第六話 宿泊場所探し(二〇〇〇年八月二五日 一九時頃)

 駅までの道のりは二度と体験したくないものだった。エンジンの回転を合わせてシフトダウンしていたし、コーナーの手前でブレーキを強く掛けてもタイヤをロックさせたりはしなかったし、結構なスピードでカーブを曲がっても道をはみ出さなかったから、たぶん運転は上手いのだろうが、とにかく激しかった。雑誌かなにかで読んだが、山道を走り慣れたラテン系の女性はたぶんこんな運転なんだろう。嘔吐したり、ちびらなかっただけましだ。途中で何度、「もういいです!」と叫ぼうと思ったことか。しかしそれも格好悪いので歯を食いしばり、時には目をつぶって我慢した。

 結果的には、午後7時すぎの最終電車の後ろ姿を遠くに見送ることになった。

 彼女は電車に間に合わなかったことを詫び、岩山駅まで車で送ると申し出てくれた。もちろん彼女には何の責任もない。一番近い道が土砂崩れで通れない状態になっていて、遠回りで片道2時間弱はかかるらしい。心苦しいが、この村には宿がない以上、そうしてもらうほかないようだった。

 駅前の公衆電話から、予約していたホテルに到着が遅れる旨の連絡を入れた。ところが予定のチェックイン時間をかなり過ぎていたので、つい五分ほど前に別の客を入れてしまったという。予約した時に6時ごろには行けると告げたままにしてあった。遅れる場合は必ず事前に連絡を入れてくれと言われていたのだ。たまたまキャンセルが出て確保できた状況を考えると迂闊だった。バスに乗り遅れなかったとしても間に合うわけなかった。いや、バスに乗れて、ここで電話していれば、タイミング的にはキャンセルされずに済んだかもしれない。

 でも、いずれにせよ、すっかりそのことを忘れていた。観測サイトを見て気持ちが高揚したのと、データ入力を何とか終わらせてしまおうと集中していたせいかもしれない。思い出してさえいれば、研究所の電話を拝借して連絡を入れておいたのだが。ホテルの方も少々負い目を感じたらしく、親切にいくつか他のホテルや旅館の空きも調べてくれたが、どこも無理だという。待合室もすでに鍵がかかっていた。とりあえず彼女に送ってもらって、あとは岩山が駄目ならさらに別の街に行ってみるしかない。9時過ぎになってしまうが、カプセルホテルくらいならどこか空いているだろう。それに新幹線の最終に間に合うかもしれない。もし駄目なら、まだじゅうぶんに暖かいし、いっそのこと、深夜の2時過ぎまで続くという祭りを観て、そのまま外で夜を明かすという手もある。

 彼女は開け放したボックス型の公衆電話の扉によりかかっていた。私が扉を手で押えていたら、そうしてくれた。横で漏れ聞こえてくる話を心配そうに聞いていた。なんだか春の森にでもいるようないい匂いがした。

 電話を終えてあらためて状況を説明すると、彼女は足下を見つめながら「そっか」とだけつぶやいた。

「もう、なんなら、祭りは夜中までやってるみたいですから、それを観て、まあそれからどこかで適当に夜を明かしてもいいですから。でも、申し訳ないですが、いずれにしても岩山市かどこか、適当なところまで送ってもらわなければなりませんが」

 それから彼女はずいぶん深刻な顔で1分ほど腕組みをして考えていたが、ぱっと顔を上げ、私をじっと見た。前歯でわずかに唇を噛んだその顔は、ひらめいたというよりは、何かを決意したように見えた。それからすっと軽やかに車に向かうと、手帳を持って引き返して来て、無言のまま手帳をめくり受話器を取り、テレフォンカードを入れて番号を押した。

「もしもし、モリノです。どうも。あの、ちょっとお願いがありまして。今晩そちらにお客さんを一人泊めることはできないですか? ええ、宿直室みたいな部屋がありましたよね? そこをなんとか! 河村先生のお客さんで、例のバスのせいで最終電車に乗りそびれてしまったうえに、ホテルも勝手にキャンセルされてしまって。毛布だったら私の方で用意できますから。そうですか。よかった。じゃあ、今からすぐに連れて行きますから、お願いします」

 彼女はふぅーと小さくため息をつきながら、受話器を戻した。モリノという名を聞いて初めて、まだ互いに名乗っていないことに気がついた。それにしても一体どこに電話を掛けたのだろう。

「あの、この村の公民館の宿直室に泊まることができます。公民館のおばさんが帰るところだったんですけど、無理言って待ってもらっています。すぐに行きましょう」

 公民館? と思ったが、返事を待たずに彼女はもう車に向かっていた。どうやらこの村では私にはほとんど選択権はないらしい。でもまあ、公民館とはいえ、泊まるところを確保できそうなのでほっとした。祭りを観ることはできないが、こんな事態だ。仕方ない。それにさきほどから遠くで雷が鳴り始め、ときどき吹き寄せる風の中にも雨の匂いがわずかに含まれていた。彼女は、とにかく宿が決まるとか、何らかの手段が見つかるまで面倒を見てくれる人間だろうという気はしていたが、知らない土地で日が暮れても泊まるところが決まっていないのは不安なものだ。雨が降りそうならばなおさらだ。


 われわれは公民館に行く道すがら、ようやく短い自己紹介をした。

 彼女の名は、森野木乃香と言った。名前の漢字を説明して、「アウトドア好きの父がつけてくれたんですけど、冗談のような名前でしょ?」と笑った。母親は、音がきついのでせめて〝かおり〟か〝かおる〟がいいと言ったが、父親がそれでは消臭剤みたいだと譲らなかったそうだ。私は「森の妖精みたいですね」と半分は冗談、半分は本気で言った。

 すると彼女は前を見ていないのが不安になるくらいの間私を見定めて、ようやく視線を前に戻すと「ありがとう」と小さく言った。

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