第16話 Emperor 皇帝

「ねえ、ロタリオさん。そろそろ正気に戻りましょうよ」


「いいんじゃ。わしは結局あのリナルドのやつに殺される運命だったんじゃ」


「だいじょぶですって、二人で力を合わせればきっと生きて帰れますよ」


 伯はあの日からずっとこの調子で塞ぎ込んでいる。俺も色々手を尽くして伯を元気づけているのだが、一向に効果が見られない。あーもう、このおっさんめんどくせえ!


「ほら、この丘を越えればプロヴァンスですよ。もう、リナルドさんはいないんです。ね? 気分を変えて馬に乗りませんか?」


 ウンともスンとも言わない伯を馬車から引きずり出し、コンティ家の紋章であるモザイク柄の鷲が染められた馬衣をつけた逞しい馬の上に無理やり押し上げる。俺も美しく装ったオリヴィアに跨り、ゆっくりと進んだ。


「ほら、夏場のプロヴァンスは綺麗ですよ。それにあのアルプスの雄大さと来たら」


「ああ、うん。そうじゃな」


 やはり空返事しか帰ってこない。伯も俺も一応万が一に備えて武装をしているものの、こののどかな景色を見ていると、むしろ馬鹿らしくなってくる。ピクニックスタイルのオカッパ隊の方がTPOを弁えているように見えるから不思議だ。


「ジョルジオ様、伯はずっとあの調子で?」


 心配になった伯の騎士、ジェラルド殿が俺に馬を寄せてくる。伯は今回、ジェラルド殿とグスターヴォ殿の二人の騎士しか伴わず、あとは騎士の抱える下男しかいない。船旅であることを考慮してあまり大人数では不味いと言う判断らしい。


「そうなんですよ。すっかり塞ぎ込んじゃって」


「伯はリナルド猊下には幼い頃からひどい目にあわされてますからな。しかも今回は飛びっきり。塞ぎ込むのも無理はありません」


「でもせっかく陽気のいい頃に旅してるんだから、あれじゃもったいないですよ」


「まあ時が解決するのを待つしかありませんな」


 はぁっと二人でため息をついたとき、先頭のシェラールが角笛を吹いた。何かあったらしく、ヒュリアが馬を急かせて俺の元に来た。


「ジョルジオ様、賊じゃ! 数はおよそ40。全員徒歩でこちらに向かってきておる」


「なんじゃと!」


 俺が返事をするよりも早く、伯が声を上げた。さっきまでの濁っていた目が嘘のように澄み、その目をクワッと見開いた。


「全員横隊! 弓兵は20歩前進、敵を補足しだい射撃を開始じゃ! 歩兵は2列横隊。いつでも走り出せるよう身構えておけ! 騎兵はわしの元に集まれ! 武器を持たぬものは馬車の周りで待機! 荷馬車もここに移動じゃ!」


 人が変わったようにテキパキと指示を下すコンティ伯。あんた、ダメなおっさんじゃなかったんだね。


 俺からはまだ、敵の姿が豆粒にしか見えない距離なのに、ブライアンとウェールズの弓兵は矢を放つ。放物線を描いた矢は驚くことにこの距離でも届いているらしく、「ぎゃ!」と賊の悲鳴がかすかに聞こえる。


「野郎ども、景気づけにじゃんじゃん矢を放て! あのフーテン共を一歩も進ませるんじゃねえぞ!」


 ブライアンの気風のいい声が響く。「ガッテンだ!」と答える弓兵たちもみな、男前だ。彼らの長弓から放たれた矢が弧を描いて青空を飛び、賊の真上にシャンシャンと降り注いだ。


「ふむ。ウェールズの弓兵は大したもんじゃの。この距離で命中させるとは。次は歩兵の出番じゃ!距離があと3分の1詰まったら打って出るぞ。弓兵、散開しろ、そのままじゃ通れんわ!」


 パラパラと弓兵が間隔を開ける。敵は怖じることなく進んでくる。そこに容赦なく矢が放たれ、パタパタと数人が倒れた。


「よし、歩兵! 突撃じゃ! 一人も生かして返すではないぞ!」


「オイたちの力を見すい時だ。一人も生かしてもどす必要はなか。行っぞ、チェストー!」


 グスタフがバルデッシュを高く差し上げ、命令を復唱する。それを合図に歩兵たちが走り出した。


「「チェストー!」」


 奇怪な叫びを上げて敵に切り込むグスタフ達。彼らがバルデッシュをひと振りするたび、哀れな賊兵が命を散らす。ノルマン人たちはひとつも慌てることなく、一歩一歩確実に押していく。隊列すら崩すことなく前面に立った敵を刈り取っていく姿は味方として見ても恐ろしい程だ。


 賊は気圧されたのか、後方から列を崩して逃げ散っていく。


「さて、追撃は我らの努めじゃの。ジョルジオ」


 にっこり微笑んだ伯はジェラルド殿からバケツのような兜を受け取って被り、槍を小脇にかかえると、馬に拍車を当てた。俺も遅れてはならじと背負っていた兜を慌てて被り、後を追う。馬は速度を上げて逃げ惑う敵を追う。俺は左手に盾を構え、右の小脇に小旗のついた馬上槍を抱え込む。

 リヨンで暇に任せて何度も練習したランスチャージだ。槍先を逃げる敵の背中に向け、あとはそのままの姿勢を崩さず突っ込むだけ。槍先が敵の背に当たり、突き飛ばされた敵はそのまま絶命する。

 簡単に言えば先の尖った車に轢かれるようなものだ。当たれば万が一にも生き残ることはない。ふと振り返れば、伯は既に槍を手放し、剣を抜いて残敵を掃討していた。俺が見ただけでも5人は討ち取っている。人は見かけによらないと言うが、伯こそその例えに当てはまる。


 ヒュリアは大きな円を描くように馬を走らせ、その輪の中に閉じ込めた敵を、得意の弓で一人ずつ撃ち抜いていく。馬に乗ったままで弓を撃つとかどんだけ高等技術だよ! 結局終わってみれば、賊兵はひとり残らず討ち取られ、誰一人として逃げることすら叶わなかった。こちらの被害は皆無。前面に立ったノルマン人の強健さとそれを後ろから援護するウェールズの弓の前では賊兵などでは傷一つ付けられないと言う事なのか。

 戦利品と言えるような物はろくになく、僅かな銀貨と錆び付いた武具、それにぼろきれのような服だけが賊の持っていた全てだった。まあ、裕福であれば賊などにはならないのだろうけど。

 俺たちは大きな穴を掘り、そこに死体を埋めてやる。キリスト教徒は死後、神に赦され天に召される。だがその前に煉獄と呼ばれる所で、己の罪を清めねばならず、その辛く苦しい清めの期間が短くなるよう死者に祈りを捧げるのだ。

 この一件以来、伯の精神は持ち直したようで、ほとんど摂らなかった食事も今では以前のようにうまそうに食べている。このあとも、鎧を着ていないオカッパ隊を絶好の獲物と見た山賊たちに2回ほど襲撃を受けたが、ろくに被害も出さぬまま、全て撃退した。伯の指揮は的確で、大いに参考になる。まずは弓で削り、歩兵で勝負を決め、数の少ない騎兵は追撃にしか使わない。俺自身もこの数度の戦いである程度馬上戦闘に慣れることができた。


 プロヴァンスを抜ければそこはニース。ここからはジェノヴァの支配地だ。空気も爽やかで心地いい。ジェノヴァにさえ到着すれば新鮮な魚も美味い料理も食い放題だ。あのリヨンの不味い内蔵の煮込みを食べなくていいだけでも救われる。

 それに何より、返り血の付いたままの服を平然と着て、体すら拭かないあのノルマン人達をまとめて風呂に放り込んでやることができる。宿泊先の修道院や教会で嫌な顔をされた恥ずかしさともおさらばだ。修道院だって教会だって井戸ぐらいあるんだから体ぐらい拭くよね? 普通。

 結局ジェノヴァに到着したのはリヨンを出て10日後だった。もう季節は真夏といっていい。セミがうるさく泣き叫ぶ中、俺は港に停泊しているアクアマリン号の懐かしい姿を遠目に見た。


 サン・ロレンツォ大聖堂前の広場で解散した俺たちはまっすぐに懐かしの我が家に向かう。解散したとは言っても伯と伯の連れてきた騎士2人、それに世話係の下男が数人抜けただけで、ほとんど変化はない。ヒュリアを先行させて到着を知らせてあったので、港では船乗りの面々が顔を揃えて出迎えてくれた。


「ただいま」


「お帰り。無事でなによりだよ」


 俺が馬を降りるとロザリアが駆け寄ってくる。こいつめ、何のかんのと言いながら俺の帰りを待っていてくれたんじゃねーか。うんうん、可愛いやつめ。

 俺は目を閉じて彼女を優しく抱きしめる。あれ? しばらく見ない間に随分逞しくなっちゃって。全く、ムダ毛の処理ぐらいしろよ。頬がゾリゾリするぞ。


 目を開けると恥かしそうに俯くフリオがいた。


「もう、大将ったら だ・い・た・ん なんだからぁ」


 俺はなんの躊躇もなく、目の前の醜い物体を抱え上げ、そのままアルゼンチンバックブリーカーを決めてやった。


「あがが! ひでぇじゃねーか大将!」


 ひどいのはお前だ! と心で愚痴ながらとなりを見れば、ロザリアは十字架を手に神に祈りを捧げていた。その衣装はよくよく見れば修道女、知らない間にロザリアは教会に汚染されていた。


「…神よ、あなたの恩恵に感謝します」


 そう涙ながらに呟くロザリア。頑張ったのは俺! もしかしたら神様の加護があったかもしれないけど!


「ジョルジオ、教皇様に無礼は働いていないだろうね? あの素敵な枢機卿さまにも」


 くぞ、無礼はあの枢機卿! クッソへたくそな詩を聞かされ続けてきたんだぞ!



「いやあ、懐かしいな。この部屋も。なあ大将?」


「なあシェラール? どういうことなのかな。くそ!」


 船室に入り着替えた俺はシェラールに愚痴を。


「ああ、姉御の事か? 俺も実は何度か相談を受けた。」


「それで、なんて?」


「姉御はアンタに惚れてた、けど改心したとはいえ、海賊として名の売れちまった姉御があんたの側に居ちゃ色々迷惑がって。」


「んな事気にしなくても。」


「ヒュリアは名が表に出てるわけじゃねえ。元イスラムの改宗者を妻にってのは逆にあんたの懐の深さを示す美談にもなるからな。教皇騎士団の首席、あんたはあのアンジュ―公より上の立場、そうなっちまったって事だ。」


「だから身を引いて出家? そんなのって。」


「過去の罪を悔い改める、それにはそうするしかなかったんだろうさ。ダリオのおっさんにもそう進められてた。俺は何度もやめとけって言ったんだけどな。姉御はほら、頑固で真面目なとこがあるし。…それにな、言っちゃあなんだがコイツは大将、アンタのせいでもある。」


「なんでさ。そりゃあ、色々気まずい事も有ったけど。」


「ヒュリアの奴がな、さも見せつけるように十字架の銀細工を見せびらかしてた。あれ、あんたが買ってやったんだろ?」


「あっ!」


 慌てて長持ちを探り、ロザリアの分の首飾りを手に取った。色々気まずい事があって渡しそびれていたのだ。


「――大将、アンタ本当に馬鹿だな。姉御はな、ヒュリアにだけコイツを買ってやったアンタを見て、自分は愛されてないと思っちまったんだよ! 全く、不器用にも程があるって!」


 ガーーン! そうなの? そうだったの? 違う、違うと言ってよシェラール!


「い、いやだってさ、ヒュリアも一緒にいたんだぜ? これ買った時。ロザリアの分を買った事だって知ってるはずだ」


「ヒュリアがそんな事言うはずねーだろ? アイツはああ見えて嫉妬の塊だ。ロザリアが悲しんでるところを見て見ぬ振りでこっそりほくそ笑んでたに違いねーんだよ。兄貴の俺が言うんだ。間違いねー。ヒュリアはそういう女だ」


 俺は言うべき言葉を見つけられなかった。ヒュリアの考えがどうであったにしろ、渡すのを忘れていたのは俺なのだ。それに今更事実を告げてどうなる? 新しい人生、修道女としての生き方、それを見いだし出家したロザリアを俺の我儘で引き戻す? そんな事できるはずもない。教会には話を通したのだろうし、島の連中の同意もあったはずだ。彼女の決意を覆す事など今更。


 船尾甲板で俺は一人黄昏る。手にした銀の首飾りはそのまま海に投げ入れた。ロザリアにはロザリアの生き方が。俺には俺の生き方が。そしてそれはこの先交わることがなくなっただけ。夏の海を見ながらそう思った。

 ああ、そうか、もうこっちに来てから1年になるのか。ここで水汲みやってた頃が懐かしく思えるな。


『本当ですね。エルサレムからジェノヴァ、そしてリヨン。盗賊と言われた貴方が今や配下数百名を抱える教皇騎士首席です。長年恨んできたあの司教も処刑されましたし、ダメンズだった貴方がわずか1年でここまでやるとはさすがの僕でも思いませんでしたよ』


『はは、シルヴァーノ。久しぶりに出てきたと思ったら、相も変わらずイヤミかよ。まあお前らしいって言えばそうなんだろうけど』


『どうやら僕も長くは無さそうですからね。できるだけ貴方と話しておきたいと思いまして』


『そうだろうな。その姿、随分霞んで見える。で、どのくらい持ちそうなんだ?』


『このままじっとしているなら数年は。一回でも憑依すればそのまま消えるでしょうね』


『憑依なんかさせねえよ。その為に俺は努力してきたんだ。それに勝手にここに連れてきて自分だけさよなら、なんて都合のいい事、俺が赦す訳ねーだろ? 見てろよ、俺はここで幸せになってやる。そのリア充生活をお前にじっくり見せつけてやるからな!』


『はは、それは辛いですね。あなたの幸せな生活なんて想像するだけで吐き気がしますよ』


『それが狙いだからな。とにかく、お前は俺と共に生きるんだ。それだけは変わらない。いいな?』


『全く、貴方ってこんなにわがままでしたっけ?』


『今の俺は一応貴族だからな。貴族ってのはわがままなもんだろう?』


『確かにそうですね。今の貴方はジョルジオ・マセラティ。教皇の信頼厚き騎士にしてローマの元老院議員』


『そうだ。まあ、ローマには行ったことすらないけどな』


『そしてこのままいけば、来年にはあの美しいヒュリア嬢と結婚ですか。恵まれすぎて反吐がでます』


『あはは、そうだもっとやっかめ。それがお前にできる唯一の事なんだからな!』


 ジェノヴァを出港したのは翌日。コンティ伯は直前までぐずっていたらしく、まるで捕まった宇宙人の如く、彼の騎士に両腕を抱えられた姿で乗船した。この日は風が弱く、沖に出るまでは櫂を使って漕いで進む。ジェノヴァ沖は航海日より。風も波もシチリアに向かう南向きだ。

 ピサを越えたあたりでシロッコと呼ばれる強烈な南風に遭遇する。とは言えこの船は三角帆。向かい風でも進んでいける。教皇の鍵と俺の鷲を組み合わせた紋章を描かれた三角帆が風を孕んで大きく揺れる。目的地はシチリアのパレルモ。ここからなら3日の距離だという。運命の時計が刻む音が聞こえるかのように、俺の鼓動は高鳴っていた。


 パレルモはシチリア王都となって久しい為、よく整備が行き届いた港だった。現代人にはわかりづらいが神聖帝国、後に神聖ローマ帝国となるこの国の皇帝、フリードリヒ2世はシチリア王でもあり、ドイツ王でもある。また一時期は聖地を治めるエルサレム王国の王でもあった。そのフリードリヒの本拠地とも言えるのがこのシチリア島のパレルモなのだ。


 例のごとく港に近づくと、臨検の小舟が近寄ってくる。俺はその役人に教皇の使いで来たことを伝え、皇帝との面談を申し込む。あっけないほど簡単にアクアマリン号はパレルモ港に入港を許され、礼装として華美な服に着替えた俺は伯と共に宮殿に案内される。宮殿内部はヨーロッパ風でもなく、かと言ってオリエント風でもない。イスラムとそれらを混ぜ合わせたなんとも奇妙な雰囲気だ。それでいてきちんと美しさを見せているところが話に聞く皇帝の人格を物語っているようでもある。


 冠を頭に乗せた皇帝が数人の従者を従えて謁見の間に姿を現したのは20分ほど待たされた後だった。


「久しいな、コンティ伯。グレゴリウス9世猊下を尋ねた折り以来か?」


「はい。お懐かしく存じます」


 言葉は丁寧だが、伯も俺も皇帝を前にして膝を折らない。皇帝もそんなことはどうでもいいと言った感じで気にもとめない。


「して、そちらは?」


「はい、今回の副使を務めるジョルジオ卿でございます。我が教皇騎士団の首席にして、ローマの元老院議員でもあり、本来ならば彼が正使を務めるところでありますが、爵位の関係で私の副使になっています。さ、ジョルジオ卿、ご挨拶を」


「ジョルジオ・マセラティと申します。この度は私のような者にまで謁見の栄誉を賜り、感激しております」


 俺は努めて表情を崩さぬように、頭を下げることなく教えられた通りのセリフを言った。


「余が神聖帝国皇帝、フリードリヒだ。教皇騎士首席たる卿をわが宮殿に迎えられて嬉しく思う」


 フリードリヒはにこりともせずに、その細面に光る両目で俺を見据えた。


「で、コンティ伯。用向きのほどは?」


「はい、我らの口にて申し上げるより、教皇猊下の親書をお読みいただいた方がよろしいかと」


 親書を手渡す伯の額は生汗でびっしょりだ。無理もない。悪口を連ねた爆弾のような文書を選りにもよって当の本人に手渡すのだから。

 フリードリヒはその羊皮紙をなんの感銘も、怒りも、絶望も現さず読み進める。


「ふむ。なるほどな。教皇猊下は余の皇帝位を剥奪されるおつもりのようじゃ。そうであろう? コンティ伯」


「はあ、そのようで」


「しかも、余を事もあろうに平和の破壊者であり、異端であると」


「……」


「で、そなたたちは何を目的としてここまで来たのだ? わざわざこのような不快な文書を余に直接手渡す為とでも?」


「その辺は私たちにはわかりかねます」


「なるほどな。このからくりを考えたのは大方、首席枢機卿のリナルド猊下であろうよ。コンティ伯とは従兄弟同士であられたな? つまりこの文書に余が激昂し、そなたらを頸り殺せば、余を教会の敵としてフランス王あたりを中心とした皇帝討伐の十字軍でも起こす腹積もりであろう。

 ……さてどうしたものか。折角リナルド猊下がここまでお膳立てしてくれた物を無碍にするのも興がない。かと言って話に乗って、歴史に無能な皇帝と書き記されるのも面白くはないな」


 うっわーこの人、想像以上に肝が太いよ。リナルドさんの先制攻撃、全然効いてない。


「いずれにせよ、帝国のみならず、このキリスト教世界を巻き込む大事である。即決などできるはずもない。数日の猶予を頂こう。その間、卿らはこの宮殿でゆるりと過ごされるがいい。無論、最低限の監視は付けさせてもらうが」


 それだけ言うと、フリードリヒは玉座を立ち、絹のマントを翻して謁見の間を後にする。


「さ、こちらへ」


 帝国騎士の案内で俺たちは客間に通される。部屋の扉の向こうには完全武装の騎士が二人。ていのいい軟禁だ。


「ロタリオさん、俺たちどうなっちゃうんでしょうね?」


「まあ、良くて縛り首。悪けりゃ市場で公開処刑ってとこじゃろ」


「ですよねー」


「まあ、儂もいい加減あきらめがついたわ。それなりに楽しい人生じゃったしの」


 遠い目をする伯。彼は完全に燃え尽きている。


 コンコンと、扉が叩かれ、上品そうな騎士が姿を現す。


「ロタリオ・ディ・コンティ伯であらせられますね? 陛下から接待役を命じられました、ミニステリアーレ(家士)のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデと申します。趣向を凝らしたおもてなしを用意してございますので御同行願えますか?」


「それはかまわぬが、何故わしだけなのじゃ? ジョルジオ卿はどうされるのか」


「ジョルジオ卿には別の趣向を陛下直々にご用意なされておられます」


「ふん、そういうことか。まあ、どうせ断れるものではないのだろう?」


「ええ、陛下からはどうあってもおもてなしいたすよう、きつく言われておりますゆえ」


「ならばその趣向とやらに付き合ってやるとするかの」


 そのミニなんとかは伯の手を引いて部屋を後にした。一人になると急に心細くなるものだ。どうしよう、縛り首って苦しいのかな? 趣向の効いたおもてなしってやっぱりあれ? 斬新な処刑方とかそう言う奴? 不安が頭をひと回りして、気の抜けた俺は、高価そうなソファーに身を沈め、だらしなく座り込んだ。 


「お疲れかな? ジョルジオ卿」


 突然声をかけられビクッっとする。振り返るとそこには含み笑いを浮かべた皇帝がいた。


「こ、これは失礼を」


 慌てて俺が立ち上がろうとするのを皇帝は手で制し、そのまま、と言いながら俺の正面のソファーに腰を下ろした。


「コンティ伯がいては話せないこともあると思ってね。彼には高尚な詩や音楽を楽しんでもらうことにしたのだよ」


 うっは、こんなとこまで来て詩とか。伯の苦り切った顔が目に浮かぶ。従者がテーブルに果実酒といくつかのつまみを並べ立ち去ると皇帝は俺を興味深そうに見ながらそれを進め、ゆっくりと口を開いた。


「で、卿について書状に面白い隠し言葉があってね。あの書状はリナルド猊下のしたためた物なのかな?」


「いや、俺はそこまでは」


「実に面白い試みだったよ。明らかに不自然な改行があるな、と思ってよくよく見れば縦読みで「未来人を送った」と書いてある。コンティ伯は既に顔見知りだし、その未来人とやらは卿の事を指すのだろう?」


「え、えっと」


「はっきり聞こう。君は何年先の未来からここに来た?」


「……」


「はは、そうだよな、言いづらいよな。では余、いや私から言おう。私はステイツの生まれだ。これでわかるだろう?」


「アメリカ人?」


「そうだ。君は東洋系かな?」


「えっと、その日本から来ました」


「ほう、ジャパンね。とても素敵な所だと聞く。私もこんなことにさえなっていなければ一度行ってみたかったな」


「やはり陛下も?」


「おいおい、陛下だなんてよしてくれ。私も元は平凡な庶民に過ぎないのだから。そう、うだつの上がらないセールスマン。それが私の真の姿さ。ところで君のいた時代は何年だね?」


「えっと2016年です」


「そうか、私といくらも変わらないのだな。最も私はこちらに来て既に51年目だが。トラックに轢かれて気がついたら赤子の姿だった。信じられるかい?」


「俺は去年来たばかりで。姿も年齢もこのままでした」


「ほう、どうやら複数のパターンがあるようだね。これは新たな発見だ」


「…あの、元の時代に帰りたいとは思わなかったんですか?」


「それは何度も思ったさ。私にだって両親や兄弟はいるし、それに付き合い始めたばかりの彼女だっていたんだから」


「でも叶わなかったと」


「そういう事だね。そうは言っても、もう50年もこうして暮らしているとコチラの世界にも愛着が沸く。私はね、どうせ帰れないなら、この世界を大い楽しんでやろうと思ったのだよ。幸い生まれも皇帝の血筋だし。まあ、皇帝って言うのも案外きついものでね。この体が小さかった頃は命の危機さえ何度も感じたよ」


「そうですね、ここは中世。力がすべての野蛮な時代ですもんね」


「ああ、その代わり二十一世紀では考えようもつかないほどの権力を手にできた。気に入らないモノは例えそれが人であれ、物であれことごとく殲滅出来るほどのね」


「なるほど、で、教会は貴方にとって、その気に入らない物だったと」


「まあね、私は元々クリスチャンではあるけれど、教皇のやり方は気に入らない。私はね、マイケル・ジャ〇ソンの大ファンなんだ。彼の歌う平和な世界、それを目指している。イスラムもキリスト教徒も手を取り合い、幸せに暮らす。そんな世の中を目指して努力してきた。幸いにも神は私にどんな言葉も話せる力を授けてくれたからね」


「それを教皇は否定した。だから教皇と敵対する、と」


「まあ、そういうところかな。最も感情的な面もある。実はね、あの教皇インノケンティウス4世は私に毎日イヤミを言っていた会社の上司にそっくりなんだよ。ボソボソと小声で話す様も、人を見下したようなあの目もね。こっちに来てまであの顔を見るのは耐えられないよ」


「あー、そういうのわかる気がします」


「だろ? 折角生まれ変わって皇帝にまでなったんだ。好きなように生きてみたいじゃないか。少なくとも私は権力に任せた無法を働いたつもりはないからね。神に対してだって後暗いところは何もないさ。だってそうだろう? 教会の期待に応え、十字軍を起こし、エルサレムを回復した。しかも誰にも血を流させずにだ。それに大学だって作った。神学だけじゃ生活は向上しない。法を学び、それを実践できる人材を育てることの何がいけない? 

 そしてルチェーラだ。実験的に作ったイスラムのコロニー。ありのままの彼らとの交流はキリスト教世界にとっても得るところは大きいはずさ。知ってたかい、ジョルジオ君。この時代はね、イスラムを信じる彼らの方が、我々キリスト教徒よりはるかに進んだ文明を築いているんだ。イスラムの文化に比べれば、この「ヨーロッパ」は相当な遅れを取っている。彼らにすれば我々など野蛮人に過ぎないんだよ」


「その彼らに学び、豊かな知識を導入するのがなぜ悪い? ですか」


「そうだね。君ならわかるだろ? ジョン・レ〇ンもマイケル・ジャク〇ンも平和を願い、それを歌にした。けれども世界は一向に平和じゃない。何故だ? 彼らには理想はあっても力が無かった。そしてその力を私は持っている。ならばこそ彼らの分まで力を尽くし、平和な世界を作り上げるのが私の使命じゃないのかい? その為に神は私をここに、皇帝の子として、生まれ変わらせた。私はそう思っているよ」


 ああ、ダメだなこの人。自分に完全に酔ってしまっている。これが俗に言う中二病ってやつか。なぜか俺はこのフリードリヒと言う男に言葉では言い表せない苛立ちを感じた。うまくは言い表せないが、海外旅行で見かけた同胞が金に任せて、嫌がる現地の無垢な少女を汚している。そんな場面を見せつけられているかのように。同じ未来から来たものとして、その知識を振りかざしモラルを押し付ける彼のやり方がとても恥ずかしかった。


「そこに君が現れた。さて、君の使命は何かな?」


「俺は、特に使命なんて」


「いや、君もわかっているはずさ。私は今年51だ。はっきり言っていつ死んでもおかしくない。だが私が死ねば、私の理想もそこまで。いずれは何もかも消し去られてしまうだろうさ。私が力を尽くした大学も、コロニーもね。まあ、この時代の人間にそこまで解れ、という方が無理なのだから。

 だが君は違う。君なら私の理想を正確に理解した上で引き継ぐ事も可能だ。その為に今日、このタイミングで、しかも敵対する教皇の使者として私の前に現れた。それが神の御心でなくてなんなのだ? 君こそが私を引き継ぐもの。そうは思わないかい?」


「いや、俺にはそんな」


「なぜだい? 君が仕えたのが教皇だから? それとも日本人独特の義理堅さかい?」


「いえ、教皇には義理も何もありませんよ」


「ならばなぜ? 君もジョンやマイケルの崇高な願いを聞いた事があるだろう? 彼らの曲に魂を揺さぶられた事はないのかい? 平和な世界、LOVE&PEACE。それが君の手で実現できるんだ! それほどの喜びはないだろう?」


「俺はジョン・〇ノンもマイケル・〇ャクソンも好きですけど、魂が揺さぶられるとは思いませんでした」


「なぜ? WHY! 彼らの歌声が魂に届かないはずがない!」


「いや、そのですね、歌詞が英語だったもので。俺、英語できないんですよね。…それと、すっごく言いづらいんですが」


「…何かね?」


「その、マイケルはともかく、平和を歌ったジョンは仲間割れしてたじゃないですか。たった4人のグループとも平和を築けないくせに世界平和? おかしくないですか?」


「……」


「……」


「え、えーと。違う観点から話をしようか。うん。ジョンとマイケルは一旦置いておいて」


「ですね」


「実は、イスラムの女の子ってスッゲー綺麗。もうね、私なんかドハマりでさ、ちょっとしたハーレム作っちゃったりしてるんだよね」


「羨ましいですね!」


「だろ? そうだよね。君だってハーレム欲しいよね? だったら皇帝にならなきゃ。皇帝になりさえすればそんな事ぐらい朝飯前さ!」


「いやあ、それがそうもいかなくてですね。こっちで知り合った子と婚約してるんですよ」


「ははは、そんな事か。皇帝になれば寵姫の一人や二人いて当たり前。だって子ができなきゃ王朝潰れちゃからね」


「その相手がですね、何でも元何とか教団って言うところのアサシンなんですよ。知ってますか? トルコの方らしいんですけど。その子がまた嫉妬ぶかくて、別の女なんか抱えこんだたら即座に殺されちゃうんですよ。俺が」


「ニザール派の暗殺教団? なんだって君はそんな厄介な女と婚約とかしちゃうわけ?」


「てへ。まあ流れ上やむをえなく」


「やむをえなくじゃダメでしょ! これだから日本人は。ちゃんとNOを言えなきゃこの世界じゃ生きていけないよ? まあいい。ハーレムの話も無しで。殺されちゃったら意味ないからね」


「ええ、非常に残念ですが」


「それじゃアレだ! 君だって神に選ばれたのならクリスチャンなんだろ? だったら君が私の跡を継ぐのは神の御心。神の意思には逆らわないよね?」


「実は俺、無宗教でして。こっちで無理やり洗礼はされましたけどね。こっちに来てからも散々な目にあって、どうにも神が信じられないんですよ」


「無宗教? もうね、私のセールストークもここまでだよ。とにかくだ君はこのまま私に従う。いいね?」


「いや、俺一応使者ですから。ちゃんと貴方の返事を持って帰らないと」


「ジジイ! テメーの母親とファックしな! コレが答えだ。どうだい? 敬愛する教皇猊下にこの答えを伝えられるのかい? 嫌なら無理に帰らなくてもいいんだよ? ほら、コンティ伯に適当な文書持たせておくから。君はここで、私から帝王学を学ぶ。いい話だろ?」


「いえいえ、そのセリフ、俺もあいつらに言ってみたかったんですよね。皇帝、いや元皇帝のフリードリヒさんの言葉としてなら遠慮なく言えます」


「そこさ、元って強調するのやめてくれないかな」


「だってフリードリヒさんって、皇帝クビになったんですよ?」


「それはあの教皇と、頭のおかしい取り巻きがそう言ってるだけだからね。イタリアの諸侯もドイツの諸侯もそんなことは認めない。仮に皇帝でなくても私はこのシチリアの王にしてドイツ王でもあるんだから。いいかい、コレが最後だ。君はここに残れ!」


「お断りします」


「皇帝である余の命を聞けぬと?」


「ほらね、都合のいい時だけそうやって皇帝面するじゃないですか。フリードリヒさん、貴方が何歳でこの世界に遣わされたのか知りませんが、そこから貴方は何も成長していない。未来の知識を持ち込んで、俺ツエーってやってるガキと同じですよ」


「ほう、この私がガキと」


「ええ、貴方はこの世界をおもちゃにして遊んでいる子供です。この世界に生きる人の事情も都合も考えず、「俺ってすごくね?」って自慢してるだけのね。だってそうでしょう? 貴方のやってきたことは僕らがどこかで学んだ過去の偉人の焼き直し。貴方自身が生み出したワケじゃない。平和外交にしろ、大学建設にしろ、コロニー作りにしろね。貴方はいわば盗賊だ。僕らの時代であれば誰でも知っているような事をさも自分の発明のような顔で使っている。

 どうせあれでしょ? その内農業技術の改善だとかインフラ整備だとか、そういう事やりだすんでしょ? どこかの小説で読んだ知識を使って」


「――それの何が悪い」


「十分悪いですよ。確かに貴方の考えは立派だと思います。でもそれは同じ時代から来た俺だからこそそう思うんであって、この時代の人からは悪魔に等しい所業なんですよ。なんで教会が貴方にここまで敵対すると思います? 貴方のやったことが少なくともこの時代ではやってはいけない事だからなんですよ! 例えば僕らのいた二十一世紀に未来から来た技術者がいて、その人が死んだ人の蘇生だとか人造人間の作成だとかやり始めたら貴方は受け入れられますか?」


「そ、それは」


「モラル的に無理ですよね。貴方のやっていることは他人から見ればそう見えるんですよ」


「……」


「だから俺は貴方にはついていかない。例えどれだけ愚かに見えてもこの時代を精一杯生きている彼らの方が好ましいですから」


「――それは、私と戦う、と言う事かな?」


「貴方が仕掛けてこなけりゃ戦う必要なんかないんですけどね。知っての通り俺の生まれた日本は平和でしたから。人を殺すのも人に殺されるのも勘弁願いたいです」


「それこそ身勝手と言うものだろう? 君は皇帝である私にそこまでの事を言ったんだ。君は殺されるのも勘弁だ、と言ったが私に勘弁する理由は無い。権力者に歯向かうと言う事がどういう事かその身に教えてあげよう」


「元、皇帝でしょ? フリードリヒさん、アンタ、さっきまで平和がどうのとか言ってなかったっけ? それがちょっと痛いとこつつかれるとすぐ殺すだなんだと言うんですか。ジョン・レノ〇はそんな事言いましたか? マイケル・ジャクソ〇は?」


「ぐぬぬ、ジャパンのBBS戦士は口だけは達者だな。まあいい、今回は生かしておいてやろう。だがジョルジオ、ここは君が無敵を誇ったインターネットの掲示板じゃない。その気になれば私は、「物理的に」君をこの世から消すこともできるんだ」


「ええ、わかっています。では帰ってもよろしいですね。元皇帝陛下。返事は必ず教皇猊下に伝えますので」


「ああ、だが覚えておくといい。君が世界中何処に逃げようが私は必ず君を見つけ、その存在を消す。特異な存在は一人で十分だからね」


「ええ、覚えておきましょう。それと、僕はBBS戦士じゃありませんよ。単なるフリーターです。貴方はさぞかしネット上では大暴れしてたんでしょうけれどね」


 俺はコンティ伯を連れ、足早に宮殿を出る。詩吟をたっぷり聞かされうんざりしていた伯は一も二もなくついてきた。俺もこんなところはうんざりだ。元皇帝の気が変わらないうちに逃げるに限る。何しろアイツは気に入らなければ平気で前言を翻しかねないのだから。


 港では万一に備え、シェラールとヒュリアに率いられ、完全武装のノルマン人とウェールズ人が待機していた。


「大将!」


「ジョルジオ様!」


 二人は俺の姿を認めると、慌てて駆け寄ってくる。船ではロザリアやフリオが顔を出していた。


「大将! 急いでくだせえ! なんか様子が変だ」


「早く、早くするんだよ! コイツはまずいよ!」


 フリオとロザリアが声を張り上げる。上陸しているノルマン人が、異変を感じ取りバルデッシュを構えて俺たちを守るように取り囲む。その後ろではウェールズの弓兵が、長い弓に矢をつがえていた。俺の後ろからは、ご自慢のイスラム兵を引き連れた元皇帝がいやらしい笑みを湛えて迫っていた。


「おやおや、元皇帝陛下。お見送りは結構ですよ」


「はは、余とてそのつもりは毛頭ない。だが彼らが卿にプレゼントしたいものがあるらしくてな」


 やはりな。思ったとおりコイツは俺を生かしておく気がないらしい。さてこうなった以上考えることは一つだ。いかにして伯と船を無事に送り出すか。それには俺が囮になるしかないだろう。その為にはせいぜいこの嘘つき野郎をからかってやる必要がある。


 隣では心配そうに伯が俺を見つめ、何かを言おうとしてやめた。きっと伯には俺の決意が伝わったのだろう。俺は片目を閉じてウインクすると、伯はにっこり笑って手を握る。これが心の友である伯との別れ。彼は迎えに出た自らの騎士に守られ船に上がった。


「使者がそのような物を受け取るわけにはいかないでしょう? それにそのプレゼントとやらもどうにも血生臭い物のようですが、元皇帝の保証した安全とはそれほどまでに容易く覆るものなのですか?」


「残念ながらそれは見解の相違というものだよ。ジョルジオ卿。私が保証したのはあの場での安全。生きて帰る事を許可した覚えはないな」


「相変わらす人間が幼稚にできてますね。どうせあれでしょ? そんな事じゃセールスの仕事もろくに売上作れなかったんじゃないですか? そりゃそうですよね、セールスで大事なのは顧客の信頼、貴方にはその信頼を寄せられませんからね!」


「知ったような口を。まあいい。それがお前の遺言だ。我がイスラムの精鋭たちよ!あの不届きな教皇の使者を切り捨てい!」


 イスラム兵は一斉に剣を抜く。彼らの持つ曲刀が午後の日差しを反射してキラキラと光った。イスラム兵は400ほど。対してこちらは船乗りまでを含めても150だ。完全に勝負にならない。


「ロザリア、出航の準備を! 他のみなは桟橋まで後退! 順次船に乗り込め!」


 迫り来るイスラム兵をノルマンの男たちが押し返す。桟橋という狭い場所では兵力の差は生かせない。弓を撃とうにもアクアマリン号の巨体が邪魔になり、こちらまでは届かない。逆に船の甲板からは船乗りたちのクロスボウが次々と放たれ、盾で身を隠すイスラム兵に雨のように降り注いだ。


「ブライアン、何してる。お前たちも船に上がれ! そして上から援護を頼む」


「あいよ、ガッテン承知の助だい!」


「シェラール、お前もヒュリアと共に船に上がれ!」


「ダメだ! 俺はアンタの護衛! アンタより先には船に上がれねえ!」


「そうですぜ、大将。水くせえ事はいいっこなしだ。オイラもここで一緒に戦うぜ」


 いつの間にかフリオまでが船から降りて俺の前に立っていた。


「いいからフリオも船に戻れ! お前は副長だろうが、船にいなくてどうすんだよ!」


「あっしは船の副長である前に大将の従者だ。従者が主を守るのは当たり前よ」


 全くこいつらときたら。どこまで考えなしなんだ。俺の前で身構えるフリオの後頭部を剣の柄で思い切り殴る。な、なにを、と恨めしそうな目をして倒れこむフリオを抱え、シェラールに手渡した。


「シェラール。フリードリヒの狙いは俺だ。俺がここに残っている間は船にまで手を出さない。いいか、お前はヒュリアを連れて船に戻れ。そしたらすかさず出航するんだ。船には伯がいる。お前は伯を守って教皇の下にいけ。いいな?」


「できるわけがねーだろうが! アンタを見殺しにするくらいなら俺はここで死ぬ。ヒュリアだってそうだろ?」


「当然です」


「ダメだ、俺の使命は正使である伯を守り、教皇に結果を伝えてもらうこと。それができねば騎士の名折れ。そうだろう?」


「だったら騎士なんかやめちまえ! 俺たちがアンタを食わせてやる!」


「…そう簡単に言ってくれるな。なんだかんだ色々あったけど、俺はこの教皇騎士ってのがお気に入りなんだ。シェラール、これは命令だ! ヒュリアを連れて船に戻れ。そしてみなを指揮してジェノヴァまで伯を送り届けるんだ。いいな? それにヒュリア、俺はお前が大好きだ。お前が傷つくところなんか見たくない。わかってくれるね?」


 涙を目に貯めるヒュリアを強く抱きしめキスをした。そして耳元で「愛しているよ」囁いた。


「くそったれが! なんだって俺はアンタの従者なんかになっちまった! 従者である以上、命には従う。だがいいか? 死んだらただじゃ置かねえからな!」


「ああ、死ぬつもりなんかねえよ。いいから早く行け! 伯もそうだがロザリアたちの事もしっかり守ってやれよ!」


「当たりめえだ! 俺がいる以上誰も死なせねえよ!」


 シェラールはヤッファの港初めてあった時のようにヒュリアを抱えて船に登る。さあて、あとはグスタフ達か。


 グスタフ達、ノルマン人の想像以上の強さにイスラムたちも手が出せず、距離をおいて対峙する。桟橋は3人並べば一杯の幅しかなく、突っ込んだところで体格に勝り、しかも硬い鎧に身を固めたノルマンのバルデッシュで兜ごとかち割られるのが関の山だった。


「グスタフ、被害はどうだ?」


「若かもんが4人ほどやられもした」


 被害は4人。転がっているイスラム兵は20を超える。流石はノルマン隼人、圧倒的だ。


「そうか、ならお前たちも船に戻れ。ここでわざわざ死ぬ必要も無い」


 グスタフは深くうなづくとバルデッシュをひと振りする。それを合図にジリジリと退がっていった。


 さあてこれで残るは俺一人。少なくとも後悔だけはしないだろう。問題は船の出航まで俺が持つかどうかだ。はは、我ながら実に愚かな選択だ。目的も主義もなにもない俺が、何を好き好んで世界最強の実力者に喧嘩を? そう思うがやってしまった物は仕方がない。これが俺の正義、フリードリヒのようなチート転生者ってのは吐き気がするほど許せない。この時代に生きるすべての人を見下して、自らを高みに置く。それは無礼で不遜でおこがましい事。神の意志がこの汚物を払うために俺を呼び寄せたのかもしれない。


 信は力なり。俺は初めて神をその身に感じた気がした。覚悟の決まった俺は一人、前に進み出て剣を抜く。鎧すら着ていない頼りない姿。それでも俺は教皇の騎士であり、神の意を受けてこの時代に招かれた者。何一つ疚しさも、後ろめたさも、そして恐怖も感じることはなかった。


『一人じゃないですよ。僕もいます』


『はは、幽霊は引っ込んでろよ。人の見せ場をとるんじゃねーよ』


『貴方の腕では見せ場どころか酷い処刑になるだけですよ』


『いいから黙って見てろ。俺は今、あのフリードリヒのスカシ顔に一発ぶち込んでやりたくてしょうがねえ』


『お断りです、僕は貴方のリア充生活を見せ付けられるより、ここで消えると決めたんですから』


『おい、勝手なことすんなって!』


 体のコントロールが失われていく。


「旦那、その席はあと二人ほど入れますやな?」


「主を見捨いこちゃできもはん。オイも一緒き戦いもす」


 狭い桟橋で俺の横に並ぶのはブライアンとグスタフ。何もそこまで義理を果たす必要も無いだろうに。とは言え来ちまったのなら仕方ない。


『おい、シルヴァーノ、もう少し待て、こいつらと話をさせてくれ』


 ホンの少し体に自由が戻る。動かすのは無理だが、話すぐらいはできそうだ。振り返ればアクアマリン号はようやくその巨体を海に進め始めた。船べりにはヒュリアとシェラール。そしてロザリアにダリオ。見慣れた顔が並んでいる。奴らの顔も見納めかもしれないが、不思議と気分は爽やかだった。


「ち、どうしようもねえ馬鹿だな、お前らは。よし、ならば二人とも名乗りを上げろ! 殺されるイスラム共も、どこのどいつにやられたのかも解らなきゃ死んだところで浮かばれねえ! きっちり聞こえるように大声で名乗ってやんな!」


 俺は思わず顔をほころばせグスタフとブライアンにそう言った。絶体絶命、なのに不思議な高揚と快感。はは、人間っていうのはおかしなもんだ。この二人もそうなのか、なぜか晴れやかな顔をしていた。


「おうよ! おいらはウェールズのブライアン! 赤子の頃から磨き上げたこの弓捌き、存分に味あわせてやっから覚悟しやがれ、このトンチキどもが!」


「オイは生まれも育しもスカンジナビアのグスタフ。おはんらの首、オイがもらう。恨んでくれて構まん。なにせそいがオイの仕事じゃっでな」


 そう言いながらグスタフがバルデッシュを天に差し上げた時、俺の体は完全に乗っ取られた。


「さて、いよいよ僕の番ですね」


 そう言って一つ深呼吸をする。


「サン・ジョルジオの名において、邪な竜には裁きの剣を!」


 久しぶりに聞く決め台詞を言い終えると、俺の体は敵兵の群れへと突っ込んでいった。



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