第三話 無人駅のおばあさん(二〇〇〇年八月二五日 一〇時頃)

 明るいホームを降り、線路を渡った。焦げ茶色のアルミサッシの引き戸を開け、駅舎に入る。改札もなく、出口に向かうのに戸を開けて駅舎に入るというのも妙な感じだ。冬になればそれなりの雪が降るはずだから必要なのだろう。

 中はむわっと暑かった。外から見た駅舎は家族四人が我慢すれば暮らせるくらいの大きさはあったが、待合室はほとんど廊下と言っていいほど狭く、十歩も行けば同じ引き戸の付いた出入り口になっていた。もちろん中に駅員はおらず、窓口もなかった。右側の窓の下に少々くたびれた木製のベンチがあるだけだった。窓から差し込む明るい陽射しと窓辺に置かれたいくつかの鉢植えが、待合所にわずかな生気を与えていた。窓の向かいの壁には、額に入れられた料金表と時刻表が誇らしげに掲げられ、その横には無人駅にお決まりの掲示板があった。

 掲示板には、消防の制服を着た女優の微笑む消防団員募集のポスターに並んで、もちろん今晩行われる岩山の祭りのポスターが貼ってあった。ポスターと言ってもA3サイズほどで、勇壮にぶつかり合うという山車の写真も、ひどく弛んで貼られているせいで、なんだかやる気がなさそうに感じられた。PRとして掲示はされているものの、いくつかトンネルもくぐってきたし、岩山とここではもう文化が違うのかもしれない。掲示板の端には、バスの停留所までの古びた案内図とほんの一ヶ月前に改訂された真新しい時刻表があった。事前に教授から聞いていた通り、バスは1時間半に1本程度の割合で、次のバスにはまだ30分近くあった。

 暑さから逃れるようにして外に出て、改めて駅舎を眺めてみると、やはり待合室はほんのおまけという感じだった。カーテンの引かれた大きな窓も付いており、住宅地に建っていたら質素で頑丈そうな家と思ったに違いない。ただ、玄関と思われる部分がシャッターで閉ざされているため普通の家とは違う印象を与えていた。大雪が降った時にでも職員が宿泊する施設なのだろう。

 駅前も閑散としていた。車のいない五台分の無料駐車場に、ソフトドリンクとビールの古びた自動販売機が一台ずつと、公衆電話ボックスがひとつあるだけだった。周りは田畑と荒れ地で、2、300メートルほど離れたところに小さな集落が見えた。およそ人の気配が希薄な駅だった。

 念のためバス停を確認してこようかと思ったが、往復で10分くらいかかるようだし、バス停で30分近く待つのもごめんだ。駅から延びている道を見通すと車の往来が見えたので、やめにした。間違いようのない道だ。

 自動販売機で見たことのないブランドの缶コーヒーを買って、日陰の座るところを探した。少し先に大きな広葉樹があって、その木陰にベンチがあった。まるで気がつかなかったが、おばあさんがひとりで座っていた。一見眠っているようだったが、こちらを見ていたらしく小さく会釈をくれた。微笑んだようにも見えたが、影になっていてはっきりとは分からなかった。待合室は暑すぎたし、ほかに選択肢もなかったので、ゆっくりとそちらへ歩いて行った。

「こんにちは。いい天気ですね」

 そう話しかけると、おばあさんはごちょごちょとなにか口にしたが、よく聞き取れなかった。「ほんとにいい天気だな」と言ったようだった。皺の深い陽に焼けた顔がニコニコしていることは、はっきりとわかった。90歳は過ぎていそうだった。隣に座っても構わないかと聞くと、小さく頷いたので、そっと腰掛けた。

 今度はおばあさんの方からなにかしゃべりかけてきた。でも、やはり聞き取れなかった。「どこからきなさった」と聞こえなくもなかったので、「東京からです」と答えた。満足そうに頷いたので、たぶん間違っていなかったのだろう。

 もしかすると、理解していると勘違いされてしまったのかもしれない。おばあさんはどういうわけかひとりで話を始めた。


……コゴドチガテヒトサエッペァエルンビョン。オレワエッタゴトネカラテレビサミダダゲダケンドモ、ドデモスンズラレネアンナヒトオーエノ……ワラスユッタラオメメノワラワアソビサオデァルガモシレネァ。オレワゲエゴロムカシノショモツサイッペエヨンデモラッタスケェオレクレエノモンワソヨブ……ドゴサガヒッコサネバナラネ……


 さらにしばらくおばあさんはしゃべり続けたが、ほとんど意味は分からなかった。少しだけ知識のある外国語みたいだ。

 はぁとか、そうですかとか、ただ頷くとか、ほとんど意味のない相づちを打つしかなかった。それでもおばあさんは話すこと自体を楽しんでいたようだったので、話を聞き続けた。断片的に聞き取れた言葉から推測すると、「最近はすっかり若い人が減ってしまった。子供もいない。あなたのような若い人が来てくれると嬉しい」という過疎地ではありがちな話らしかった。だからといって、私にはどうすることもできない。

 15分ほど聞いて、コーヒーの缶が空になったのを機に「そろそろいかなくては」と言って、立ち上がった。

 どこからか濃い紫色の蝶が1匹ひらひらと舞ってきて、私に戯れた。

 おばあさんは「おぉや、まあ、珍しいねぇ、こんなところまで来るなんてなぁ」と言った。

 いや、そう言ったように聞こえただけだ。

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