第7話 Religion 宗教

 翌朝から俺は、シルヴァーノの指導を受けて自らを鍛え始めた。盾の受け取りはシェラールに頼んだ。停泊中という事もあり、船に残っているのは数人の留守番だけ。誰もいない広い甲板で一心不乱に剣を振るう。

 体がきつい、息が切れる、腕が重い。開始してわずか数分で俺の体力は尽きた。こんなことなら学生時代、もっと運動なり武道なりをしておくべきだった。中学、高校、共に帰宅部の俺は今、そのことを猛烈に後悔している。しかし、と、剣を杖に再び立ち上がる。

 俺はまだ24。聞いた話じゃこの時代の24はすでに中年らしいがそんなことは認めない。まだ若い、まだやれる! そう自分に言い聞かせながらひたすら剣を振るった。


『はい、やめやめ~』


 シルヴァーノがパンパンと手を叩きながら素振りを中断させる。


『決定的に体力がないですね。貴方、一体青春時代をどんなふうに過ごしてたんですか? いくらなんでも脆弱過ぎます』


『うるせえよ! だったらどうすりゃいいか教えやがれ』


『んーそうですね、あれ、やってみましょうか。ほら、ビデオで見たじゃないですか、ひ弱な男の子が落ちぶれた凄腕の師匠に出会って修行する奴。最後に武闘会で優勝するシーンは感動ものでした。えっと、ここにあるものであれをするとなると、あ、ありました。あれをしましょうか』


 そう言ってシルヴァーノが指差したのは海水を汲み上げる為の長いロープがついた桶だった。


『さあ、あれで水を汲み上げるんです! そうですね、取り敢えず100杯。日が暮れるまでにやっておいてくださいよ?』


『テメエ! こっから海面まで何mあると思ってやがる! 俺は映画みたいにいじめられてる転校生じゃねーんだよ!』


『嫌ならいいんですよ? ただ、貴方はずっと弱いままの名前だけの騎士です。いいですか? この時代において弱い事は罪なんですよ。誰かを助けるにも、間違いを正すにも力がなければ誰も聞いてはくれません。

 わかりますね? わかったら始めて下さい。僕はちょっと疲れたので姿を消しますけどちゃんと見ていますからね』


『あーもう、やりゃあいいんだろ、やれば!』


 船べりからヒューっと音を立てて桶が海面に着地する。ロープを操って海水を汲み、引き上げる。くっ、この重さ、尋常じゃない。


 5分ほどかかってようやく引き上げた桶には海水が半分も入っていなかった。バシャっと甲板に海水をぶちまけ、再び桶を落下させる。

 3杯目を引き上げた時には手の皮が破れて血まみれだった。100杯まであと97杯、やるっきゃない、やるっきゃないんだ。

 10杯目を引き上げたときにはすでに手に感覚は無く、肩も腰も膝もすべての関節が悲鳴を上げていた。汗で服が体にまとわりつき、気持ち悪かったので引き上げた海水を被る。破れた手のひらに海水が染みたがその事で返って感覚を取り戻す。ロープを引き上げながらより効率的な体の使い方を模索する。


 太陽が直上に来る頃、船員の一人が持ってきてくれた昼飯を食べる。体の疲れもあってまるで食欲がなかったが、どうにかこうにか半分ほど詰め込んだ。しばし大の字になって休憩したあと、再び苦行を再開する。


 結局この日は一日かけて50杯ほどしか引き上げられなかった。姿を現したシルヴァーノに「貴方は本当に、グズでのろまな亀ですね」等と散々嫌味を言われたが、こればかりは仕方がない。「明日はやり遂げてやんよ!」と、精一杯の強がりを言ってその日はベットに潜り込んだ。

 シェラールが取って来てくれた盾は俺のベッドに立てかけてある。買った時と違い、艶やかに彩られたそれはとても美しかった。


 翌日も停泊は続いた。何でも修道士ダリオが求めている情報が未だ手に入らないらしい。俺は朝から甲板に出てひたすら海水を汲んだ。体中が悲鳴を上げたがそんなことに構っていられない。何しろ時間がないのだ。このまま港を出て、万が一他の海賊にでも襲われたらどうなる? 嫌が応にもシルヴァーノの力を借りることになる。そうなればアイツは消えてしまうかもしれないんだ。そんなことになれば俺は自分を許すことはできないだろう。俺の不甲斐なさでずっと側にいたアイツが消えてしまうなんて。だから努力する。もしかしたら報われることは無いのかもしれない。それでもあの時ああしておけば! と後悔するのだけは避けたかった。


 人間とは不思議なもので、同じ作業を繰り返しているとそれに最適化した動きができるようになるらしい。力を使う作業には腰を低く落として安定させ、できるだけ体の正面でロープを引く。それだけの事で効率は大幅に上がった。

 昼飯時にはすでに30杯の水を汲み上げることができたのだ。水筒から湯冷ましの水を一口含んで、持ってきてもらったパンをかじる。今日はおかずが少ない代わりにパンが白く、柔らかい。今日も半分ほど残してしまったが昨日に比べて気分は良かった。


 結局この日は日が暮れるまでに80杯ほど汲み上げた。言われている100にはまだまだだが成長している実感が感じられる。そのことに満足して眠りについた。


 次の日は天候が悪く、やはり停泊となった。降りしきる雨の中、俺は相変わらず水を汲む。雨に濡れたロープはぬちょっとした何とも言えない感触で、やたら滑るがそんなことはお構いなしだ。雨の中、外出もできずに後部の船倉からみんなが俺を興味深げに見ていたがそれすらどうでもいい。とにかく時間がない、それだけを念じてひたすらロープを手繰る。


 昼頃には同じ作業を見ているのに飽きたのか、船倉には誰もいなかった。今日は午前中に50杯を引き上げた。このペースなら今日は100杯いけるかもしれない。

 船長室の前にあるテラスから痛々しい表情でヒュリアが俺を見ていたが、俺は手を振って笑顔を作り、ジェスチャーで「だいじょうぶだ」とだけ伝え、船倉で雨宿りしながら昼飯を食った。今日は雨で気温が低いせいか食欲がある。昨日の残りと思われるやや硬くなった白いパンを頬張り、塩焼きされた魚を喰らう。それを水で流し込んだら作業再開だ。


 ようやく、ようやくだ。雷鳴が轟き、雨が痛いほど身を打ち付ける中、俺は100杯の海水を汲み終えた。手はボロボロだし、肩も腰も鉛を巻いたように重かったがとにかくやり遂げたんだ。俺は雨音に紛れて叫びを上げる。「やったぞぉぉぉ!」と。


『はいはい、よくできました。では明日からは午前中に100杯を目指しましょうか。そうすれば午後に剣を教えられます。今貴方がこなした作業はこの船の男であれば誰でも出来ることです。15歳のジャンでもね。わかりますか? 高度な文明生活を送っていた貴方がどれだけ肉体的に劣っているのかということが』


『ああ、実感したさ。けどまだ遅くはない、そうだな? シルヴァーノ』


『ええ、貴方は努力できる人のようですから。どれほどの才能を持ち合わせて生まれてきても、努力ができなければ大成できません。貴方にはその努力と言う才能が神から与えられているのです』


『神様って言われてもピンとこねーが、褒め言葉として素直に感謝しとくさ』


『ええ、人の営みは全て神の定め。貴方もそのうちに神の偉大さを実感できるでしょう』


『けっ、このキリストかぶれが。俺はこの目で見るまで神だのなんだのは信じねーよ』


『ええ、もちろんです。貴方にもその目で神の偉業を見ていただかねばなりません』


 翌日、晴天に恵まれたのでアクアマリン号は帆を上げて、クレタ島はガンディアの港を出航する。修道士ダリオとロザリアの間で何やら会議が行われたようだが、俺は聞いてもわからないので彼らに全てを任せ、邪魔にならない船尾で海水を汲む。


 船が動いているので揺れる事もあるし、桶が風に流される。それらの悪条件の中、上半身裸になった俺はひたすら海水を汲んだ。


 異変が訪れたのはそれから3日後、俺が相変わらず海水を汲み上げていた時の出来事だ。


「大将~! ちょっとやばいことになりそうだから姉御が来てくれってよ! 」


 血相変えて走ってきたのはフリオだった。何事かと聞くと、どうにもイスラムの海賊らしき船がこちらに接近しているのだと言う。

 ほら見た事か! 神様ってのが本当にいるなら、シルヴァーノが敬虔な神の使いだというならなんでこんなタイミングで海賊なんかよこすんだ! 鍛え始めてまだ数日。水汲みしかやってねーんだぞ!


 俺は上衣に袖を通しながら船長室へと向かう。そこにはすでに、主だった面々が集まっていて真剣な面持ちで配置を決めていた。


「ジョルジオ、厄介なのに狙われたみたいだよ。イスラムの奴らは言葉が通じない。だから交渉もヘチマも無く、ガチでやりあうしかないんだ」


「そもそも異教徒などと話し合う理由など何もない。神の威光を示し、全員を海の藻屑に変えるまで。そうですな、ジョルジオ殿?」


 船を仕切る船長のロザリアと今では参謀格のダリオ。二人はやる気だ。


「そこでだ、甲板や操船の連中にはクロスボウで牽制させつつ、アタシがフェデリーゴ達を率いて乗り込む。ジョルジオ、アンタにはこの船を任せるよ、いいね?」


「では俺とサビーノで射撃隊を指揮します。ロメオ!操船はお前に任せる。いいな? 」


「任しといてください」


 副長のルチアーノが甲板長のサビーノ、それに航海長のロメオに指示を出す。シェラールとダリオは俺の護衛、ヒュリアはその弓の腕を生かし、船の帆柱に設けられた見張り台から狙撃を行う。その配置で敵船に望むことになった。


 シェラールに手伝ってもらいながら鎧を身につける。いくら軽い鎧とは言え、ここは海の上。落とされれば泳ぎきれるかもわからない。俺は覚悟を決めて、紋章のついたサーコートを着込み、ベルトを巻いて剣を佩く。

 シェラールに念のためにと手渡された短剣はベルトに挿しておいた。買ったばかりのピカピカの盾を背中に背負って甲板へと階段を上がった。シェラールは船に転がっていた錆の浮き出たチェインメイルを着込み、俺のおまけでもらった丸い盾を背負う。ダリオはつばのついた丸い、帽子のような兜を被っている。クレタに停泊中に買い求めた物らしい。


 船上ではすでに遠くから矢を撃ち合っており、そのうちのいくつかが俺の足元につきたった。すでにヒュリアの短剣を体近くに突き立てたれた経験のある俺は、このくらいでは動じない。そうこうするうちに船首近くにある、大きな弩から、まるで魚を突く銛のような大きな矢が発射される。これが敵船見事に命中。とは言っても喫水線より上に当たったためそれだけ沈没というわけでもない。ただ、敵船は大きく動揺したらしく、遠距離戦は不利とばかりに船体を寄せてくる。


「野郎ども! 渡し板の準備だ! フェデリーゴ、ようやく出番だ。遅れずについてきな!」


 ロザリアの怒号が飛ぶ。フェデリーゴ達、漕ぎ手の面々がそれぞれに武器を握り締め、突撃に備える。ようやく相手の顔が見えるかと言うその時、盾から顔を出した敵船の一人がたどたどしいラテン語で呼びかけた。


「ソレガーシは、海の勇者デース! ソチラガワにも勇者がいるナーラ、正々堂々決闘シマース! 」


 その声に反応した両船が弓を射る手を止める。静寂の中、敵船から細い渡し板が渡され、船べりには先ほどの男が姿を現す。はは、馬鹿な野郎だ。こっちには一騎討ちで無敵を誇るロザリオの姉御がいるんだぜ? イスラムの海賊かなんだか知らねーが一言だけ言っておく。「お前はもう、死んでいる」とな!


「ドウシマシター! ソチラ、勇者イナイノですねー! ソレガーシ、この事あちこちで言いふらしマース!」


「野郎! 好き勝手言いやがる! どうします、姉御」


 あれれ? どうしたのかなロザリアちゃん? もしかして生理? だから体育は見学? 


「ジョルジオ、こっちに来てくれ」


 なんだろう。万一ロザリアが体調不良ならこのフェデリーゴがやればいいよね? アホみたいな体格してんだからあんなイスラム野郎一発でKOだろ? 


「実はね、海の掟じゃ船で一番えらいやつが決闘に応じることになってんだ」


「へぇーそうなんだ」


「はは、相変わらずの余裕だね、安心したよ。んじゃいいとこ見せておくれ」


 へ?なんで? 何がどうなってるの? 確かに俺は騎士になるって誓を立てたよ。でもね、まだ水汲みしかしたことないんだ。そんな俺に船の運命を託すとか、無理無理!

 

「大将、アンタ、相変わらずいいとこだけ持っていくね。あっしはそんな大将にシビれちまうよ! な、みんな? 」


 フリオの煽りに面白いほど乗っかった面々。おぉぉぉ!と怒号を上げるそいつらの顔は明らかに俺に何かを期待していた。


「ささ、異教徒どもに鉄槌を!」などと言うダリオに押し出され、俺は渡し板の上に立つ。あれ? なんか気持ちいい。

 そうだ、そう言えばそうだった。こんな俺にも唯一人に誇れるスキルがあるのだ。それは「高いところが怖くない」と言う日常生活ではまるで役に立たないものだが、俺はこのスキルを活用して子供達がよく行う、度胸試しと称した危険行為を全て制覇した。

 細い板も怖くないし揺れるのも大丈夫。俺はスタスタと細い渡し板を真ん中まで歩いた。後ろからはおぉぉ!と感嘆の声が上がる。それがまた気持ちよく、小学生の頃に戻ったような高揚感に包まれた。


 対してイスラムの勇者とやらは、腰を低くかがめ、落ちないよう配慮しながら渡し板を進んでくる。俺はいたずら心が湧いて板の上で飛び跳ねてみた。着地の衝撃で大きく揺れる渡し板。イスラムの勇者はおっかなびっくり、それでもプライドがあるのか手をつかずに進んでくる。心理的に優位に立った俺は、シルヴァーノの真似をして剣を抜く。


「サン・ジョルジオの名において、邪な竜には裁きの剣を! 」


 おぉ! やっべー! 俺、かっこよすぎじゃね? なんか興奮しすぎておしっこしたくなってきた。イスラムの勇者は相変わらずのろのろと進んでくる。まだ、3分の1も進んでいない。ならばと、俺は剣を小脇に挟み、イスラム船に向け、ナニを取り出し小便をした。


 その姿を余裕と捉えた味方からは歓声が上がり、侮辱と捉えた敵船からは怒号が上がる。よほど屈辱的だったのかイスラムの勇者は顔を真っ赤にして進んでくる。ナニを収納した俺はその場でもう一度ジャンプする。再び大きく揺れる渡し板。ついにイスラムの勇者は這いつくばって渡し板にしがみついた。


「貴様! 海に叩き込んで魚の餌にしてやる! 」


 ようやく俺の前までたどり着いたイスラムの勇者は眉を怒らせ、向こうの言葉でそんなことを言って曲刀を抜く。そのタイミングで俺は左手に持った盾でその曲刀ごと、イスラムの勇者を殴り飛ばす。バランスを崩した彼に、止めとばかりに足をかける。「あぁぁぁ!」と叫び声を上げて彼は海に消えた。向こうの船から慌てて浮かぶものが次々と投げ入れられ、それに掴まる彼の姿を確認するとホッと一息ついた。甘いことはわかっているがやはり人殺しにはなりたくない。それがどれほど甘く、そして都合のいい事なのか俺はこの日、知ることになる。


「ジョルジオ様が勝ったぞ! さあ、今だ全員のりこめー!」


 ロザリアの号令一下、次々とイスラム船に向かい太い渡し板がかけられる。そこを怒号を上げて駆け抜ける船員たち。前部の渡し板はロザリアを先頭にした漕ぎ手の面々。そして後部の渡し板からは副長のルチアーノ率いる射撃隊が弩を斧に持ち替え、乗り込んだ。

 俺は渡し板をそのまま敵船まで渡り切り、ぽつんと一人、敵も味方もいない船の中央に立っていた。船の前後では敵味方入り乱れての大乱戦だ。怒号が飛び交い悲鳴が上がる。血煙が上がり、俺のところまでも血の匂いが溢れ、むせる。

 なんだこれは! なぜ殺しあわなきゃならない! 俺は今、何を見てる? まるで映画の戦闘シーンのような惨劇に俺は気圧され、足がすくむ。


「大将、伏せて! 」


 甲高いジャンの声が響き、俺は反射的に身をかがめる。ヒュンと風を切る音が聞こえ、俺の立っていた位置に太い矢が打ち込まれた。

振り返れば、船倉の上で、射手が俺に狙いを定めている。


「野郎、調子に乗りやがって! 」


 血に酔っているのか普段のジャンらしくない乱暴な言葉だ。見ればすでに何人か殺したのか、その顔には返り血が浴びせられていた。


「俺が野郎を仕留めてきます、大将はここで俺の活躍を見ててくださいね。へへ、俺だってやれるってとこを見せてやりますよ!」


 ジャンは斧を構えなおすと船倉に向かい走り出す。ダメだ、ジャン! 一人で行くな! そう心では思う物の声が出ない。俺の手はジャンの襟首をつかみ損ね、伸ばしたまま空を掴んだ。船倉の射手は矢の装填が完了したらしく、走り寄るジャンに照準が向けられる。


「ジャーーーン! 」


 俺の叫びも虚しく、まるでスローモーションのように、矢が放たれジャンの眉間を穿つ。ジャンは大きく痙攣すると、そのまま床に突っ伏し、動かない。カァァと血が上るのを感じ、頭が真っ白になる。俺は剣をデタラメに振りながら邪魔する敵を斬り、ジャンを殺した射手に向かう。途中、何度か射かけられたが盾をかざして矢を防ぐ。バンッと強い衝撃があり、盾に矢が刺さるが、そんなことはどうでもいい、アイツだけは、ジャンを殺したアイツだけは俺がこの手で必ず殺す! 

 射手もこれ以上の射撃は無理と判断したのか弩を投げ捨て、曲刀を抜いた。あとはただ必死だった。盾で殴り、剣で斬りつける。俺も数箇所斬られたようだが鎧が止めてくれたのだろう、痛みはない。

 互の体がギリギリまでくっつき剣を振れる距離では無くなった時、俺は剣から手を放して、ウロコ状の鉄片で覆われた篭手で相手を殴った。フラフラとよろめく相手に俺は腰に挿してある短剣を抜き、腰だめにして、まるでヤクザ映画のように相手を突き刺す。

 相手が動かなくなったのを確認すると、俺はその場で大声で吠えた。


「そうかい、ジャンの奴がね。ま、コイツもアンタに仇を討ってもらえたんだ。今頃満足してあの世にいっただろうさ」


 船の上は文字通りの皆殺しだ。イスラムには言葉が通じない。だから皆殺しにするんだそうだ。船の上で横たわる敵味方の死体から装備を剥ぎ取り、丸裸にして海に放り込む。海の男は海に帰る。これが彼らの生き方らしい。俺の隣で聖書の一節を口ずさむ修道士。彼はキリスト教徒の為だけにしか祈らない。異教徒には異教徒の神がいて、それを救うのはこちらの神の仕事ではないらしい。


 次々と海に投げ入れられる死体の中に運ばれるジャンの姿を見つけた。俺は運び手にジャンを降ろしてもらい、開いたままの目を閉じてやる。そしてこんな時に祈りの言葉すら持たない自分に歯噛みしながら彼の冥福を祈り、跪く。そして運び手に合図をするとそのまま後ろを向いて振り返らなかった。

 結局この戦いでの犠牲者は死者がジャンを含め8人。どの顔も見知った顔だ。一緒に飲んで騒いだ彼らの姿は今はもう、どこにもない。けが人は30人ほど。幸い重傷者こそいなかったものの、敵船に乗り込んだ連中は全員どこかに傷を負っていた。

 船べりでは身内を失った女たちが涙にくれている。いつか見たジャンを慕う女の子もその中にいた。

 なぜ俺はあの時、ジャンに呼びかけられなかった? 声が出なかった? そんなのは言い訳にもならない。要は覚悟の問題だ。俺に覚悟ができていればジャンとて若い命を散らすことなどなかったのだから。


『自分を責めるのはやめておいたらどうです? いくら悔やんだところで死者は蘇らない』


『そんなことは解ってる。なあ、俺はこの惨状から何を学べばいい? 死んでいった奴らに何ができる?』


『貴方はどう思うんですか? 僕が言えるのはありきたりの事です。貴方が自ら体で覚えたことには及びませんよ』


 シルヴァーノはそれだけ言うと口をつぐみ、霧のように消えた。


 考えろ、考えるんだ俺。彼らはなぜ死んだ? どうすれば生き残れた? それに俺は今後どうすれば生き残れる? 彼らがその命をもって教えてくれたことがあるはずだ。それはなんだ?

 イスラム船での遺体処理も終わり、今は積荷を移送している。彼らが積んでいたのは香辛料や象牙などの高価で嵩張らない物が多い。彼らも本業は商船だったのだろう。ダリオに聞いたところではガレー船は大勢の人が乗り込むため、荷物を積むスペースが少ないので、安くて嵩張るものは大量に物を積める帆船で運んでいるらしい。


 思わぬ拾い物に船の連中は大騒ぎだ。イスラム船には綱を付け、近くの港まで曳航するという。全く現金なものだ。


 彼らにとって、いやこの時代に生きるものにとって命というものは軽い。仲間であろうが友であろうが死んだらそこまで。後に引きずらない強さを持っている。それがどうしようもない違和感となり、彼らをまるで別の生き物でも見るような目で見てしまう。


 上機嫌のロザリアに戦勝の宴会に誘われたが、俺は気分が悪いといって部屋に閉じこもる。とてもじゃないが何かを祝う気になどなれなかった。血で汚れた鎧を脱ぎ捨て頼んでおいた湯で体を拭く。散らかった部屋もそのままに一人ベッドに横たわり、死んでいった連中の顔を思い浮かべた。親しかったジャンや顔見知りの連中が死ぬのを間近に見て、ショックを受けている俺がこの時代ではおかしいのだろう。頭では解る。解っているんだ。けど感情が納得できない。

 思えば今日、俺は初めてこの手で人の命を奪った。今まではシルヴァーノがやったことと納得してきたが今日は違う。明確な意思を持って、あのイスラムの男を殺したんだ。


 そう考えると恐ろしい。確かに現代にいた頃でも殺してやりたいと思う相手はいた。しかし現実に殺せるかと言えば、そんなの無理に決まっている。何しろ社会的な制裁が大きいし、殺したが最後、二度とまともには生きれないだろうから。いや、そういう事とは別に幼い頃から人殺しは最大の罪だと教え込まれている。特に学校で習った訳ではないがそれは常識以前の問題として俺の中に刷り込まれている。おそらく平和な現代日本で生まれ、育った人の大半はそうだろう。

 その俺が人殺し。その事に思ったほど罪悪感を感じていない自分に腹が立つ。目の前でジャンを殺されたから? 殺さなきゃ殺されてたから? だから殺してもいい? ダメだというならどうする? ただ黙って殺されてやるのが正しいのか。それとも降伏して奴隷になればいい?


『そう言った迷いや悩みから救ってくれるのが宗教なんですよ。生きていく以上戦いは避けられない。人を殺せば自己嫌悪に陥るし、仲間が死ねば恨まずにはいられない。だからこそ神という名の特別な存在が人間には必要なのです。全てを神のせいにして、神の名の元に戦えば罪悪感から免れますし、死者は神の元に行くのであれば守れなかった無力感も感じずにいられる。そうは思いませんか?』


 いつの間にか姿を現したシルヴァーノがまるで悪質な訪問販売業者のような口ぶりでそんなことを言った。


『そりゃそうかもしれない。だがそれは単なる責任回避、言い逃れじゃないのか? 人は人である以上、自らの行いに責任を持ち、反省し、二度と悲劇を繰り返さないよう努めるべきだ。そう言う力をお前の言う神から与えられているんだから』


『それは貴方が恵まれた時代と場所に生まれたからこそ言える綺麗事ですよ。この時代の平均寿命しってますか? 25歳ですよ25歳。戦い以外にも飢えや疫病で人は簡単に死ぬんです。医療技術も未熟ですからちょっとした怪我や病気が死に繋がりますし。そんな中、人は心の支えが必要だったんですよ、それこそ絶対的な権威を持つ何かが』


『それが神とでも?』


『ええ、貴方はあの時代の中でも恵まれた場所に生を受け、なんの悩みも悲しみも知らずに生きていたわけです。だからこそ神にすがることもなく平然としていられた』


『俺にだって悩みもあるし、辛いことだってあったさ!』


『では聞きますが、貴方は目の前で親しい者を殺されたことがありますか? 食べるものがなく幼い命が消えていくのをその目で見たことが? 疫病で村がまるごと死に絶えた話を聞いたことがありますか?』


『そ、そりゃあ無いけどさ、だからってそんな話は特殊だろ? その他大勢の人には関係ないあくまで極々稀な話じゃないか』


『稀なものですか。現に僕の妹は疫病で幼くしてこの世を去り、管理していた荘園で疫病が発生したときは患者を小屋に隔離し、火をかけました。この手でね』


『そんな理不尽な話、許されるわけないだろう?』


『許すも許さぬも実際に起きたことです。いいですか? この時代に暮らす人々は貴方が想像も及ばぬほどの理不尽に晒され、かと言って、それらを打ち破るだけの知識も技術もない。そんな彼らにできることは神に祈り、心の平穏を求めることだけなんですよ。わかりますか貴方に? 愛しい妹が日に日にやせ衰えていく様をただ見守る事しかできなかった僕の気持ちが。泣きわめく子供を力ずくで取り押さえながらその親がいる隔離小屋に火を点けた僕の気持ちが』


『……』


『だからこそ人は神にすがるんですよ。それがキリストの神であろうがイスラムの神であろうがね』


『だけどそのせいで十字軍だのなんだのと殺し合いになってるんじゃねーか! それが本当に神の望んだ事なのか? 王とか教会の利益が絡んで神を利用してるだけじゃないの? だとしたらやはり宗教ってのはインチキじゃないのか?』


『確かに貴方の言うことも一理あります。人である以上、欲望を捨てることは難しいですからね。とは言え、あそこで教皇猊下が事を起こさなければ今頃、ギリシャ一帯はイスラムの手に落ちていたのも事実。彼らに対抗するにあたってはヨーロッパ世界が一つになる必要があったのですよ。それには神、つまり宗教的な要因で諸侯を繋ぐしかないのです。彼らの利害も何も一旦置いて外敵と戦うにはね』


『けどやりすぎだろ! 俺は歴史に詳しいわけじゃないけど十字軍の行動が常軌を逸していたことぐらいは知ってる。宗教が違うからといって同じ人間にしていいことじゃない』


『そうですね。でも過酷な環境で信じていた神を取り上げられるとなれば敵の将兵だけじゃなく、民衆も抵抗しますよね? そうした中で自らの安全を守るためには虐殺もやむをえない。それが当時の諸侯の考えだったようです。

 別に特別な事ではないですよ。現に貴方の国でもオダ・ノブナガがやってますし、近代でもアメリカがベトナムでやってますよね? 先ほどのイスラム船だって皆殺しにしていましたよね? なぜだと思います? 言葉を尽くしても解り合えないからですよ』


『そう言われると言い返せないけど、俺はそれがいいことだとは思わない』


『いい事だなんて誰も思っちゃいませんよ。けど、自分や仲間を守るためにはやむをえない。そういう事もあるという事を貴方は知っておくべきでしょうね。少なくとも十字軍のおかげでそれまでカトリックと正教会に別れていたキリスト教世界が一つになれた事は事実ですから』


『でもさ、そもそもそういう事って、お前が俺をここに連れてこなきゃ知らなくてもいい事だったよな?』


『あはは、まあそうとも言いますね。じゃ、用事があるので僕はこれで』


 逃げやがった。こっちはどの技をかけてやろうかとウズウズしてたのに。まあいい、答えは出ないが鬱々とした気は晴れた。ずっと疑問だったのだ。なぜ、この時代の人々はそこまで宗教にこだわるのだろうかと。それについては一定の回答が得られた気がする。しかし俺は神には祈らない。なぜなら人の身勝手で起こした結果を神に押し付けるのはあまりに都合が良すぎると感じるからだ。


「――ジョルジオ様」


 気配を絶っていたのか振り返るとヒュリアがいた。


「なんだ、ヒュリアか。脅かすなよ」


「みんな心配してます。ジョルジオ様の様子がおかしいって」


「ああ、すまない。大丈夫だ。今から甲板に上がろうと思ってたとこなんだよ」


 そう言うとヒュリアはニッコリと微笑んで俺の手を取った。


「なあヒュリア、今まで人を殺して罪悪感とか感じたことはあるか?」


 意外そうな顔で首をかしげるヒュリア。50人も殺してりゃそういう感覚も麻痺するのかな?


「もちろん感じますよ。あの人たちにも家族がいて、友達がいて、愛する人がいる。悪いと思いますし、殺したあとは息苦しくもなります。私、ジョルジオ様と出会うまでほとんど誰とも話さなかったんですよ。だって仲良くなったら殺すのが辛くなるから」


「なら今はいいのか? 」


「ええ、だってジョルジオ様がいますから。貴方だけいてくれれば他の誰が死のうが居なくなろうが問題ありません。そう、最終的にこの世界でジョルジオ様と私だけしか生き残れなくても」


 満面の笑みでそう語る彼女の表情は年相応の純粋さだ。語る内容を別とすればだが。


 ヒュリアに手を引かれ甲板に俺が姿を現すと皆、待ってましたとばかりの大騒ぎだ。比較的行儀のいい副長や、航海士、それに甲板要員の連中でさえそうなのだから、行儀なんて皆無の漕ぎ手の連中は言うに及ばずだ。


「大将! なーに一人で黄昏てんだ。こういう時にはな、飲んで騒いで死んだやつらに勝った事を教えてやんだよ! ほら、なにしてんだ。さっさとこれ持って一杯いかねーと」


 フリオがニヤけ面でエール酒がなみなみと注がれたジョッキを俺に手渡す。


「そうだよジョルジオ。それが海の作法ってやつさ。死んじまったジャンたちのためにも飲んでやっておくれよ。それにアンタは今回の戦いの英雄さ、何しろ決闘に勝ったのはアンタなんだからさ」


 ロザリアがそう言いながら酒をすすめる。俺はジョッキの酒を一気に飲み干しプハーっと息を着くと天を仰いだ。


 ジャン、どこかにいるならしっかり見て行ってくれ。この通り俺たちは勝ったんだ!


 その日はみんなしたたかに飲み、さすがの俺も意識が定かでなかったのか記憶がない。気がついたらベットの上で横になっていた。


 おや、なんだこの違和感。隣にもごもご蠢く物体が。まさかヒュリア? あるいはロザリアか? まさか俺、酒に酔って間違いを起こしちゃった? え? シルヴァーノもしかしていなくなった?

 心の中でいくら呼びかけても返事はない。真実を確かめるため、恐る恐る目を開けるとそこにあったのは大きな二つの双丘、ではなく髭面のフリオの顔だった。俺は無言で立ち上がり、幸せそうに顔を掻きながらうつぶせに眠るフリオに蠍固めを喰らわせる。


「ギャァァアァァ!」


 フリオの絶叫が部屋に響き渡り、何事か!と目を覚ました修道士のダリオとシェラールがガバっと身を起こす。


「――何してるでござるか」


 シェラールが間の抜けた問いかけをし、ダリオも半笑いでこちらを見ている。


「見りゃあわかんだろ! 助けてくれ! 」


 髭面を震わせて助けを求めるフリオに背を向け、二人はベットに横になる。寝がけにシェラールがトルコ語で「大将、馬鹿騒ぎも程ほどにな」と不満げな声を上げた。


「で、フリオ。一体何故お前がここにいる? ん? なんで俺が快適な目覚めと共にお前の髭面を拝まなきゃいけないんだ? 」


 ホンの少し技を緩めてフリオを問いただす。フリオはジタバタとしながらもこう答えた。


「いや、その、あっしも良くは覚えてないんですけど、確かフェデリーゴの兄貴が早々に潰れちまいやがって、それを寝台まであっしと大将で運んでやったんですよ。で、また甲板に戻って飲んでたら今度は大将が潰れちまったんであっしがここまで運んでやったと。で、眠くなったんでそのままあっしも失礼したって事なんで。でへへ」


「でへへ。じゃねーよ! ホントに失礼だよ! つか気持ちわりーんだよ! なんで男同士で一緒のベットに寝てんだよ、もしかしてもしかしちゃったら俺、一生立ち直れねーからな!」


「あれれ、大将、まさかあっしのケツ狙ってんじゃねーでしょうね? あっしはノンケなんでそういうのはちょっと」


「狙わねーし! 死んでもお前なんか狙わねーよ! そもそもそういう発想が頭にくんだよ!」


 俺は渾身の力で締め上げる。再びフリオの悲鳴が上がるが同室の二人は知らんふりだ。その声を聞きつけたのかフリオの妻のソニアが勢いよくドアを開け、俺を押しのけるとフリオの腰をさすりながら部屋を出て行った。去り際に俺を睨みつけ、「この人の腰が使えなくなったらアタシは大将を許さないから!」と、言い捨てて。


 イスラム船を曳航しているアクアマリン号は予定を変更してアドリア海に入る。そしてここから最も近い大きな港であるヴェネチア主権下のダルマチアの都市ドゥブロヴニクへと向かう。矢が刺さったままの船体の補修や、拿捕したイスラム船の売却をするためらしい。積荷は少しでも高く売るためジェノヴァまで持っていくそうだ。


「またヴェネチアの港ですか。ヴェネチアってのは力あるんですね」


 俺は修道士ダリオにそう聞いてみた。この間まで滞在していたクレタ島もヴェネチアの支配を受けているし、ドゥブロヴニクも元は海洋国のひとつに数えられたほど栄えているのだという。


「まあ、確かに力があるかないかと問われればあると答えざる得ませんな。こんな状況でさえなければヴェネチアの港などに寄港しなくとも良いのですが、ま、仕方なく、というところです」


 ダリオが言うには現在、神聖帝国皇帝フリードリヒ2世と教皇インノケンティウス4世 は絶賛対立中であり、皇帝勢力が押さえているイタリア南部の港に教皇派とみられる俺達が寄港するのは危険なのだそうだ。

 ヴェネチアはジェノヴァと共に現在の所は教皇派なので安全なのだという。その皇帝と教皇の動きによっては最悪アドリア海を北上し、ヴェネチアに停泊。そこから陸路でジェノヴァへ向かわなければならないのかもしれないのだという。何しろシチリア島は皇帝の本拠とも言える場所で、イタリア半島のつま先にあたるレッジョとシチリアのメッシーナの間の細い海峡は完全に皇帝の支配下だ。そこが通れないとなればシチリア島を大回りしなければならないのだが、近辺はイスラムの勢力が強く、非常に危険だと言う。


「クレタでの情報によれば、現在は大きな動きはないとの事ですので海峡を通るぐらいはできそうですが、皇帝派の港に寄港するのは流石にリスクが大きいですからな。ドゥブロヴニクでイスラム船を売り払い、準備を整えたらジェノヴァまではどこにも寄らないつもりです」


「うは、そんなことになってんのか。俺、ローマにいけるんだろうか?」


「まあ、ローマは危険でしょうな。教皇が公会議の開催を宣言した昨年意向、ローマにいる聖職者たちは次々と皇帝派の元老院議員によって投獄されていますから。教皇派のコンティ伯の騎士である貴方も捕まれば投獄でしょうな」


「そんな状況でそのレッジョだかメッシーナだかの海峡を通過できるんですか?」


「あそこで臨検を受けた場合、私が対応します。なあに、ジェノヴァの商人だといえば問題なく通過できるはずですよ。それにもし、」


「それにもし?」


「皇帝の手下がなんだかんだ言ってくるようであれば振り切るのみ! なんか、こう、血がたぎりますな!」


 やっぱりそうなんだ。この修道士はなんだかんだ言って好戦的だから困る。イスラム船との戦いでもシェラールと共に凄い活躍だったと聞いている。その実力と豊富な知識でこの船の荒くれ者達からも尊敬を集めているのだ。


 そのあとしばらくダリオと世間話をしたあと、俺は日課にしている水汲みを再開した。早く力をつけなきゃまた、ジャンの時のような思いをしなければならない。そうならないためにも実力と、それに裏打ちされた自信が欲しい。脇目もふらずにひたすら水を汲み上げていると、いつの間にか隣にシルヴァーノが姿を現していた。聞きたいことがあったので手を休めて彼と向き合う。


『なかなか頑張るじゃないですか』


『まあな、弱さは罪。お前の言ってたことがおぼろげながらわかった気がするからな』


『その意気ですよ。僕にできることはすべてやりますから頑張りましょう』


『そう言えば、なんで教皇と皇帝って揉めてるんだ? 両方キリスト教徒なんだろ?』


 シルヴァーノはひとしきり考えた後、正確な所まではわかりませんが、と前置きした。


『簡単に言ってしまえばどっちが偉いの? って事ですかね。皇帝は全ての権力者の頂点は自分だと思っているし、教皇はすべてのキリスト教徒の頂点が自分だと思っている。皇帝もキリスト教徒ですし、教皇も権力者の一人。違うベクトルではそれぞれがそれぞれの上に立っているわけですね。じゃあ、総合的にはどっちが上? と言うのがそもそもの原因でしょう』


『言ってみればあるバイトの先輩が、違うバイトでは後輩に当たるみたいな?』


『まあ、そんなものですかね。あくまでその二つが等価値であればですけど。皇帝は実社会、つまり行政にまで関わるようになってきた各地の教会責任者、つまり司教は自分の都合のいい人間を置きたいし、教皇は権威を保持するためある程度の世俗の実権が必要なんです。お互い相手の持つ権利が欲しくて欲しくてたまらないわけですね』


『でもさぁ、それってどう考えても皇帝が有利じゃね? いざとなったらその兵力に物を言わせればいいんだから。現に今だって教皇はローマから逃げてるんだろ?』


『ところがそう簡単にはいかないんですよ。教皇には必殺技がありますから』


『必殺技?』


『ええ、「破門」という名の必殺技です。ヨーロッパに住むほぼ全ての人がキリスト教の信者なんですよ? その中で「お前は信者と認めない!」って教皇から宣言されるわけです。そうなるとどうなると思いますか?』


『どうって言われても。それが? って感じじゃないの?』


『結婚も、生まれた子供に洗礼を施すのも、葬式を執り行うのも全て教会なんですよ? つまり人としての当たり前の権利を失うわけです。仮に皇帝本人がそれで良くても従うものはそうじゃない。「皇帝に味方すると破門になるらしいよ」とか噂を流せばあっという間にその兵力はなくなります。』


『ならいっその事殺しちゃうとか?』


『例えば貴方の国で、天皇を総理が殺したとします。その総理を国民が許しますか?』


『そりゃ無理だろ。そんな事、口に出しただけでも大変なことになる』


『それと同じですよ、教皇の権威は絶対です。何しろ神の代行者なのですから。その教皇を亡き者にするとか、その地位を奪うとかはこの場合論外なんですよ』


『なるほどね。となると教皇が有利って事か。何しろ身の安全は保証されてるわけだからな』


『そうとも言えません。教皇は破門以外に効果的な攻撃方法がないんですよ。また、聖職者と言う建前がある以上、必ずどこかで許さなければならない。その間に領土や実権を押さえ込まれてしまえば取り返す手段がないんです。皇帝としては奪うだけ奪っておいて、名目だけ返せばいいだけですから』


『なるほど。「悪かった、反省してる。これお前から取った奴だけど返すわ」って言われて受け取ったら箱だけで中身がないみたいな?』


『そうですね。なのでどちらも互いに意地になるわけですね。そんな状況がもう二百年近く続いてるわけですよ。』


『うわぁ、めんどくせー関係! ケリのつけようがないじゃん』


『ただ今回は皇帝も教皇も結構ガチです。皇帝は知っての通りローマで圧力をかけて教皇を追い出しましたし、教皇は過去に皇帝を破門済み。さらに公会議を開いて皇帝を政治的に追い詰める腹積もりでしょうね』


『なあ、そうなるとエルサレムは? あそこって確か聖地なんだよね? ほっといて良いわけ?』


『まあ、エルサレムが陥落したのは二度目ですし、前回あの地を取り戻したのは破門になっている皇帝とその支持者であるドイツ騎士団ですからね。異教徒を討伐もせずに外交によってエルサレムを期限付きで租借した、という方が正確でしょうか。もちろん熱心なキリスト教徒、特に現地いる聖ヨハネ騎士団やテンプル騎士団からすれば、自分たちの戦いを否定されたも同然です。命をかけて異教徒討伐に明け暮れていた彼らにとって、皇帝のやり方は到底認められるものでは無かったのですから』


『でもさ、外交による解決って一番いいことじゃないの?』


『それは相手を対等であると認めた場合の話ですよ。キリスト教徒にとって異教徒は対等ではなく、滅ぼすべき相手ですからね。その相手と手を結んだ皇帝に対して、当然教会もいい顔はしません』


『うわ、なんか皇帝ってかわいそうな人なんだな。効率を重視して結果を出してもやり方が気に入らないって否定されちゃうんだから』


『まあ、皇帝が先進的な感覚を持っていたことは事実でしょうね。彼は時代の先覚者ですから。それまで無かった中央集権を打ち立て、異教徒文化にも理解を示す。知ってますか? イタリアには皇帝を支持するイスラムの街があるんですよ』


『イスラムまで抱え込んでんのかい! そりゃあ理解されないわ。教皇が破門にするのもわかる気がするよ。で、このあとどっちが勝つんだ? お前なら知ってるんだろ?』


『それは貴方自身の目で確かめることです。もしかしたらですよ、まあ万が一にもそんなことはないでしょうけれど、もしかしたら、貴方の活躍で歴史が変わるかも知れませんしね』


『そんな大それたことできるか! 考えただけでも恐ろしいわ!』


『あれ? 貴方は気がついてないんですか? すでに小さくはありますけど歴史は変わってるんですよ』


『もしかしてお前の言ってたパラレルワールド? んなわけねーだろ! 大体歴史上の有名人にすらあったことないわ!』


『はぁ。これだから貴方って人は。いいですか? 例えばシェラールとヒュリアの兄妹。貴方があそこで助けるなんて言いださなければ彼らはすでにこの世の人ではなかったでしょうし、ロザリアをはじめとしたこの船の面々だって貴方さえいなければ、未だに海賊を続けていたかもしれません。そしてあのイスラム船のようにどこかで皆殺しにされるか、陸の隊商襲撃に失敗して奴隷として売り払われたかもしれないんです。その彼らがここにこうしている。それは全て貴方という存在があったからの事なんですよ』


『そう言われればそうかもしれないけどさ、歴史ってそういうことじゃないよね? 例えば織田信長が切腹するところに駆けつけて助け出したー、とか、坂本龍馬の暗殺を防いだー、とかそういう感じじゃない? 故郷にいられなくなった兄妹とか、修道院に帰りたくなくてついてきた修道士とか、漁師に戻りたい海賊連中とか、同じ助けたにしてもそういうんじゃないよね?』


『歴史書に残されている者だけが歴史ではないですからね。可能性としては1%もないでしょうが貴方が王になることだって、絶対にありえない事ではないんですよ。何しろここは中世。十三世紀のヨーロッパで貴方は曲がりなりにも百人近い配下を抱える騎士なんですから』


『ナイナイ。そもそもなりたいとか思わないもん。この船の連中だけだって重いのにそれ以上の重荷とか背負えませんから』


『はは、そうでしょうね。言ってみただけですよ。ちなみに前に言った平行世界云々は僕の作り話でしたけどね』


『マジで? どれだけお前嘘つきなの? 6億なんぼの並行世界があるとか具体的な数字言ってたじゃん! 神の示したデータとか全部嘘なわけ? まあいい、お前の相手はここまで。修行再開だ』


『わかりました。頑張ってくださいね』


 それだけ言うとシルヴァーノは姿を消した。

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