第9話 Revenge 復讐

 情報なんてものは手に入るときにはあっけないほど簡単に得ることができる。ダリオがコンティ伯の所在を掴んだのは翌日の事だった。

 しかもコンティ伯本人だけではなく、その領地であるアナーニの司教、それに今年枢機卿首席となった一族の、リナルド・ディ・イェンネ枢機卿までいるという。まずは訪問を知らせる手紙をダリオに持たせ使いとし、その返事を待って訪問することにした。使いと言っても同じ街にいるのだ。あっという間にダリオは戻ってくる。


「是非お会いしたいとの事でした。さらには枢機卿猊下からねぎらいのお言葉までいただき、私は聖職者としてこれほど喜ばしい事はありませんでしたぞ」


 まるで子供のように喜ぶダリオ。普段冷静な彼がこれほどまでに狂喜するのだから、枢機卿というのは大した物なんだろう。現代で言えば皇族に直接お声をかけられるような物なのかもしれない。


 俺は失礼の無いよう、新しく買った服に袖を通す。随伴するのはシェラール。なぜなら他の連中はまともな服自体、何一つ持っていなかったからだ。それにシェラールであれば聖地で改宗した人間として、枢機卿に十字軍の成果を訴えられるだろう。そういう事ならと、ヒュリアも同行することになる。まあ、兄妹だし、別にいいかとも思い、二人を従えて船を出る。


「なあ、ヒュリア、帽子曲がってないか? 靴はこれでおかしくないよな? 」


「ええ、大丈夫ですよ」


 俺はしきりに自分の姿がみすぼらしくないか確認する。ドゥブロヴニクであのオヤジが声をかけてくれなければ洋服なんか買う気にもならなかっただろう。そう言う意味ではあのオヤジに感謝する。またあの港に立ち寄ることがあれば服を買い求めてやろう。


 コンティ伯の一行は街中の喧騒を避けた、静かな通りに面した屋敷を借り受けて暮らしているという。ほどなく見えてきた大きな屋敷、あそこがそうだ。俺は玄関口で応対に出た執事らしき男に名を名乗り、要件を告げる。しばらくその場で待たされたあと、奥の広間に案内され、席を勧められた。この屋敷の調度品は豪華なもので、こうして座っている椅子ですらとても高価そうだ。俺の後ろにはシェラールとヒュリアが立っている。


 しばらくして聖職者らしき老人を先頭に、太った男が現れる。その後ろには緋色の衣装を纏った大柄な男が続いた。俺はこういう時の作法がわからないので取り敢えず席を立ち、軽く一礼して出迎える。


「まあ、楽にしてください。あのカルメル会の修道士から話は聞いています。貴方があのアレッシオに後を託されたと言うジョルジオですね? 」


 予想外にも最初に口を開いたのは緋色の衣装を纏った大柄な男だった。彼は端整な顔に慈愛に満ちた笑みを浮かべており、見ただけでも只者ではないことがわかる。その体は不自然といってもいいほど逞しく、聖職者のソレではなく、完全に熟練の戦士の体をしていた。それに身につけているのは緋色の衣。恐らく彼が枢機卿なのだろう。


 俺はただ、はい。と答えるのだけで精一杯だった。なんというか圧迫される威厳がある。その彼の勧めで再び腰を下ろす。小さなテーブルをはさんで向こうには3人のお偉方。まるで企業の面接だ。「貴方が私の会社に入って役に立てる事はなんですか?」などと今流行りの圧迫面接だったらどうしよう。本物の貴族を初めて目の前にして、俺は自分の矮小さを認識させられる。


「これが義父より託されました剣と指輪です」


 とにかく話を早く済まそうと、俺は慌ただしく本題を切り出す。


「なるほど、確かに。しかしその前に我らも自己紹介せねばなりますまい? そうですね、従兄上?」


 話を振られた太った男はめんどくさそうに名乗る。


「わしがコンティ伯である」


 それだけだった。次いでその隣の老人が立ち上がる。


「儂はローマ、アナーニの司教を務めるブランと言う。アレッシオに洗礼を施したのはもう随分昔になるの。そうか、あやつも聖地で神に召されおったか」


 やや不遜な物言いだが、悪い人ではないのだろう。俺が差し出した指輪を手に取り、懐かしそうに眺めている。その時に召使いが飲み物を運んできたので話しはそこで一旦止まった。


「で、後ろにおられるのは貴方の従者ですか? よければ紹介して下さい。あ、そうそう、私の紹介がまだでしたね。私はリナルド、リナルド・ディ・イェンネと言いまして、今年から枢機卿の首席を務めております」


 再び口を開いたのはやはり緋色の男、リナルドだった。俺は一応頭を下げておき、その後、後ろの二人を振り返る。


「彼らはエルサレム陥落の折り、縁あって私の従者となったシェラールとヒュリアです。トルコ人ですがイスラムの教えを捨て今は修道士ダリオの指導の下、敬虔なカトリック信者になっています。聖地にはこうしてカトリックに改宗した民が溢れています。また、アッコンにいる騎士団もその務めを良く果たし、現地の民からも尊敬をうけています」


 船を出る前にダリオに習った口上を申し述べる。なるほど、効果はあるようだ。厳しい顔の司教もやや表情を和らげている。


「なるほど、よくできた口上じゃな。しかしジョルジオとやら、そなたはアレッシオに後を託されたと言うが、それを証明できるものはいるか? 剣や指輪は確かにあ奴のものじゃが、戦死した死体から剥ぎ取って来たと言う事も十分に考えられるしのう。いやはや昨今はそんな輩ばかりで困る」


 司教は猜疑心を隠そうともせず、あからさまな疑いの目を向ける。


「それにアレッシオの奴はろくに私の言いつけにも従わぬ不調法者。死んだとあれば喜ばしいが、その後継など、なぜわしが認めねばならん? 嫡子であるなら止む終えぬが素上すら知れぬお前など、そこらの野良犬となんら変わらぬではないか。まあ、本人の意向とあれば家名の存続は認めても良いが、我が騎士にお前はいらん。そういう事だ」


 太ったコンティ伯はそれだけ言うとこちらを振り返る事すらせずに部屋を出ていった。枢機卿もそれに続いた。なるほど、こう言う物か貴族社会というものは。手続きもヘチマもない。要はただ気にいるかどうかですべてが決まる。


「で、あればお主は伯の騎士を語る不逞の者。出会え! この不逞の輩を牢に入れておけ! 従者とやら、主の身が欲しければそれなりの身代金を持ってくるがいい。そうじゃな、仮にもこやつは騎士身分、ならば1000リラも用意すれば開放してやらんでもないぞ」


 俺の身は取り押さえられ、後ろ手に縛られる。ヒュリアもシェラールも手出しできないよう抜剣した衛兵に囲まれていた。俺は顔を司教の足で踏まれ、つばまでかけられる。そして支払いを要求する司教の話を断ち切り叫んだ。


「ダメだ! シェラール、ヒュリア、あの金は俺だけのものじゃない。絶対にダメだ! クソ! お前ら離せよ! 離せっていってんだゴラァ!」


「黙れ罪人!」


 衛兵に棒で叩かれ気絶する。気がつくと薄暗い、苔の生えた牢の中だった。殴られた後頭部がズキズキと痛む。あれからどれくらい経ったのだろう。わずかに灯るロウソクの明かりしかないこの牢の中では時間すらわからない。とにかく状況は最悪だ。義父の遺言でまさかこんなハメに陥ろうとは。


『あはは、最悪なんてもんじゃないですよ。このままだと貴方は間違いなくこの場で野垂れ死にます。よく見てください、この現状を。ネズミや虫たちが貴方が死ぬのを舌なめずりして待ってますよ』


『お前、最低だな。この状況で言っちゃいけないよね、そういう事って』


『まあ、でもいいこともありました。思い出したんですよ、仇が誰かを』


『ほう、ここから仇討ちのできる可能性は0だが取り敢えず聞くだけ聞いておこうか』


『あの司教です。最も僕が知っている頃はまだ司祭でしたが。あの男が僕の継承権を認めず、そのおかげで領主になるはずだった僕が一介の騎士として遠くエルサレムまで赴くことになったんですから。僕の母方の叔父が大金を奴に握らせて、僕を破滅に追い込んだんです。最も叔父はその後病ですぐなくなりましたが、あの司祭だけはのうのうと生き残っていたんですよ』


『それっていつの話だ?』


『前回の十字軍の話です。僕の家があったヴェローナは昔から皇帝派が強く、我が家も例外では有りませんでした。破門されているとは言え、皇帝自らが起こした十字軍。皇帝派のヴェローナの諸侯も勿論、新たな権益を求めて集います。どの家も当主自らが集う中、僕の家だけはそうはいきませんでした。

 当主である僕の兄は病弱で、とてもじゃないが異国の地で戦争などできる状況ではありません。成人した男子は他に、僕と叔父しかいなかったんです。兄に何かあった場合の後継である僕が残り、叔父が代理となるべきところ、彼は拒否したのです。仕方なく遠征の準備をしている時に兄が亡くなりました。そこに現れたのが当時、ヴェローナの教区で司祭を勤めていたあの男、ブランです。

 あの男は叔父と手を組み、あろうことか僕の相続は教会として認めない、と通告してきたんですよ。僕は勿論各方面に運動しましたよ。しかし、その結果が出るよりも早く、十字軍の招集期限が来てしまったのです』


『で、どうなったんだ?』


『後継問題も重要ですが皇帝の顔を潰すわけにはいかない。仕方なく僕は僅かな手勢を引き連れて参集したんです。当然後継問題は彼らのいいようにされ、すでに叔父が正式な後継者となった旨、通達がありました。叔父はその後すぐに亡くなり、後継には僕の幼なかった弟が迎えられました。ですので叔父はもういいんです。だがあの司祭だけは、今は司教でしたね、彼だけは許せません。8百年が過ぎた今でも彼を憎む心だけはあの日のままなんですよ!』


『そんなこと言ってお前、さっきまで忘れてたじゃん。ほんとはもうどうでもいいとか思ってない?』


『思ってませんよ! 本当に貴方は失礼ですね。まあいいです、彼を殺してください。それが僕の願いですから。いいですね、必ずですよ?』


『そんなこと言ったってこの状況でどうにか出来る訳ねーじゃん。霊力とかでどうにかならないの?』


『出来るわけないでしょ、バーカ!』


 それだけ言うとシルヴァーノは姿を消した。アイツなんか怒りっぽいな、きっとカルシウムとかが足りてないのだろう。それにしても困った。ここには見張り番すら置かれていない。両手には木でできた手枷が嵌められているし、鉄格子が嵌った扉は叩いたくらいじゃビクともしない。それよりなにより腹が減ってきた。


「すいませーん、だれかいませんかー? 腹減ってどうしようもないんですけどー!」


 取り敢えず大声で誰か来ないか呼んでみた。案の定返事すらなく、完全に放置された状態だ。まずい、まずいですよ。あいつら俺を本気で野垂れ死にさせるつもりらしい。こうなれば持久戦だ。動かず叫ばずひたすらじっとして一秒でも長く生きてやる。


 ――はっ、どうやらじっとしてたら寝てしまったようだ。相変わらず変化はない。今がいつなのかもわからない。聞こえてくるのはカサカサと虫が動く音とねずみの鳴き声だけだ。だんだん腹が立ってくる。なんで俺がこんな目にあわなきゃいけないんだ。俺が何かお前らにしたのか? それをいきなり投獄とかありえないんですけど。俺は立ち上がり、鉄の格子を手枷でガンガン叩きながら苦情を言った。


「おい、コラ! コンティの豚野郎! 聞こえてんならブヒブヒ鳴いてみやがれ! ジジイ、てめーもだ! テメーみたいなろくでなしにお祈りされちゃ神様だって迷惑なんだよ! それから赤服! 人の良さそうな顔しやがって、なにが首席枢機卿だ! テメーみたいなゴキブリ野郎には赤じゃなくて黒い衣がお似合いだぜ! 聞いてんのか、腐れ野郎ども!」


 思いつく限りの悪口を言ってみた。多分日本なら彼らは総理とか大臣クラスの大物だろう。こんなことを大声で言った日には次の日から警察だの公安だのから危険人物扱いされそうだ。でも俺は絶対奴らを許さない。そう心に固く誓った時、コツコツと足音が響いた。けっ、悪口には反応すんのかよ。


 登場したのは二人の配下を連れた緋の衣の枢機卿、確かリナルドとか言う男だ。


「やれやれ、こんな状況でもその元気ですか。中々見上げたものですね」


「何しにきやがった、話があるなら飯を食わせろ。そしたら聞くだけは聞いてやる」


「ええ、そう言うと思って準備してきましたよ。さ、こちらに」


 枢機卿は鉄の扉を開け、俺の手枷も外してくれた。その上で階上の明るい部屋に通される。どうやらあそこは地下牢だったらしい。


「さあどうぞ、遠慮なく。安心してください、毒など入っていませんから」


 そう言って自ら一口スープをすする。毒が入っていようがなかろうがどうでもいい。解放されない以上どうせ死ぬのだ。テーブルにはスープと白パン、それに新鮮な生野菜が盛られている。


「今日は水曜で小斎の日。肉などは出せませんが好きなだけ召し上がってください」


 言われるまでもない。俺はずっと何も食ってないんだ。遠慮なんかしたくてもできねーよ。そう心で呟きつつ一心不乱に飯を食う。食い終わって食後に冷たい果実水が供されたのでそれも一息に飲んだ。


「で、話ってのはなんだ? 言っておくが金なら払わねえからな」


「ええ、金ならいりませんよ。貴方を投獄した件に関しては完全にこちらが悪いのですから」


「だったら謝れよ。悪いことしたら謝る、そう習わなかったのか? 」


「ええ、心から謝罪します」


 そう言って笑顔のまま頭を下げる。ちっ食えない野郎だ。


「で、話ってのはなんだ」


「ええ、まずはあれを見てください」


 そう言って窓辺に俺を招く枢機卿。鎧戸を薄く開けるとそこには屋敷を取り囲む暴徒の群れ。いや、先頭に立っているのは赤髪の女、ロザリアだ。となるとあれは船の奴らか。フェデリーゴがデカイ身体を震わせ、何事か叫んでいるのが見える。あっちではシェラールが、あそこにいるのはフリオか。まったくあいつら、無茶ばかりしやがって。


「まあ、こういうわけで、こちらとしては和解を申し入れたいのですが」


「なるほど、で、その条件は?」


「コンティ伯は正式に貴方に謝罪を申し入れてますし、マセラティの家名とその財産を引き継ぐ事も認めています。最初に貴方が申し出たとおり、騎士として伯に仕えて欲しいと」


「あの豚は馬鹿なのか? これだけやっておいて忠誠なんか誓えるはずねーだろ」


「まあ、そうでしょうね。では貴方の条件を聞かせてくれますか? 」


「まずあの司教は死刑だ。アイツはあろうことか俺に身代金まで要求しやがったからな。聖職者の死罪って火炙りか?」


「わかりました、それは受け入れましょう。司教のブランは異端と言う事にして火炙りですね。他には?」


「あの豚野郎は殴ってやらなきゃ気がすまない」


「ええ、それもいいでしょう」


「それと義父アレッシオがあいつの領内に持っていた財産は全ては豚が全て買い上げろ。あの面は今後二度と見たくもない」


「なるほどなるほど。それもいいでしょう。他には?」


「そうだな、俺をはじめとして表にいる奴らも一切罪に問わない。アンタならできるんだろ?」


「ええ。他にありますか?」


「そのくらいだな。それ以上を求める気はねーよ」


「ならば私からも一つよろしいですか?」


「なんだ?」


「貴方がコンティ伯の麾下を離れるのであれば、どうですこの際、新たな主君を見つけては?」


「まさかアンタに仕えろとか言うんじゃねーだろうな? 」


「まさか、私に貴方達を抱え込む財力はありませんよ。いくら枢機卿と言ってもね。貴方に勧めているのは教皇猊下、いや、教会そのものと言っていいでしょう。教会騎士として私達に力を貸してはくれませんか?」


「なるほど。それがいい話なのかどうかは俺じゃわからん。皆と話し合ってからの回答になるがいいか?」


「ええ、構いませんよ」


「それと仮にその教会騎士とやらになったとしてもアンタには頭を下げる気はねぇ。それだけは覚えておくんだな」


「ええ、これだけの事をしたのですから仕方ありません」


「なら俺を皆と会わせてくれ。残りの話はあとだ」


「どちらに伺えばお会いできますか?」


「港に停泊しているアクアマリン号ってでかい船だ。俺はそこにいる」


「わかりました。とりあえずは明日、私の方から伺いましょう」


「あ、忘れるとこだった。約束通り豚野郎を殴らせてくれ」


「ええ、こちらでお待ちですよ」


 豚伯爵は椅子にくくりつけられ既に相当手ひどく痛めつけられていた。殴られたのだろう、ほほと両目は腫れ上がり、もはや本物の豚のようだ。カタカタ震える伯爵に枢機卿が何事かを囁くと、ヒイ!と一声あげて伯爵は気絶した。


「なにこれ、アンタがやったの?」


「ええ、領地の相続を認めないのは主君である伯爵の自由ですが、投獄までしているとは思わなかったのでね。外を囲まれて初めて白状したものですからつい」


 つい。で半殺しかよ。コイツのことだから絶対笑ったまま殴ったに決まってる。よく見れば枢機卿の拳は、まるで空手家か何かのように殴りなれた形をしていた。この緋の衣の下には恐らく世紀末覇者のような肉体が隠されているのだろう。

 その事を認識したとき、俺はあまりにも無礼な自分の態度に戦慄した。それにこの状態の伯爵を殴ろうにも、もはや殴る余地さえ残されていないほどボコボコだった。


「それと、司教は昨夜食あたりで亡くなりました。本来なら葬儀なのですが、貴方の言い分に従い、遺骸は異端者として火炙りに処します。彼は記録上も異端者として汚名を後世に残すことになるでしょう。今夜街の広場で行いますので良ければ見に来てください」


 え? 司教死んじゃったの? 確かにジジイだったけれどもタイミングがよすぎないか?


「まあ、細かく調べれば毒か何かが検出されるんでしょうけどね、今回は食あたりと言うことで処理しますよ」


 コイツ、俺の仕業だと踏んでやがる。犯人はヒュリアか。そういやあの司教、彼女の前で俺を踏みつけてたっけ。


「お互い持ちつ持たれつって大事なことですよね。先ほどの教会騎士の話、前向きに考えてくださいね?」


 完全に脅迫ですよね。この期に及んでこう言う手で状況をひっくり返すとは。流石は枢機卿、人から猊下と崇められるだけの事はある。


 その後俺は、枢機卿の勧めで屋敷の風呂を借り、体を洗う。不衛生な地下牢に閉じ込められていたのだ。そのまま船に戻れば疫病を引き起こす可能性もあるらしい。そう言われては断れるはずもなく、下男に体を流してもらったあと、湯につかる。今日は水曜、ここに来たのが確か日曜だから俺は4日もあそこに閉じ込められていた事になる。だが体の衰えは感じないし、シルヴァーノと話して以降の記憶が全く無い。まさか4日も寝ていたわけではあるまいし。


『おい、シルヴァーノ、いるか?』


 下男が風呂から去ったあと俺は意識をシルヴァーノに向けた。


『なんです?今疲れてるんですけど』


『なあ、牢屋に4日もいたのに全然平気なのはお前の力のせいか?』


『ええ、そうですよ。貴方に死なれては困りますからね』


『そうか、ありがとな、助かったよ。あ、そう言えばさっきの話聞いただろ?』


『いえ、僕は消耗しすぎて意識を失ってましたから。何かありましたか?』


『あの司教、お前の仇の』


『ええ、彼がどうしました?』


『昨夜死んだらしいぞ。いや、恐らくヒュリアに殺された』


『え?』


『え?』


『いやだなあ、何言ってるんですか。あの男は僕自らの手で殺すんですよ。貴方の体を借りてね』


『だから死んじゃってるって。一応枢機卿に言って異端者として死体は火炙りにしてもらったが。今夜やるらしいから見に行くか?』


『行くに決まってるじゃないですか! でもそれ本当のことなんですか? あの枢機卿は食えない男です。騙されてるんじゃないですか?』


『多分本当だ。ヒュリアの仕事なら殺し損ねるはずはないし、あの枢機卿もそれを知りながら平然としてた。俺はあの枢機卿が正直怖い』


『それは同感ですね。まずは今夜、真偽を確かめるため現場に立会いましょう。話はそれからです』


『ああ、そうだな』


 シルヴァーノにしてみれば、鳶に油揚げを取られたに等しいだろう。若しくは決勝まで勝ち進んで決勝戦が不戦勝みたいな。

 

 8百年の長きに渡り、怨みだけを胸に存在し続け、まるで素人の現代人の俺を過去にタイムスリップさせてまで果たしたかった無念が、こういう形で晴らされたのだ。しっくりこないとかそういうレベルではないだろう。「え?」の言葉が震えていたのも頷ける。


 風呂から上がると替えの真新しい下着と服が用意されていた。タイツは赤と黒に片足づつ色分けされた流行りの物、上着は赤く染められ、袖口と裾に黒で刺繍が施された見るからに高価そうな物だ。元から付けていたベルトは綺麗に磨かれ、銀の細工に詰まっていた汚れは拭き取られていた。剣も指輪も返却され、上質な革の短いブーツまで用意されていた。元々着ていた服は、焼却処分されるのだという。

 まだ二回しか着ていないしもったいないと思ったが仕方がない。最後に赤い羽根で飾られたつばの広い帽子と短めの黒いマントを羽織らされ、玄関に案内される。そこには迎えに着ていたロザリアとヒュリア、それにシェラールとダリオまで居る。枢機卿が俺に深々と頭を下げて見送る姿に、これ以上文句は言えないなと思わざるをえない。全ては彼の手のひらの上の出来事なのかもしれないななどと、思ってしまう。

 涙を流しながら俺の腕を取る女性二人に引っ張られるように俺は屋敷を後にした。外では囲んでいた船のみんなが歓声を上げる。囲んでいた中には女たちの姿まであった。みんな思い思いの武器を手に取り、この屋敷を囲んでいたらしい。女たちなどは包丁や串を握りしめていたのだ。その健気さに涙が出そうになるのを必死にこらえながら、無理に笑顔を作って腕をあげて生還をアピールする。それに応えるように皆が声を上げ、全員で単調な節の船乗りの唄を歌いながら我が家であるアクアマリン号に向かった。


 船に着くとダリオやロザリアからの質問攻めだ。なぜこうなったのか、どうやって解放されたのか、そして今後どうなるのかなど、尋問と言って差し支えないほどの勢いで問い詰められる。俺があの屋敷で起こった事をそのまま話すと、ダリオは呆れ顔でこう言った。


「ジョルジオ殿。つまりはあの、首席枢機卿であられるリナルド猊下に謝罪させ、挙句の果てにはご自身の要求まで全て飲ませたと。そう言うわけですな?」


「えっと、結果的にはそうなるかな」


「全く貴方という人は。無謀にも程がありますぞ? リナルド猊下のお力をもってすれば我ら一同、今頃広場に仲良く磔にされていてもなんの不思議もなかったのですから」


「そりゃあ、確かに失礼な事言ったかもしれませんけどね、アンタらだってその猊下とやらが居られる屋敷を武装して囲んでんだ。無茶はお互い様ですよね? 」


「我らが囲んだのはあくまでコンティ伯。枢機卿猊下に逆らう気などありませんよ。それに司教猊下の処刑を求めるとか、あまりにも常軌を逸していると言わざるをえませんな」


「だってあのジジイ、とんでもなく悪いやつなんですよ?」


「良いとか悪いとかの問題ではないんです! 問題は枢機卿猊下にそれを要求し、飲ませた事なんですよ! これで我らはリナルド猊下に大きな借りができました。貴方を投獄したのはあくまでコンティ伯とそれに与する司教ブランです。しかし貴方に謝罪し、なおかつ貴方の要求を受け入れ、高位の聖職者を異端として処分までなされたのは誰です?」


「あの枢機卿です」


「それがどういう事かお分かりか? 貴方は自分に害を与えたわけでもないお方に謝罪と賠償を求め、相手はそれを受け入れた。しかもその相手は実質教皇庁のトップであるリナルド首席枢機卿。事情を知らない人間から見れば、コンティ伯の無法をいい事に、関わりのないリナルド猊下に貴方が文句をつけた、としか映らないでしょうね。

 しかもその猊下は誰もが敬う枢機卿。上は王から下は庶民まで皆、貴方こそが無法者であると認識するでしょう。そうなれば貴方だけでなくその配下の我らも生きる道はありません」


「えっと、それじゃ俺はどうすればいいんです?」


「少なくともこれ以上、猊下の心象を損ねることは控えるべきでしょうな。要求があれば受け入れ、猊下の為に働く。さすれば猊下の温情に厚く報いる騎士として、貴方の評判も上がることでしょう」


「枢機卿からは教会の騎士になれって言われてるんだけど、断ったらまずい?」


「当たり前です! せっかく猊下がそうした逃げ道を用意してくださっているのに断るなど以ての外! いいですか? 絶対に断ってはなりませんぞ」


「でも、俺あの人苦手なんだよね。そばにいると息が詰まるっていうかなんていうか」


「貴方の好き嫌いなどどうでもよろしい! いいですな? 貴方は明日から教会騎士として生きるのです。それ以外に貴方をはじめ、我らに生き残る道は無いのですからな!」


 枢機卿を迎える準備をしてくる、と言い捨てダリオは乱暴にドアを開けて船長室を出て行った。俺の向かいには難しい顔で腕を組むロザリアだけが無言のまま、身動き一つせずに俺を睨んでいた。


「あ、あのー、ロザリアさん? どうかされましたか? 」


「どうかしたかじゃないよ! アンタって人は。どれだけ人に心配かけりゃ気が済むんだい! シェラールもヒュリアもアンタが投獄されてからロクに眠りもせずにいたんだからね! それがなんだい、無事に出てきたと思ったら今度はあろうことか、枢機卿を脅して来た?

 全く、命知らずにも程があるんだよ! 枢機卿て言えば小さな子供でもその偉さがわかるってのに、アンタと来たらそんなことすらわからないのかい!」


「すいません」


「アタシに謝ってどうすんだい! 何回も言うけどアンタは皆の主様なんだよ! アンタの不用意な一言で皆が死ぬかもしれないんだ。それだけは忘れんじゃないよ!」


 それだけ言うとロザリアは奥の寝室に消えていった。あーあ、命からがら出てきたかと思えば今度は説教の嵐。まあ、言われてみればその通りなんだけど、なんかこう、腑に落ちない。


 不貞腐れながら部屋に戻ると目の下に濃いクマを作ったヒュリアとシェラールがいた。


「大将、すまねえ。俺がいながら」


「私もです。あの場で見ていることしかできなかった自分を殺してしまいたい」


 俺はそんなことを言うヒュリアの頭を撫でてやる。


「あの状況じゃ仕方ないさ、こっちが手を出せば間違いなく罪に処されていた所だからな。二人が堪えてくれたおかげでこうして生きて会うことができたんだ。お前たちが自分を責める理由は何一つないさ」


「そうは言っても俺はアンタの護衛役だ。主を見捨てて良い訳がねぇ」


「ちゃんとみんなで助けに来てくれたじゃないか。それだけで十分だよ。それより二人には心配させてすまなかったな。もう大丈夫だからゆっくり体を休めてくれ」


 シェラールはこくりと頷くと、ベットに横になり寝息を立て始めた。ヒュリアが何か言いたげにしていたので、側に招いて囁いた。


「司教を殺ったのはお前か?」


 涙目で俺を見つめながらヒュリアは頷く。勝手なことをして叱られるとでも思ったのか、その顔はとても悲しげた。


「ありがとう、ああいう奴は法じゃ裁けない。殺すしかなかったんだ。ヒュリアのおかげで心のつかえが取れたよ」


 そう言って軽く抱き寄せてやると、嬉しそうな笑顔を浮かべてヒュリアも俺にしがみつく。とても疲れていたのかそのまま寝息を立て始めたので俺のベットに寝かせておいた。


 夜になると俺はこっそり船を降りて街の広場に向かう。そこには磔にされた例の司教の遺体が異端審問官により罪状を読み上げられていた。司教の遺体は顔を隠すことは許されず、その哀れな死に顔は苦悶に満ちていた。


 取り囲んだ民衆からは罵倒が浴びせられ、生前の威厳も名誉も全てが否定される。司教と言う要職にありながら異端であったと言う罪は、すべてのキリスト教徒を裏切ることに他ならない。民衆の怒りと憎しみはその罪深さを示すかのように大きい。


『なあ、シルヴァーノ、俺にできる事はこれが全てだ。お前の怨みは解るがこれで満足してはくれないか?』


 磔に火がかけられ、司教の遺体を炎が包む。しばらくすれば彼の遺体は灰になって土に還る。どんな悪辣な者でも死んでしまえば皆同じだ。神の下での平等ってのはこの事なのかもしれない。その炎に照らされながら俺はシルヴァーノの答えを待った。


『まあ、不満が残らないかと言えば嘘になりますが、貴方にしては上出来です。あの枢機卿にここまでの事をさせたのですから』


『そのおかげでみんなに怒られて大変だったけどな。ま、色々あったけどこれで一件落着だな』


『そうですね』


『ここの連中と別れるのも寂しいけど、いい思い出にはなったよ。まさかこの俺が中世で騎士なんかになるとはな。ま、誰に言っても信じちゃ貰えねーだろうけど。ハハハ』


『そうですね』


『しかし戻ったら大変だな。何しろ2ヶ月以上こっちにいたんだ。バイトはクビだろうし、電気も携帯も止められてるかもしれないな。こっちの金貨でも持って帰れりゃ一躍金持ちなんだけどな』


『そうですね』


『あ、それと忘れちゃならねえのがあの教会のクソ親子だな。あいつらにはガンガン文句つけてもバチは当たらねーよな?』


『そうですね』


『あのさぁ、お前、さっきから「そうですね」って、よく訓練されたバラエティ番組の観覧者じゃないんだから。もうちっと達成感とかそういうのない訳?』


『例えばですよ、例えばですけど、戻り方がわからないとしたらどうします?』


『ん? 決まってるじゃないか。お前にありとあらゆる関節技を決めてやるよ』


『はは、暴力はんたーい。もっと穏やかに行きましょうよ。ほら、怒ると血圧上がりますし。ひいては成人病の原因になるかもしれませんよ?』


『ん? 我慢する方が体に毒だぜ。さて、どの技がいい? リクエストはあるか? そう言えばお前、死なないんだよな。だったらここでDDTとかやっちゃってもいいよね?』


『だめです! それはだめですよ! あぁぁぁぁ! ダメだって言ってるじゃ! ヘブシ!』


 俺は渾身の力を込めてシルヴァーノをレンガで舗装された広場に叩きつけた。それだけでは収まらず、朦朧としている奴にエルボードロップを食らわせる。そのあとに蠍固めを決めると弱弱しい声でシルヴァーノがギブアップを宣言した。


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