第一六話 ストライプ(二〇〇〇年八月二六日 深夜〇時頃)
「ん、なんですか?」
森野さんにそう問いかけられて、また森野さんをじっと見てしまっていたことに気づいた。飲み過ぎたら普段なら気分が悪くなるのに、今晩はどういうわけか頭がぽぉっとなって自分の思っていることの半分くらいがすぐに行動に出てしまうようだった。
「ああ、いえ、べつに」と私は適当にごまかした。さっきから何度も森野さんに対して欲望を感じているのだから、ちょっと気をつけなきゃいけないと自分に言い聞かせた。
「もしかしてもう眠くなっちゃいました?」
「いえ、そんなこともないですけど」
「でも、ぼぉーとしてましたよ」
「いえ、大丈夫です」
「こんなんじゃ、朝までかかっちゃいますね。すみません。私、ともだちからもよく話が長いっていわれるんです」
「ほんと、大丈夫ですよ。どうせ明日は帰るだけだし。それに私は聞き役が得意ですから」
「ごめんなさい、私、太田さんに甘えちゃったみたい」
「ああ、もう、本当に気にしないでください。こう見えても私だってさっきからずっと楽しいんですよ」
「ほんとうですか?」
「そうは見えませんか?」
「うーん、あんまり。あ、でも、さっきちょっといたずらっ子みたいになってましたね」
「そうでしょう? 私は感情があまり表に出ないタイプなもんで、あれが私のありったけの表現なんです」
「そうか。なんか太田さんと話していると不思議と優しい気持ちになります」
そう言うと森野さんは座禅でもしているみたいに姿勢を正して目をつむり、首をゆっくりと左右に回した。それから穏やかに息を吐き出した。
「で、この傷はその晩につけられたんです」
森野さんは目を開けて私を見ると、袖をあげてその火傷の痕をもう一度私の前に晒し、人差し指でその痕をそっと撫であげた。
「それからしばらくして遠藤夫妻が帰っていって、奥山とふたりきりになってもまだ、その日一日の楽しい気分の余韻に浸って私はニコニコしていたのだと思います。そう、オートバイに乗ったところなんかを想像して。そしたらトイレにでも行っていたと思っていた奥山が戻ってくると、私の前に大きな茶封筒をどさっと放り投げるように置いたんです。私は驚いて、奥山を見上げました。なんか皮肉っぽい薄笑いを浮かべて冷たい目で私を見下ろしていました。奥山が見てみろというから、中身を出してみると、一番上に例の写真がありました。それから配偶者行動調査報告書みたいな文字も見えました。私は何か言おうとしたけど、喉がからからにへばりついちゃったみたいになって、声を出せませんでした」
森野さんはそこで大きくひとつ息を吸い込んで、静かに吐き出した。
「そしたら奥山は『やっぱりな』って言ったんです。私は意味もなく動揺して、自分の声じゃないみたいなひからびた声で、えっ、なにこれ? なんのこと? ってかろうじていいました。奧山は『これはどうみたって男と密会している写真だよな。こいつが例の男だろう?』っていうんです。なに言ってるの、それに例の男ってなに? と訊くと、『ふざけんな、おまえの初めての相手だよ! まだ、関係が続いていたとはな!』と怒鳴りました。私が、違う、そんなの誤解、と否定すると、奥山はいきなり私の髪の毛を掴んで、力任せに椅子から引きずり下ろして床に投げつけたんです。そんな暴力を受けたのは初めてだったし、私はあまりの突然のことにほとんどなすすべもありませんでした。奧山は横を向いた私の頭の耳の辺りを踏みつけました。そんな状態で報告書の中身を読み上げたんです」
その時の痛みを思い出したように森野さんはわずかに顔をゆがめた。
「内容は別にたいしたことはなくて、さっきいったように電話の時間とか回数とか、誰と会ったとか、そんなことでした。でもそういう部分的なところだけを取り出してみると、見ようによっては歪んだ人物像が浮かび上がってしまうものなんですね。確かに私は男のともだちが多かったけど、それは単に相手が男というだけで、ただのともだちなのに。でも奧山にとって決定的だったのは、例の先輩のことでした。私の初めての相手だということまで、〝ちゃんと〟調べていたんです」
「いったいどうやって……」
「どうやってでしょうね。でも、だいたいの日時と場所までわかっていたから、先輩から直接聞いたとしか思えませんね。名刺交換もしていたから名前も連絡先もわかっていたし。先輩もいろいろと弱みがありそうだったからなぁ。そこまで調べられているなら否定しても仕方ないし、それ以上のことはないのだからと思って、そうよ、その人が初めての相手よ、でももう何もない、そこまでわかっているならそのことだってわかっているでしょう、って言い返しました。でも、奧山は『じゃあ、この写真はなんだ』って言うんです。ただファミレスで話をしていただけだと私が主張しても、『そんなふうに見えるか? どうみたって男と女の関係だろう』っていって取り合ってくれないんです。もうぜんぜんわけわかんなくて、じゃあ、どうしたらいいの、って訊いたら、『素直に認めればいいんだ。そうすりゃ、許してやってもいい』って。私はわけのわからなさと悔しさでもう半分涙声になっていました。だけど、そんなやってもいないことを認めるわけにはいかないから、否定し続けました」
森野さんはその時の悔しさを思い出したみたいにわずかに声が震えていた。
痛みのような沈黙が流れた。どうやって相づちを打ったらいいか、わからなかった。
「何度も否定すると、踏みつけられていた私の頭が急に軽くなりました。私は、ようやくわかってくれたのだと思いました。もちろんこんなひどいことをされてただですますわけにはいかないとも思いましたけど、とにかくそのときはひとまずほっとしたんです。それでゆっくりと体を起こすと、奧山の足がぷるぷると震えているのが見えました。まずい、と思った瞬間に奧山の足が飛んできて、手で防御しようとしたんですけど、とても足の力にはかなわなくて、体が横にふっとんで、ソファ・テーブルに頭がぶつかりました。頭をぶつけた衝撃で軽い脳しんとうを起こしたらしくて、意識がもうろうとしました。あとでみたら切り傷自体はたいした傷ではなかったんですけど、頭って血管が集まっているせいか血がどくどく出るんですよね。その血をみたらさらに意識が遠くなりそうだったんですけど、奥山が倒れ込んだ私をさらに蹴飛ばし始めたんです。それで私はいけないと思って薄れていく意識を必死に引き戻して、お腹を守ろうと身を丸く縮めました。奥山は『この、男好きの浮気女が!』って叫んでました。私は、違う、違うって、否定したんですけど、もちろんぜんぜん聞いてはくれず、否定すればするほど徐々に私を蹴る力も強くなってきて。素人とはいえサッカーをやっていたから、蹴る力がすごいんです。私も踊りでそれなりに鍛えてはいたから最初のうちはなんとか堪えていたんですけど、でも背中を蹴られるとあまりの痛さに息が止まって、その瞬間に足首を捕まれてひきずられると体が伸びきってしまって、今度は胸やお腹を蹴られました。私は、『駄目、赤ちゃんが!』って叫んだけど、そうしたら余計にムキになって蹴上げました。下腹を蹴られたとき、すごい痛みが走って、しばらくして股間に生暖かいものが流れ出てくるのがわかりました。奥山はぐったりとして気を失いそうな私の顔の前にしゃがみ込むと、私のあごを掴んで、『なにぃ、赤ん坊だと? それはどの男の子どもだ? あの男だな? そうなんだな!』っていって、あごが砕けるんじゃないかと思うほど強く握りあげました。そのときにみた奧山の目が身の毛もよだつくらい異常に充血していたのを憶えています。目つきも尋常ではありませんでした。私はおびえながらも言葉にならない声で必死に否定しましたけど、奥山は『俺は精子が少なくて子供ができるはずないんだよ!』って吐き捨てるようにいいました。そして、私の髪の毛も掴むと頬を何度も平手打ちして、しまいにはわけのわからないことを口走りながら私の頭を床に何度か打ち付けたんです。そこから先は気を失ってしまったらしくほとんど記憶にないんです。どこかに、たぶんダイニングテーブルだったと思うんですけど、手足を縛りつけられて身動きできない状態にされていて、熱したバーベキューの串を腕に押しつけられていたんです。あまりの痛みで少しだけ意識をもどしたらしく、奧山が『この浮気女が、俺の印をつけてやる! おまえが完全に俺の女になるための儀式だ!』とかなんとかいっていたように記憶してます。最初は何をされているのかさえわからなくて、串が奧山の手に握られているのを見たときには殺されるのかと思い、たぶん、やめて、殺さないでって叫んだと思います。けどもう一度串を腕に当てられると気がおかしくなるほど痛くて、またすぐに意識を失ってしまったらしく、次に気がついたときにはもう朝になっていました」
森野さんは無表情に宙を見据えたまま淡々とした口調でそこまで一気にしゃべり、そして黙り込んだ。
またさっきみたいに激しく泣き出すのではないかと心配したが、森野さんは表情を一切変えずにただ前方を見つめていた。まるでそこに過去を押し込んで膨らんだ風船が浮かんでいて、それを視線の力で破裂させてしまおうとしているように思えた。同じ辺りを見つめてみたが、何も見えなかった。そこには何も見えなかったのだが、例の少女が向こうに座って、電気スタンドの淡い光に照らされてにこりと笑うのが見えて、驚いて思わず息をのんだ。
見えた気がしたのだ。見えたと思った瞬間にはもう見えていなかったのだから、たぶん気のせいか、あるいは酔っぱらったせいなのだ。ただもし本当に少女が笑ったのだとしたら、笑いかけたのは私にではなく、森野さんにだった。そして森野さんもその一瞬微笑んだように感じた。私は向こうの机の方に気を取られて森野さんの方は見ていなかったのだから、もちろんそういう気がしたというだけだ。
「そんなわけで夏でもいつも長袖を着ているんです。ま、そろそろ年頃だし日焼け防止の意味もあるんですけど」
しばらくしてようやく口を開いた森野さんの声は軽く、みじんも暗さは感じられなかった。なんと言っていいかわからず、森野さんの目をしっかりと見て、ただうなずいた。
「気がついたら私はベッドの上に寝ていて、奧山は、『俺はなんてことをしちまったんだ。いや、木乃香が悪いんだ。浮気なんかするからだ。いややっぱりやりすぎだ。ごめん、木乃香、目を覚ましてくれ』とかいいながら、うろうろと寝室を歩き回っていました。ただ取り乱しているだけでとりあえずそれ以上危害を加えそうな感じではなかったから、私はまだ気を失っているふりをしました。隙を見て逃げようと思ったんです。頭はガンガンするし、体もそこら中痛くて、じっとしているのも辛かったけど。一番痛かったのは、神経を突き刺すようなところどころ皮膚のめくれあがっていたこの腕の傷。それでも痛みを我慢して、どのくらいだろう、たぶん一時間か、二時間して静かになったので、うっすら目を開けてみると奧山が床に座り込んで壁にもたれて寝込んでいたので、そっと部屋を抜け出しました」
森野さんは小さく息をついた。
「さっきみたいに?」
私は息苦しさを何とかしようと思って、声を絞り出した。
「えっ? ああ、そう、さっきみたいに足を忍ばせて」
そういって森野さんはうつむくと、うふふっと軽く笑った。
「たぶん奧山が服を脱がせたのだと思うけど、そのとき私は下着姿で、下は真っ赤に染まっていました。子どもは駄目だろうなと思いました。それにもう奧山の子どもは生みたくない、今はとにかくここから逃げ出さなくちゃと自分に言い聞かせました。床に落ちていた前の日の服は血だらけになっていたし、クローゼットは寝室にあったので、仕方なく洗濯かごから適当に選んで服を着て、それで洗面所の鏡を見ると、あちこち腫れ上がってそれはひどい顔になっていました。こんな風に」
そういうと森野さんはほっぺたを膨らませて私に顔を向けた。子どもが怒ったふりをするみたいに可愛らしかった。
「そんな可愛らしい顔に?」
私がそういうと森野さんは吹き出すように息を吐き出して、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。
「でまあ、音をさせないように簡単に顔の血を洗い流して、それからふと思いついて、どのくらい有効かはわからなかったけど寝室のドアのレバーに椅子を差し込んで、奧山が目を覚ましても簡単には開かないようにしました。ダイニングの椅子の背もたれは高くてちょうどよかったんです。財布とか自分の車の鍵とかは前の日に持っていたバッグに入っていたのでそのバッグを掴んで、それから前日に来ていたパーカは帰ってすぐに脱いでいたから汚れていなかったので、そのフードで顔を隠すことにしました。だって、ほんとうにひどい顔だったんだもの。今でもときどき夢に出てきてうなされるくらい。で、とにかく家を出て、車に乗って、ひたすら走りました。たぶん三〇分くらい走って、どこか住宅地のようなところに入って、前に後ろにも車のいないことを確認して、いったいそこがどこだか全然わからなかったけど、ようやく生きた心地がしました」
大きく一つ息をした森野さんは、古傷が痛むかのように服の上から腕をさすった。
「安心すると今度は猛烈な痛みが襲ってきました。腕の傷は服の布地がこすれて脂汗が出るほど痛かったし、下腹もひどい鈍痛でした。しばらくじっとしていたら痛みが治まるかと思ったけど、どんどんひどくなって。目を覚ましたら病院のベッドに寝ていました。近くを通りかかった近所のおばさんが救急車を呼んでくれたそうです。幸い脳に関しては大丈夫だったし、腕の傷は皮膚の移植をすれば目立たなくすることは可能だけど、もう一度妊娠するのは無理だろうといわれました」
ひどい話と思ったけれど、安直な感想をいうことはできなかった。だからといって、ほかになにかふさわしい言葉も見つからなかった。私は何も言えぬまま、ちらっと森野さんを見た。相変わらず表情のない顔で前を見ていた。森野さんも特に話の感想を求めてはいないようだった。
唐突に森野さんが立ち上がった。そのまま前に進むと、頭の上のほうで手を組み、丁寧に体を左右に倒した。ちょうどスペースの真ん中辺りだったから、私からは後ろ姿しか見えなかった。
こうしてあらためてみると、森野さんは、話の中で誰かが言っていたように、うらやましいくらいバランスのいい体型だった。ほどよく手脚が長くて、首もすらっとしている。その奧山という人の趣味からすれば、森野さんはほんとうにぴったりとしたルックスだったのだろう。それに胸も割と豊かだったし。たしかにどんなスポーツウェアを着ても似合いそうだった。
「ストライプ……」
私の口から思わず言葉がこぼれ出ていた。
森野さんは別に驚いたふうもなく、くるっと振り向くと落ち着いた口調でいった。
「そうみたいです。奧山にとってこの傷はスポーツウェアとかに入っているストライプのつもりだったらしいです」
「そんなことでそんな傷を……」
それ以上言葉が出てこなかった。
「病院で気がついたときに、看護婦さんから事情がありそうだからまだ家族には連絡していないといわれました。気の利く病院でよかったです。でもいずれにせよ誰かに連絡をとって助けてもらわなければならなかったけど、両親には連絡しませんでした。実はいろいろあって親の方も微妙な状況にあったんです。そのときにどういうわけか手帳に入れっぱなしになっていた奧山の友だちの弁護士の名刺を思い出して。ほら、東京でやった二次会で奧山の趣味について話していた女の人の話をしたでしょう? あ、でもそんな細かいことまでおぼえてないか」
「いや、おぼえていますよ。そういえば、なにかあったら相談に乗るとか言っていましたよね」
「そうなんです! すごい! そこまでちゃんと聞いていてくれたなんて!」
「だから言ったでしょう? 話を聞くのは得意だって」
「よかった、太田さんに会えて。話を聞いてもらえて。弁護士の沢田さんにはある程度詳しく説明したけど、こんなに事細かに誰かに話すのは初めてなんです。すっごく、すっきりしました。なんか、力が湧いてきました」
私としてもただ話を聞いただけでこんなにも喜んでもらったのは初めてのことだった。それに森野さんの笑顔を見るのは気分がよかった。たぶん本物の笑顔だった。
「でもよく奧山さんの友だちの弁護士に頼む気になりましたね」
「もちろん初めは迷ったけど、ほかに弁護士で知っている人はいなかったし、なんとなくだけどちゃんと味方になってくれそうな気がしたから。逆に奧山のほうが驚いたみたいですよ。大学の同窓生が私の代理人として現れたわけだから」
「そりゃそうだ」
「でも実際に奧山と直接話をしたのは最初だけだったそうですけど。あとは奧山の方も弁護士を立ててきて、弁護士同士で話し合いになったんです。ちょっと下品な言い方だけど、状況が状況だけに慰謝料は結構がっぽり取れたんですよ。向こうも支払い能力があったし。だからといってうれしくもなかったけど。うれしいどころか、一年くらいはほとんど放心状態でなにもできずにいました。だからまあお金があって助かったんです。それにしばらく、半年くらいは沢田さんが家に置いてくれました。自分ではわかんなかったけど、独りにしておくのは不安な状態だったみたい。ふしぎなんだけど、ちょっと前なのにその一年くらいの記憶がほとんどすっぽり抜け落ちていて、憶えているのは沢田さんと一緒に洋服を買いに行ったりとか、そんなことだけ」
「ああ、そんなものみたいですよ、記憶って。私も両親が揉めていた時期の記憶がほとんどないんですよ。ときどき断片的に思い出す程度で、あとはなんか漠然とした記憶というか。時間の関係もぐちゃぐちゃだし。中学から高校のころだから、いわば青春時代の記憶があまりないんです。まあ思い出したくなるような思い出があるわけじゃないけど」
「そうなんですか。なんか、かわいそう。あ、私みたいのに同情されたくないか!」
森野さんが冗談めかしていってくれたので、私は声を上げて笑うことができた。それにつられたように森野さんも声を出して笑った。ふたりともまだ人生に何も起きていないこどもみたいに笑った。
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