのいいところで彼の手を引き、ロザリアのいる船長室に連れて行く。


「一体どうされたのかな? そんなに慌てなくても私は逃げませんぞ」


「まったくさ。いきなり飛び込んできたと思ったら、坊主連れなんてね。色気もヘチマもありゃしないよ」


 ふてくされたような二人をテーブルの向かいに座らせ、俺は苦情もなんのその、本題を切り出した。


「話ってのは他でもない。漕ぎ手の連中の装備の事だ」


 はぁ? と不思議な顔をする二人を前に、俺は話しを続けた。何しろこの船の金をやりくりしているのはこの二人だ。彼らの承諾を得られなければ俺には何もできない。ヒュリアが注いでくれたレモンか何かで味付けされた水に口をつけながら熱心に語る。


「まずは彼らにまともな鎧と兜を支給したい。それに半分程には盾を持たせることに決めた。残り半分には両手持ちの攻撃力の高い武器を持たせる。敵船への道を切り開くディフェンダーとその道を通って敵を殲滅するアタッカーに分ける事で、死傷率の低下と攻撃の効率を上げる」


 ダリオもロザリアも腕を組んだまま考え込んだ。何かの本で腕を組むのは否定の現れだと読んだことがある。やはりダメなのか。そりゃあそうかもしれない、今まで何の興味も示すことなく他人事のように過ごしてきたのだから。


「ジョルジオ殿、貴方はそれをどこで学ばれた? 」


 まさかゲームで、とは言えない。それっぽい事を言ってごまかさねば。


「書物ですよ。過去の戦記物とか読みあさってましたから」


「なるほど。古代ローマでは盾を持った市民兵が絶大な戦力となっていたと私も読んだことがありますな。それにアタッカーと言いましたかな? ふむ。盾で守られた無傷の猛獣が敵船に乗り込み暴れまわると。理にはかなっておりますな」


「だけど海の男は盾を嫌う。鎧すら着たがらない奴が大半さ。船の上じゃ身軽が一番だし、盾に隠れるなんて臆病者と言われかねないからね」


「それはもう、説得済みだ。フェデリーゴ自らが盾を持つと言ってくれたよ。あとはアンタらがそのための資金を出してくれるかどうかだ」


「質を問わないって言うのであれば盾はあるよ。そうだねえ、30枚はしまってあるんじゃないか? 何しろ奴らはあっても盾なんて見向きもしなかったからね」


「資金面では正直今すぐは厳しいですな。ジェノヴァで荷を売り払えばそのくらいはどうとでもなりますし、武具の質もこのあたりよりは上質な物が手に入れられますが」


「わかった、鎧兜に関してはダリオ殿に一任します。ロザリアは盾の使用許可を。それと今から甲板で演習をはじめるから俺の脇で見ていてくれ」


「わかったよ。武器庫にあるものは好きに使ってくれていいさ。それにしてもどうしたんだいアンタ。いきなりこんな事始めるなんてさ」


「俺はずっと上の空だったんだ。なんとなく流されるまま皆の主なんかになってた。心のどこかで「俺がそうしたかった訳じゃない」ってずっと思ってたんだ。覚悟ってもんが何もなかった。

 だけどジャンが死んで、こないだヒュリアと一緒にチンピラに絡まれてわかったんだ。このままじゃいけないってね。何より仲間がこれ以上死ぬのはごめんだ。戦えば誰かが犠牲になる。それはわかってる。だけど同じ死ぬにしても俺にできることを全てやった上の事にしたいんだ。俺が躊躇ったせいで誰かが死んだら俺は俺を生涯許せないだろうから」


「全く、全く今更だよ、アンタって奴は! いいかい、海の上でも陸の上でも『弱い』なんてのは最大の罪さ。そんな事を正々堂々と言ってのけたのはアタシの知る中じゃアンタぐらいのもんだ。いいね、この先、一言でも「自分が弱い」なんて言ったらこのアタシが承知しない。それだけはよく覚えておきな!」


 ロザリアはひとしきり強い調子で俺をなじると、俺の手を捕まえて船長室前のテラスに引っ張り出す。ダリオもヒュリアも俺の脇に並び、準備が整い始めた甲板の上の戦士たちを見下ろしている。彼らの半分は手に手に短く切った棒と盾を持ち、残りの半分は長い棒を持っている。船べりでは甲板要員と女たちが何事かと興味深げに見物していた。


「あのバカ奴ら! 大事な掃除道具を切っちまいやがって! 」


 よく見れば短い棒はどう見ても甲板掃除に使うブラシの柄だ。あらら、こりゃあとで雷が落ちるな。


 半分に別れた彼らは取り敢えず片方の組が前列に盾を持った連中が並び、その後ろに長い棒を持った連中が控え、もう片方の組は全員長い棒を構えて並んでいる。シェラールが両者の中央で合図する。両者とも雄叫びを上げながら走り出した。


 盾持ちの組を率いるのはフェデリーゴ。そして反対の組はフリオが率いる。数瞬の後、大きな音がして両者がぶつかり合った。その数秒後には盾を持った連中がフリオの組を真ん中から押していく。フリオたちも懸命に棒を叩きつけ、なんとか突破を阻止しようと努力するもののその攻撃は全て盾に阻まれ効果がない。中央部分がぐっと押し開かれたところに盾持ちの後ろに控えていた連中がなだれ込む。つつかれ叩かれ、フリオの組は大きく陣形を乱し、バラバラになったところを棒で叩かれる。そこでシェラールが「やめ!」の号令をかけた。


「ははは、すごいじゃないのさジョルジオ、アンタ、こんな事考えついたのかい? こりゃあアタシの想像以上の出来だよ」


「確かに船長の言われる通りですな。私もここまで違いが出るとは思っても見なかったですぞ」


 俺もそうだ。ゲーム上では確かにこうなるのだが、実際にやってみると想像以上に違いが出る。本心ではかなり不安があったため、こうして実証されるとほっとする。中でもフェデリーゴは皆を叱咤しながら中央に立ってグイグイ押していく。もし彼が現代に生まれてラグビーでもやれば名選手になったに違いない。


「それに見栄えもいいですな。ああして正面からグイグイ押されては、前に立った者からすればどうやっても押し返せない絶望感に駆られるでしょう。ふむ。これで揃いの装備でもすれば一気に名が売れること間違いなしですな。装備についてはこのダリオ、全力を尽くして最上の物を手に入れてみせましょう」


 そうダリオが笑顔で請け合ってくれたので、俺は体の力が抜けるほど安堵した。何しろ今まで俺が他人に指示をするなどあり得ないことだったし、今回の知識もゲームからというあやぶやなものだったから、そのプレッシャーは尋常なものではなかった。安心した俺は部屋に戻って、服を脱ぎ、いつもの修行用の麻のズボンに履き替えて日課の水汲みを始める。上半身裸で下は麻の膝丈までのズボン、これがこの船での俺の普段着になっていた。


 ドゥブロヴニクの港を出航し、アクアマリン号は一路ジェノヴァに向かい疾走する。風には恵まれなかったがそこはガレー船、櫂を使って漕いで進む。とは言え流石に人力、瞬発力はあるがトータルで見れば思ったほどの速度は得られない。


 俺はその間もひたすら水を汲み上げる。すっかり日に焼けた肌は赤銅色になり、細い体にもみっしりと筋肉がついた。産まれて始めて腹筋が割れた時には思わずガッツポーズを取ったものだ。

 アドリア海を横切り、ブーツ型のイタリア半島の靴の底に当たるイオニア海に出たところで風が吹いた。大きく広げられた三角帆が風をはらみ、船は快調に進んでいく。右手に見えるイタリアの大地に陽光が反射して眩しく光る。

 船がイタリアのつま先に当たるカラブリア地方に差し掛かると、前方にシチリアが姿を現した。あの島が母さんの故郷か。もしかすると俺のご先祖様もあの島にいるのかもしれないな。


 問題視されていたメッシーナ海峡もさほどのことはなく、一度帝国の船による簡単な臨検があっただけで通ることができた。ここを抜ければティレニア海。この先にはアマルフィ、ナポリ、そしてジェノヴァとこの時代の最先端の海運都市が続く。海の治安も比較的に良く、海賊などは滅多に見ることがないという。


 右手にナポリの大きな港が見える頃、ようやく俺は午前中に水を汲み終わることができた。


『ようやくですか。まあ、始めてから3週間でここまでできれば上出来でしょう、貧弱な貴方にしてはね。』


『お前さぁ、もうちょっと言い方ないわけ? 俺にしたらここまで努力したのは産まれて初めてなんだぜ? 』


『こんなものは基礎に過ぎませんよ。さあ、早速始めますよ。剣と盾を持ってきてください。』


 相変わらず容赦がない。俺はやや憮然としながら部屋に武具を取りに行く。なるほど、本人の努力を鼻であざ笑うような言い方されるとこれほど腹が立つものなのか。俺も気を付けよう。


『さて、基本的な型はすでに教えてあります。まずはおさらいとしてやってみてください。』


 俺は言われた通り、以前に習った型通りに剣を振るった。


『あれ?』


『どうしました?』


『いや、剣がアホみたいに軽い。全力で振っても引きずられるようなこともないし、まるでおもちゃの剣でも振っているようだ。』


『うんうん、その感覚が当たり前なんですよ。振りの勢いに引きずられるようじゃ、剣を持つ資格などありませんからね。』


 なるほど、確かにそうかもしれない。俺は続けて剣を振り、左手に持った盾を振る。何度も何度も体に染み込ませるようにひたすら同じ動きを繰り返す。


『今日はその動きを繰り返してください。明日からはひとつづつ新しい型を教えていきますから。』


 それだけ言うとシルヴァーノの気配はぷっつりと消えた。姿すら現さないなんて相当衰弱しているのかもしれないな。翌日からは姿を現したシルヴァーノを相手にした実戦形式の練習だ。コイツの姿は俺にしか見えないし、その攻撃も俺にしか感じることはできない。傍から見ていればシャドーボクシングのように見えるのだろう。

 言うだけあってシルヴァーノは凄腕だ。恐らく今まで見た誰よりも腕が立つ。その攻撃は疾く、多彩な動きは予測を許さない。盾を持っているにも関わらず、俺はあちこちを打たれ、終わる頃には立ち上がることすらできなかった。

 その日からイタリア半島の付け根にあるジェノヴァまでの一週間、俺はひたすらシルヴァーノに叩かれ続けた。盾に身を隠せば、その盾の上から蹴られ、バランスを崩したところを叩かれる。かと言ってこちらが仕掛ければあっさりと躱され、剣を慌てて引き戻した時にはすでに叩かれた後だった。結局一撃も入れることができないままジェノヴァの大きな港に入港する。


 入港すると同時に、漕ぎ手連中はまるで恒例行事がごとく、酒を飲みに街へと繰り出し、ダリオは積荷を売るためにロザリアを連れて商館へと向かう。その後服でも買いに行くのだろうか、今日はヒュリアもロザリアについていった。副長のルチアーノも配下の甲板要員を連れて珍しく飲みに出たようだ。結局消去法で船の留守番は俺に決まった。まあ、特に上陸したい訳でもなく、誰もいないガランとなった船で剣でも振ろうかと思っていると突然シェラールから声をかけられた。


「なんだシェラール。みんなと飲みに行かなかったのか?」


「へ、大将が剣に励んでいるようだから、そろそろ練習相手がほしいんじゃないかと思ってね。今なら誰もいないし俺にやられても恥じゃないぜ?」


「そりゃありがたいな。俺も情け容赦なく叩かれ続けるのに飽き飽きしてたんだ」


 どこかにいるはずのシルヴァーノに聞こえるよう、わざと大きな声で言ってみる。


「叩かれ続ける? 大将は一人で修行してたんだろ? 」


「ああ、細かいことはいいんだ、早速やろうぜ。場所は甲板でいいな? あそこなら広いし」


 盾を持って甲板に上がる。武器は短く切ったブラシの柄だ。これに関しちゃ漕ぎ手一同、ロザリアにめちゃくちゃ怒られたらしい。シェラールも盾とブラシの柄を持って俺の前に正対する。短いとは言っても1m近くある。重さだってそれなりだ。鍛えていない俺なら数回振り回せば力尽きていただろう。


「んじゃいくぜ? 遠慮はしねーからな、大将」


「ああ、それで頼む」


 シェラールはシャ!っと裂帛の声を上げ斬り込んでくる。疾い、だが見える! 俺はシェラールの振る棒の軌道に合わせて盾を振る。バンっと大きな音がしてシェラールの棒ははじかれ、バランスを崩してよろめく。そこにすかさず右手に持った棒でがら空きの胸を突いた。


「え?」


「え?」


「え? じゃねーよ! どうやってアンタこの短期間でそんなに腕あげやがった? イスラム船じゃあんな弱そうなやつと必死に戦ってたじゃねーか! 」


「ふふ、シェラール、古来中華では『男子三日会わざれば刮目して見よ』と言うことわざがあるのだよ」


「けっ、なんだか知らねーがもう一回だ。今のはまぐれって可能性もあるからな! 」


 再び構えるシェラール。先ほどので懲りたのか、今度は盾に身を隠し、ジリジリと慎重に間を詰めてくる。ふふ、甘いな。その方法はすでに俺が何度も試して打ち破られているのだよ。俺は無造作に近づき、そのシェラールが身を隠す盾におもむろに蹴りを放つ。またしてもバランスを崩し、無防備になった脇腹を棒で突く。


「認めねえ、俺はこんなの認めねえぞ! 」


「え?」


「だってそうだろ? アンタが強けりゃ護衛の俺はお払い箱だ。少なくともアンタよりは強くなくちゃならねえんだ! 」


 どうしてそんな考えになるのだろう。過去にそうされたことがあるのかシェラールは何度倒されても、果敢に立ち向かう。


「なあ、シェラール。俺にとってお前は仲間なんだ。強かろうが弱かろうがそばにいてくれなきゃ困るんだよ。例えその腕がなくなって剣が握れなくなったとしてもだ」


 シェラールは四つん這いになり、荒い息をつきながら俺をじろりと睨む。


「そんなこと言ってっからアンタはだめなんだ。貴族なら貴族らしく役に立たなくなった家来は切り捨てて行くもんだ」


「それはお前の知ってる貴族だろ? 俺はそんなことはしたくないし、しない。それにそもそもお前はヒュリアの兄貴だ。将来お前は俺の義兄になるかもしれないんだぞ? いわば家族も同然だ。そんなちっちゃいこと言ってんなよ」


 シェラールは何も答えず、不機嫌そうな顔で船室に降りていった。俺が黙々と剣を振り始めるといつの間にか隣に並び、前に買い与えた剣を振る。どうやら俺の振りを真似ているようだ。黙々と剣を振る二人。夕方近くになり、街に出ていた船乗りたちが続々と船に戻ってきた。


 その日の食事は豪華だった。ダリオが積荷を高値で売りさばくことに成功したからだ。ジェノヴァでも通貨単位はリラとソルド。聞けば全部で4000リラ(約1億6000万円)にもなったと言う。そりゃあ飯ぐらい豪華にしてもバチは当たらないだろう。


 たまたまこの日がキリスト教で言う斎日(軽めの断食。肉などを食さない日)が明けた土曜日だったこともあって、市場では様々な食料品が並んでいたらしい。ちなみに今日のメニューは胡椒をまぶしたウズラの丸焼きと人参、キャベツなどがたっぷり入ったスープ。食前には高価なハチミツ酒が振舞われ、食後にはリンゴのパイまで付いている。当然パンは白く柔らかい物で、イチジクで作ったジャムまで添えられる。これには俺を始め、甲板に集まったみんなも大喜びだ。ハチミツ酒に刺激され、飲み足りなくなった連中はエールやワインを飲み始める。

 俺はロザリアがドゥブロヴニクで買い求めたと言う、スラヴ人が好む馬乳酒を試してみた。酸味と臭みが強くとてもうまいとは言えなかったが、なんとなくヨーグルト風味で飲めないものではない。この馬乳酒は体にいいとされ、無理にでも飲んでおくとあとが楽だと言う。豪華な食事を前にした宴会も盛りを過ぎ、片付けが始まる頃に酒の代わりに酢を薄めたものを不味そうに飲んでいた修道士のダリオに呼ばれ、船長室に行く。そこにはロザリアと副長のルチアーノも同席していた。ヒュリアが皆にシードル(リンゴの発泡酒)を注いで回り、自分も俺の隣に腰を下ろす。


「さて、話というのは他でも有りません。今回の配分についてです」


 ダリオが真剣な面持ちで口火を切る。


「まず、船員たちへの分け前、それと島で暮らす家族の取り分。これは絶対です」


 そう主張するのはルチアーノだ。なるほど、儲けた分は皆でわけなきゃならないし、元々彼らは島で暮らす家族の為に海賊稼業をしていたんだったね。


「俺は船乗りがどのくらいもらっているのかわからない。ルチアーノ、お前の考えを聞かせてくれ」


 ふむ、と考え込むルチアーノ。面長で大人びて見える彼ですら23歳。俺の一つ年下だ。


「まあ、漕ぎ手や甲板要員は一人5リラも渡せば十分でしょう。各部署の頭は10リラ。頭は船長と俺を含めても6人。残りが今87人。そうすると、495リラですかね。あとは家族の取り分ですがこれは1000リラは欲しいところです」


「そうなると残りは2505リラ。それでいいかい? ジョルジオ」


 ロザリアも真剣な表情だ。やはり島に残してきた家族には手厚くしてやりたいのだろう。


「ダリオ殿、ここで商品を仕入れてまた、貿易をするためにはどのくらいの元手がいるんです? 」


「ふむ。こちらからだとドイツ銀がいいでしょうな。そうですな、それなりの利益を狙うのであれば、やはり1000リラは欲しい所です」


「ではロザリア、またこの船がアッコンまで行って帰るのにどれほどの経費がいる? 」


「まあ、みんなにそれなりの物を食わせるとなると、300は要るね。何しろ補修や整備も必要だし、停泊料も馬鹿にならないからね」


「そうなると残りは1225か。ダリオ殿、前に話した武装の件、これでなんとかなりそうですか? 」


「装備品に関してはすでに目星をつけております。ま、漕ぎ手の60人分であれば500もあれば上等なものが揃いますよ」


「そうなると残りは705。十分じゃないか? 」


「ではそのようにさせていただきます。大将、俺の意見を聞いてくれて有難うございます」


 ルチアーノが深々と頭を下げて部屋を出ていった。残った705リラだって2820万円だ。郊外なら中古のマンションが買える大金なのだ。


「アタシからも礼を言うよ。1000リラもあれば父さんたち、島のみんなも豊かに暮らせる。ルチアーノのとこは兄妹が多いからね、アンタが何も言わずに提示した金額を認めてくれたのがよほど嬉しかったんだろうさ」


「それはそうとこの先どうなさるおつもりで? ローマは情勢がまだ不明瞭ですし、教皇をはじめとした聖職者もみな、このジェノヴァに集まっています。もしかしたらコンティ伯ご本人もこちらにおられるかもしれませんぞ? 」


「そうですね。ダリオ殿には手をかけますが、そのあたりの情報もお願いできますか? それによってどうするか変わってきますし」


「アタシとしちゃあ、一刻も早く父さん達に金を届けてやりたいところだがジョルジオはなんたって主だからね。そっちを優先してもらって構わないよ」


 結局期限を切ってジェノヴァに停泊することになった。一週間の間に有力な情報が得られなければ買い付けた銀を積んで出航、まずはエーゲ海のロザリアたちの故郷の島に向かい、その後アッコン、そしてまたジェノヴァへと戻ってくる。この貿易が軌道に乗れば、ロザリア達の海賊稼業も本格的に終了だ。そのためにはもう一回くらい、今回並みの利益を上げる必要があるのだ。

 ちなみにロザリアはダリオの紹介で、正式なジェノヴァのギルド員として認められたらしい。これでどこの港へも堂々と入港していけるし、各地の商館で情報だって手に入る。もっとも俺が同行してなければそれなりの税はかかるらしいが。


 とにもかくにもひと段落。ここにコンティ伯がいるのであれば養子にしてくれたアレッシオ殿への義理も果たせる。シルヴァーノの目的が何なのかはまだわからないが、それだってきっと。あとは地道に貿易をして船の連中とゆっくり暮らす。そんな人生もいいかな、と思い始めていた。

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