第10話 Cardinal red 緋色の枢機卿

 翌朝、顔を洗って甲板に出ると、そこには普段からは想像もできない風景があった。


 普段、上半身裸で麻の膝丈のズボンをだらしなく穿いている船員たちが今日に限って真新しい白のリンネルのシャツと、膝丈だが黒く染めた麻のズボンを身につけている。何より驚いたのは皆、首に木製の十字架を下げていた事だ。


 彼らは甲板に行儀よく並び、跪いて祈りを捧げている。聞けば服と十字架は昨日一日かけてダリオがジェノヴァの街を駆け回り揃えた物だと言う。皆も枢機卿がこの船に乗船すると聞いて、そりゃ名誉な事だと率先してダリオの指示に従ったらしい。女たちですら髪を整え、身奇麗にしてその枢機卿を待っている。

 彼らにとって枢機卿とは神の一部と言っても差し支えない存在なのだ。その枢機卿に「アンタにゃ頭を下げない」などと言い切った事が知れれば俺はこの船から追放されるかもしれない。


 この期に及んでようやく枢機卿の恐ろしさを感じ、身震いする。あのロザリアですら髪を結い上げ、十字架を首から下げて清楚な衣装に身を包んでいる。俺はこの光景にどうしようもないほどの恐怖と孤立感を感じていた。信仰心の無い俺には彼らの喜びも、枢機卿の偉さもわからないからだ。


 ダリオに促され、部屋に戻って身支度を整える。昨日もらった服を着て、髪に油を塗って整える。なぜ俺がこんな事をしなければならないのか。彼らの主は俺ではなかったのか、と幾分腹を立てながら髪を梳いているとやはり同じような表情で身支度を整えていたシェラールと目があった。お互い口に出すのは不都合と思い、苦笑する。なるほど、教会権力とは大した物だ。皇帝が教皇の権威を制限しようというのも頷ける。政教分離が当たり前の世界に生きてきた俺は、初めて宗教の力を目の当たりにし、やや気後れしている。


 部屋を出ると待ち構えていたダリオに十字架を手渡された。俺のは皆のものと違い、金色に輝いている。細やかな細工と言い、その造形と言い、売り払ったら結構な額になるんじゃないかと不埒な事を考えてしまう。

 その十字架を首に下げ、甲板に向かう。港には人だかりができており、その中を枢機卿の緋の衣が進む。お付きの聖職者の数も10人はくだらない。ダリオが慌てて船を降り、枢機卿を迎えに出向いていった。


 船上に恭しく腰をかがめたダリオに手を引かれた緋の衣が現れると、ロザリア以下、船乗りたちが跪く。空気を読んだのか俺の後ろにいたシェラールやヒュリアも跪いた。ポケーっと立ち尽くしているのは俺だけだ。その俺を見つけると枢機卿は、両手を広げ、まるで10年来の友にでもあったかのように抱擁する。彼のお付きの聖職者も当初、膝をつかない俺を苦々しく見ていたが、この光景を見ると微笑ましげな笑顔を見せる。たったこれだけの間にまた俺は、この枢機卿に借りを増やしてしまったようだ。


 何を話していいかわからず立ち尽くす俺の代わりに一同を代表して、ダリオが感謝の言葉を述べる。俺から言わせりゃ来てくれと頼んだわけでもないのに感謝する道理はないのだが、彼らにしてみれば光栄な事なのだろう。

 枢機卿は終始優しい笑みを浮かべながらそれに応える。ついでロザリアが枢機卿に恐れながらと、嘆願を始めた。彼らの家族が暮らす島には教会どころか祈りを捧げる祠すらなく、できればこの機会に島へ牧師を派遣してもらえないだろうかというのがそのあらましだ。

 わざわざ自分から教会の手の者を招き入れるなんて俺には到底信じがたい事だったが、真摯に願う皆の顔からするとよほど重要なことなのだろう。


 それにも枢機卿は笑顔で司祭の派遣を約束する。こいつらからすれば支配地域の拡大になるのだ。そりゃあ断るわけもない。ロザリアをはじめとした皆はまるで神でも崇めるかのように枢機卿にひれ伏した。

 ぶっちゃけ俺は神様なんて自分の心の中で信じてればいいと思っている。それをこうも仰々しく、真剣に願う船乗りたちの姿が真摯であればあるほどおかしくてたまらない。だがここで吹き出しでもしたら俺は間違いなく殺されるだろう。それは船乗りたちの斧によるものか、もしくは枢機卿の人を殴りなれた拳によるものかはわからないけれど。

 一通りの話が済むと、俺は枢機卿の意向で二人きりにさせられた。船乗りたちは枢機卿が連れてきた聖職者たちに有難い説話とやらを聞かされている。俺はダリオに連れられ枢機卿を迎えるために、綺麗に整えられた船長室に閉じ込められる。ここには昨日までなかった小さな祭壇が設えられていた。


 枢機卿はダリオの配慮と信仰心に礼を言い、決め台詞のように「神の祝福を」と軽く頭を下げた。


「さて、これで二人きりですね。腹蔵なく話ができるというもの」


 それだけ言うと枢機卿はその身分を表す緋の衣を脱ぎ、姿勢を崩して椅子に腰掛ける。顔からは笑顔が消え、凶悪とも言っていい人相になり、座る姿はまるでヤクザか何かのように別のベクトルの威厳に満ちていた。何よりむき出しにされた腕の太さが彼の凶悪さを裏打ちしている。


「で、てめえは何もんだ?」


 まるで人が変わったかのような言葉遣い。全身から醸し出される威圧感が半端ではない。先ほどまでの優しげな天使のような微笑みは微塵も感じられず、今の彼を包んでいるのは圧倒的な暴力の匂いだ。まずい、言葉を間違えたら殺される。


「何者って言われてもですね、この間も言ったように騎士アレッシオに後を託されただけで、特に代わり映えのない一般人だと思いますけど」


 過去に頭を下げないなどと誓ったことはどこへやら。目の前の人物の圧倒的な恐怖の前に俺は早くも敬語を使っていた。


「そうじゃねぇ、お前、普通じゃねーよな?」


 全てを見透かしたかのようなその目に抗うべく、言い訳を考えるも声にならない。蛇に睨まれたカエルとはこういう事を言うのだろう。


「ほう、なにやら言いづらそうだな。ではもう少し具体的に言ってやろう。お前は誰で、どこから来た? そして後ろに憑いている男は何者だ?」


 え? なに? この人見えてるの? 


『さすがは高位の聖職者。神とのつながりも尋常じゃありませんか』


 シルヴァーノがおもむろに姿を現した。流石の枢機卿もこれには驚いた顔をするも、一瞬の後には大口を開けて笑いだす。


「ハッハッハ! こいつは最高だ。どこの聖者か英霊かしらねーが、そんなもんがこの世に存在するとはな!」


「えっと、猊下? アンタにはコイツが見えてたんじゃないんですか?」


「リナルドでいい。信仰心も持たないお前から猊下なんぞと呼ばれる筋合いはないからな」


「ではリナルド、」


「誰が呼び捨てにしていいと言った! あんまし舐めた真似してっと異端者としてしょっぴくぞ!」


「すみません! ではリナルドさん、貴方には見えているんですか?」


「さん、か。まあいいだろう。但し皆の前ではそれなりに敬意を示せ。さっきみてぇに立ち尽くされてっとこっちも後始末に気を使わなきゃならねえからな」


「わかりました。気をつけます」


「で、俺が見えてるかってことだがな、見えはしないが気配は感じるってとこだ。だから誰かいることはわかっちゃいたが今みてえにはっきり見えたわけじゃねえ。で、そいつは何もんだ? 見たところ騎士のようだが」


『それには自ら答えましょう。枢機卿猊下。我が名はシルヴァーノ。ヴェローナはアルベルティ家の騎士です』


「ほう、ヴェローナってことは皇帝派か。その騎士が一体何の用で現世に留まる? 死んだらさっさとあの世に行かねーと後がつかえちまうだろ? そのナリじゃ皇帝に付き従って十字軍に参加、聖地でくたばったってとこか」


『ええ、おっしゃる通りです』


『ならとっとと聖騎士として昇天しな! こんな無関係の奴引き込んでんじゃねーよ』


『それはできません』


『あ? よく聞こえなかったな。もう一度言ってくれるか? この俺の言うことが聞けねーとか聞こえた気がするが、間違いだよな?』


『だからできないんですよ! もう目的も果たしたし僕も現世に未練はありません。けどどうやっても昇天できないんです!』


『バカ野郎! てめえも騎士ならそのくれえ気合と根性でなんとかすんだよ! てめえみたいなイレギュラーな奴がいると神が迷惑すんだ、わかってんのかこの野郎!』


 もはやその論理、宗教じゃないよね。気合と根性ってどんだけ体育会系なの? それよりなによりいつの間にかリナルドさんは俺のように念話を使っている。怒鳴り声も唸り声も音としては発生していない。どれだけ環境適応早いんだこの人。


『そんなにガミガミ言わなくったっていいじゃないですか! あー消えますよ、昇天すりゃいいんでしょう! アンタなんかに指図されなくても立派に神の下に赴いてみせますよ!』


『なら今すぐやれ。できるんだろ? できるんだよなぁ? 騎士に二言はねーもんな』


 いやそれ武士だから。


『今やってるんだから黙っててくださいよ! ごちゃごちゃ喚かれると気が散りますから!』


『そりゃあ悪かったな。但し、出来なかったらどうなるか分かってんだろうな? 俺りゃあ神ほど優しくねーぞ?』


 パキパキと指を鳴らしながらシルヴァーノにせまりよるリナルド枢機卿。彼の頭には暴力による解決方法しか詰まっていない。


『あと少し、もう少しですから。いいですか? あっちに行ったら神に貴方の無法は報告してやりますからね!』


『残念、時間切れだ』


 枢機卿の右拳が騎士の顎をアッパー気味に打ち抜き、誇り高き騎士、シルヴァーノの体が宙に舞う。彼はひとしきり痙攣したあと、白目を剥いた。


「流石俺の拳だ。霊体だろうが敵じゃねえな」


 満足そうに我が拳を撫でる。彼は暴力を行使した充実感に笑みを浮かべている。嘘だろ? あのシルヴァーノが一撃? 霊体とかそういうの抜きにしてもあの凄腕のシルヴァーノだぞ。


「さて、次はてめえだ。どっから来たのか知らねえが、元いたところに帰れ。なあ?」


「いや、その、俺は気づいたらこっちにいたんで帰り方とかわからないんですよ」


 カタカタ震える膝を抑えながら目を合わせる勇気もなく、うつむいたままでそう答える。


「あ? んなこと聞いてねーんだ。俺は帰れと言った。お前はどうする? 俺に挑むか? もし俺に勝てたらここにいる権利をやろう」


「もし、負けたらどうなるんです?」


「安心しろ。俺には秘策がある。帰る方法がわからねーなら死んでみりゃいいだろう? そうすりゃもしかしたら帰れるかもしれねーし。万一帰れなくてもこの俺自らが天国の予約席を取れるよう祈っておいてやる。どうだ? 破格の条件だろ?」


 そう言いながら枢機卿の大きな手が俺の襟首を掴む。彼の右手は十分に振りかぶって俺を殴り殺す準備は完了だ。だがもちろん俺の覚悟は完了していない。ここはなんとかして逃げ延びねば!


「いや、ほら、そのですね。もっと穏便に、例えば二人で今後の善後策を話し合うとか。そうだ! リナルドさん、教会の騎士になれって言ってたじゃないですか? いやあ偶然だなぁ、俺も教会騎士って憧れたたんスよね!」


「ほほう、そりゃいい心がけだ。教会の騎士となり、『俺に』忠誠を捧げ、『俺の為』に命を掛けようってか」


「は、はは、やだなあリナルドさん、昨日自分で言ってたじゃないですか。教会騎士は教会の為、教皇に忠誠を捧げるんですよね?」


「教皇の物は俺の物、俺が教会だ! あんなジジイは飾りに過ぎねえ」


 なにその耳が腐るような発言、完全にこの人キリスト教とかカトリックとか超越してるよね? 単なるジャイアニズムの信奉者だよね?

 

「しかしダメだ! てめえはカトリックじゃねえからな。緋の衣の偉さがわからねえ奴に教会騎士は務まらねえよ」


「今すぐ入信します! ほら、僕のいたところって無宗教の人多かったから、入信しても何ら問題ありませんよ!」


「ほほう、殊勝だな。なら特別に俺が、洗礼を施してやろう」


 そう言うと彼は、俺の襟元から手を放し、代わりにその大きな右手で俺の額を掴んで持ち上げた。


「あがががが、痛い、痛いですって!」


「痛くなきゃ覚えねえ。いいか、俺の言うとおりに復唱しろ。いいか、天にまします我らが父よ」


「て、天にまします我らが……」


 そのあとも洗礼の儀式は続き、俺はアイアンクローをかけられたまま誓いの言葉を言わされた。軋む頭蓋骨の音が聞こえ、もはや何を言わされているのかすらわからない。最後にテーブルに置いてあった水挿しの水を頭から被せられ、洗礼の儀式が終わる。


「終わったなら放してください!」


「まだだ、最後の大事な部分が残ってる」


 そう言うと枢機卿はその拳を握り締め、俺の腹に強烈な一撃を見舞った。顔を掴んだ手が視界を塞ぎ、その表情は確認できなかったが、歪められた口元は明らかに笑う形をしていた。腹にズシンと重いものがぶつかり、俺の意識はそのまま断ち切れた。


 目を覚ますとそこには既に緋の衣をまとったリナルド枢機卿。どこかにスイッチでもあるかのように満面に天使のような笑みを浮かべている。何回見直しても先ほどの暗黒面に堕ちた人間と同一人物とは思えない。


「さて、それじゃあ行きましょうか」


「行くってどこへですか?」


「決まっているでしょう? 教皇猊下の下へですよ。貴方はそこで猊下に教会騎士として叙勲してもらわなければなりません」


 俺はいい返す言葉も無く、ただ黙って枢機卿の後に続く。枢機卿の口から俺が教会騎士となることが決まったと報告されると船の上はわっと喜びに満たされる。「我らが主、ジョルジオ様に神の祝福あれ!」「教会騎士ジョルジオ様!」など声があがる。


『知らないというのは幸せなことですね』


『ああ、そうだな』


 シルヴァーノの絞り出すような声に思わず肯定してしまう。


『ほう、そりゃあご機嫌だ。で、どう幸せなんだ?』


 俺たちの念話に雑音が紛れ込む。見れば枢機卿は笑顔のままこちらを振り返っていた。


『『いえ、なんでもありません』』


 雑音が紛れていたのは距離があるからだろうか? 常にそばにいるシルヴァーノとしか念話をしたことがないのでわからない。万一、距離に関係なく話ができるとすれば俺たちは24時間ヤツの監視を受けることに他ならない。そんな恐ろしい事があっちゃならない。俺は枢機卿との距離を開け、30mぐらい離れた事を確認すると、念話で彼に呼びかけてみた。


『あの、リナルドさん?』


 返事はない。どうやらこのくらい離れれば聞こえないらしい。俺はふうっと大きく安堵のため息をついた。


『な・・・を・・・ている? ・・・く・・・ろ!』


 念話で聞こえる枢機卿の怒鳴り声は雑音に阻まれよく聞こえない。よし!っと小さくガッツポーズを決め、俺は自分の推測が正しかったことに歓喜した。とは言えこれ以上怒らせるのもまずいので足早に歩き、距離を詰めた。


 港を出ると、聖職者たちと馬車に乗せられ、ゴトゴトと揺られること10分ほど。広場についてそこで降ろされる。

 広場の脇には元首が暮らすと言う宮殿と教皇が滞在しているサン・ロレンツォ大聖堂がある。この大聖堂は黒白の横縞模様で息を呑むほどに美しい。こんな中で暮らす教皇であればきっとダークサイドに落ちていないに違いない。僅かな期待を胸に枢機卿のあとに続く。途中すれ違う聖職者たちは正体を知らないのかリナルド枢機卿を見るとにこやかに微笑んで道を譲った。


 初めて対面する教皇、インノケンティウス4世猊下は初老の逞しい体を持つお方だ。まだまだ老人とは言えないこの教皇を飾りと言い切るリナルド枢機卿は一体どんな感性の持ち主なのか。跪く俺のとなりでリナルド枢機卿が教皇に上申する。三重の冠を頭に載せた教皇はその言葉にただ頷く。杖を持った教皇が立ち上がり、俺の目の前でその杖を肩に当てた。ここからでは聞きとれないような小さな声で何やら宣誓する。俺はリナルド枢機卿に脇腹を蹴られ、頭を下げた。


「これで貴方は立派な教皇の騎士。あとの細かい事は私の方から申し述べましょう。それでよろしいですね? 猊下」


 教皇は静かに頷いた。そのあとリナルド枢機卿は私室に俺を連れ込んで、人払いをすると緋の衣を脱ぎ捨てた。そして自分だけ座り心地の良さそうな椅子に腰掛けるとおもむろに机の上の数枚の羊皮紙を投げてよこした。


『一枚目はてめえの新しい紋章の図案だ』


 人に聞かれると困るからなのか、枢機卿は念話で話しかけてくる。その羊皮紙を開いて見ると、赤地の盾に、白でマセラティの元々の紋章である鷲だか鷹だかの後ろに交差した鍵が描かれている。


『あのぉ、この鍵ってどんな意味があるんですか?』


『おい、シルヴァーノ、てめえこのうすら馬鹿どっから拾ってきやがった! 教皇の紋章すら知らねーとかおかしいだろ』


『え、えっとそのですね、彼は8百年後の東洋の島国から連れてきたんですよ。そう言った常識がないところは目をつぶってくれませんか?』


『8百年? しかも東洋だぁ? てめえなんでそんなめんどくせー事しやがった!』


『だって仕方ないじゃないですか! 彼しか僕を認識出来る人がいなかったんですから!』


『まあ、済んだ事をグチグチ言っても仕方ねぇか。で、どうなんだ?』


『何がですか?』


『決まってんだろ? その8百年先にはカトリックの教えは広まってんのか?』


『え、ええ、まあ。東洋の端っこにある彼の国でも信者は多いらしいですよ。それに立派な聖堂もあります』


『そうか、それならいい。俺たちの子孫はそんな遠いところまで神の教えを広めることができたんだな』


 やや感慨深げに枢機卿は中空を見つめた。


『まあいい、よく聞けジョルジオ。これは元々のマセラティの鷲にありがたくも教皇の紋章である鍵を重ねている。誰もがこの紋章をみればお前が教会の騎士であることを認識する。いいな、この紋章を掲げる以上絶対に舐められんなよ? お前に対する文句は教会への文句だ。そう思え! これよりお前はこの俺と教皇以外に頭を下げることを禁止する。いいな!』


『そりゃあ頭を下げる相手が少ないのは助かりますが、それで通用するもんなんですか?』


『通用させんだよ! いいな、この俺の命令だ。例え王であれ皇帝であれ頭を下げるな。わかったな』


『わ、わかりました』


『二枚目はお前の船に対する港湾使用料の免除を唄った教書だ。それを示せばお前の船に港湾使用料を求める馬鹿はいねえさ』


『そりゃあ助かります』


『但し、利益の十分の一は教会に収めろ。キリスト教徒はその収入の十分の一を教会に収めなけりゃならねえ。これは決まりだ』


 え? 俺が払うの? おかしいよねこれって。就職したら給料をもらえないどころか、逆に金を払えと言われるようなもんだ。まあ落ち着け、俺。羊皮紙はあと一枚残っている。あれが俺への報酬に違いない。


『最後の一枚はお楽しみのお前への報酬だ。ローマの元老院議員に推挙しておいてやったぞ。これでお前も晴れてローマを牛耳る元老院の仲間入りだ』


『ちなみにその元老院っていくらぐらい給料もらえるんですか?』


『はは、嫌だなあ。ジョルジオ。ローマの元老院って言ったら紀元前から無報酬って決まってる。お前の時代じゃそんな歴史も教えてくれないのか? なあ、シルヴァーノ』


『ええ、これだから無学は困りますね。その程度の事、こちらでは初等教育で教わりますよ』


『ちょっと待て! ってことは何か? アンタ俺に無報酬で働けって言ってんの?』


『まあまあ、そう熱くなるな。教会にはな、お前に与えてやれるような土地など残ってないんだ。元々はトスカーナからラヴェンナにかけての中部イタリアは全て教皇の物だったんだがな、いまじゃ皇帝派の連中に乗っ取られちまってる。今の教会はな、世界中に課した10分の1税と僅かに残ったローマ周辺の地しか持っていないんだ』


『だからって無報酬はあんまりでしょ!』


『お前は本当に馬鹿だな。今俺が与えてやった権利とお前が持つ船があればいくらでも稼げるだろ? その紋章を帆いっぱいに描いた船に文句つけるやつはイスラムくらいしかいないんだ。港湾使用料もない、人頭税もない、そんなボロい交易ができるんだぞ? 利益の一割くらい納めたところでどうということもねえさ。疑うならお前の船の修道士に聞いてみればいい。きっと両手を上げて喜んでくれるぜ?』


『それに元老院議員もいいですね。ちなみに猊下、今の議員の数は何人ですか?』


『今はこいつを含めて4人だ。残りの3人を黙らせりゃヤリ放題だぞ』


 シルヴァーノと枢機卿はそれがもともとの顔であるかのような悪い顔をして笑いあった。


『ですよね。いいですかジョルジオ。元老院議員は言わば街の支配者。ローマ市民二万は貴方の領民と言っていいでしょう。例えば一人に年間1リラの税を課したらどうなります? それだけで2万リラですよ』


 1リラは確か4万円。かける市民の数が2万。とすると8千万、いや8億? すっげ! 元老院議員すっげ!


『わかったようだな。それだけ手に入れば文句はなかろう』


『はい! 文句なんかありません!』


『では船に戻って紋章を帆に描け。盾や持ち物にもな。それとその剣は置いていけ。今のお前には必要ないからな。俺が手の者を使って屋敷にいる家令のロバートに届けさせる。主人の形見一つもないのではあいつも辛かろう』


『はい、義父アレッシオにもロバートにはくれぐれも宜しくと頼まれました』


『事が落ち着いてローマに戻ったらお前も顔を出してやれ。ほれ、代わりの剣だ。これを使うといい。今やお洒落な貴族の間で大人気のカウンターポイントだ。中でもこの型、12Aはシリーズ中でも人気が高い』


 代わりに与えられた剣は素人の俺にも解る高級品だ。柄と鞘には十字架の意匠が刻まれ、抜いてみると刃にも細やかな装飾が刻まれている。いざという時は両手で使えるように柄も長めだ。リナルド枢機卿はダークサイドに間違いなく堕ちているけれど、聖職者らしい細やかな気遣いも出来る。だからこそ尚更たちが悪いのだとも言えるが。


 しかしこの時代の剣にもブランドがあるとはね。カウンターなんとかってのは日本で言う五郎正宗とか小竜景光とかそういう感じなのだろうか。


『おっと忘れるとこだった』


 そう言いながら枢機卿が投げてよこしたのはベルトのついた勲章のような物だ。


『コイツは聖シルベストロ教皇騎士団勲章。お前の身分証だ。コイツを首から下げておくことでお前は教皇の犬ですよと世間に訴えることができる優れもんさ。ま、実際は俺の犬なんだがな』


 うわぁ、うれしくねー。もう少し言い方考えようよ。


『で、その教皇騎士団ってのは他に何人ぐらいいるんですか?』


『お前一人だ。他にもいることはいるが役にはたたん。なんせ寄付金集めの領収書がわりに配っていた時期もあるからな。とにかくお前はこれで栄誉ある教皇騎士団の首席騎士となる。そこらの騎士なんぞとは身分が違うんだ身分が』


 よくわからないが水戸黄門の印籠のようなものだと勝手に理解し、ありがたく受け取っておく。ちなみに服やマントにもこの勲章の図柄を刺繍する必要があるらしい。新しい紋章にこの勲章。持ち物や船に描くだけでとんでもない出費になりそうだ。


 俺は明日から毎日ここに出頭することを要求される。なあに馬で走ればあっという間だからと笑う枢機卿に、馬に乗れない事を告白すると烈火の如く怒られた。


『おい、シルヴァーノ。俺も大概いい年だが生まれてこの方、馬に乗れねえ騎士ってのを見たのは初めてだ。おめえ一体どんな教育してきやがった?』


『いや、その、ほら、ずっと船で旅してたもので、機会に恵まれなかったというか』


『なら剣は使えるんだな?』


『ええ、そのへんは僕が手取り足取り教えましたから。実際、イスラムの海賊とも戦ってますし』


『ほう、実戦経験ありか。ならばあとは馬だな。ジョルジオ、一週間やろう。その間に馬に乗れるようになっておけ。いいな?』


『わかりました!』


 枢機卿はそう言うと教会の職員を呼んで、俺に馬格のいい黒い馬をくれた。この馬を一週間で乗りこなす。無理とか無茶とかいう言い訳ははこの人には通用しない。やるしかないんだ。シルヴァーノによれば、この綺麗な馬は牝馬で、牡に比べて従順で扱いやすいと言う。

 そう言うところまで気が回る枢機卿にやや感心しながらその日は教会の下男に馬を引かせ、俺はただ乗っているだけの状態で船まで戻った。

 船に戻ると迎えに出てきたヒュリアが馬を見るなり駆け寄ってくる。やや興奮した状態で、面倒は私が見るからと俺を馬から下ろして、教会の下男を帰らせると馬を連れて船に入っていった。この船は元々が軍船だけあって厩らしきものがあるのだ。現在は物入れになってしまっているが、そこを片付け、使っていないベッドのマット替わりの藁を敷き詰めて、鞍を外した馬を入れる。そのあと湯を沸かして馬を洗ったり、餌をやったりくるくると忙しくヒュリアは立ち動く。


 その光景を微笑ましく見ていたが、最近すっかり神経質になったロザリアとダリオに呼ばれ、船長室に連れて行かれる。


「で、どうだったんだい? まさかアンタ、教皇に向かって失礼なことでもしたんじゃないだろうね?」


 ロザリアはまるでダメな子を見るお母さんのような視線で俺を見る。隣では怖い顔したダリオが劣等生を見る教師のような視線を送ってきた。


「そんなことするわけないだろ? 全く、いい加減にしてくれよ。俺だってちゃんと常識位はわきまえてます」


「その常識が信用ならないから困っているのです」


「まずはこれを見てくれ。口で話すよりそのほうが理解が早い」


 まずは紋章の描かれた羊皮紙を広げ、テーブルに広げる。2人はポカーンと口を開けたまま一言も話さない。


「これが新しい俺の紋章だ。この船の帆いっぱいにこれを描く。それとは別に旗もいるな」


「こ、この紋章が貴方の?」


「ええ、枢機卿が直接俺に渡してくれたものですよ。この紋章をつけた船に絡む馬鹿はいないだろうってね」


「そりゃあ確かに。イスラムは別として、キリスト教徒でこの鍵のついた紋章がなんだかわからない奴はいないからね。ロクに聖書も読んでないアタシだってわかるんだ。どんな馬鹿でもわかるはずさ」


 なるほど、わからなかった俺はどんな馬鹿にも含まれない大馬鹿ってことか。


「早速そのように手配しましょう。今頼んでいる武具も全てこの紋章を入れさせます」


 ダリオが興奮してそう言ったので、俺はついでに自分の盾も塗り直してもらうよう頼んだ。


「さて、次はコイツだ」


 2人の興奮が収まった頃に2枚目を開く。教皇の教書だ。


「こ、これは!」


 まるで旨いものを食った時の料理漫画の審査員並みのリアクションで二人は驚く。その事は港湾使用料の免除という特権がどれだけ大きな物かを示していた。


「だけどその代わり教会に利益の10分の1を納めなきゃならないんだ」


「当然です。10分の1税はどこの街にも課せられるキリスト教徒の義務ですからな」


「それにこれだけの特権を頂けたんだ。教会税ぐらい払わないとバチが当たるよ」


 二人共なんの異議もなくあっさり受け入れる。心の中で散々ごねていた俺とは大違いだ。


「で、最後がこれだ。俺は教皇に仕える騎士となる代わりに、ローマの元老院議員に推挙された」


「な、なんと! 元老院議員ですと!」


 今にも頭から噴火しそうな勢いでダリオが叫ぶ。ロザリアは口に手をやったまま固まっているし、リアクションが大きいのはいいけどちょっとやりすぎじゃない?


 最後に止めとばかりに聖シルベストロ教皇騎士団勲章をテーブルに置く。


「俺はどうやら教皇騎士団とやらの首席騎士になったらしい。なんでもこの勲章がその証だとか」


 もはやダリオですら声もでない。ただ目を大きく見開いて、勲章を見つめるばかりだ。しばらくすると何を思ったのか二人が席を立ち、テーブルを回って反対側に座る俺の前に跪く。


「ジョルジオ殿、いや教皇騎士ジョルジオ卿。貴方はいまや立派な勲爵士。これまでのように親しげにさせていただく訳には参りません。修道士ダリオ、ここに改めて教会とその騎士たる貴方に忠節を尽くすことを誓います」


「同じくロザリア、改めて忠誠をお誓いいたします。ジョルジオ卿」


「ちょっとちょっと、やめてくれないそういうの? 今までどおりでいいじゃん。何の問題がある訳?」


 二人はため息をついて「やっぱりな」と言う顔をする。


「よろしいですか、ジョルジオ卿。貴方は今や教皇の剣。そのあたりの貴族は元より、伯や公を名乗る大貴族、果ては王であっても貴方にその意を曲げさせることはできません。貴方は今後教皇猊下、それに政務を代行されている首席枢機卿の意のみを汲み、行動せねばなりません。そのためにはお仕えする我らが襟を正さなくてどうしますか」


「そうですともジョルジオ卿。貴方には既に私とこの船を救っていただいた恩があります。今後は我らが貴方の臣下として恥ずかしく無いよう努めねばなりません。貴方はもはや一介の騎士ではないのです。今までのように気軽に話すというわけには」


「え? だって、ロザリアって俺と結婚するとか言ってなかった? それなのに気軽に話せないとかおかしくね?」


「一介の騎士であればそうして頂くことも可能であったでしょう。しかし、今の貴方は諸侯と肩を並べる存在。いくらなんでも身分が違いすぎます。先にしていただいた約束は反故になされますよう」


 ロザリアは涙ぐみながらそう言った。あれ?おかしいよね、なにこれ就職決まったらフラれた感じ? それだけ言うとロザリアは俺と目を合わせる事もなく自室に引きこもった。ダリオも恭しく礼をすると忙しそうに部屋を出ていく。ひとり残された俺はただやるせなく、フラフラと自分の部屋に戻っていった。


「よお、どうした。元気ねーじゃねーか大将。あの枢機卿に嫌がらせでもされたのか?」


 トルコ語で話しかけてくるシェラール。シルヴァーノとの念話すら気軽にできなくなった今となっては彼とヒュリアだけが本音で話せる相手なのかもしれない。俺は今日の出来事を端的に語り、ロザリアたちがよそよそしくなってしまったのが辛い。と正直に打ち明けた。


「まあ、ダリオのおっさんは元々神に仕える聖職者だ。神の代理人たる教皇の騎士とあっちゃ、恭しくなるのも当然だな」


「ああ、それは俺もわかる。でもロザリアはそうじゃないだろ?」


「姉御は元々義理堅くて融通が利かねえ。それに自分らが海賊だったっていう負い目を人一倍感じてるからな。その前歴が今の姉御を苦しめているのさ。偉くなったアンタに引け目を感じているといってもいい。だからこそ身を引いたんだ。そばにいると己の卑賤さが浮き彫りにされるようで辛いんだろ、きっと」


「そんなことはないだろ? 俺だって大した生まれじゃないし、今だって身分だなんだと言えるほど偉くなったとは思っちゃいないさ」


「アンタが俺たちに出会う前にどこで暮らしてどんな生活をしていたのかは知らねえ。ただ、アンタは俺たちに嘘をついている。

 アンタは十字軍でできた新興貴族の生まれじゃないし、下手したらこの世界の生まれですらない。どこか遠い国か、別の世界があるならそこの住人だ。ちがうかい?」


「――どうしてそう思うんだ?シェラール」


「大将、アンタは絶対的に俺たちと価値観が違うんだよ。俺たちみたいな奴らにも絶対に威張らないし、戦いで死人が出れば涙を流す。

 それに貿易で儲けた金だってアンタには関係のないこの船の連中の家族にまで分け与えちまう。そんなヤツは世界中探したってアンタくらいなモンだ。いいか、この世界じゃ王であれ奴隷であれ、明日を生きるため必死なんだ。その為には他人事なんかにゃ構ってられねえ。人を蹴落としてでも自分が上に上がらなきゃ生きてはいけねー。それなのにアンタときたら、まるで寿命まで生きるのが当たり前のような面をしてのんびり構えてやがる。だからアンタは少なくとも欲にまみれた十字軍の関係者じゃねえんだ」


「……」


「まあ、俺ですら気づいた事が、あの食わせもんの枢機卿に気づかねえはずもねえ。あの男がアンタの嘘を見抜いて黙ってるのか、それとも俺たちには口にできねえ何かがあるのかは知らねーが、少なくとも俺達が知るべきことではないんだろうさ。なにしろそれを承知の上でアンタに教皇の騎士だなんていう肩書きと、様々な特権まで与えてんだ。アンタと枢機卿の間じゃ折り合いのついてる事なんだろうからな」


「なあ、シェラール」


「おっとそこまでだ。世の中には知らねえ方が幸せなこともある。今回の件はまさにそれだ。ま、どっちにしろ俺はアンタに命を救われた恩がある。流石にみんなの前じゃ畏まってねぇとまずいだろうが、こういう時は今まで通り。それがアンタの望みだろ?」


「ああ、そうしてくれると助かる。悪いな、気を使わせて」


「なあに、お安い御用さ」


「そういや俺、一週間で馬に乗れるようにならなきゃいけないんだ。お前、確か馬乗れたよな? 明日から教えてくれよ」


「一週間? おいおい冗談きついぜ、一週間で馬を御せるようになるなら誰も騎士なんて崇めねえよ。無理だ。それよりなにより肝心の馬がいねえ」


「無理とかなんとか言ってられねえんだよ! 何しろあの、枢機卿直々の命令だ。馬は今日、もらってきた」


「――アンタも苦労が絶えねえな。まあいいさ、できるだけのことは教える。だけど乗りこなせるようになるかどうかはアンタ次第だ。ちなみに馬の世話はどうすんだ?」


「それはヒュリアがやってくれてる」


「そうか。アイツは小さい頃から馬が好きだからな。任せておけば安心だ。んじゃ明日は朝から馬の稽古と行こうかね」


「いや、枢機卿の所に顔を出さなきゃ行けない。お前もついてきてくれ」


「うわ、最悪だなそりゃ。できればあの男の面は二度と拝みたくねーんだが、大将の為とあれば仕方ねーな。それじゃあその分早起きして稽古するから今夜は早めに寝てくれ。俺もそうする」


 いろいろとおかしいよね。俺はこっちに来た目的であるシルヴァーノの仇も取った。元のところに帰れない、と言うのであればせめて穏やかな生活を。そう思っていたのに、なぜか教会騎士とやらに任じられ、あの、リナルドの側仕え。しかも皇帝にも王にも頭を下げるな? 小市民である俺が? 無理無理無理! 神は俺に試練を与えすぎ。そう思いませんか?

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