第一五話 初めての相手(二〇〇〇年八月二五日 二三時四五分頃)

「そんなわけで、当たり前だけど、その先輩とはそれ以上何もなかったんです。幸せそうに見えないってどういうことって訊いたら、高校の時とは別人みたいに疲れているというか元気がなかったって言ってた。だからちょっと心配だったんだって。もてるだけのことはあって、女性のことはよくわかるし、優しさはあるんですよね。それに『あのときに比べたらすげえ色っぽくなってたから、できればもう一回したかった』とも言ってたけど」


 われわれは二次会をリセットしたみたいに同じ椅子に同じように座っていた。

 森野さんは時折さきほどみたいに足首をくるくるさせたり、お辞儀させたりしていた。宙に伸ばされたきれいな脚を眺めながら、さきほどの心地よい感触を思い返した。

「ところが、夫はあの部下の二次会の日以来、興信所を使って私の行動を調べていたんです」

「興信所?」

 実際に浮気をしていそうならまだしも、そんなことだけで興信所を使うものなのか。でも森野さんの夫はそう感じていたのかもしれない。

「ええ。家の電話も盗聴されていました。私としては夫から非難されるようなことはまったくしていないつもりだったんですけど、夫は違いました。研究室とかに親しくしていた男の友だちは結構いたから、電話も何度かあったし、私からすることもありました。電話の回数では女の友だちより男の友だちの方が多かったそうです。そういう調査結果をあとで見せられました。長さでは女の友だちの方が全然長かったんですけど。そういうのが全部集計されているんです。でも一番の問題はもちろんその先輩と会ったことです」

「へえ。それはまた研究者並みの執念深さだ」

「うん、ほんとにそんな感じです」

 そして森野さんは、はぁーと大きくひとつため息をついた。

「でもなんで、ご主人は、いや元ご主人は、その先輩が森野さんの、その、初めての相手だと分かったんですか? だからその二次会のあとから興信所まで使ったんでしょう?」

「主人というのも胸くそ悪い言葉ですけど。私はあの男の奴隷か! あ、すみません、別に太田さんを責めているわけではないですから。それについてははっきりとしたことはわからないんですけど、どうも勘みたいです。その先輩と話しているときの私の態度があまりにも不自然だったといっていました。自分じゃ、そうならないように気をつけていたつもりなんだけど。それから私の話した内容、つまり結婚式の晩に揉めたときに与えたわずかな情報を照らし合わせて、そういう結論、限りなく黒に近い灰色という結論に達したらしいです」

「へえ」

 私は感嘆にも近い、驚きのため息をついた。

「だからその先輩と会ったときも尾行されていたんです」

「尾行……」

「驚きますよね」

 私は言葉を失って、無表情にこちらを見ている森野さんの瞳を見つめ、こくりと頷いた。

「ファミレスで奥まったボックスシートに、最初は普通に対面に座っていたんです。先輩は損保の代理店をしていたから、車の保険はどんなのを使っているのとか、高校時代の共通の知り合いが今どうしているとか、そんな話をして。だんだんそわそわしてきたとおもったら、まあ悪気はないんですけど、するりと私の横に滑り込んでくると口説きに入って、さかんに私をおだてながら手を握ったり肩を抱いたり。私が人目を気にしておとなしめにいやがっていると、しまいには脚まで撫でたりするんですよ、まったく。そんなのほんの一瞬だったんですけどね。私がマジで怒って、いい加減にしてって強くいったら、『ちっ、やっぱり、駄目? ごめん、悪かったな』ってすぐに引き下がったんです。でも、まさにそういう瞬間を写真に撮られていたんです。全然、そんなこと気づきませんでしたよ」

「だけど、少々誤解されるような写真を撮られたといっても、なにもなかったんでしょう?」

「そうなんだけど。夫に写真を目の前に突きつけられてその写真をはじめて見たわけですけど、どういうわけか、私は薄ら笑いを浮かべてあまり嫌そうな顔にみえないんですよ。写真の画質が悪かったせいもあるんでしょうけど、見ようによっては身をよじって喜んでいるようにも見えて」

「でも尾行されていたのなら、かえって何もなかったことを証明できるんじゃ」

「普通ならね。そのときになって初めてこの人は本当に正気なのかと疑いを抱いたんです。夫は、確かにその日は何もなかったかもしれないけど、自分が調査を依頼する前には何かあったんじゃないかって言うんです。調べられていることを知っていて、その日は何もしなかったと。でも会いたくてたまらないから、会ったんじゃないかって。電話の内容も全部聴いているはずなのに、それも二人の間でしか分からない暗号のようなものだろうって」

「そんなむちゃくちゃな」

「そう、むちゃくちゃなんです。でもだからといって、何もなかったことなんて証明でしょう? ちょっと話が前後しちゃいましたけど、夫の友だち夫婦とバーベキューに行った話はさっき話しましたよね」

「ええ。その、ご主人、いやなんて呼んだらいいのかな? その友だちとクラシックで話が合ったって話でしたよね」

「そうです。夫の名字は奥山というんです。奥山木乃香という名前も悪くはないと思ったんだけどな。まあいいや。奥山だって、友だちの奥さんと楽しそうにしていたんですよ。ちょうど音楽の話で盛り上がり始めたのがもうそろそろ帰ろうかというときだったんで、成り行きで途中まで私はその友だちの車に乗ることになったんです。そして友だちの奥さんはうちの車に。途中の待ち合わせ場所で車を乗り換えることにして、はぐれたときには奥山家に集合することにしました。行楽日和で予想以上に道が混んでいて、見事にはぐれちゃいました。往きは二時間くらいだったのに、帰りは事故渋滞もあったりして結局五時間以上かかりました。三時過ぎに現地を出たのに家に着いたのは九時過ぎで。奥山たちは一時間以上も前に帰宅していました。不機嫌なのは火を見るよりも明らかでした。だって自分以外の男と長い時間、密室の中にふたりきりでいたんですから。そもそも車を変えた成り行きというのが、その友だちがあるミュージシャンが好きだといって、私もそれを聴いてみたいといったことにあったんです。夫はCDを借りればいいといったんですけど、友だちの方はCDチェンジャーに入っていて面倒だから自分の車に乗ればと誘ってくれたんです。私は少し躊躇したんだけど、奥さんもほうも勧めてくれてくれちゃって、雰囲気的に断るのも悪い感じで。その友だちは遠藤さんっていうんですけど、遠藤さんも奥さんも二人とも大らかな感じで、バイクに乗ってキャンプに行ったりするような夫婦で、夫の友だちの中では断然気があったんです。私もたぶん久しぶりに自然の中にいたから普段より開放的になっていたんだろうなぁ」


 森野さんは今度は座ったまま腕を上げ、ウゥーと色気のない声を出しながら一度だけ伸びをした。

 遠くの方から小さく雷鳴が聞こえてきた。日中だいぶ暑かったし、上空に寒気も入っていて大気が不安定になっているのだろう。


「家に帰り着いたら、もちろん友だちの手前もあったんだろうけど奥山は怖いくらいにこやかでした。でもぴりぴりしているのはわかりました。奥さんは手持ち無沙汰だったのと、たぶんそんな雰囲気の夫とのふたりだけの時間が気まずかったのもあって、バーベキューに使った道具を途中まで洗ってくれていました。そのころ私は研究を再開する気もしなくて専業主婦だったから、台所もまあきれいにしていたからそれほど恥ずかしくはなかったけど、奥さんは『勝手に台所を使ってすみません』と謝っていました。勝手に人の家の台所を使わないっていうのは主婦の暗黙のルールみたいなものなんでしょうね。一瞬奥山はきまりの悪い顔をしていました。それでもコーヒーを入れてちょっと一服していたら、また場が和やかになったんです。車の中では最初は音楽の話で、そのうちバイクの話になりました。私は一度もオートバイに乗ったことがなくて、乗ってみたいと思っていたんです。不思議と身近にオートバイに乗っている人がいなかったんです。ツーリングっていうんですか? 遠藤さんはバイクで旅行に行ったときの面白いエピソードをいろいろ話してくれました。北海道の霧の中で突然エゾシカが目の前に現れてびっくりして転びそうになったとか、四国の山の中は昼間でも妙に薄暗くて怖かったのに、夜になったら、突然ライトに墓地が照らし出されるは、カーブを抜けたら巨石が道に落ちたままになっているは、で、えらくびびったとか、東京から青森まで一気に走ったらおしりがひどく痛くなったとか。それでもいつも気持ちの良さの方がずっと上回っているんだって。それで私はますます乗りたくなって、遠藤さんがよかったら今度後ろに乗せてあげるといってくれました。遠藤さんの奥さんはともかく、奥山がそんなことを気持ちよく許すわけはなく、私は『ああ、でも』という感じのあいまいな返事をしました」

「バイクか、懐かしいな」

「え? 太田さんもバイクに乗っていたんですか?」

「ええ、まあ。二五〇CCですけどね」

「いいな」

「森野さんも乗ればいいのに。原付なら自動車の免許で乗れるし。最初は原付だって結構楽しいものですよ」

「そうか。そうですよね。よし、これからはいろいろと挑戦するぞ、エヘヘ」

 森野さんはこどもみたいに笑った。

「それで遠藤さんも、『あいつの性格からするといい顔はしないだろうな。じゃあ今度どこかに一緒に行くときは俺たちはバイクで行くか。そうすればその時に乗せて上げられる』と言ってくれました。でも私がその時はいいけどあとが怖いからというと、遠藤さんは『そうか……』とつぶやいて残念そうな顔をしていました。だから、家に戻ってからもその話は出さなかったのに、よりによって奥山が『そういえば遠藤、おまえまだバイクに乗ってるの?』なんて訊くものだから、その瞬間私と遠藤さんの目が思わず合って、ふたりともちょっとまずいなって顔をしちゃったんだと思います。別にまずくも何ともないのに。少なくとも遠藤さんはそういう顔をしていました。気持ちが素直に顔に出ちゃうタイプなんですね。ちょっと口ごもった感じで、『あ、ああ、まだ乗ってるよ。こいつとふたりで時々ツーリングに行ってるし、な?』って奥さんに振りました。もちろん奥さんは普通にそれに答えてたし、奥山も普通に、へえ、とかいってましたけど、奥山はなにかを敏感に感じ取っていました。私にはわかるんですよ。そのころにはわかるようになっていた、というべきかな。ほんと、変に勘が鋭いんですよ。それに妄想も混じっているし」

「そんなんじゃ、家でもリラックスなんてしてられませんね」

「もうリラックスどころじゃないですよ。緊張しっぱなし。あのころは肩こりもひどかったなぁ。あ、そうそう、それでまた踊りを始めたんですよ。今度はモダンバレエを。クラシックよりも表現が自由なやつで、教室も女ばかりなので、これについては奥山も簡単に認めてくれました。あの頃唯一の楽しみといえば、それだけだったな。本格的な教室ではなかったから物足りなかったし、しょっちゅう上京してくる姑の目もあったから教室は週に一回だけだったけど、家で練習する時間はそこそこあったし」

 私は森野さんが踊っているところを想像した。もっともバレエ自体をそれほど多くは見たことがないので、たぶんかなり適当なものだったにちがいない。

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