第五話 薄暮の出逢い(二〇〇〇年八月二五日 一八時頃)
車が通らないかとしばらく待ってみた。昼間とは違って森からは独特の土の匂いが漂ってくる。5分ほど待ってみたが、時々風で木々がこすれる音したり、甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくるばかりで、車の音など聞こえてきやしない。
あきらめて研究所に戻り、電話でタクシーを呼ぼうと思った。教授は呼ぶのも大変だと言っていたが、事情を説明すればいくらなんでも来てくれないことはないだろう。まさか祭りを理由に来てくれないなんてことがあるだろうか?
来るときの車窓から見た限りでは、最後に人の住んでいる民家からバスで30分はあった。人家のあるところまで歩いていくのは、少なくとも2、3時間はかかりそうだ。ここからだと全体としては下りになるが、一度谷に降りてそれからまた峠を上って、また降りるという感じだ。その手前に2、3の家はあったが、あきらかに廃屋だった。
運がよければ歩いている間に車が通るかもしれない。でもその可能性は低いように思われた。来るときには、バスが山に入ってから、すれ違いも追い越しもほとんどなかった。4キロ近くもあるパソコンや、電源コードなんかの入ったショルダーバッグのストラップが肩に食い込んでいる。それに途中にあった長くて暗くて水のしたたり落ちるトンネルをこんな時間に歩いて通るのも気が進まない。それに歩いて駅に向かったところで、いったい何時になるか分からない。確か最終電車は七時過ぎだったはずだ。あの駅舎の待合室なら泊まれる可能性はあるが、出入り口には鍵が付いていたので入れないかもしれないし、誰かに通報されるかもしれない。本体の方に入れれば間違いなくゆっくり休めそうだが、きちんと戸締まりしてありそうだったし、忍び込む勇気もない。この道の先がどうなっているのかは知らないが、バスの行き先は何とか登山口とかになっていたから、見込みはないだろう。タクシー料金は結構かかるだろうが、この際仕方ない。手持ちの現金は2万円くらいしかないが、とにかくまあ人里まで下りることはできるだろう。
研究所に戻ろうとして思い出した。鍵は郵便受けに入れてしまっていた。確か郵便受けには南京錠がかかっていた。でもダイヤル式だったような気がする。あの外灯のしょぼい明かりでは郵便受けのあるゲートまで光は届かないだろうし、届いたとしても影になってしまう。
バッグに入れてある小さなマグライトで手元を照らしながらの作業は難しそうで、手探りになるかもしれないが、根気よくひとつずつ番号を合わせていけば開けることは可能だろう。いずれにせよ選択肢はそれくらいしか思い付かなかった。
研究所へ続く暗くて急な登り坂をとぼとぼと引き返した。
玄関の周辺は開けているので、バス停から戻ってみると、残照でまだ思いのほか明るかった。ダイヤル式の南京錠はあいにく四桁だった。でも、少なくとも今のところは何とか数字を読み取ることはできる。すぐに見えなくなるだろうが最大でも一時間はかからないだろうと踏んだ。マグライトは電池の残りが心許なかったので、ぎりぎりまで使わないことにした。0000からひとつずつダイヤルを回しては、鍵を引っ張る。ちょっと気になって、9999とか1234とか7777を先にやってみたが、開かなかった。どうぞ9000番台ではありせんように、と祈りながら、また若い番号から続けていく。
3000台に入った頃だった。もう手元はすっかり真っ暗だったが、ダイヤルを回す感覚はすっかり掴んでいたので、20進むたびにライトで照らして番号を確認していた。車の音が聞こえたような気がした。手を休めて耳を澄ます。間違いなく車の音だった。どこに向かっているのかは分からないが、とにかく下の道に降りてみるしかない。
立ち上がって重い荷物をつかむと小走りに急いだ。
車の音はすぐそこまで近づいており急がなければと思うのだが、ずっとしゃがんでいたせいで脚が強張っていた。車の明かりが下の道路を照らし始めていた。このままでは車は通りすぎてしまいそうだった。
道路が完全に明るくなってもう間に合わないと思ったそのとき、驚いたことに車は研究所の方に曲がってきた。
ヘッドライトが瞳を射す。まぶしい。
教授が戻ってきてくれたのかと思った。
車はしかし止まる気配がなく、よけないでいるとクラクションをけたたましく何度か鳴らした。轢かれるわけにもいかないので、脇によけた。
教授の四輪駆動車ではなかった。別の軽自動車だった。溝に足を取られそうになったせいで、運転手を見ることはできなかった。
車の後を追うように坂を駆け上った。駆けたつもりだったが実際はわずかに早足になっただけだった。重力をはっきりと感じるくらい急な坂道なのだ。ただ道は行き止まりなのだから焦ることはない。
坂の上でテールランプの赤い光が一段明るくなってから、消えた。再び静寂が訪れる。それから車のドアが開く音、パシャンと閉まる音がした。
すぐに人影が現れた。シルエットをみる限り女性のようだった。
「すみませーん。この坂で止まると、あとで発進するのが大変なんです」
清々しい声だった。どうやら昼間、弁当を届けてくれた女性らしかった。
安堵のため息を吐いた。それと同時に少しばかりときめいた。顔は暗くてまったく見えなかったが、藍色の濃くなった夕空を背景に、その健康的なシルエットが美しかったからだ。全身の筋肉をほどよく使うスポーツをやっているらしい、バランスのいい体つきだった。ショートヘアはそのスポーティな感じを際立たせていた。
顔の見えない状態で素敵と思われる女性をみかけると(後ろ姿がその典型だろう)、自分独自の癖か男の性かはわからないが、ついつい自分好みの女性のイメージを作り上げてしまう。もちろん今もそうだった。
「バスに乗り遅れちゃいました?」
その女性はちょっとからかうような、でも屈託のない感じでそう言った。勝手に作り上げた美人像もあって、皮肉っぽさはみじんも感じなかった。
バスが時間よりも早く行ってしまったらしくて、と言いかけたが、急な坂で息切れしていたのと間抜けそうに聞こえるように思えたから言葉を呑み込んだ。もうちょっとましな言い様はないかと考えながら顔を上げると、女性は私のことなど忘れたかのように、後ろを向いて、星の浮かび始めた薄暮の空を見上げながら伸びをしている。まっすぐに伸びた張りのある脚が印象的だ。
結局問いには答えぬまま、坂を上り詰めた。
なんとか息を整えて近づくと、その女性は身軽な感じでくるっと振り向いた。
息を呑むような美人というわけでも、ものすごく好みのタイプというわけでもなかったが、魅力的な笑顔だった。好奇心の強そうなよく動く瞳と少し癖のある高い鼻筋が特徴的で、美人の部類に入るのは間違いないが、笑顔がそれに勝っていた。色あせた黒っぽいのロングスリーブのTシャツにジーパンという姿で、首のところには汗拭き用の白いタオルが巻かれていた。顔の日焼け止めらしいものはところどころ剥がれかけており、どんな仕事をしているのかよくは分からなかったが、山村をかけずり回って額に汗して働く人という格好をしていた。
私はいまだに気の利いた台詞が思い浮かばずにいた。
「河村先生のところにいらしていた東京の方ですよね?」
「ええ、はい。どうしてそれを?」
そんなことは教授に聞いたに決まっているではないか、と口にしてから思った。
彼女はにこりとだけして、私の間抜けな問いには答えなかった。
「あなたはどうしてここに?」私なんとか主導権を取ろうともう一度質問をした。
「どうしてだと思います?」
「それは……」
どうやら主導権を取るのは無理なようだった。これまでの人生を振り返っても、女性と話をしていて、リードしたりおもしろがらせたりしたような記憶はほとんどない。背丈もほどほどあって一見やさしそうにみえるらしく、私のことを好いてくれる女性がいないこともなかった。でも、デートをしても、付き合ってみても、結局は女性に勝てたことはなかった。そもそも勝ち負けというのも変な話だが、いつも負けたと感じてしまうのだからしかたない。第一、最近では負けまいと思うことさえなくなっていた。だがこのときはどうしてかそういう気分になった。頭の回転の良さそうな女性だったので、研究者の端くれとして負けたくないと思ったのかもしれない。
せめて少しでも賢く思われるように考えてから、論理立てて答えてみた。
「もしあなたが昼間お弁当を届けてくれた方だとすれば、弁当がふたつだったので今日教授に客が来ているとわかり、しかも教授が午後からいなくなると聞いていたから」
口にするとまったく賢そうには聞こえず、我ながらがっかりした。
「それで?」
彼女は私を試すようにいたずらっぽく挑発的に訊く。
「それで、教授のところに来る客はしょっちゅうバスを乗りそびれるから……」
私は少々自信なげに答える。
「うーん、かなり近いです。いい線行ってる。半分当たりかな? あら、こんなこというと偉そうですね、ごめんなさい」
彼女に負けないくらいの笑顔をつくった。でも、目や口の端がひきつったようにしか見えなかったかもしれない。
「正解はですね、教授が古い時刻表の時間を教えているかもしれないと思ったことと、あのバス会社は運行がいいかげんで、すごく遅れてくると思ったら、ちょっと早く出ちゃったり、ときには勝手に運行をやめてしまったり、そんなバスだから、もしやと思って。でも、村のお年寄りは、それでもバスを走らせてくれているだけでありがたいって言うんですよ。私はときどきバス会社に文句を言ってやるんですけど」
「それ、それですよ。2分くらい前に発車してしまいました」
確かに教授の部屋に張ってあった時刻表は古いもので、バス停で確認した時刻表とは若干違っていたが、話が長くなりそうなのでそれは言わないでおいた。
「まあそれから、もしあなたがちゃんとバスに乗れていたとしても、重箱を持って帰ればいいと思って。明日は土曜日で来ないから」
彼女は私の肯定など知らぬように話を続ける。しかしとにかく私のことを心配して来てくれたことは確かなようだった。
時間が気になって腕時計を見た。今晩泊まる予定の岩山に向かう最終電車の時間が迫っていた。
「あの、実は電車の時間が」
恐る恐る言うと、彼女は自分の腕時計を見た。それから彼女は私をにらみつけた。
「早く言ってくださいよ。まだギリギリ間に合うかもしれません、すぐに乗ってください」
そう言いながら彼女は素早く車に身を滑り込ませていた。私がドアを閉めるか閉めないかのうちに急激に車をバックさせ、坂道に向けた。
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