第一八話 特別な夜(二〇〇〇年八月二六日 深夜)
私のお気に入り、シューマンの「アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70」が始まる。悲しいような優しいような格調高いカザルスのチェロが静かに響く。ホルショフスキーのピアノが重なる。心のまんなかを小さく振動させるような音たちだ。
ふいに森野さんが私の手を取る。
「いっしょにおどろう」
「いや、でも……」
私は踊りなどできない。
森野さんは手を離すと、まるで抱きつくようにフッと寄り添ってくる。私の首に軽く腕を巻き付け、考えを見透かしたように耳元で囁く。
「なにも考えないで。私ももう振り付けもないから。ただ音に耳を澄ませて、それに合わせてからだを動かす。ただそれだけ」
森野さんのからだは熱く、そしてさっきまでとはまた違う匂いを発散していた。木の香りと花の香りが合わさったような甘くて刺激的な匂い。それに柔らかい胸の感触。頬に触るさらさらとして心地よい髪。
私は森野さんとこのまま密着していたいというだけの理由で、「わかりました」と応じていた。まあ、みっともない踊りだろうとほかの誰に見られるわけでもない。
「それに今夜はきっと特別な夜よ」
「え? 特別って?」
森野さんの言葉に表面的に反応しながら、さすがに公民館ではこれ以上のことは無理だろうなと思いながら、私はさりげなく森野さんの背に手を回す。少しだけ抱き寄せる。ざくっとした編み方の肌触りのいい布地がうっすら濡れている。
「ふふ。私にもよくわかんない」
森野さんは妖しげに言う。どうも祭りのことでもないらしい。あろうことかさらに身体を預けてくる。大人の女性の重みを感じる。
わずかに脚に力を込めながら、まずいよ、森野さん、と思う。がまんできなくなってしまう。
キスをしたくてたまらなくなった私の気持ちを察したかのように、森野さんは腰を引き寄せられたままの身体を柔らかく起こす。私をみつめる。
半月のように照らし出された顔。かすかに笑っているような、なにも考えていないような、ニュートラルな瞳。私の行為を拒否しているわけではないけれど、かといってなにもかも受け入れているというわけでもない感じもする。
キスをしようと顔を近づける。すると、森野さんは、まるではぐらかすように腕の中からするりと抜け出す。でも逃げるわけではなく、すぐに片方の手をほんの添える程度に私の肩に載せて踊りはじめる。穏やかなリズムに乗せた繊細な身体の動き。
「さあ、おどろう」と森野さんが優しく導くように囁く。
曲の感じからして、それに私に踊らせることを考えに入れて、勝手にチークダンスとか社交ダンスのようなものを想像していたが、森野さんの動きは完全にクラシック・バレエのものだった。
どう動いたらいいのかまったくわからない。どうしたものかと森野さんの足の動きと床を見つめると、自分が靴を履いたままであることに気づいた。山歩きをするというので履いてきたビブラムソールのトレッキングシューズだ。こんな硬い底で素足を踏んでしまったら、まちがいなく怪我をさせる。
森野さんが離れたタイミングを見計らって、素早くしゃがんで靴を脱ぐ。靴下を中に突っ込む。森野さんと同じ素足になった。木の床がひんやりとして足の裏が心地いい。一足ずつ、テーブルの下にきれいに並べられた森野さんのサンダルの横に滑り込ませる。意識したわけではないし、たぶん狙ってもできないが、両方の靴はまるで揃えたみたいにぴたりときれいに並んだ。
顔を上げると、森野さんは片脚を大きく後ろに上げながら、さあ、はやく手を取って、というように手を伸ばしている。そして深い笑み。そのとき私は、完全に受け入れてもらったのだと感じた。どこからともなく、自分は踊ることができるという気持ちが湧いてくる。森野さんは、特別な夜、と言っていた。だったら私にだって本当に踊ることができるかもしれない。
ゆっくりと立ち上がりながら、以前見たことのあるバレエの断片的な情景をかき集める。フィギュアスケートも混じっていたようだが、この際かまわないだろう。
考えるな、耳を澄ませ。
私はバレエダンサーになったつもりで、できるだけ背筋を伸ばし、片足をすこし後ろに引いて、それらしいポーズをとってみる。そして森野さんの手を取る。
森野さんが微笑む。
「今夜は私の王子様になって」
真顔に戻ってふわっと近づいてくると、素早く唇を重ね、ほんの短い間強く押し付ける。あっという間に離れてしまう。でもそれは、挨拶代わりやお礼とはまったく違うものだった。もしかすると一晩くらいなら私も王子様になれるかもしれない。おとぎ話みたいに。
余韻に浸る間もなく、森野さんはくるりと背を向けるとつま先立ちの状態から膝を先頭に右脚をゆっくりと上げていく。ほとんどなにも考えず脇腹を両手でそっとサポートする。薄い生地の下に贅肉のほとんどない張りのある皮膚を感じる。やがて右のつま先が天井を指すと、森野さんは首と背をわずかにうしろに反らす。わずかに覗く表情は、うっとりしているように見えなくもない。バランスが崩れない程度にそっと支える。親指に力強い背中の筋肉を感じる。髪の毛が顔に触って、すこしくすぐったい。
そのとき、自分がどうすればいいのかがはっきりわかる。森野さんが気持ちよく踊れるようにすこしだけ手助けさえすればいい。ひとりではできないポーズもたぶん私の助けで可能になるのだ。
カザルスのチェロに対するホルショフスキーのピアノもそんな感じだ。カザルスのチェロをやさしく支える。
10分半ほどのこの曲の前半は、しっとりとした旋律の穏やかなテンポで流れる。ゆるやかなせせらぎと水面に踊る光のようにチェロとピアノが呼応する。苦しみを抱えたチェロをピアノが励ましているみたいにも聞こえる。
さして動いているわけではないが、私は森野さんの踊りに加わって、それをその内部で楽しんでいる。そういう感じがする。いや、それ以上だ。森野さんのしたいことがわかる。どう動こうとしているのかが頭ではなく、別のところでわかる。
それに、踊ることを難しいとか恥ずかしいとか感じるどころか、音楽と森野さんと一体になった世界に恍惚感さえ覚えている。これまでに感じたこともないような力が、体全体にみなぎっている。余計なものを全てそぎ落としたかのように体が軽い。
片脚を前方に大きく振り上げながら後ろに倒れ込もうとする森野さんの腰を、余裕で支える。まるで何千回も練習してきたみたいに簡単に反応する。ぐらつきもしない。
起き上がった森野さんは、またゆっくりと体を動かす。この夜を慈しむようにゆっくりと。私は、そっと手を差し伸べたり、頭の上で手を取ったり、腰を支えたりするだけだ。それだけのことだが、たぶん最初よりずっとうまくなっている。それに、そんなはずはないのに、まるでずっと踊っていなくて忘れていた踊るということを思い出したかのように、イメージが湧き、体が自然に動いていく。
ちょうど半分辺りで、曲は止まりそうに遅く、静かになっていく。チェロの心に平安が訪れたように全体としてトーンが抑えられていき、曲が終わるかのようにホルショフスキーのピアノが余韻のある音を二つ響かせる。
森野さんもそれに合わせて、私のすぐ前にそっと立ち止まる。ほんの30センチくらいの距離に。それから急に緊張を解いて、にこりとする。いたずらっぽさを秘めたような瞳だ。踊りに没頭していた私はその意味を理解できない。
森野さんが唐突に抱きついてきた。子供じみた抱きつき方だった。
「曲の終わりまでに私を動かしてみせて」
まるで祈りでも念じるように耳元で囁く。さっと私から離れ、強く目を見つめる。
踊りで森野さんを魅了しろというのか。
無理だ、という意識が頭の端をよぎる。だがいつもは私の中で活躍するこの言葉は、どうやら今夜はあまり力がないらしい。
ピアノがタンと弾けたとたん、一気にテンポが上がる。
次の瞬間、森野さんは強引に動き出し、ふたたび踊りの中に引きずり込まれる。
チェロの音とピアノの音が、まるで恋に落ちたみたいに絡み合い、饒舌になる。
右に左に引っ張られて足をもつれさせそうになりながら、必死で森野さんの動きに合わせる。ただ森野さんの動く方向に動くだけ。ステップはステップでも、まるでテニスのサイドステップだ。
ラテンだかアラブだかの民族舞踊のような感じでスキップするように舞いながら、森野さんは楽しそう笑っている。その視線の行き先を見て、次の動きを予測する。必死に動いているはずなのに、私まで笑顔がこぼれる。
魔法にかかったように、いつしか森野さんのステップに合わせることができるようになっている。森野さんの言っていた特別な夜というのはこのことなのだろうか。できなかったはずのことができるようになる。不可能が可能になる。まるで、変身してヒーローにでもなったみたいだ。本当に王子様になれそうな気がする。
曲が再び穏やかになる。優しく寄り添う。乱れた呼吸を整える。森野さんが穏やかなまなざしで私を見る。熱い身体に、燃えるような感情が沸き上がってくる。直に皮膚が触れあうところは、溶け合ってしまいそうだ。
それも束の間、曲はまただんだんとピッチを上げていく。今度は社交ダンスみたいになる。どちらからともなく両手を握り合い、片方の腕を広げ、腰の辺りで身体を密着させて、スピードが上がっていく。滑るようにあっちへこっちへと動いていく。一糸乱れぬふたりのステップ。一体化したようにくるくると回りながら動いていく。まるで遊園地のコーヒーカップだ。なにかに取り憑かれたようにただもう体が勝手に動いていく。笑いがこみ上げてくる。
カザルスのチェロは、曲の導入からは想像もできないほどせわしなく動きはじめ、ホルショフスキーのピアノも狂い咲くように踊り出す。
森野さんは、すごい速さで動き回りながら、ポーズを決めていく。解き放れたように動いていく。それでも私は森野さんの動きについていける。音に乗って、自分らしく動けるようになっている。
ピアノとチェロが掛け合いみたいに短く交互に躍り出る。森野さんがチェロに合わせてソロをとれば、今度は私がピアノに合わせてソロを踊る。
曲はやがて、希望に満ちた感じのフィナーレへと向かう。
飛ぶときも、跳ねるときも、回るときも、気持ちは完璧にシンクロしている。森野さんの思いが私に伝わり、私の思いが森野さんに伝わる。肉体の感覚は消え失せ、意識だけが森野さんとつながっているみたいだ。
眩しいほど明るい。部屋の風景が光に溶けてしまったように、森野さん以外、ほとんどなにも見えない。
チェロが音の階段を激しく上ったり下りたりする。ジャズの即興みたいにピアノがチェロに絡みつく。視線は絡み合ったまま離れない。一体になったように、私たちは舞い続ける。
シューマンの曲はいよいよフィニッシュを迎える。森野さんは充足したような深い笑みを見せてくれる。まだまだ力のみなぎっている私はもっとずっと踊っていたい気持ちに駆られている。
カザルスとホルショフスキーが休止符を挟んだ力強く短い3つの音で最後を締めくくる。私たちは互いの目を、吸い込まれるように見つめ合ったまま、最後を決める。
一瞬の間を置いて、割れんばかりの拍手が光に照らされた私たちを包みこむ。まるで本物の観客がいるみたいな気分になって、私は拍手のする方を見て微笑む。
なんという開放感。私の人生に一度も登場したことのない「悦楽」という言葉さえ浮かんでくる。踊りに誘ってくれた森野さんをあらためて感謝の目で見る。
森野さんの瞳は潤み、うっとりと私をみつめていた。どうやら私は本当に王子様になれたらしい。
拍手がフェードアウトして、「鳥の歌」が始まる。
半月に照らされた森野さんの顔がふっと私に近づく。森野さんの視線が私のくちびるを瞬間捉え、くちびるが私のくちびるを捉える。するっと忍び込んできた舌が私の舌を絡め取る。小さな電気が脳の中を走り、なにかがはずれされる。
悲しげな調べ中、互いのくちびるをむさぼり、互いの身体をまさぐりあう。こんなに情熱的に誰かを求めたことはなかった。平和を求めるカザルスの演奏は今は不似合いなBGMにしかすぎない。
最後の拍手が終わり、静まりかえった図書室で私は森野さんのタンクトップの裾に手をかける。すると、宿直室の方を見て森野さんが言った。
「あっちで、しよう」
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