第二話 河村教授(二〇〇〇年八月二五日 朝)

 20世紀最後の夏も終わりに近づいた金曜日の朝早く、私は東京駅から新幹線に乗って岩手県へ向かった。県立岩山大学の付属機関である森林植生研究所を訪ね、河村龍平教授が長年観測してきた古い気象データを写させてもらうためだった。

 今朝に備えて昨晩は早く寝ようと思っていた。ところが、今日からの休みの間に走らせておこうと思っていた解析用のプログラムがなかなかうまく動かずすっかり遅くなってしまった。そのせいか大宮を過ぎた辺りで急激に眠気が襲ってきて、音楽を聴きながらそのまま寝入ってしまったらしかった。窓際の席の人が立ち上がった気配がして、目が覚めた。トイレにでも行くのだろうと思って、反射的に足を引っ込めた。でも、その人は棚から荷物を下ろしていた。外の景色はすでに緑に溢れ、空が広かった。イヤホンをはずすと、車内アナウンスが「あと二分で岩山駅に到着します」と告げた。それは私が降りる駅だった。慌てて降車の準備を始めた。


 岩山市はゆるやかな山並みを背後に控えた、人口10万人ほどの地方都市だ。駅の造りや雰囲気は東京近郊の都市のものとさして変わらない。でも、空気はずっと新鮮で、会社に向かうサラリーマンたちの表情も歩き方もずっと穏やかだった。それに、今晩から行われる祭りを控え、新幹線の停車駅としてはささやかなコンコースは、勤め人に混じって、祭りの準備に追われる人や気の早い観光客も目立ち、普段にはないであろう活気に満ちていていた。

 ローカル線のホームに立つと、ついさっきまで東京にいたことが信じられないほどだった。止まっていた2両編成の電車――というよりたぶんディーゼルエンジンで動く気動車――はワンマン運転のようだった。運転席のすぐ後ろのドアだけが開いていて、そこには精算機としてはやけに大振りな機械が据えてあった。

 東京を出た時には雲が多かったが、岩山の空は晴れ渡っていた。旅行をするにはうってつけの日だ。それに今日はちょっとした山登りもすることになっている。

 出発してしばらくすると、車窓から見える東北特有の青が徐々に深みを増していく。

 30分ほどで「里山中」という小さな無人駅に着いた。

 そこはもう山のすぐ麓で、狭いホームにたったひとり降り立つと森の木の清々しい香りが私を迎えてくれた。日差しが強く、10時前というのに気温はずいぶん上がっていた。それでも、ほどよく湿り気のある澄んだ空気は心地よかった。これだけでもはるばる来た甲斐があるというものだ。

 森林植生研究所に行くためにはここからさらに路線バスに乗らなければならない。


 研究分野が違うためか、河村教授のことをこれまでまったく知らなかった。データのことは私の興味を知った大学院時代の先輩が教えてくれたのだ。ちょうどその頃私が欲しいと思っていた、森林における精度の高い長期間の気象データを取り続けている話を、講演の中でちらっとしていたということだった。教授と同じ大学で働いていたことのある研究者からその先輩が聞いた話では、教授は学生もほとんど取らず、森の中の研究所でひとり研究にいそしんでいる相当の偏屈者らしい。とにかく研究を邪魔されるのが嫌いで、突然電話されるのもあまり好まないということだった。酒の席の話なのでどこまで本当かわからないが、確かにそういう雰囲気はあったと先輩は言っていた。しかしまあ同じ研究者としてはわからない話でもない。


 すっかり一般的になった電子メールもまだ使っていないらしいし、使っていたとしてもメールアドレスもわからない。電話番号は調べればわかりそうだが、私は面識のない人と電話で話すのは苦手だったし、それに教授もあまり好きではないらしいので、手紙がもっとも適切な連絡手段だと思われた。いずれにせよ何も知らずに連絡するのは失礼だと思い、大学図書館で学術誌のバックナンバーを探して教授の論文をいくつか読んでみた。そうしたらそんな人物評はどうでもよくなった。すばらしい論文だった。植物学は私の専門外だから細かい部分はわからなかったが、迫力のある第一級の論文であることはすぐにわかった。

 データを見てみるまでは実際に自分の研究に役立つかどうかはわからない。でも論文を読んだら、教授の観測したデータをどうしても手に入れたくなった。それで私は、いま森林が地表近くの大気に与える影響を調べていて、山林を代表するような長期間のデータを探していた等々、研究予算を取るくらいの熱心さで手紙を書いた。

 投函して5日後の午前中には河村教授から薄い封書が届いた。趣旨はよく理解できたからコピーして送ってもいいが一度来てみないか、という内容の短い手紙だった。文面や筆跡は思いのほか丁寧で、話に聞いていたのとはちょっと違う印象だった。それに、一度話をしたいからよければ電話をしてほしいとも書いてあった。電話で人と話すのがまったく嫌というわけではないのだろう。

 話す内容を箇条書きにして、最初のいくつかの台詞を頭の中でまとめ、二度咳払いしてのどの調子を整えてから、電話をかけた。

「ああ、太田さんか」

 しわがれた不機嫌そうな声だった。別の電話を待っていたのに、期待がはずれてがっかりしたようにも聞こえた。まずいときに電話をしてしまったのかと思った。教授のすごさがわかっていただけに、普段より一層緊張していたのだ。しどろもどろになりながら、返信とデータを提供してくれることに対する礼を述べた。

「ああ、そんなことは気にせんでいい」

 電話の向こうでお茶かなにかをすする音が聞こえた。

「それより、なかなか興味深い研究テーマじゃないか」

 その言葉で、高まっていた緊張は、霧が風に払われるみたいにすっと解けた。ぶっきらぼうな口調ではあったが、どうやら機嫌が悪いのではなく、もともとそういう話し方をする人らしい。理学系の研究者や大学教授は丁寧な話し方をする人が多いが、河村教授はたぶん違うタイプなのだ。

「これも何かの縁だし、まあ気が向いたら、少々遠いかもしれないが観測サイトでも見に来たらどうだ? データを使うならその方がいいだろう」

 気象データというやつは思ったよりも敏感なもので、設置環境によって、たとえば気温では数度も違ってしまう。観測サイトを見て、その上でデータを使うかどうかを決めたらいいと教授は言いたいらしかった。

「それに手書きのデータはちょっと癖のある字もあるから、最初のうちは確認しながら写してもらった方がいいと思う。まあ、馴れてくれば大丈夫だと思うが」

 異存はなかった。これまでの経験からいっても、観測サイトは見ておいた方が無難だし、現地に行くことでデータでは見えないような情報を得られることもある。そのことを伝えると、教授は肯定も否定もせず電話の向こうで楽しそうに笑った。

「ところで、太田さん。あんた、祭りは好きかね?」

「祭りですか?」

 特に祭りが好きなわけではない私は返事に窮した。好きでもないのに好きとは言えないし、あまり興味がないと正直に言うのもせっかくの雰囲気を壊しそうだった。 

「2週間後に岩山で4年に一度の本祭りが開かれるから、どうせならそれに合わせてくればいい。まあ全国的にそれほど有名というわけではないが、山車のぶつかり合う勇壮な祭りで、一生に一度くらい見ておいて損はない」

 私の思いを察したらしく抑えてはいたものの、強く勧めてくれている感じが伝わってきた。こんな機会でもなければ、ほんとうに一生見ることはないだろう。それにこのところ研究室に籠ってディスプレイと向き合っていることが多かったから、久し振りの旅行はいい気分転換にもなると思った。祭りは金曜日の夜8時頃から深夜にかけてが見どころということで、金曜日の午前中に研究所に伺う約束をして、ほっとした気持ちで電話を切った。

 電話の後で図書館に行って少し調べてみると、岩山の祭りはそれなりに有名なものらしい。早速予約をしようと思っていくつかの宿に問い合わせてみると、どこもいっぱいだった。あるホテルの人から、大きな会議が近くの大都市で岩山の祭りに合わせて開かれるから、今からではなかなか難しいのではないかと言われた。10軒以上電話してみたが、ほとんど空きはなく、あったとしても一泊数万円の部屋だけだった。まるで桜か紅葉の季節の京都だった。しかも京都みたいに宿泊施設の数が多いわけではない。でもそうなると逆に意地でも探したくなる。いくつかの適当な宿泊代のホテルに、空きが出ていないか何度も連絡してるうち、比較的安いホテルにキャンセルが出て、なんとか宿を確保することができたのだ。

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