第13話 Depart 出発
翌朝、真新しい装備に身を包んだ俺たちは、波止場で船の出航を見送った。大きな帆船がいくつも停留してる中、我らがアクアマリン号がそのスタイリッシュな船体に俺の紋章が染め抜かれた三角帆をはためかせ出航する。俺が毎日水を汲んでいたあの船尾の甲板にはロザリアが現れ、手を振って何事かを叫んでいる。俺は馬上で手を振り、その姿が波の向こうに消えるまで、いつまでも眺めていた。
「なあ、みんな。やっぱりアクアマリン号は最高にかっこいいな」
「けっ、何を今更。そんなことは言うまでもねえ。何しろ俺たちの船なんだからな」
俺の問いかけにフェデリーゴが苦笑いで答え、ついで皆がそうだそうだと声を上げる。
「さて、大将、遅刻したらあの枢機卿に何言われるかわからねえ。そろそろこっちも出発と行こうぜ?」
「ああ、そうだな」
シェラールに急かされた俺はぐっと奥歯を噛みしめて船への想いを断ち切ると、振り返って皆を見た。
「では、皆の衆! これより我らは教皇猊下をお守りするためフランスまで行かねばならぬでござる。皆に舐められぬようきちんと隊列を組むでござるよ!」
シェラールの激に応!と声が上がり、旗を掲げた俺たちは広場へ向かう。愛馬のオリヴィアには紋章が染め抜かれた馬衣を着せてある。馬とは言っても女は女、オシャレしているのが嬉しいのかいつにも増して上機嫌だ。
その彼女に跨る俺は職人の親方が丹精込めて完成させた鎖の鎧。腕と足にはプレートで補強がなされている。その上に赤地に紋章を染めたサーコート。冬に備えてなのか防御力の向上の為なのか、素材は毛織物だ。籠手も金属製。手の甲から指先にかけてはプレートで覆われ、鍋を掴むミトンのようになってる。手のひらの側は滑らないよう鹿革が張ってあった。
ブーツも上質な牛革で作られた脛まで覆う長い物。その脛部分にはやはり金属で補強がなされ、腕と足に関しては概ね想像していた騎士の姿に近づいていた。兜は金属の一枚板から打ち出したどんぐり形のノルマン兜。鼻あてがついていて、兜の下にはあごひげのような鎖の覆いがついている。いざ戦闘ともなれば頭から首まですっぽりと覆ってくれて、露出するのは目だけとなる。親方が丹精込めただけあって、その兜には美しい装飾が刻まれていた。
こうした形式の兜をバシネットと言い、騎士の主流であるバケツのようなグレートヘルムに比べ、防御力こそ劣るものの、視界が良好なので近年では主流になりつつあるそうだ。
先導するのは逞しい牡馬に跨るシェラール。俺とほぼ同じような格好をしているがサーコートは黒く染めた革製だ。そして脇には俺の紋章を染め抜いた小さな四角い旗のついた騎乗槍を持ったフェデリーゴが並ぶ。後ろには荷馬車を操るルチアーノが続き、その両脇を歩兵姿の皆が固める。ヒュリアたち女衆も毛織のワンピースの上に革の鎧を身につけて荷馬車に乗り込んでいる。誇らしげに軍旗を掲げるのはジャンと同年代のロペス。歩兵たちは皆、最新だと言う黒のコートオブプレート(サーコートの中に金属の小片を詰め、ずれないようにリベット止めした鎧)をチェインメイルの上に着込み、ノルマン兜を被っている。
手には鯨の骨から作ったウロコ状の籠手を嵌め、足元もタイツにお揃いの短いブーツを履いている。腰には片手で使う短い斧を、背中には紋章が塗られた丸い盾と両手で使う長い斧を背負っていた。
女たちまで合わせても総勢40人にも満たない小さな部隊だが、元船乗りで、最も力強い漕ぎ手であった面々の体格の良さもあって、精鋭といってもいい風格を感じる。これなら広場に行っても馬鹿にされることはないだろう。
広場にはすでに武装した高位の聖職者たちや彼らゆかりの兵、それにコンティ伯をはじめとした教皇派の諸侯たちがそれぞれ兵を率いて参集していた。諸侯たちはそれぞれ自分に縁のある枢機卿の前に並び、兵たちがその後ろに整列する。俺は馬を降りてコンティ伯の一団の隣に皆を並ばせるとシェラールを連れてリナルド枢機卿の下に赴いた。
『なかなか張り込んだじゃねえか、ジョルジオ。さすがは船乗りの連中だ、そこらの農民とは体格が違うわな』
ニコニコと上品な挨拶の言葉を交わしながら、裏では念話で俺に語りかける。
『見てみろ、ほかの諸侯を。兵とは言っても名ばかりで、ありゃあ領民に槍を持たせただけの見せかけよ。いざって時には役に立たねえ。お前らは実戦経験もあるし、この中じゃ間違いなく最精鋭だ。頼りにしてるぜ、教皇騎士ジョルジオ殿よ?』
そうからかうように言うと、ほかの諸侯の応対に忙しいのか念話は打ち切られた。いやさ、俺たち全員よりきっとアンタの方が強いからね? なんかあったらアンタが突撃すれば大概のことは片付くはずだから。
心でそうぼやいていると、わが友、コンティ伯のロタリオさんが抱きついてくる。
「いやあ、ジョルジオ、君がいてくれて本当にありがたい。わし一人だったらと思うと背筋が凍る程に不安だったからの」
「それは俺も同じですよ。これだけたくさんの諸侯がいる中一人ぼっちは辛いです。ロタリオさんがいてくれるだけで本当に心強いです」
「うんうん、わしらはかけがえのない友じゃからな。そうじゃ、わしの家臣を紹介しておこう。おい、ジェラルド、こちらが教皇騎士団の首席にしてローマの元老院議員でもあるジョルジオ卿じゃ。お前も知っての通りアレッシオの養子でもある」
ジェラルドと呼ばれた騎士は俺の前に跪き、挨拶を述べる。
「我が名はジェラルド、ジェラルド・ディーニと申します。代々コンティ伯にお仕えし、卿の義父であらせられるアレッシオ殿とも懇意にさせて頂いておりました。宜しくお見知りおきのほどを」
「あ、丁寧なご挨拶、痛み入ります。俺はジョルジオ・マセラティ。まだまだ若輩者ですがこちらこそ宜しくお願いします。それとこちらは俺の従者を務めるシェラール。トルコの改宗者ゆえ、言葉に不自由な点がありますが、何かありましたら彼に」
「シェラール殿、よろしく頼む」
「拙者こそ何かありますればお頼み申す」
「はは、なるほど。いささか古めかしい物言いをなされる。しかし発音は綺麗だし、十分にその教養が伺えますな」
従者どうし、お互い気が合うようでそれから彼らは様々な情報交換を始める。いざという時互の連携が大事になるだろうから俺としても歓迎すべき交流だ。
「さて、実務は彼らに任せ、儂らはこの息苦しい時間をどう、愉快に過ごすか。そのことについて論じ合うとでもしようかの」
コンティ伯のこういうところが大好きだ。堅苦しくなく、気さくで鷹揚。いい意味での貴族らしさを備えている。今にして思えば、伯が俺の主君だったほうが幸せだったのかもしれない。牢に閉じ込められた怒りに任せて俺を召抱えると言ってくれた伯の提案を蹴ってしまったことが心から悔やまれる。
全く人生ってのはボタンをひとつ掛け違えただけでとんでもない変化を引き起こすものだ。
「従兄上もジョルジオ卿も仲が良さそうで何よりですね」
その声に俺も伯も背筋が凍る。もちろん声の主はリナルド枢機卿だ。
「お二人には私と共に、第2陣を受け持ってもらうことになりました。季節も厳しき折ですし、二人には私の馬車に同乗していただこうと思いますが、宜しいですね?」
俺と伯はフルフルと横に首を振る。
「宜しいですね?」
ダメだ。俺にはこれ以上抗う術がない。伯も観念したのかがっくりと項垂れた。
「ああ、楽しみですね。リヨンまでの一週間、親しい従兄上とジョルジオ卿とで旅をすることができるなんて。安心してください。私たち以外は馬車に乗せませんから。折角の身内同士の旅、他者を交えては興がそがれるというものですしね」
死刑判決に等しい通告を聞き、伯はうなだれたまま今の決定をジェラルドさんに伝える。俺もシェラールにその旨を伝え、何事もジェラルドさんと話し合った上で判断するようにと言っておいた。
教皇が設えられた壇上にあがり、いつもどおりの小さい声でなにやらもごもごと宣言する。最前列に並んだ枢機卿たちが頭を下げるのに合わせて、俺たちも、後ろの諸侯も頭を下げる。こうして地獄の一週間が始まった。
「なあ従兄上? 今回の公会議の目的についてどこまで聞いてる?」
馬車は6人は乗れる箱馬車。3人ずつ座れる椅子が両脇に配置されている。その片側を目一杯使うリナルド枢機卿の姿は電車で脚を広げて座る迷惑乗車の乗客のようだ。
無論俺たちは反対側に小さく寄り添って座る。寒さから身を守る小動物のように。
「あ、ああ。皇帝の無法を糾弾する為だとは聞いているが」
「そうだな。今回俺たちはフリードリヒの野郎に『平和の破壊者』と言う称号をプレゼントするつもりだ。無論、異端の疑いもセットでな」
「まあ、そんなとこじゃろうな。皇帝はやりすぎだとわしも思う」
「だがな、今回は猊下がキレ気味でな。皇帝の罷免を行うって息巻いてやがる」
「つまりそれは、全面戦争ということか?」
「まあ、そうなるだろうな。何しろ後ろ盾はフランスだ。猊下の息が荒くなるのも解からんでもない」
「しかしそんなことをすればまた、イタリアが主戦場じゃ。ローマとて無事かどうかわからんではないか」
「まあ、ローマはせいぜい囲まれるぐらいで済むはずさ。いくらフリードリヒとは言え『永遠の都』ローマの破壊者として歴史に名を残したくはねえだろうからな」
「あの、すいません」
俺は勇気を出して会話に口をはさんでみた。
「なんだ?」
「いや、ほら、俺って聖地から来たじゃないですか? 生まれもイタリアじゃないし。状況がうまく飲み込めないんですけど」
「そうか、そう言えばお前は『異邦人』だったな。従兄上、すまんが今の状況をコイツに教えてやってくれ」
「ああ、そうじゃったな。ジョルジオはあちらの生まれじゃった。話がピンとこぬのも無理はなかろう」
伯はいつもの優しい笑顔で俺を見る。一応伯にはシルヴァーノの書いたシナリオ通りの俺の生い立ちを説明はしてある。しかし、やむをえない事をは言え、この笑顔の前では嘘をついていることが後ろめたかった。
「まあ、元々孤児同然の身の上だったフリードリヒを保護してやったのは、我らにとっては大伯父に当たる教皇インノケンティウス3世猊下なんじゃ。それにあやつを皇帝の座に据えてやったのはその政策を引き継いだ次の教皇ホノリウス3世。
フリードリヒが皇帝を名乗れるのは全て教皇のおかげ。その教皇をないがしろにし、ましてや我らに矢を向けるなどは言語道断じゃ。教皇の物は教皇に、皇帝の物は皇帝に。古代から続く原理を儂らは主張しているに過ぎん。しかもだ、その後を継いだ儂らの伯父、教皇グレゴリウス9世が温情を示して破門を解除してやったにもかかわらず、皇帝は今も我らに刃を向けている」
「ちなみに、皇帝側の言い分はどうなんです?」
「奴らの言い分はいつも同じよ。俗界の事に教皇は口を出すな。教皇派などと名乗る賊徒を自分は皇帝の名において討伐しているに過ぎないと。教皇派の都市や諸侯が根絶やしにされてしまえば皇帝は教皇に何を言ってくるかわからん。
実際、先の教皇選挙の時などは選挙に参加する枢機卿の内、2人も皇帝によって捕らえられているし、先ごろフランス王の仲介でようやく解放された物の、公会議に出席する為に旅をしていた聖職者達をも拘束した。皇帝の領域ではない聖なる領域に足を踏み入れてきてるのはやつの方なのじゃよ」
「なるほど、複雑なんですね」
はっきり言ってここまで来るとよくわからない。以前、シルヴァーノが言っていた『どちらが偉いのか』と言う根本的な問題に、様々な情勢が加味してぐちゃぐちゃに絡まった糸玉のようになっているのだろう。リナルド枢機卿や伯は近い身内が教皇として当事者であったのだから、皇帝に対する憎しみも大きくなろうというものだ。
しかしこれだけもつれた状況でわざわざ仲介に乗り出すフランス王とは一体何者なんだろうか。よほどの変わり者か、それともこのぐちゃぐちゃの現状に何か自らの利益を見出した野心家なのだろうか。
「お前の言うとおり、一言で言い表せば『複雑』だ。様々な要因が積み重なって今や抜き差しならねえとこまで来てるって事だ」
黙って伯の話を聞いていたリナルド枢機卿が口を開く。そしてニカッと口を広げて笑う。
「まあ、情勢は有利とは言えねえが俺がいる限りこれ以上はやらせねえ。まあ見てろ。最終的にはこの俺が、あのフリードリヒの貧相な首を捻ってやるよ」
「リナルドさんは皇帝と面識があるんですか?」
「ああ、何しろ俺の実家に来たからな。全く、皇帝なんぞというからどれほどの男かと期待してりゃあ、うだつの上がらね赤毛の男でな、みっともねえにも程があるってもんだ。なあ従兄上?」
「うむ。アレはもう14年も前じゃ。伯父のグレゴリウス9世が実家に戻ったところを訪ねると言った形で教皇と皇帝の面談がなった。その席で『平和の接吻』がなされ、一応の和解がなったはずなのじゃがな」
すげー、コンティ家すげー。皇帝が家を訪ねてくるとか、流石名門だ。
「まあ、とにかくだ。今回の公会議は荒れる。それだけは覚悟しておくんだな」
「覚悟って、たかが会議ですよね?」
「本当に馬鹿だなテメーは。会議をすりゃあ結果が出る。このまま猊下の言い分が通って皇帝罷免なんて事になってみろ? あのフリードリヒが「はいそうですか」と受け入れると思うか?」
「そりゃあ無理でしょうけど」
「だったらどうなる? 奴は皇帝で兵を持ってる。そいつを俺たちに向けてくるのが自明の理なんじゃねーのか?」
「そうなってもいいようにフランスを頼るんですよね?」
「あくまでそれは保険だ。フランスも帝国と揉めたいわけじゃねえ。矢面に立つのは教皇派の都市や諸侯、それにお前たちだ」
「「えっ?」」
「え?」
「ちょっと待つんじゃ。わしはそんなこと聞いておらんぞ! 兵を連れてきたとは言っても高々300、皇帝と事を構えるなど出来るはずがなかろう!」
「そうですよ! 俺なんか女たちまで含めても40に満たないんですよ? 盗賊相手ならまだしも皇帝と戦うとか無理ですって!」
「誰がお前らに意見を聞いた? お前らは俺の犬。言われたことをしてりゃあいいんだよ!」
「いや、そうかもしれんがリナルド、これはあまりに無茶が過ぎるぞ?」
「あ?」
「い、いやその、ほら、戦いは数だって言うし、わしらがどれだけやる気があっても物量の差には勝てないかな、なんて」
枢機卿のひと睨みで伯のトーンはダダ下がりだ。頑張れロタリオさん! アンタの言葉に俺達の命運が掛かっているんだ!
「なあ、従兄上? 今まで俺が勝算の無い事をしたことがあるか?」
「そりゃあ、お前の言うことはいつも正しかったさ。けど今回は流石に」
「怯える犬どもに俺がヒントを出してやろう。リヨンに集まるのは俺たちだけじゃない。フランスの諸侯も来るだろうし、この情勢じゃ皇帝を敵として一山当てたい連中だって来るはずだ。そうなりゃ街に溢れんのはなんだ?」
「そうか、傭兵じゃな!」
「そういう事だ。お前らはそこでブルゴーニュの騎兵なりガスコーニュの歩兵なり好きなのを雇えばいい。金は教会持ちだから安心しろ」
「傭兵なら死んでも惜しくはないしの。ましてやフランスの田舎者とあればなおさらじゃ」
「まあ、そういうこった。そうだな、従兄上のところで100、ジョルジオは30ってところを目安に雇え」
「俺のとこは30なんですか? 合わせても60ぐらいにしかなりませんけど?」
「自前の兵の数を超えると傭兵どもに反乱を起こされるからな。あいつらには良識は期待できねえ。だからこそ遠慮なく死地へと送り込むことができるんだがな。とは言え傭兵も早いもんがちだ。急がねえとカスみてぇなの掴むはめになるぜ?」
なるほどね、雇いはするけど信じない。いざって時は最前線か。傭兵ってもっとかっこいい物だと思っていたが、現実は非情だった。伯の話によれば傭兵は仕事がなくなればあちこち略奪して回る迷惑極まりない存在であるとも言う。命を的にして金を得る以上、厳しいところに回されて当たり前、死んだら死んだで悲しむものとて誰もいない。全く、聞けば聞くほど傭兵稼業ってのは世知辛い。
「まあ、くだらねえ話はここまでだ。さぁてここからはお楽しみ、俺が忙しい間を縫って書き溜めた詩をお前らに披露してやる」
枢機卿はいかにも楽しそうに、そう言い放つ。対照的に伯の顔は青ざめ、作り笑いが固まったまま動かない。まあ、詩を聞くぐらいのことでいいのならいくらでも構わないと、この時の俺は思っていた。何しろ博学なリナルド枢機卿の事だ。手紙ですらあそこまで見事に書けるのなら詩の方も十分に期待が持てそうだと思っていたからだ。
――残念な事にそうではなかった。微妙な節回しで読み上げられるそれは、何一つセンスが感じられない。しかもその節回しが独特で、黙って聞いているのですらも辛いほどだ。それなのに枢機卿は一篇の詩を読み上げるごとに感想を聞いてくる。
人間って何事も万能というわけには行かないようだ。完全無欠と思っていたリナルド枢機卿ですら音痴と言う残念な特性を備えている。これを延々と密室で聞かされる俺達二人の精神力は恐ろしい程消耗させられた。
馬車はジェノヴァからニースへと向かう。アルプスの麓の絶景は枢機卿の創作欲を刺激するらしく、なにやらペンを走らせている。その間、少なくとも俺たちの耳と心は無事でいられる。俺と伯もこの絶景を心に収め、少しでも精神衛生を改善しようと努めていた。
その後、馬車はプロヴァンスから内陸に向かい、リヨンまではあとわずかだ。このあたりまで来ると冬の色が濃くなってくる。ニースで書いたと言う詩を聞かされる俺達の心もまた、冬模様だ。
この旅で、唯一救いだったのは聖職者と諸侯で宿が違った事だ。夜になれば解放される。それだけを心の支えに昼の苦行をやり過ごす。もちろん夜になれば俺と伯は連れ立って酒場に繰り出し、嫌な記憶を抹消するかのように飲みまくる。酒の味すらももはやどうでもよく、只々無言で盃を交わした。
スイスを発しフランスから地中海に流れ込むローヌ川。その川に北から流れ込むソーヌ川が合流する。この川を越えればそこにはローマ帝国時代、ガリア属州の中心として栄えた歴史あるリヨンの市壁が見えてくる。この辛く苦しい旅もあとわずか。俺は伯と目配せをし、長かった精神攻撃を受け続けた時間が終りを迎えることを祝いあった。最後に枢機卿がローヌ川をテーマとした詩を唄い終わるとそこはもう、リヨンの街の中だった。
馬車を降り、深呼吸する。街の空気は汚物臭かったがそんなことには構っていられない。とにかく新鮮な空気を取り入れる必要に迫られていたのだ。以前、耳にしていた通り、街の中には行き交う人に紛れて豚の姿があった。そしてその餌となる人の排泄物。シルヴァーノが言うには飛行機に乗ったまま旅立ってしまった『星の王子様』はこの街出身だというが、ロマンにあふれた物語と違い、俺の目にしているリヨンは豚とねずみの走り回る、アンモニア臭のきつい不潔な街だった。
「これだからフランスは嫌なんじゃ」
鼻を絹のハンカチで抑えながら伯がつぶやく。清潔さには定評のある古代ローマの血を色濃く引いたイタリア人にはこの景色は耐え難いに違いない。イタリアの付け根に当たるジェノヴァでさえ、不潔と言うイメージには程遠いのだから。
今にして思えばアッコンやクレタ、ドゥブロヴニクの街は路地裏こそ汚かったものの表通りは清潔だった。少なくとも街の空気は爽やかだったし、馬糞や牛糞が落ちていることはあるものの人の排泄物を目にすることはない。
俺たちは馬上、汚いものを馬が踏むことのないよう注意しながら、教皇達の滞在するサン・ジャン大聖堂とはソーヌ川を隔てたローヌ川との中洲地区にあてがわれた宿舎に向かう。
一緒に同行してきた諸侯たちは近隣の村に分宿し、伯の連れてきた兵も、50名ほどの手勢を残しただけで残りは配下の騎士が率いて近隣の村に泊めてもらうそうだ。俺のところは元々人数が少ないので全員街の中に宿を取る。すでにリヨンの街は教皇の来訪とあってお祭り騒ぎ。豚も人も糞を踏むのも厭わずに、街路に出てきて祝っている。そんな中、俺と伯は枢機卿を避けるべく、早急にあてがわれた宿にこもる。
俺と相部屋なのは護衛兼陸戦隊長を自称するシェラール。となりの部屋には伯とその騎士ジェラルド卿。階下の大部屋にはルチアーノと数名の仲間が泊まり、その隣にはヒュリアをはじめとした世話係の女たち。残りはフェデリーゴが引率して一つ通りをはさんだ宿に滞在している。伯の兵も10人程がこの宿に留まり、残りは近在の宿に分宿している。俺と伯が滞在している関係から、この酒場を兼ねた大きめの宿、『大鹿の頭亭』が本拠となっている。酒場にはその名の通り、昔、宿の主が仕留めたと言う、大きな鹿の頭の剥製が飾ってあった。
その夜は主だったものが集まり、旅の無事を祝ってささやかな宴席が設けられた。伯が乾杯の音頭を取り、俺たちは地元のワインを始め、ブルゴーニュの高級ワイン、それにシャンパーニュの発泡ワインなどを楽しんだ。料理は肉や、野菜と内蔵を煮込んだスープ。それに黒パンとさえないものだったが仕方がない。内陸のこのあたりは魚が高級品で、あったとしても泥臭い川魚しかないと言う。訛りの強い宿の親父も交えて宴席は楽しく進んだ。
翌日、俺は伯と連れ立って教皇の滞在しているサン・ジャン大聖堂に赴いた。ついつい忘れそうになるが、俺達はこのリヨンまで遊びに来たわけではないのだ。教皇の騎士として身辺の警護も重要な仕事だった。
とは言え街の中で教皇を害そうなどと言う不届き物がいるはずもなく、置物のようにぼさっと突っ立ているのがほとんどだ。俺の方は聖堂の前面に兵を置き、伯の手勢は巡回に回る。全員という訳ではなく半分づつが半日交代で警護を務める。俺は昼になると如才ないルチアーノに役目を代わり、伯もジェラルド卿と交代する。手の空いた俺と伯はあらかじめ打ち合わせたとおり、この日は遠乗りに出かけることにした。
同行してきた諸侯からは伯の元に、「ご挨拶に伺いたい」と何通もの書状が届いていた。伯はそれを逆手に取り、諸侯が駐留している村々をこちらから訪問すると返事を出している。諸侯からすれば、旅の間に実力者たるコンティ伯と親交を深めておきたかったのだが、出発早々に枢機卿に拉致されてはそうもいかず、この機会を待っていたらしい。伯は来てもらうのもいいが、それではこちらが退屈だろ? とばかりに俺を誘って出向くことにしたらしい。確かにこの不潔な街から出られるものならその方がありがたい。
俺は仲間のうちで馬に乗れるシェラールとヒュリアを連れ、伯もグスターヴォと言う騎士と数人の騎兵を連れて街をでる。訪ねるのは諸侯なので、それなりの恰好を。俺は前に伯から頂いた、毛皮のついたシュールコーを平服の上に羽織り、頭には赤い羽飾りをつけたつばの広い帽子を被った。季節はもう冬と言っていい。このくらい厚着をしなければ肌寒いのだ。
諸侯の反応は様々で、何か知らないか? と情報を聞きたがるもの、露骨に媚びてくるもの、そしてついてきたは良いものの、領地が心配で仕方がないものなどがいる。伯はそれら諸侯に対して、俺を教皇騎士の首席だと、自分の上位者として紹介する。興が乗れば、相手のもてなしを受け、長居することもあるし、気に入らなければ最低限の挨拶ですませ、退出する。不安に思っているものにはリナルド枢機卿の優秀さを語り、枢機卿がいるから大丈夫だ、と力づける。
伯の話はいつもさっぱりとしていていやらしさを感じないだけではなく、何か、こう、人を惹きつける優しさみたいな者がある。こういう人はどの時代に生まれついても人の上に立つようになるんだろうな、と俺は感心しきりだった。
そんな日々が数週間続いた頃には季節も本格的な冬に入る。昨日はこの辺りでも初雪が降った。伯は事のほか寒さが苦手で、外に出ようと誘っても首を振る。まあ、イタリアの温暖な気候に育った伯にはこの地の冬がきついのだろう。俺の方は案外そうでもない。寒いといっても心底冷え込むような事もなかったし、雪が積もって身動きができないわけでもない。元々暖房器具もロクにないあのアパートに住んでいたからかもしれないが。
意外なことにヒュリアもシェラールも寒さには強かった。彼らの故郷では冬場は3日に一度は雪が降るそうで、このくらいは寒いうちには入らないのだという。まず雪などろくに見たこともないと言う、ローマ育ちの伯とは大きく違う。さらに最悪なのはフェデリーゴをはじめとする元船乗りの面々だ。まだ初冬だというのに、真冬のような防寒着を鎧の上に羽織って勤務している。フェデリーゴに至っては剃り上げた頭に毛織物の帽子を被り、その上に兜をのせていた。
如才ないルチアーノも寒さだけは別らしく、常に火のそばに佇んでいて離れない。みんなからずるいの何のと言われようが、お構いなしだ。鎧の下にも相当着込んでいるらしく、着膨れした彼の見た目は今やフェデリーゴ以上に逞しい。
そう言った小さな事件はいくつもあったものの、全体としては穏やかな日々が過ぎ、いつの間にか聖誕祭の季節になった。現代で言うところのクリスマスだがキリスト教の代表者というべき教皇がこの地には居る。
当然教会や市民の熱の入れようも例年とは違うらしく、街は聖誕祭一色の雰囲気だ。とは言え、プレゼントの交換などをするわけではなく、あくまで儀式の一環だ。つまらないことこの上ない。
朝早くから盛大なミサが開かれ、関係者である俺は伯と並んで聖堂の2列目に席をあてがわれる。居並ぶ人々はみな、高位の聖職者たちだ。いつもどおりの口パクで聖歌を歌っているフリをして、荘厳な儀式を眺め、何を言っているのかわからない教皇の話を神妙な顔で聞く。となりの伯も眠そうな目をギュッと閉じて、見開いたり、やたらに肩を上げ下げしたりして眠気を堪えている。こんなのが年明けまで続くと聞いたときは一瞬意識が遠のいた。
とは言え新年の祝いは格別だった。伯と俺に加え、親しくなった諸侯たちも招いてのどんちゃん騒ぎ。みな、さしてする事とてないこの生活に飽き飽きしていたのだ。ある男爵は釣りが好きで、ほかにすることもないので毎日川で釣りをしていると言うし、別の騎士は間借りしている家の前に花畑を作っているのだと言った。中には村の農作業を兵と共に手伝い、ちょっとした賃金までもらったなどと言う強者もいた。狩りをしようにも森は周辺貴族の持ち物なので勝手に踏み入る事はできないし、宴会をしようにも村にそれほど大きな建物があるわけでもない。朝起きて、剣を振ったり鍛錬をしたりして、飯を食って寝る。たまに数人づつでリヨンの公衆浴場に行くのが何よりの楽しみ。そんな生活だ。俺もさして変わらない。
午前中は聖堂前で警備。飯を食って午後からは部屋でぼさっとするか、腹筋をしたりして体を鍛えるかのどっちかだ。リヨンの公衆浴場は朝方しか空いていない為、警備が午後の日に、シェラール達と風呂に行く。あとはもっぱら湯で体を拭いて着替えるだけだ。
復活祭の前段階、四旬節の初日、灰の水曜日の前日には謝肉祭(カーニバル)が行われ、明日からの厳粛な節食を前にどこの通りでも肉を扱った料理が振舞われる。季節も和らいできたこの頃から春の復活祭までキリスト教徒は十字架に磔にされたキリストの苦しみを分かち合う為、肉、卵、乳製品などは口にせず、食事も一日一食だけになる。信仰心のない俺からすればいい迷惑だが、周りは100%キリスト教徒だ。肉を食おうにもそもそも出してくれる店すらない。もちろん聖堂ではいつもの如く、儀式三昧。
宗教って案外、めんどくさい物なんだね。
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