第一七話 パブロ・カザルス、お礼の踊り(二〇〇〇年八月二六日 深夜)
腹を抱えて笑っていて、そのときにふと机の上のテープレコーダーが目に留まった。忘れないうちにテープを森野さんにあげておこうと思った。笑いが少し落ち着くと立ち上がって、笑いながらなんだろうという顔で私を見る森野さんの横を通って、向こうの机に行った。テープを出そうと思ってテープレコーダーを取ろうとしたら、スッと伸びてきた森野さんの手が私の手を押さえたので、驚いて振り向いた。
「あの、これ、2曲分だけ巻き戻すことはできます?」
「えっ、ああ、できますけど」
「じゃあ、お願いします」
「いいけど、これを忘れないうちに渡しておこうと思って」
「その前に、私から、えーと、誕生日をお祝いしてくれたことと、嫌な話を長々と聞いてくれたことに対して、お礼をさせてください」
「いえ、そんな、お礼なんていいですよ。お世話になったのはこっちのほうだし」
お礼とテープを巻き戻すことがどう関係しているのかわからずにとまどいながら答えた。
「まあ、いいから、とにかく巻き戻してください。お礼になるかどうかはあやしいけど、太田さんに踊りをプレゼントしたいと思います」
「えっ、おどり?」
「そう、踊り。ダンス。即興のバレエです」
初めは驚いて、次に何か温かいものが胸の奥からじんわりと湧き上がってくるのを感じた。こういうのを幸せな気分というのかもしれない。
キュルキュルと音を立てて2曲分テープを巻き戻すと、テープレコーダーを森野さんに渡した。
森野さんの選んだ曲は、ゆっくりとしたテンポの3分程度の短い曲のはずだ。フランスの作曲家、クープランという人の作品で、チェロとピアノのための演奏会用小品として何曲かあるうちの、たしか「嘆き」という副題の曲だった。日本ではさほど有名な作曲家ではないはずだし、森野さんでも曲名は知らないと思うが、タイトル的にはこれまでの話の内容とは合っているかもしれない。
「ありがとうございます」と、森野さんはこれまでになく落ち着いた声で言って、卵でも受け取るみたいに大事そうにテープレコーダーを受け取った。うつむいて慈しむかのようにそれを見た。
そのとき、スクリーンの横にある開き扉の付いた背の低い台に気付いた。そこにオーバーヘッドプロジェクターが入っていると直感的に思った。バレエをするのなら、気の利いた照明にできるかもしれないと思ったのだ。デスクのランプだけでは暗すぎるし、かといって天井の蛍光灯をつけたら興ざめだろう。
「森野さん、あの台の鍵がどこにあるか知ってます?」
私は台を指差しながら言った。
「うーん、どうでしょう。たぶん受付の壁に下がっているどれかと思いますけど」
「じゃあ、ちょっと探してきます」
私は宿直室を通って、受付に行った。宿直室には清潔そうなシーツの掛かった布団がきれいに広げられ、足元には毛布が折りたたまれていた。
OHPというタグの付いた鍵はすぐに見つかった。その横にはカラオケの鍵もあった。図書室に戻ると、ストレッチに余念がない森野さんを横目に私は南京錠をはずし、扉を開けた。思ったとおりオーバーヘッドプロジェクターだったが、ちゃんと動作するかどうか怪しいほどの古い型だった。それでもこれまた掃除だけはちゃんとしてあって、ほこりもほとんどつもっていなかった。ただ、なんとなくだがずっと使われていなさそうな感じはした。重量級のプロジェクターを慎重に取り出して、台の上に乗せた。コンセントにつないで、スイッチを入れると、ファンは回った。しかし残念なことにライトは灯らなかった。もしかすると少し暖まったら点灯するかもしれない。そう思って、しばらく放っておくことにした。
「オー・エッチ・ピーか、なつかしいな」
それまであまり興味を示さなかった森野さんがストレッチを続けたまま呟くようにいった。
「でも点かないみたいです」
そういったとたん、ぼうっとオレンジ色の薄暗い明かりが付いた。でもそれ以上は明るくならなかった。
「太田さんって、演出するのが好きなんですね」
森野さんはくすりと笑ってから、そう言った。たぶん点かないといったとたんについたのがおかしかったのだろう。
「え? ああ、そうですね、そうかもしれませんね。せっかく森野さんが踊ってくれるのだからと思って」
「そんなに期待しないで下さいね。咄嗟に思いついたことだし、それに人前で踊るのは久しぶりだし」
森野さんは大きく息を吸うと、それをゆっくりと吐き出した。
「ところでカラオケセットもあるんですか? 鍵はあったんですけど」
「どうなんでしょう」
台はOHPの入っていた一台だけだった。カラオケセットはどこか別の部屋にあるのだろうか。そう思いながらもう一度部屋の中を見回すと、移動式のスクリーンの奥の壁に扉らしきものを見つけた。カラオケの鍵を差し込んでみると、回った。中には、大きなスピーカーを備えた、レーザーディスクとカセットテープが両方とも使えるカラオケセットが入っていた。ちゃんと電源も入り、プレイボタンを押すと、中の軸が回転した。やっぱり今晩の私はいつもとは違うようだ。
「太田さんが歌ってくれるんですか?」
森野さんは私の横にしゃがんで、覗き込むようにして言った。
「いやそうじゃなくて、テープレコーダーの音じゃ小さいから、こっちの方がいいかと思って」
「うわぁ、確かにそうですね。その方が踊りやすい!」
森野さんの顔が明るく輝いた。抱きついて、ほっぺたにキスをしてくれるんではないかと思うほどだった。でも急に真剣な表情になると、さっと立ち上がってしまった。
「私のほうもちょっと準備があるので、そうだな、1、2分でいいですから、椅子に座って目を閉じていていただけますか」
「え? 目をつむっておくんですか? なんかドキドキするな」
森野さんはにこりとだけした。試合開始前のスポーツ選手のように硬い笑顔だった。
私はふたたび端っこの椅子に座り、言われたとおりに目を閉じた。われながら素直だと思ったが、悪ふざけをして森野さんのせっかくの気持ちを台無しにしたくなかった。
目を閉じると、不意に、激動の時代を真摯に生きたパブロ・カザルスの人生が思い出された。少し前に買った本を、たまたまついこの間読んだのだ。それは、カザルスの語った内容を聞き書き形式にまとめたもので、自伝と伝記のあいだくらいの感じだ。その内容もさることながら詩的なカザルスの言葉が印象的だった。
テープに入っているアルバムは、当時のアメリカ大統領、J.F.ケネディーによって招かれたホワイトハウスでのコンサートの模様を収録したものだ。その経緯も本の中で簡単に触れられている。最後に「鳥の歌」という曲が入っていて、以前レンタルレコード屋で借りたほかのアルバムに入っていたのを気に入っていて、その曲の入っているCDを探したのだ。
カザルスが平和を希求して故郷カタロニアの民謡「鳥の歌」を弾くようになったことはレンタルレコードのライナーノーツを読んで知っていた。カザルス自身が銃を手にすることはなかったが、数度の内線や二度の世界大戦を体験して、反ファシストとしても活動した。ヒトラーにも演奏に招かれたがもちろん断り、その活動も相まってナチスの処刑者リストの上位に挙げられていたらしい。第二次大戦後は祖国スペインのフランコ独裁に強く異議を唱え、冷戦による世界の終末を憂慮していた。音楽を通して世界の平和を訴え続け、愛するカタロニアに帰ることなく亡命生活のまま亡くなった。若くして一流の音楽家となった彼は、各国の王室や要人とも知り合いであり、スペインがファシズムから解放されるよう、そして世界に平和がもたらされるよう、それらの人々に請願し、行動した。こうした平和活動家としての側面は母親の影響が色濃く、かなりのマザコンであるともいえる。
そのホワイトハウスのコンサートも、アメリカが暗にフランコ政権を支持していたことから招待に応じるか迷ったが、ケネディ大統領に共感するところがあり、彼に直接訴えかけるため、演奏することを決めた。
このアルバムで私が今一番気に入っているのは、最後から2曲目のシューマンの曲で、カザルスの人生を知った上であらためて聴くと、涙が溢れるほど心に響いた。「アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70」という10分ほどのその曲は、とりたててメロディーラインの美しい曲というわけではないのだが、緩急を意味するらしい曲名のとおり、ゆっくりしたリズムと忙しいリズムが交互に現れる。そして、上っては下りるような音階。チェロとピアノが追いかけっこをするように交錯し、共鳴する。ピアニストはカザルスと何十年も一緒に演奏してきたホルショフスキー。カザルスはこのとき80歳代の半ばだったし、ホルショフスキーもそう変わらない年齢のはずだ。ふたりのじいさん(前半の曲にはバイオリンもいるから3人だけど)が、平和な世界を求めて切ないまでに心に迫るハイレベルな演奏を繰り広げる。私はそれまでには感じたことのなかった種類の感動をその演奏に感じて、ついには楽器も弾けやしないのに、というかまともに読めさえしないのに、たまたま入った楽器屋で楽譜まで買ってしまった。それでその読めないはずの譜面を曲を聴きながらなんとか追ってみると、不思議なことに——それが音楽論的に正しい解釈なのかどうかは別にして——、作曲家の想いや、演奏するカザルスの想いまでがリアルに感じられ、ひとつひとつの音にちゃんと意味が込められていることを知った。だから、せっかくなら森野さんがこの曲を踊ってくれればいいのにと思った。
そんなことに思いを巡らせているうちに、小さな咳払いが私の鼓膜を静かにノックした。準備が整ったかどうか自分自身に問いかけるような咳払いだ。私は現実に引き戻された。
それから少し間を置いて、テープレコーダーからテープが取り出され、カラオケセットに入れられる音が聞こえた。少し巻き戻され、その前の曲が小さくかかって、徐々に音量が上がった。結構大きめな音で調整が終わり、そのまま曲はエンディングを迎えた。一度、音が止まり、静寂が訪れた。大きな音のあとのせいで、今までよりもずっと静かに感じられた。そしてタッタッタと素早く森野さんが近づいてくる気配を感じた。
「どうぞ、目を開けてください」
すぐ近くから聞こえてきた森野さんのその短い言葉はやけに重みがあり、私はそれに促されて目を開いた。
思わず私はごくりとつばを呑み込んだ。
白いタンクトップの裾からのぞく、ほどよく引き締まったつるんとしたお腹と可愛らしいおへそ。それがすぐ目の前にあった。
見上げると、森野さんは両腕を高く伸ばしたポーズを取っている。まぶたを伏せた横顔は切ないような苦しいような表情だ。
すぐにカザルスがチェロを奏で始める。クープランの「チェロとピアノのための演奏会用小品 嘆き」。
ほぼ同時に森野さんは上げた腕をたなびかせるようにしてつま先立ちのまま後ろへ下がっていく。裸足になっている。ピアノが後を追う。スペースの中央で止まると、音に合わせて腕をしなやかに揺らす。音響装置がしっかりしたせいで、さっきまでよりずっとカザルスのチェロが美しく聞こえた。
鳥のさえずりが聞こえてきそうな、春の晴れた日の午後のように穏やかなリズムと物憂げな調べ。森野さんの腕はそよ風に揺れる細い木の枝のようだ。それから今度は腕を胸に当て、前に広げる。そして腕を引き寄せる。祈るようなポーズは、春になってもまだ戻らない恋人を不安を抱きながら待ちわびる女性を想像させた。この曲を聴いて、こんなふうにイメージを抱いたのは初めてのことだった。それに踊りに集中している森野さんの愁いを帯びた表情にドキッとさせられる。ゆったりとした腕や指先の動きは細やかで、微妙な心の揺れを伝えてくる。見ている方まで切ない気持ちになってくる。
中盤の寂しげなピアノのソロは小刻みなリズムだ。それまで動きの少なかった森野さんも移動する側の腕をゆっくりとたなびかせながら小さくステップして左へ右へと動いていく。その足の動きは、まるで春の冷たい驟雨が地面を打ち、小さく泥を跳ね飛ばしているようだった。舞台の端では上半身全体をしなやかに横に倒す。ときおり強くなる風雨に木の枝が打ち付けられているみたいに。若い芽吹きに必要な水分をもたらしてくれる春の雨は、どうやら彼女には悪い知らせを届けにきたらしい。
ピアノソロが終わると森野さんも中央に戻り、曲は最初のテーマにもどる。また穏やかな春の午後。でも雨の降る前とは明らかに違う心の状態だ。
そのとき、オーバーヘッドプロジェクターが突然明るくなる。まるで雲間から、傾きかけた強い陽が射し込んだように森野さんを照らし出す。プロジェクターの強い光がその表情だけではなく、腕に焼き付けられたラインまでをもくっきりと浮かび上がらせる。森野さんは反射的に眩しそうな顔をしたが、すぐになにごともなかったかのように元にもどった。動きは前半よりもずっとけだるげな感じで、表情を失いかけた顔は一層の哀しみを感じさせる。
言い訳めいてしまうが、私が目を閉じるまではサマーセーターを着ていたし、そんなことまで思いが至らなかった。私はただ、お礼に踊ってくれるという森野さんにできるだけいいシチュエーションで踊ってほしかっただけなのだ。もしも森野さんがさっきみたいな薄明かりの下だからあの傷を見せたのだとしたら、ひどいことをしてしまったことになる。いまとなってはそうでないことを祈るよりほかになかった。
でも森野さんは相変わらず踊りに集中していて、少なくとも表面上はそんなことは気にも留めていないようだった。森野さんの顔は無表情へと移り変わっていくが、でもそれは演出上の一貫性のある表情であって、森野さんの気持ちではなかった。冷たい雨に真実を告げられて、不安から絶望、あきらめへと変化したその心に、ただ春の陽だけが無邪気に暖かく降り注いでいるようだった。むしろ森野さんはさらに踊りに熱が入ったような感じがした。
なんどか同じテーマが徐々にテンポを落としながら続いたあと、カザルスが最後の一音を静かに弾き終える。森野さんは救いを求めるように上げていた右腕を静かに胸に引き寄せる。
芸術的にどうだとかは私にはわからないが、とにかく私にとってはカザルスの調べに乗せた森野さんの踊りはこれまでの人生で見たどの踊りよりも美しく感じられた。心に染み込んできた。心が震えた。たぶんそれは森野さんが心を込めて演技してくれたからであり、そしてまたそれが私に向けて踊られた踊りだったからなのだろう。こんなふうに誰かに踊ってもらえるなんて、もう一生ないだろう。
私は思わず立ち上がって拍手をした。
森野さんは少し眩しそうな目で私を見た。ほんの一瞬、微笑んだ。ほっとしたような、嬉しいような可愛い笑顔。でもすぐに真剣な表情にもどった。
次の曲が始まる。森野さんも動きだす。私は中途半端に拍手を止め、立ったままだ。
クープランの「チェロとピアノのための演奏会用小品」の続きで、「悪魔の歌」。悪魔といってもちっともおどろおどろしくはなく、まだ幼いいたずら好きの悪魔という感じだ。前の曲とは対照的にリズミカルで躍動的な曲は、カザルスのチェロも力強く歯切れがいい。
森野さんの動きもさっきとはまるで違って、大きく、激しい。生命感に満ちている。笑顔がこぼれる。ときどきふざけたような感じでカルメンみたいなポーズを取って挑発的に私を睨む。
回って、跳ねて、飛んで、森野さんは所狭しと踊る。汗が光る。
私には信じられないことだが、脚を大きく上げると、足先が天に届けとばかりにピンと真上を指す。しかもその状態でしばらく静止している。プロジェクターの白い光が優雅に引き締まった森野さんのからだを照らし出す。普通にしているときには気がつかなかったが、いまでもちゃんとトレーニングを続けているのだ。この切れ味鋭い身体の動きはその賜物にちがいない。
くるくると回転しながら思いも寄らぬスピードで私の前を通り過ぎていったかと思うと、今度は舞台の端から勢いをつけて跳躍し、空中で脚を水平にまで広げて光の中を優雅に飛んでいく。タンッという軽い音を立てて着地する。私に隠れて練習していたのはこれだったんだ! そして何事もなかったようにくるっと向きを変えると軽やかにちょっとコミカルな感じで踊りながら中央へと戻っていく。
こっちの曲のほうが、ずっと森野さんらしかった。
休むことのない1分半。カザルスが最後の節を高らか弾き上げると、森野さんは舞台の中央で、左手を高く上げ、胸を張り、堂々としたポーズを決める。呼吸が乱れていて、胸が上下している。上気した肌が輝いている。
スピーカーから割れんばかりの拍手が鳴り響く。間近に見るバレエの迫力に呆然としていた私もすぐ後に続く。
なんとかこの感動を森野さんに伝えたかった。思いついて、拍手のなる中、急いで森野さんに歩み寄り、花束を渡すふりをする。森野さんはすぐに理解してくれたらしい。私の用意した立派な花束を嬉しそうに受け取り、匂いをかぐ。まだ緊張の解いていないらしい、作ったような笑顔。
カザルスの指が弦をはじく。潮が引くようにテープの拍手が鳴り止んでいく。
森野さんが顔を上げ、真剣な顔で私を見る。そしてすぐに微笑む。ちょっと上目遣いの、なにか特別な意味を含んだような、誘い込むような笑みだった。
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