第四話 観測サイト(二〇〇〇年八月二五日 一一時頃)
バスの苦しげなエンジン音を聞きながら揺られることおよそ40分。ようやく「森林植生研究所前」というバス停に着いた。里山中の停留所を出たときには3人のお年寄りが乗っていたが、ふたつ目の山に差し掛かるころには乗客は私ひとりになっていた。
バス停の20メートルほど先に研究所への入口となる坂道があった。急な坂を3、4分登ると車を数台停められるスペースがあって、その先が研究所の敷地だった。
研究所は西洋風のコンクリート造りの二階建てで、大正か昭和初期くらいのものらしい。戦後建てられた機能一点張りの味気ない施設とは違って、細かく丁寧な意匠が凝らされている。都内の密集地に立つ一軒家3つ分くらいと大きくはないが、大地に根を張るようにがっちりとしていた。
玄関の呼び鈴を押したが反応はなかった。ゲートの前には教授のらしき小型の四輪駆動車が止まっていたし、バスの本数が少ないので到着時間も決めてあったから、不在ということもないはずだった。
木製のドアをノックしてみるがやはり応答はない。ドアノブに手をかけてみると、鍵はかかっていなかった。明るい外から入ると、電気も点いていない玄関はやたらと暗かった。中の暗がりをのぞいて、「こんにちは!」と大きな声で呼んでみる。
すると入り口から少し入ったところの右手のドアが開いた。薄くなりかけた白髪を後ろになでつけ、黒縁の眼鏡を乗せた丸い顔がのぞいた。暗くて表情はよく見えない。
ちょっと待ってくれ、とだけいって一度顔が引っ込んだ。白いランニングシャツから肩が出ていたところを見ると、着替え中だったらしい。1分ほどして教授が出てきた。見事なまでに顔にフィットした丸っこい体型だった。山登り用のような綿の長袖シャツにチノパンツ、足には履き込まれたトレッキングシューズを履いている。名前や声から想像していたのとはずいぶん違う印象だった。
「やあ、あなたが太田貴文さんか。遠路はるばるようこそ」
教授は私が名乗るのももどかしいようにせわしなく握手を求めてきた。
「実はたった今電話があって、急に午後に用事が入ってしまってな。本当はあなたとゆっくり話もしてみたかったが、残念だがそうもいかなくなった。着いて早々で悪いが、これから観測サイトに行こう」
「ええ」
結構長い移動だったから一服したい気もしたが、ここまで来たからには観測サイトはどうしても見ておきたかった。
「私もここへ来るまでずっと座りっぱなしだったので、ちょうど歩きたい気分でした」
データの取得が当初の訪問の目的だったが、いつのまにか私の中で、観測サイトを見ることと、教授に会うことがメインになっていた。
「すまんな」
少し頭を下げてから私の目を見た教授は、にやりとして私の左肩をぽんぽんと軽くたたいた。
「こっちが研究室だ。どうぞ」
ドアを開け、自分の出てきた部屋に私を案内した。
研究室は思いのほか整理され、さっぱりしていた。窓からはやわらかい光が部屋に差し込んでいた。入り口にすぐ向こうに衝立てがあって、その向こうが教授の机らしかった。机の前と右の壁は書棚となっており、かなり古い専門書から最近の洋書までがぎっしり詰まっていた。机の手前にはおそらく普段のデスクワーク中に履いているであろう年季の入ったサンダルが置いてあった。左手には木製の大きな作業台があった。分厚い板で作られたその作業台の表面は実に様々な傷がついていて、たぶんサンプルの処理とか、観測機材のメンテナンスとか製作とか修理とか、論文を書く時に資料を広げたりとか、教授に酷使されているのであろう。そして、その奥の開け放たれた扉の向こう覗くと、どうやら手近な倉庫として使われているらしく、植物のサンプルやら機材やらプラスチックのケースやらが所狭しと並んでいた。
「山を歩くのに不要な荷物はその作業台にでも置いておいてくれ。山歩きに馴れていないのなら、できるだけ身軽にした方がいい。長くはないが、割と急な道だから」
パソコン用のショルダーバッグを作業台に置かせてもらい、その上にリュックの中の着替えや本やテープレコーダーといった余計な荷物を載せた。
観測サイトは山道を登って30分ほどということだった。
ブナの森だから、割と光が入ってきていて比較的明るかったが、道は獣道のように細く、周りは1メートルほどの背丈の笹が迫ってきていた。想像していたよりもずっと険しく歩きにくい道のうえ、先をすいすい進む教授がひきりなしに後ろを向いては質問をしてくるので、ただでさえあがった息がよけいに苦しかった。森の中は涼しかったが、すぐに汗が噴き出てきた。質問の内容のほとんどは私の研究に関することだった。口を開いている時間は圧倒的に私の方が長かった。いささか閉口したが、ただそれだけ自分の研究に興味を持ってくれているのだと思えて、嬉しくもあった。サイトに到着するころにはもう完全に息が上がっていた。教授はたいして息も乱れていなかった。日頃の不摂生を恥じずにはいられなかった。
ふっと空が開けると、そこが観測サイトだった。人工的に切り開かれたのではなく、何らかの自然条件――たぶん土壌成分とか、すぐ下が岩盤で樹木が根を張れないとか――で、元々樹木が生えない場所らしかった。短い草だけが生えており、天然の理想的観測サイトという感じだった。テニスコート半分くらいのスペースで、昔ながらの百葉箱と太陽電池パネルを備えた最新式の自動気象計測装置が据えられてあった。百葉箱は定期的にペンキが塗り直されているらしく、すっかり高くなった日差しを浴びて、まぶしいほどだった。
きちんと管理されていることは一目瞭然だった。教授は無言のまま、百葉箱を開けて中を確認して、メモを取った。中には普通の温度計と最高最低気温がわかるU字型の温度計、簡易式の温度ロガーも付いていた。それから自動計測装置のデータロガーに旧式のノートパソコンをつないでデータを取得した。一応パソコンも使うのかと私は妙な感心をした。教授の横にしゃがんで、黙ってその作業を観察した。
一通りの作業が終わると教授は立ち上がって、大きく伸びをした。私もつられるように森の空気を肺の中いっぱいに吸い込んだ。強い日差しと木々の発散する夏の爽やかな匂いが鼻や口に甘く広がった。
教授は私を見てにやりとすると、「どうだ?」とだけ訊いた。
「素晴らしいです」と答えた私は自然と笑顔になった。そして、「データも引き継がれているのですね」と感嘆を込めて言った。
教授は、分かるか? とでもいうように頷きながら満足げに笑みを浮かべた。
測器を変更したりするときには、しばらく新旧の測器で並行して測っておくことがデータの連続性を保つうえで重要なのだ。先代の自動計測装置とも同時に測っていたらしいから、教授の場合、さらに開始当初の百葉箱の温度計を目視で確認する計測方法と最新型センサーとの比較も行っていることになる。これならば、何十年も前のデータを最新のデータにうまく補正することができるだろう。
「データの方は信用してもらって大丈夫だと思う」
そういって教授は私に近づくと、あらためて握手を求め、力強く握った。もう一方の手で私の肩をぽんぽんと叩いた。なんだか教授に圧倒された感じで、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
「じゃ、時間もないことだし戻ろうか」
教授の狸のような体がまるで猿のような速さで山を下っていく。実際はそれほど速くはないのだろうが、いずれにせよ私は必死で後を追った。それでも一度も転ばずにすんだのは、ちゃんとペースを考えてくれていたのだろう。
研究室に戻ると、よく冷えた麦茶を出してくれた。もう昼を過ぎていた。
「遅いな。そろそろ昼飯が届くはずなんだが」と教授はつぶやいた。「時間もないことだし作業を始めるか」と言って、自分の机の脇に用意してあった記録用紙の束を広い作業台の上に置いた。
バッグから自分のノートパソコンを出して電源を借りると、スイッチを入れ、表計算ソフトを立ち上げた。
記録用紙は数年分ずつ束ねてあった。一番古いものは一九六〇1960年代の後半からある。初期のものは紙質も悪く、かなり紙が弱っているようだった。
恐る恐る表紙を開くと、思いの外、きれいな字で記されていた。ただ、ところどころに真新しい付箋がつけてあって、明らかに別の人間が記録したと思われる数字があった。その中にはたしかに判読が難しい字もあった。
「私も人間だから、たまには休むし、時には学会なんかでここを離れなければならないときがある。そういうときには手伝いの人にお願いしていたんだ。ご覧の通り少し癖のある字もあるが、温度計の読み方なんかはちゃんと訓練したから大丈夫。心配しなくていい」
いくつか判別の難しい数字を教授に訊くと、だいたいコツは分かった。手伝いの人は数人いたようで、そのたびに教授に教えてもらい、まずその部分を先に入力した。
冬はさすがに雪が深くて登らないのだろうが、春から秋にかけては、台風や大雨といったときを除いて(備考欄に欠測の理由が書いてある)、ほぼ毎日、最高気温と最低気温の記録が取ってある。朝の6時、昼の12時、夕方の6時に連続して記録を取ってある期間もあった。
「80年くらいからは自動で記録するようになったから、まあ、半日もあれば、終わるだろう」
「ええ、たぶん」
「フロッピーディスクの持ち合わせがあればコピーして机の上にでも置いておいてくれてもいいし、なければ後で送ってくれれば、誰かにチェックしてもらうから。あいにく、手元に新しいやつがなくてな」と教授は言った。
電子メールは使っていなくても、パソコン自体はそれなりに使っているらしい。
突然、玄関から、「すみません、遅くなりました! お弁当を持ってきました」と若い女性らしき張りのある声が聞こえてきた。
「やっときたか。腹が減っているかもしれないが、あんたは私のいるうちに、できるだけ進めてくれ。私は飯を食ったら出なければならん。鍵を渡しておくから、終わったら戸締まりをして、郵便受けに入れておいてくれ」
そういって教授は私の前に真鍮製の細長いレトロな鍵を置いた。
「ああ、はい、わかりました」
急な用事ができたと言っていたからそういうこともありうるかもしれないと一瞬想像はしたものの、夕方には戻ってくると思っていた。初めて訪れた研究所でいきなり戸締まりをして帰ってくれと言われ、さすがに戸惑った。それに図々しいようだが、帰りは教授が駅まで送ってくれるのではないかと期待していたのだ。
「それからバスの時間に気をつけてな。ここはタクシーを呼ぶのも大変だから」
私の返事を聞く間もなく教授は玄関の方へ行ってしまった。教授と女性の談笑する声が玄関から聞こえてきた。どうやら教授が女性をからかっているらしかった。女性の短く笑う声が響いてきた。とても感じのいい笑い声だった。それから低い話し声に変わった。いずれにせよ話している内容までは分からなかった。
2分ほどして教授は弁当の重箱をふたつ持って戻ってきた。私の側にひとつを置き、教授はデスクの反対側に座ると、「先にすまんな」と言いながらさっそく折り詰め弁当のふたを開いてもぐもぐと食べ始めた。私は分からない部分があるたびに、記録用紙の向きを変えて教授に聞いた。
それでも教授は10分もかからずに食べ終えると、爪楊枝を加え、出かける準備に取りかかった。帰ってきてすぐにシャツは着替えていたから、薄手のジャケットを羽織り、トレッキングシューズを革靴に履き替え、書類鞄を持っただけだ。
「窓はそことあそこだけ開けてある。夕方になると結構涼しいから早めに閉めた方がいいかもしれんな。玄関の外灯はつけたままでいいから」
私は立ち上がって、あらためて礼を言った。
教授は、礼を言うには及ばないという感じて片手をあげると、あっという間に行ってしまった。
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