第2話Holy place 聖地

 目を覚ましたのは硬い地面の上だった。ところどころに草が生えてはいるものの、むき出しになった土は硬く、乾いていた。遠くに蜃気楼のように城壁が見える。あれがエルサレムなのだろう。


「ひぇぇぇぇ!」


 身を起こした俺の眼前に広がっていたものは、見渡す限りの死体、死体、死体。破れた旗が風にたなびき、鎧を身にまとった兵士たちが武器を手にしたまま死んでいる。


『何してるんですか、急いでその辺の死体から装備を剥ぎ取ってください。時間はありませんよ!』


 シルヴァーノの声に自分を取り戻す。ふと己の姿を見れば、一糸もまとわぬ全裸姿だった。


「ちょ、ちょっと、なんで裸なの? ここはどこなの?」


『声は出さないで。説明は後でしますから、今は装備の確保を。じゃないと死にます』


 とにかく状況は最悪だ。俺は裸で死体あさり。しかもいかなる時にも冷静だったシルヴァーノが慌てている。なぜかシルヴァーノは初めて会った時の甲冑姿。転がる死体達も同じような姿だ。俺は身なりの良さそうな死体をひっくり返し、できるだけ血で汚れていないのを探す。


『これが良さそうですよ』


 シルヴァーノが見つけたのは額に矢の刺さった中年の貴族。なぜ貴族とわかるかといえば明らかに周りの連中より豪華な装備を身につけていたからだ。

 討論は無駄とばかりにシルヴァーノが貴族の鎧を剥ぎ取りにかかる。紋章のついたサーコート、膝まで丈のあるチェインメイル、金の滑車がついた革ブーツ。そして汗臭い鎧下とタイツ。最後に紐パンのような汚れた下着を剥ぎ取った。


『ねえ、まさかこの下着、穿けとか言わないよね?』


『直接タイツを穿いてアソコがすれても構わないって言うなら穿かなくてもいいですよ』


 友人の中には下着をつけずにジーンズを穿いていた剛の者もいたが、チキンな俺には真似できない。あのゴツイジッパーに毛や本体が挟まれたら、と思うだけでも縮み上がる。もっとも真似しようなどとは全く思わなかったが。


『この人、性病とか持ってないよね?』


『多分ね。このくらいの身なりができる身分なら、身だしなみには気を配るはずですから。それより時間がありません、急いで!』


 ええい、ままよと勇気を振り絞って汚れた下着を身につける。汗臭い鎧下に袖を通すと、脇のあたりが濡れていてゾクゾクっと悪寒が走る。タイツを穿いて靴下と拍車付きのブーツを履く。そのあとシルヴァーノに手伝ってもらいながら細い鎖で編まれたチェインメイルを身に付ける。背中のフードは兜代わりなのだろうか。


『なにこれ、薄っ!』


 チェインメイルは想像以上に薄っぺらのペラペラだった。確かに金属なのでナイフぐらいは防げるのだろうが、そこらに転がっている無骨な剣で斬られたら、腕や足などは簡単に飛んでしまいそうだ。実際に死者の中には腕や足をチェインメイルごと切り落とされているものもある。


『あとはこれを』


 シルヴァーノが差し出したサーコートはこの貴族が着ていたものではなく、別の死体から剥ぎ取ったものらしい。いかにも使い古された感のあるその布地は元の色がなに色だったかすらわからない、茶と灰色の中間色だ。


『この人の着てたやつの方がカッコよくね?』


『流石に紋章付きはまずいでしょう。身元が特定されますからね』


『家紋みたいなものか』


『そんな感じですよ』


 そのサーコートの上に銀細工のバックルがついた革ベルトを締め、剣を吊るすためのもう一本のベルト、剣帯を腰に巻く。ひと目で高価なものだとわかる凝った作りの剣を吊るす。日本の武士のように、腰ではなく太もものあたりに吊るされた剣はなんとなく収まりが悪い。剣のない右腰はベルトにポーチがついていた。開けてみると数枚の金貨や銀貨が入っている。


『さ、急いでここを離れましょう』


 シルヴァーノに手を引かれ、硬い地面を走り出す。ブーツと言ってもそれほど履き心地のいいものではなく地面に埋まった石の感触がゴツゴツと感じられた。


 どのくらい走っただろうか。岩陰を見つけて小休止。切れる息を整えながら何がどうなっているのかをシルヴァーノに尋ねた。


『ここは1244年のエルサレム近郊ですよ。約束しましたよね? 僕の目的に付き合ってくれるって』


『ああ、確かに約束はしたけど。まさか本当にタイムスリップさせられるとはな。ちなみに今、どんな状況? どう見ても平穏無事じゃなさそうだけど』


『エルサレムが落ちた日、ですよ。よかったですね、貴方は今、歴史的な瞬間に立ち会っているんですよ?』


『ちっともよくねーよ! もうちっとマシな日とか選べなかったわけ?』


『仕方がないじゃないですか、今日は僕が死んだ日。あの死体の群れの中に僕も混じってるってわけです。まあ、あのセンスのない、ドイツ騎士団と一緒ってのが引っかかりますけどね』


 その時、岩陰からか細い声が聞こえた。


「おい、そこの盗賊よ」


 思わず周囲を見渡すと、岩陰にやはり身なりの良い騎士が蹲っていた。刺されでもしたのかその騎士は腹から流れる血を押しとどめるように手を当てている。


「だ、大丈夫か、あんた!」


 俺は駆け寄り何とかしてやろうと思うもののどうすればいいのかわからない。手をこまねくとはこういうことをいうのだろう。


「いいんだ。俺はここで神に召される」


「何言ってんだ! 諦めたらそこで終わりだろ!」


 焦る気持ちと裏腹に、何一つ効果的な処置が施せない自分にいらだちが募る。取り敢えず楽な姿勢にしてやる事だけが俺にできるたった一つの事だった。


「ふっ、盗賊のくせに優しいのだな、お前は」


「俺は盗賊じゃない」


「はは、嘘をつくな。その剣はあのティベリア公の不出来な甥、ユーグの物だ。いつも自慢げに腰に佩いていたからな。身ぐるみ剥がれた遺体をさらすのがあの豚野郎にはお似合いという事か。まあいい、盗賊殿、これも神のお導きだ。俺の頼みを聞いてはくれぬか?」


「盗賊に頼んでる暇があるなら生きることを考えろよ! あんた、まだ動けるんだろ? なら近くの街までいけば助かるかもしれないだろ?」


「無理を言うな。腹を裂かれて生きていたやつなどいるわけがない。それより頼みを聞いてくれ!」


「出来るかどうかはわからないけど聞くだけならな」


「ああ、それでいい。俺はローマのコンティ伯の名代として聖地に来た。だが武運拙くこのザマってわけだ。そこでお前には俺がどんな最期を遂げたかを主家に伝えてやって欲しいのだ。なあにタダでとは言わんさ、お前には俺の名誉をくれてやる。どうだ?頼まれてはくれないか」


『名誉とかって人にあげたりできるのか?』


『いいから、ここは彼に従いましょう』


「ああ、わかった。ローマのコンティ伯だな」


「よし、契約成立だ。お前の名は?」


「俺はジョージ、ジョージだ」


 流石に日本名の苗字を名乗るのには躊躇した。


「ふ、イングランド読みか。ならばお前は今からジョルジオだ。サン・ジョルジオの名を持つ者よ、跪け《ひざまずけ》!」


『え? なに、なんなの?』


『いいから、彼の言うとおりに。そう、両膝をついて』


「アレッシオ・マセラティの名において、この者、ジョルジオを我が相続者と認めん。ジョルジオ、貴様は今から我が養子、ジョルジオ・マセラティとなるのだ。この場にて我が名誉を引き継ぎ、主家であるコンティ家に忠誠を尽くし、勇敢である事、怠惰でないこと、神に忠実であることを誓え」


 真っ青な顔で無理に立ち上がり、震えながら剣を俺の肩に当てるアレッシオとか言う騎士。傍から見ている分には厳かなイメージなのだが刃物を突きつけられているに等しい本人は恐ろしいことこの上ない。きっと「誓えません」などといった日にはそのまま首をはねられるに違いない。


「誓います」


 俺は絞り出すように、そう答えた。騎士は満足そうに頷くと、力尽きたように地面に腰を落とす。


「我が子ジョルジオよ、これを受け取れ。俺は大した身分ではないが、食っていくには不自由がないはずだ。妻も子も病で既にいない。屋敷には留守を任せているロバートと言う使用人がいる。彼にこの指輪を見せればあとのことはうまく取り計らってくれるはずだ。

 ついでにこの剣もやろう。それとその汚いサーコートは捨てろ。多少血で汚れてはいるが俺のものを着ていけ。養子に汚い格好をさせたとあっちゃ、騎士の名折れだからな。はは、ついに俺もここまでらしい。お前の後ろに金髪の天使が見える。天使ってのはずいぶんいい男なんだな」


 最後に一筋の涙を流すと騎士アレッシオは事切れた。俺は無言のまま貴族から奪った剣で穴を掘り、遺体を埋めてやる。胸の前で手を組ませ、首にかかっていた十字架を握らせる。


「騎士だったら剣ぐらい持ってないとあの世で格好つかないだろ」


 そう一人つぶやいて貴族のもっていた豪華な剣を遺体の上においてやり、土をかけていく。


『おい、こういう時キリスト教じゃどうやるんだ? 手を合わせるってわけじゃあるまい?』


『跪いて十字を切っておけばいいんじゃないですか?』


 遺体の分だけ盛り上がった土を固め、その前に跪いて十字を切る。


「義理のオヤジ殿。あの世で豚野郎にせいぜいその剣を自慢してやってくれ」


 騎士からもらった剣を腰に佩き、指輪を指にはめてその場をあとにする。目印の岩とそれに被さるように生えている木を覚えておく。いつかここに来ることがあれば手ぐらい合わせてもいいだろう。


 汚いサーコートを脱ぎ捨て、騎士が残してくれたものに着替える。黒地に白抜きで鷲が翼を広げた紋章が、彼の名誉そのものなのだろう。


『ふふっ、貴方は本当に甘いですね。騎士ジョルジオ』


『そうやってからかうのやめてくれない? 悪いけど死体ばっかり見せられて気分最悪だから』


『仕方ないですよ。僕はあの戦場で死んだのですから』


『そうだったな。悪いな嫌な事思い出させて。で、この先どうするんだ?』


『気にしてませんよ。そうですね、まずはローマを目指しましょうか。義父上の望みを叶えてあげなければいけませんし、それに、このままここにいても危険ですし』


『で、ローマにはどうやっていくんだ? まさか歩いてじゃないだろうな?』


 うっすらと世界地図を思い出してみる。ここがエルサレムならローマまでは船で行ったほうが断然早そうだ。


『まずはアッコンに行きましょう。そこから船でキプロス。そしてクレタ島まで行ってヴェネチアの船団に乗れればイタリアまで行けます。ターラントかペスカーナあたりまで行ければあとは陸路でローマです』


『うへ、随分経由するんだな。ローマまでの直行便とかないの?』


『さあ、あるかもしれませんがエルサレムが落ちる今となってはどうにもならないでしょうね』


『なあ、どうしてエルサレムは落ちたんだ? 俺は十字軍がずっとエルサレムを支配しているものとばかり思っていたよ』


『エルサレムは前にも陥落しています。15年ほど前に皇帝が交渉で取り戻したんですけどね。さっきの死体はみな、防衛に当たっていたドイツ騎士団と皇帝派の有志です。僕も15年前に皇帝と共にここに来て、彼らと共にこの地を守っていたって訳なんですよ。今頃聖都はイスラムの連中に包囲されてる頃じゃないんですか?』


『……エルサレムに行かなくていいのか? お前だってあそこで暮らしていたんだろ? 助けてあげたい家族とか、知り合いとかいるんじゃねーのか?』


『そこに貴方が行ってどうなるんです? 身元不明の死体が一つ増えるだけじゃないんですか? そもそも人を殺した事もなく、剣も使えない貴方があそこに行って何の役に立つと?』


 シルヴァーノが俺を見る目はいつになく厳しいものだった。


『そ、そうかもしれないけど、何もできねーかもしれないけど見て見ぬふりだけはしたくないんだ。城は落ちるのかもしれないけど、脱出してくる人の手助けぐらいは出来るかもしれないだろ? それに、僅か数十分とは言え義理の父親だった男の遺訓だ。勇敢であれ、勤勉であれ、神に忠実であれってね』


『バカにつける薬はありませんか。まあ、いいでしょう。脱出した人々は海岸に向かっているはずですからそちらに行きましょうか。騎士殿?』


 そうだ、今の俺は騎士なんだ。ついさっきまで盗賊だったしその前はフリーターだが。指輪に浮き彫りされているのは紋章の鷲。この鷲を見ていると自分が騎士だと思えてきて、何かしなくちゃと背中を押される。少なくともこれを譲ったアレッシオ・マセラティと言う男に後悔させるわけにはいかない。何しろシルヴァーノと言う前例があるのだ。彼が神の国に入らずに、俺を監視している可能性だって十分に考えられる。

 それに、俺には正直実感がなかった。もしかするとこれは夢で、ここで死んでもゲームのように、目を覚ませばあの部屋にいて不良にやられた傷の痛みと闘っているんじゃないだろうか。


 そんなフワフワした感覚が俺に無謀な挑戦をさせているのかもしれない。


『ちなみにだけど、ここで万が一俺が死んだらどうなっちゃうの?』


『どうもなりませんよ。普通に死にます』


『はは、そうだよね、やっぱり』


 ガツンと来る一言を浴びせられたにも関わらず、俺の足は海岸に向かって歩いていた。歩きなれない靴で足が痛い。きっとマメがいくつもできているだろう。それにここは夏なのかえらく暑い。流れ出る汗は不快だったし、喉が渇いてひりつくようだ。しかしそれでも一歩一歩確実に進んでいる。


 小高い丘を越えると遠くに逃げる人々がぞろぞろと隊列を作って進んでいた。まるでアリの行列のように街道らしき道を進んでいる。はるか地平線の彼方には海が輝くのが見える。あそこまで行けばなんとかなるのだろう。

 俺は人々の群れに追いつくため、やや足早に街道を進む。だが結局追いついたのは船が迎えに来ていたヤッファと言う港街についたあとだ。忙しそうに荷を運ぶ水夫に頼んで水を分けてもらい、休んでいる間にも船はどんどん出港していく。


「騎士様、乗らねえんですかい?」


 甲板からよく日に焼けた水夫が声をかけてくる。


「乗せてくれるのかい?」


「ええ、騎士の方がいてくれた方が何かと都合がいいんで。何しろ兵士どもは負け戦で気が立ってる。あっしらのいうことなんか聞いちゃくれねんですよ。そういう時に騎士様がいりゃあ奴らもおとなしくせざる負えねえ」


「そうか。助かるな」


 騎士の身分というのは大した物だ。こうして船にもただで乗せてもらえるし、屈強そうな水夫も殺気立った兵隊も俺には恭しく接してくる。現代に生まれ、平等というのを子供の頃から教えられてきた俺は、正直その対応に難儀していた。

 甲板に乗り込み、ポケーっと水平線を見ていた。歩き疲れた事もあって頭がうまく働いてないのだろう。何より今はシャワーを浴びたくてたまらない。まずこの暑苦しい鎧を脱いで海にそのまま飛び込んでもいいくらいだ。


 甲板には敗残兵と思わしき連中が力なく座り込んでいる。肩に槍を担ぐもの、弓を壁に立てかけているもの、剣を抜いてじっと見つめているもの、その表情は様々だったがみな、胸に十字を染めた短い上着を鎧の上に着ていた。


「おーい!待ってくれぇぇぇ! 俺たちも乗せて行ってくれぇぇぇ!」


 いよいよ出航という時に陸から明らかに発音が違う言葉で大声が響いた。既に港にいた連中も船に乗り込み完全撤退の準備は出来ている。舷側から身を乗り出して見ると、頭にターバンを巻いた若い男が妹なのかまだ年端も行かない少女の手を取り走ってくる。その後ろからは砂埃がモウモウと立ち上がり、騎馬にまたがった男たちが曲刀を手に追いかける。


「おい! なんとかならないのか? あのままじゃあの二人殺されちまう!」


 近くの水夫を捕まえてそう言ってみたものの、水夫の反応は至極冷静だ。


「ありゃあ、トルコ人だな、言葉も違うし。まあ、改宗者かもしれやせんが助けてやる義理はありませんや」


「へ、なんで? 改宗者だって言うならあいつらだってキリスト信者、神の下僕なんだろ? なんで知らん顔できるんだよ!」


「あいつらはね、奴隷として売られてきたかイスラムの同胞を裏切った連中でさあ。そんな奴らを助けるためにこっちが危ない橋を渡るなんてできねーんですよ。ま、見るのが辛いなら船室にでも行って耳を塞いどいてくださいな」


 ギリギリと奥歯を噛み締め、血圧が上がるのが自分でもわかる。こいつらは何を言っているのだ。敵ならまだしもあの二人の胸には十字架が下がっているではないか。なのに異国人だから助けない? そんなことあっていいはずがない。頭がカァーっとなって手が震える。ここで見捨てたら俺は悔いを残す。絶対にだ。


「お前ら人の命に値段つけてる暇があんならその手を動かしやがれ! ボサーっとぶっ座ってんじゃねーよ! ああ?」


「ナーニを熱くなってんだぁ? 騎士の旦那ァ。オラたちは異教徒を殺しにきたんで助けるために来たんじゃねーど。そんなにやりたきゃアンタ、一人でやればいいべさ」


 ニヤニヤと笑うアバタ面の兵士。背は俺よりも大きく、茶色の髪はバサバサだ。どこか間の抜けた男のその言い草が何よりも腹が立った。


『あれがフランスなまりです。聞くに耐えないでしょ?』


 そんなことをシルヴァーノが言っていたが頭に血が上った俺にはどうでもいい。こうしている間にもあの二人が追いつかれるかもしれないのだ。


「お前ら、エルサレムで負けたんだろ? 最後まで負けっぱなしでいいのかよ! あの二人を見捨てたら俺達一生負け犬だぞ!」


 激を飛ばしてみるものの反応はない。フランス兵と同じようにニヤニヤと笑みを浮かべて動こうともしない。なんで、なんでこんなに人間は酷薄になれるんだ? 助けたいと思う俺がおかしいのか?


『残念ながら彼らの感覚がここでは当たり前なんですよ。人には身分があり生まれで差別される』


『それはわかるが命がかかってんだぞ? 身分が低けりゃ、異国で生まれたら死んでもいいっていうのかよ!』


『まあ、そうですね。少なくとも彼ら二人はこちらが危険な目にあってまで助けたい存在じゃあない』


『それでも俺は助けたいんだ。力を貸してくれ!』


『はぁ。全くあなたという人は。確かに今の貴方であれば彼らを助ける方法はあるでしょう。しかしそのためにここにいる人たちが傷つくとしたら? それでも貴方は助けたいですか?』


『俺だって誰かを犠牲にしてまで彼らを助けたいって言ってるわけじゃない。甲板に座り込んでる連中は弓を持っているし、この船だって武装ぐらいあるだろ? あの二人を追ってくる連中に牽制射だけでもしてもらえば十分に船に引き上げる時間ぐらい作れる。たったそれだけのことなんだ。なんでそれができない!』


『――なるほど。貴方なりに考えがあっての事なのですね。ま、稚拙ですがいいでしょう。あとは僕に任せてください。どちらにしろこの連中には力を見せておいたほうがいいでしょうしね』


 シルヴァーノはそれだけ言うと俺の中に入り込む。再び心臓が大きく鼓動を打ち、自分の体が自分でなくなった。


「サン・ジョルジオの名において、邪なる竜には裁きの剣を」


 そう言いながら俺だった物は剣を抜く。あれ?昨日とセリフ変わってね?


『イタリア読みですよ』


 ああ、そうなんだ。


「ジョルジオ・マセラティの名において皆に命ずる。弓を持つ者はここに集まりなさい」


 半分程の人数が雰囲気の変わった俺に何事か、と目線を向け、ともかく立ち上がり弓を抱えて集まった。


「けっ、騎士さまだかなんだか知らねーけんど、フランス人がイタリアの優男の言うとおりに動くとでも思ったら大間違いだで」


 相変わらずニヤニヤと笑うフランス兵。その後ろで「そうだそうだ」などと喚いているのは皆、なまりの強いフランス人なのか。


「ならば結構。命に従えぬものは我が名誉を汚すものとしてフェーデ《私戦権》を行使します。ことが済んだあとに剣にかけて報復しますからそのつもりで」


 サーっと皆の顔が青くなる。フェーデとはなんなのか。なぜそこまで恐れるのか。現代人の俺には全く理解が及ばない。


「弓を持つ者は迫り来る騎兵に牽制射を。当てる必要はありません。そのあいだに私が彼らを回収します。はしごを降ろしてください」


 はっ! と全員が先ほどと打って変わったようにキビキビと動き出す。ぶつくさ言っていたフランス兵も船に搭載してあったクロスボウに太い矢をつがえ、騎兵に向かって構えている。


「ジョルジオ様、準備できました」


「よし、放ちなさい!」


 船の舷側から一斉に矢が放たれる。騎兵の手前に落ちた矢に馬が驚き棹立ちになるのが見えた。死に物狂いで走り込んできたトルコの男は縄梯子を途中まで降りていた俺に少女を抱え上げてわたす。俺はその少女を甲板に下ろし、男が縄梯子に取り付いたのを確認して水夫に出航を命じた。

 船の脇腹からニュっと櫂が現れ、船を漕ぐ。男を甲板まで引き上げて、撃ち方やめ!と号令を出した。騎兵は悔しそうに港をウロウロしていたが、どうにもならないと悟って引き返していった。その時、バサリと帆が下ろされ、船腹の櫂が引っ込められた。


「皆、ご苦労でした。皆のおかげで彼らを救えたし、最後の最後にイスラムの連中に一泡吹かせてやることができました。いいですか、よく聞きなさい!十字軍はエルサレムを落とされ負けた。これは事実。だが、私たちは違う。私たちは最後にこの二人を救うことによってイスラムに勝利した。違いますか?」


 兵達からは「そうだそうだ!」と歓声が上がる。それを手で鎮め、再び口を開く。


「いいですか、皆の者。私たちは勝った!異郷の友を救ったことは諸君の誇りだ。故郷に帰り、妻に子に、一族に、今日の勝利を語るのです! そして胸を張って言いなさい。十字軍は負けたが自分は勝ったのだと!」


 再び巻き起こる歓声。よほど気分が良かったのか船長が出てきて皆に積荷のワインを振舞ってくれた。ふと俺の体は軽くなり、目の前に現れたシルヴァーノはにっこりとほほ笑んだ。


『と、こんな具合でいいですか?』


『ああ、最高だよ。ありがとう、シルヴァーノ』


『礼を言わなきゃいけないのは僕の方かもしれませんね。いい事をしたあとは気分がいい。あ、そのワイン僕にも飲ませてくださいね』


『ああ、全部やるよ』


 他人に見えない物陰に移動してワインの入った木のカップを渡してやる。他人から見たらどう見えるのかはわからないが万一、木のカップだけが空中に浮いていたらおかしいだろう。


「あんのぉ、騎士の旦那ァ。オラ、さっきは失礼な事言っちまって申し訳ねえだ。負け戦で皮肉な気分になってただけだで悪く思わないでけろ」


 突然声をかけられて、ビクッと後ろを振り向くと、済まなそうに頭を掻いている例のフランス兵がいた。


「はは、気にするな。負け戦は俺も同じだ。気分がわからない訳じゃない。それにお前だってしっかりクロスボウ持って働いてただろ?たいしたもんだったぞ」


「オラ、故郷じゃ猟師やってたんだぁ。弓でもクロスボウでもなんでも使えるだよ」


「そうか、まだまだ船旅は始まったばかりだ。途中なにがあるかわかんないからな。敵船でも出てきたときはお前の腕が頼りだ。あてにしてるぞ?」


「そんなぁ、オラ、騎士様にそんただ事言われちまったら頑張んねぇ訳にはいがねえな」


 恥ずかしそうに大きな身をくねらせるフランス兵は上機嫌で仲間のもとに帰っていった。


 船倉に隠れていた市民たちも風を浴びに甲板に出てきていた。住み慣れた住居を捨てての逃避行だ。その表情が明るい訳はない。だがなんとなく、夏の日差しをまぶしそうに見上げる彼らからは芯の強さを感じられる。


『そりゃあそうでしょう、何しろ本国を出て、一山当てにエルサレムまで出てきた連中です。その本性はしたたかで図太い。多分今頃は次の算段でもしているんじゃないですかね』


『そんなもんかねぇ。それより違和感なさすぎて気づくのが遅れたけどあいつら皆、外人だよね? ああ、この場合俺の方が外人か。なのに言葉が普通に通じてるんだけど』


『それが僕が元々与えられていた力です。世界各国どこに行っても普通に話せる力。まさに神のお力ですね』


『それにしちゃあ、あのフランス人は随分なまってたぞ』


『それはラテン語ベースになっているからですよ。英語、フランス語、ドイツ語、それにイタリア語なんかは全部ラテン語から派生したものですから。イタリア語はその中でもラテン語に近いから標準語に聞こえ、さっきのフランス語はなまりが強く感じる。イングランド人や帝国人の言葉はもっとひどく聞こえるかもですよ』


『帝国ってどの帝国? 銀河帝国ではなさそうなことはわかるけど』


『SFと一緒にしないでください。神聖ローマ帝国。かつて栄華を極めたローマ帝国の後裔ですよ』


『ああ、聞いたことある。でも帝国って響きかっこいいよね』


『残念ながら貴方の名乗るマセラティ家の主家、コンティ伯家はローマでも有数の貴族で過去に教皇も排出しています。そして教皇と帝国の皇帝は不倶戴天の敵、とも言える関係ですからね。帝国との接点はまず無いでしょう』


『そうなの? 結構めんどくさいんだね』


『でも騎士身分になれただけでも儲けものですよ』


『まあ、そりゃあそうだけどお前の家でも良かったんじゃねーの?なんだったけ、そうそうアルベルティ家?』


『僕は次男ですからね。相続の権利はないんですよ。ま、僕の家は皇帝派ですけどね。そもそも何故、コンティ家ゆかりの者がエルサレムにいたのかが不思議なくらいですよ』


『それっておかしいことなのか?』


『皇帝は教皇によって破門されてますからね。僕も参加した前回の十字軍も正式なものとは認められていないんですよ。何しろ皇帝はイスラムとの「交渉」でエルサレムを取り返したわけですからね』


『それの何が問題なんだ?』


『まあ、この時代のイスラムは貴方達の時代で言えば宇宙人か何かみたいな存在な訳ですよ。言葉も違えば宗教も違う。それも互いに一つの神以外の存在を許さない一神教。お互い妥協できる点がない絶対悪の存在なんです。その悪の宇宙人と「交渉」なんて教会が認められるはずもない。交渉するということ自体、相手を対等な者と認めることですから』


『なるほどね、政治的には合理的でも宗教的には完全にアウトってわけか』


『しかもそれを成した皇帝は当時破門の身、教皇のいきり立つ気持ちも解らなくはないですね。まあ、教皇派であれ、皇帝派であれちゃんとした身分を手に入れられたんです。十分以上の出来ですよ』


『ちなみに、あのおっさんに会わなかったらどうするつもりだったんだよ?』


『おっさんじゃなくて義父上ですよ。おっさんなんて言ったら流石に失礼に当たります』


『そうだな、ごめん』


『そうですね。僕は適当な貴族になりすますつもりでした。十字軍の遠征中に叙勲されたとか言ってね。死んだ貴族に仕えてたとか言えばよほどのことが無い限り通りますしね』


『それって立派な詐欺だよね。もし、バレたらどうなるの?』


『うーん。縛り首?』


『おい! そんな危ない橋渡らせるつもりだったのかよ!』


『まあ、いいじゃないですか。結果オーライって事で』


「あ、あの。騎士様」


 またしても突然声をかけられビクッとなる。振り向くとそこにいたのは助けたトルコ人の二人だった。


「この度はお助け頂き誠にかたじけないでござる。拙者、」


「ハイストップ。いいから、無理にこっちの言葉使わなくていいから。自分の言葉で話してね」


 完全に時代劇口調だったよね。今の何なまり?

 

『きっと書物か何かで覚えたんでしょうね。ほら、日本人が英語習っても話せないのと同じですよ』


「えっと、じゃあ地の言葉で話すけどよ、騎士さん、助けてくれてありがとな。俺はシェラール、ヴァンのシェラールだ。コイツは妹のヒュリア。俺達の故郷はモンゴルに支配された。だからこっちに出てきて傭兵稼ぎをしてたんだ。それに故郷を守れなかったトルコの王にも、街のみんなを救ってくれなかったイスラムの神にも愛想を尽かしてたんでな。だからアンタら十字軍に従った。

 とは言え異邦人の定め、奴隷よりややましってな扱いだったけどな。エルサレムが落ちちまったら行くところがない俺たちは逃げるのに躊躇しちまって、あんなみっともねえ姿を晒しちまった。何しろイスラムの連中は改宗者には容赦がねーんだ。

 ……しかしアンタ、いい人だな。助けてもらっといてアレだが俺が逆の立場なら小汚ねえ他所もんなんぞ見殺しにするぜ」


「まあ俺も似たようなもんだ。それに見ちゃったんだからしょうがないさ。アンタには神のご加護ってのがあった。それだけの事さ」


「そこで厚かましいようだが頼みがある。俺と妹、二人まとめてアンタの従者にしてくれねーか?」


「へ? 急に何を」


「さっきも言ったが俺達には行く場所がねえ。このまんまじゃ近いうちに盗賊にでもなるしかねーんだ。妹だって食うために体を売らなきゃならなくなるだろう。働こうにも言葉がイマイチじゃ奴隷扱いされんのがオチだ。俺はまだいい。けど妹は女なんだ、ひどい目に合わされるに決まってる。アンタは人格も立派だし、言葉だってほら、ちゃんと通じる。頼む。いい暮らしをさせてくれなんて言わねえ。こう見えても俺は剣も扱えるし馬だってお手のもんだ。絶対役に立つから」


 シェラールはまるでイスラム教徒が神にそうするようにいわゆる土下座の格好で俺に頼み込む。妹のヒュリアも兄に習って隣で土下座をしていた。


『おい、どうする? 悪いけど俺、甲斐性なしには自信あるから。従者って要は家来だよね? そんなものもつ自信全く無いから』


『うーん。けれど騎士である以上、遅かれ早かれ従者は必要ですし、彼らは貴方に恩を感じてもいる。同じ召し抱えるなら彼らの方が信用できるんじゃないですか?』


『けどさ、俺、全然金持ってないよ? 悪いけど最初にかっぱらった数枚の金貨しかないから』


『金貨なんかかっぱらったんですか? 金貨数枚あれば余裕で数カ月暮らせますよ。何枚持ってるんです?』


『えーっと、ほら、これだけだ』


 ポーチの中から取り出した硬貨は金貨が6枚、銀貨が4枚ほどだった。


『これはソリドゥス金貨ですよ。しかもこの質感はかなりの純度です。おそらくデナロ銀貨40枚分以上の価値があるでしょうね。これ一枚で4人家族がひと月生活できる額です。彼らを雇ってもなんら問題はないですよ』


『そっか。ならせっかくだし、従者になってもらうとしようか』


『ええ、それがいいですよ』


 後ろを向いてシルヴァーノと相談していた間、兄妹はずっと土下座のポーズだったようだ。俺は慌てて二人を立たせ、従者にすると宣言した。


「はぁ~よかった。長いこと考え込んでるからダメかと思ったぜ。それじゃあ一つよろしくな、大将。あ、そういやまだ大将の名前聞いてなかったな」


「あ、そうか。俺はジョルジオ。ジョルジオ・マセラティ。とは言え騎士になったのはつい最近だ。だからあんまり気を使わなくてもいいよ」


「そりゃあますます変わった大将だ。おい、ヒュリア、お前も挨拶しろ。大将、この妹が身の回りの世話をしますんで。俺は邪魔になるといけねーんで席を外しておきます」


「ヒュリアといいます。兄の無理を聞いていただき有難うございます。せ、精一杯尽くしますので末永く可愛がってくださいませ」


 そう言うヒュリアの肩は震えている。え?そんなに嫌だった?俺。


『違いますよ、貴方に愛妾にされると思ってるんです』


『え?それってどんな鬼畜? 全然そんなこと考えてないし、なにより俺、ロリじゃないし』


『まあ、そうですよね。PCの動画もどちらかといえばお姉さん系が多かったですから』


『そういうさ、人のプライベート漁るのどうかと思うよ、それを言うならお前だって熟女サイトばっかり見てたじゃねーか。履歴に残ってましたよ、騎士シルヴァーノ』


『あ、貴方最低ですね! そういうのは見て見ぬ振りがお約束でしょう? なーんで言っちゃうかな』


『お前、自分で言った事わかってる? まさにお前が言うな状態なんだけど』


『そ、それよりほら、誤解は早めにといておかないとですね? あの娘、固まったまんまですよ』


「えっと、ヒュリアだっけ、そんなに怖がらなくてもいいよ。多分君の想像してるような事にはならない」


「えっ」


「そうだ、ヒュリア、君は何か得意なことはあるかい?」


「その、お料理とか洗濯なら。あと剣も兄ほどではないですけど」


「それじゃ馬も乗れる?」


「はい、馬は幼い頃から乗ってました」


 嬉しそうに微笑む。どうやら馬が好きなようだ。


「それじゃあ、君には馬の乗り方を教えてもらおうかな。恥ずかしい話だけど俺、馬に乗ったことがなくてね」


「えっ、だって騎士様ですよね? 馬に乗るから騎士っていうのだとばかり思ってました」


「そ、そうなんだけどね。いろいろ事情があるっていうか、とにかくどこかで馬を買うからその時は宜しく」


 顔が真っ赤になったのが自覚できる。確かに馬に乗れない騎士とか聞いたことねーよ。恥ずかしさをごまかすため、ヒュリアに背中を向け、船べりで風を浴びる。


「あ、あの私、気分を害されることを言ってしまったみたいで」


「いーや全然。君は間違ってなんかないし、気にする必要もない」


 ただ、俺の心が軋むだけさ。


「でも、そうやって背を向けられてしまうと」


 うっわ、なんかあれだよ、もしかしてこの娘、めんどくさい系? 早めに誤解をとかないとえらい事になりかねない。


「あはは、ちょっと恥ずかしかったから後ろ向いただけ。君は何も悪くないから。それとね、俺は君にほら、その一緒に寝ろとかそういうことも言わないから安心して」


「えっ」


「えっ」


「ジョルジオ様は私がお気に召しませんか? 主に嫌われたとあれば生きていても仕方ありません。いっそのことこの海に身投げします!」


「ちょーっとまってーー! 違うから、そう言うのじゃないから。ね?」


 シクシクと泣き出すヒュリアをなだめるのに30分。ありとあらゆる甘言を弄してようやく彼女は泣き止んだ。


「ではジョルジオ様は私が嫌いなわけではないのですね?」


「と、当然だよ。君みたいな可愛い子、嫌いになれるやつがいるなら見てみたいね。いいかい、お兄さんと約束だ。今後死ぬとか身投げするとかそういうの禁止」


「わかりました」


 ニコッと微笑む彼女の笑顔が恐ろしく感じたのは俺が弱腰だからなのだろうか。


「よし、それじゃあわかったところで君の兄さんと一緒に少し眠るといい。ずっと走って疲れただろ

う?」


「子供の頃は兄と二人で一日中、山の中を走り回って狩りをしていましたから。このくらいどうという事もありません。それよりも兄からはジョルジオ様のお世話をして差し上げろと言われていますから」


「いやいや、疲れってのは自分の知らないところで急にくるもんさ。船降りてから倒れられても困るし、休める時に休んどかないと。ね?」


 君がいると俺が休まらないから、お願いだから。


「わかりました。ジョルジオ様のご命令では仕方ありません。あ、そうだ、どうせならジョルジオ様も一緒に休まれては?」


「あはは、俺さ、いろいろ考えなきゃいけないことあるし。ほら、君たちだって路頭に迷わせるわけにはいかないからね」


「私達の事をそこまで。大丈夫です、いざという時は私が食べさせてあげます。こう見えても狩りも上手ですし、なんでもできるんですよ、私。あの兄だって叩いてこき使えばいくらかはジョルジオ様のお役にたてますから」


「あ、そ、そうなんだ。はは、そりゃあ、頼りがいがあるなぁ」


「それじゃあ、お言葉に甘えて休ませてもらいますね」


「うん、ゆっくりねー」


 はぁ。


『いやあ、面白いものを見せてもらいました。やはりモテる方は違いますねぇ。あんないたいけな少女にあそこまで言わせるなんて、もはや外道です。いや鬼畜というべきか。ひゃっはっはっは』


『お前ってさぁ、ホント、俺の不幸大好きだよね』


『いやいや、貴方は私にとって宿主、いや半身みたいなものですから。貴方の不幸は僕にとっても辛いんですよ。本当に』


『それにしちゃあ楽しそうだな、おい』


『え?貴方はあの娘に迫られたことが不幸なんですか?』


『どう考えても幸せじゃないよね。すっごいヘビーだもの。超重量級だもの』


『それは考え方次第ですよ。あの娘の顔見ました? まだ幼さは残ってるし多少汚れてもいますがかなりのものですよ。そもそもトルコ女性は美しさに定評がありますからね。女奴隷としても北のスラヴ人並に値がつくんですよ』


『いや、確かに可愛いけど、年下はノーサンキューなの!』


『そりゃあ今はそうでしょうけど、あと5年もしたら絶対綺麗になりますよ』


『あのー、もしもし? 今5年とか言いましたけど。もしかして俺ってそう言うながーいスパンでここにいなきゃいけないとか?俺的にはせいぜい2ヶ月もあれば元の時代に帰れるもんだと思ってたんだけど』


『えっ』


『えっ』


『やだなあ、帰れるわけないじゃないですか。いや、もしかしたら帰れるかもしれないけど僕はその方法を知りません』


『えっ』


『えっ』


『神様ー! ここに人攫いがいまーす! こいつに天罰をお与えくださーい!』


『ちょっと、何言い出すんですか。これは合意の上の事なんですよ? ちゃんと説明しましたよね?』


『全然歯抜けだよね。むしろ生えてる歯の方が少ないくらいの説明だし』


『でも契約は成立したんです。これは神が僕のやり方を肯定してくれた、とは考えられませんか?』


 うっわ、どうなってんの俺の人生。悪霊にとりつかれて中世まで連れてこられるし、従者妹はメンヘラだし、従者兄だって考えようによっちゃあの妹を押し付けたいがために俺の従者になったんじゃね? いや、きっとそうだよね。俺、あんな妹いたら耐えられないもん。


 妹。そう言えば俺にもいるんだ妹。最も俺が15の時に母さんと一緒にイタリア行っちゃったからな。今頃どうしてんのかな。元気でやってんのかな。母さん、あなたの息子は悪霊に騙されて中世で十字軍やってます。


 船が港についたのは翌朝の事。途中、船長の計らいによってものすごく硬いパンとキャベツと何かの肉を煮た塩味のスープが振舞われた。パンは非常持ち出し袋に入っている乾パンのような硬さだが、残念な事にあれほど甘くはない。スープに浸して食べるのがここでの常識らしい。


 問題は食器だ。木の器に盛られたスープ、果たしてどうやって食べた物か。何しろ箸はもちろんフォークだのスプーンだのは見当たらない。シルヴァーノに聞くと、この硬いパンで具を引き寄せて食べろとの事。

 まあいい、それはまあいいんだ。食べれば当然出るわけで、催した俺は船尾にあるトイレへと向かう。トイレは下に海が見えるワイルドなもので、まあ大自然の水洗と思えばいいか。などと気軽に尻をめくったものの、いたしてしまってから固まった。ここは中世、当然ウォシュレットも柔らかいダブルのトイレットペーパーも存在しない。目の前には桶に汲まれた海水と小さなコップ。ああ、なるほど、そういうことね。ははは。ふざけろ!馬鹿野郎。何が楽しくてケツを手で拭かなきゃならんのだ! 


『左手を使うんですよ』


 シルヴァーノの声が癇に障る。現代文明を生きてきた俺にこのミッションはとてつもなく難易度が高い。しばし悩んでいるとコンコン

と控えめにドアを叩く音がする。


「ジョルジオ様、恥ずかしい話ですが、私、そろそろ我慢が」


 ヒュリアの声だ。これが男なら船べりからケツを出してしろ! と言い放つところだが、年頃の少女にそれを言えるほど俺のハートはタフにできてはいない。どうする? どうする、俺。

 ええい、ままよ、とコップの水でケツを洗い流し、左手で拭う。ああ、母さん。俺、今、何か大事なものを無くしちゃったよ。


 放心状態のまま左手を洗い、何食わぬ顔でトイレから出る。もじもじと足を動かすヒュリアは挨拶もそこそこにトイレに入った。恐るべし中世。漠然と思い描いていた華やかなイメージが音を立てて崩れていく。


 アッコンの港はそのまま大きな城塞となっており、船を降りればすぐに賑やかな町並みが続く。砂岩でできた建物は壁が厚く、中を覗くと涼しげだ。今は夏の盛り。シルヴァーノに聞いたところエルサレムが陥落したのは7月15日の事らしい。



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