森の図書室、カザルスの夜
百一 里優
第一話 最終バス、午後五時二九分(二〇〇〇年八月二十五日 十七時〇分頃)
山の夕暮れを知らせる肌寒い空気が窓から滑り込んできた。作業の手を止め、顔を上げた。森の中だからだろうか、5時過ぎにしては外はずいぶん暗くなっていた。
部屋の蛍光灯はもう1時間以上も前に灯していたし、作業に集中していたからまるで気がつかなかった。東京に戻ればまだまだ暑い日が続くのだろうが、ここではもう夏も終わりなのだ。それも20世紀最後の夏だ。別に20世紀が21世紀に変わるからといって、何かが劇的に変わるというわけでもないのだろうが、それでもやっぱり世紀の変わり目というのは感慨深いものがある。でも、今はそんな感傷に浸ってはいられない。とにかくデータの入力を最後まで終わらせてしまいたい。残りは2ページだ。
最後の集中力を投入すると、入力と大まかな校正は、5分ほどで終了した。ファイルをセーブして、それからフロッピーディスクにコピーをしてから、ウィンドウズ98を終了した。フロッピーディスクは教授の机の上に置いた。後で誰かに頼んでデータをチェックをしてくれるということだった。
食べ盛りの高校生の弁当箱みたいなノートパソコンが、ハードディスクの音をせわしなくたてながら終了作業を進めている間に、窓を閉め、念のため、ほかのふたつの窓の鍵がかかっていることも確認した。半日ほどの滞在でだいぶ見慣れてきた部屋の中を見回した。
まったく、初めて訪れた研究所で戸締まりをして帰ることになるなんて思いもしなかった。教授から信用してもらえたことはうれしいが、なんとなく突き放されたような気がしないでもない。でも急用が入ったのだし、長年観測してきた貴重な気象データを提供してもらったのだ。そんなふうに考えるのは失礼に当たるだろう。それにあのひと癖ある教授は私に好感を持ってくれたみたいなのだから。
最終バスの時刻までは11分ほどあった。最終バスが5時29分だなんて東京に暮らす私には冗談のようだが、路線バスが通っているのが不思議なほど、人気のないところなのだ。車だって全然通らない。
山麓にある過疎の村からさらに山に入った場所に、大学の付属機関であるこの森林研究所は密やかに建っていた。そしてここを使っているのは、あの変わり者の教授がひとりだけだった。確かに大学の雑務からは解放されそうだ。その教授はと言えば自分の車で通っていたから、おそらくはほとんどバスなんて使う人はいないはずなのだ。もしバスが走っていなければ、新幹線の駅でレンタカーでも借りなければならなかった。距離と時間を考えたら、タクシーではたぶん2万円くらいはかかるだろう。ここへは有給休暇を取って、自腹で来ていたから、タクシーという選択肢はなかった。
研究データを手に入れるためなのに休暇で来たのは、私が雇用されているプロジェクトとは直接は関係のない個人的な研究用のものだったし、教授に勧められた祭りを見物するためもあった。
祭りは4年に一度の本祭りで、しかも夜を徹して行われるので、もし何かあったりすると出張扱いでは面倒なことになりかねない。男っぽい祭りで結構喧嘩や事故も起きたりするらしいのだ。祭りが好きというわけではなく、教授から一生に一度は見ておいて損はないと言われ、なんとなく流れで見るようなものだが、教授と会ってみて、教授がそう言うならやはり見ておいた方がいいのだろうとの思いは強くなっていた。たぶん何かしら得るところはあるはずだ。
この小さな研究所からバス停までは歩いて5分程度なので、まだ余裕はあった。何かと時間に遅れがちな私にしては上出来だ。こんな山の中でバスに乗り遅れでもしたら洒落にならない。荷物をまとめ、チノパンのポケットに入れておいた建物の鍵を確認した。
私は玄関で無人の室内に向かって深く頭を下げた。データの質は確かなようだったし、なんとなくいい予感もし始めていた。教授に対する尊敬の念もますます深まっていた。
電気を消してしまうと玄関はドアノブを手探りしなければならないほどの暗さだった。ところが扉を開けると一転、こぢんまりと開けた玄関前はまだぼぉっと明るかった。全てのものの輪郭が曖昧になり、色が抜けていく時間だった。それは私に夕暮れのキャンプ場を思い起こさせた。そろそろ夕食を作り上げておかないと、なにかと面倒になる、そんな時間帯だった。たぶんあと2、30分もしたら真っ暗になるだろう。
しかしそうのんびりもしてられない。とにかくバスに乗り遅れでもしたら目も当てられない。泥棒の初心者が練習にでも使いそうなレトロな鍵をポケットから取り出して、鍵穴に差し込んだ。針金でがちゃがちゃすれば開きそうなヤツだ。
ん?
なにかひっかかったようにかたくてうまく回らなかった。真鍮性の細い鍵は力ずくで閉めようとすれば折れてしまいそうだった。さすがにそれはまずいだろう。わざわざこんなところに盗みにくるやつもいないだろうし、鍵を閉めなかったところで大丈夫だろうが、教授との信頼関係がある。
落ち着け。まだ時間は充分にある。
一度鍵を抜いて、気休めに過ぎないと思いながら祈るような気持ちで先の方を指先でこすった。ふと思い付いてドアを一度開け、内側の鍵の突起を回してみた。少々抵抗はあったが、回ることは回った。戻す時にはもうさほど力は入らなかった。たぶんなにかがひっかかっていたのだろう。ドアを閉め、小さく息を吐き出してから、鍵穴に入れた。今度は素直に回ってくれ、カチャッと音をたてた。ドアノブも回らなかった。
ほんの僅かな間だけ、古くて風格のある建物を見上げ、それから早足にゲートへ向かった。柵は適当に閉めて、ゲートの横の郵便受けに鍵を落とし、先を急いだ。
そこからバスの通る県道までは30メートルほどの急な下り坂だ。来るときには息切れしたし、今は足首を突っ張らないといけないほどの傾斜だった。雪が降ったら四輪駆動車でも登るのはなかなか難しいに違いない。おまけに街灯のひとつもなく、両側には樹が覆い被さるように生い茂っているから、足元もよく見えない。台風で散ったらしい濡れた落葉があると、足を取られそうになった。
坂道を3分の1ほど降りたとき、路線バスのものと思われる苦しげなディーゼルエンジンの音が聞こえてきた。時計を見ると、5時25分15秒。来たときも私が最後の乗客だったし、どうせ乗客もいなくて、早く着いてしまったのだろう。ただ、下の県道をヘッドライトが照らし出し始めると、さすがに気持ちが焦りはじめた。以前、ある地方都市で、定刻の2分前にバスに出られてしまい、延々と駅まで歩いた腹立たしい経験があったからだ。そのときは1時間も待てば次のバスが来たはずだが、今回はそうはいかない。最終バスで、しかもこんな山の中だ。まさかこんな場所で時間前に出発してしまうことはないだろうとは思いつつも、いつしか転びそうなほどの早足になっていた。
やがて県道がくっきりと明るくなり、路線バスが通り過ぎて行った。これ以上足を速めたら、本当に転げ落ちてしまいそうだった。もはや時計を見る余裕もないが、まだ確実に時間はあるはずだ、と自分に言い聞かせた。まさか、今晩が祭りだからって、公共交通機関がそんな無責任なことはしないはずだ。いや、バスの運転手が大の祭り好きで、気が急いているかもしれない。そういうことだってなくはない。しかも私はどういうわけか、そういうレアなケースとレアなケースを掛け合わせたような、統計的には極めて確率の低いような事象に当たってしまう体質らしいのだ。
ようやく県道に下りると、バスは、少し先の停留所に左のウインカーを点滅させて停車していた。安心して腕時計を見ると、まだ発車時刻までは2分残っていた。ほっとして足を緩めた。そのときだった。バスのウインカーが右の点滅に切り替わった。
「おい、まさか」
私は声をあげていた。
エンジンがうなりをあげると、バスは盛大に黒煙を噴き出した。私はあわてて走り出した。「おーい」と声を出しながら、サイドミラーに向かって大きく手を振った。でも声はエンジン音にかき消され、暗さと煙幕とおそらく客はいないはずという運転手の思い込みとで、サイドミラーの中に私の姿はほとんど映っていないに違いなかった。
黒煙の向こうにかろうじて見えていたテールランプの鈍く赤い光が、カーブに吸い込まれて消えた。
森の薄闇に煤けた匂いだけが残された。
わずかに聞こえていたエンジン音もすぐに聞こえなくなった。
これはまさか、こんな山の中に取り残されたってことか? しばらくその場に立ち尽くしていた。30秒か、1分ほどして、ようやく足を一歩前に踏み出した。おぼつかない足取りで20メートルほど先のバス停にたどり着き、時刻表を見る。今朝着いたときに確認したとおり、最終は17時29分発だった。当たり前だ。変わっているはずはない。そして毎日電波で時刻を合わせてくれる正確なはずのデジタル腕時計は、今まさに17時29分になったところだった。タクシーを呼ぼうにも、PHSがこんな山の中でつながるはずもなかった。怒ってみたところで、今はとりあえずはどうにもならない。
20世紀最後の夏はこうしてついていないまま終わろうとしていた。
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