第一三話 スペース(二〇〇〇年八月二五日 二三時頃)

「どこまで話しましたっけ。そうだ、ええと、彼が私が処女でなくて怒ったところでしたね。でもそのあとで彼は自分の勝手な思い込みだったことにようやく納得してきたようで、何度も『本当に一度だけなんだな』と訊き、私はそのたびにそうだと答えて、最後には彼は私にきちんと謝ってくれました。それでも気持ちの落ち着きが悪いらしく、その一度について、まるで懇願するように詳しく尋ねてくるんです。私は高三の時にバージンを捨てるためにあこがれていた人と一度だけしたと、まあかなり簡略化して答えました。だってそこまで説明する義務はないでしょう? でも彼は挙げ句の果てには相手の名前まで訊いてくるんですよ。もし自分の知っている人間だったら嫌だからって。さすがにそれには答えませんでしたけど。彼も自分の質問が行き過ぎているのを感じたらしくしつこくはしませんでした。彼はそういうことはちゃんと読めるんですよね。それから彼はなんでそんなことでと、とっても悔しがっていました。それさえなければ完璧だったのにって。自分自身を説得するように『でもまあ準処女だな』とつぶやいていました。準処女ですよ! 処女に準ずる、ですよ! 私はばかばかしくなってきて、その後は彼の願望にできるだけ合うように、何も知らないかのように振る舞いました。まあ実際たいして知っていたわけではないから、そんなに困ることはなくて、自分からああしてこうしてということはなく、彼のすることに自然に反応するようにしていただけですけど。気持ちいいとか、痛いとか」

「ええ」と答えながら、少し困ったような顔を見せたら、森野さんはまたそっちに話が行ってしまったというようにペロッと舌を出した。

「私なんてそんなに特別にきれいでもないのに、なにが完璧なのか分からなかったけど、とにかく彼は、髪の毛が長くて、手足が適当に長くて、背は高からず低からずで、適当にメリハリがあって、姿勢がよくて、頭が悪くなくて、それで健康的に日焼けした感じの女性が好きだったんです。あ、それから処女で。本人もそういっていたし、彼の友だちも、それにしてもよく好みにぴったりな女性を見つけたな、とかいっていました。そう、結婚式の二次会みたいのは引っ越したあと東京でもやったんです。彼は大学が東京だったし、友だちの勤め先も東京が多かったから。私の友だちも何人か東京にいて、地元の時には来られなかった人もいたし。

「彼の大学時代に割と仲のよかったらしいちょっと意地悪そうな女性と話をしていたら、『あなた、ほんとにあいつの好みにドンぴしゃね。それに磨けば光りそうだし。知ってる? あいつは八〇点主義なのよ。女は八〇点くらいがちょうどいいんだって。ほどよいスタイルで、髪が長くて、控えめな性格で、それでいて自分を持っていて、姿勢がピシッとしていて。それに処女でね。ほかの男の手垢のついた女はいやなんだってさ』って言って私のことを笑うんだから。相当頭に来たけど、そこで喧嘩をするわけにもいかないし受け流したんですけどね。確かにその人は一流大学を出て弁護士としてバリバリ仕事をしていて、美人でスタイルもよくて、大人の女って感じで。でもそのあとこっそり私に『バージンじゃないことを理由にあいつに振られたのを何人か知っているわ。あいつ、付き合うのもバージンじゃなきゃ駄目なんだから困ったもんよね』って耳打ちをしました。それからちょっと言いにくそうに、『それと、もうわかっているかもしれないし、いまさらかもしれないけど、あいつはそういう意味も含めてあっちの方はちょっと変わった趣味みたいだから』と言いました。私は自分の顔が真っ赤になっていくのがわかりました。たぶん耳まで真っ赤になっていたと思います。夫はいわゆるコスプレが好きで、それもなぜかスポーツウェアが特に好きでした。いつもというわけではないけど、まあそういうのを着させられて、それを着たままするんです。私を見てその人は、やっぱりね、という顔をして、『まあ頑張ってね』というと、何かあったら相談に乗るからと、名刺に自宅の電話番号まで書いて渡してくれました。

「まあそれで私も彼の言う完璧の意味が分かったわけ。確かに当時はまだ髪の毛も肩胛骨よりも下まであったし、まあ適当に出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるし、バレエをやっていたせいで姿勢もよくて手足もそこそこ長いし、あのころは観測でよく陽に焼けていたし。中の上ってやつですか?

「だいたいあの男は私の中身なんてちっとも見てなかったんですよね。初対面の時にワンピースを着て、化粧もして、ちょっとお嬢様っぽい格好をしてしまったのが失敗だったかな。それにデートの時もあまり自分を出さずにいたし。だって出す必要を感じなかったから。今考えてみるとなんでデートしていたのか不思議なくらいですよ。アレは結局バランスがよくて従順な女が好きなだけなんですよ。私なんて、どこからどうみたって我が強くて、鼻っ柱が強くて、とんでもない女なのに。私は全然彼の好みじゃなかったはずなのに!」


 つまりお互いに見た目は好みだったが、どうやら中身は合わなかったようだ。森野さんは自分の顔が不幸の源であると言わんばかりに、両手で頬を押さえ、顔を潰してみせた。そんな風にしても、森野さんが美しいことに変わりはなかった。見れば見るほど、話を聞けば聞くほど、私は森野さんに惹き付けられていっているようだった。

「彼は結婚してしまえばいずれ自分の好みの女にできると思っていたらしいんですよ。見た目は整形でもしなけりゃ変えられないけど、中身は変えられると考えていたんです。本人がそういっていましたから。逆ですよね。中身なんかそんなに簡単に変えられるもんじゃない。ねえ、そうでしょ?」

「まあそうですよね」

「そうそう、傷の話だった。ところで太田さんは知り合いとどこかでばったり会ったことってありますか?」

「ええ、まあ」

 森野さんの話が唐突に別の話題に飛ぶのにもだいぶ慣れてきた。私は高速道路のパーキングエリアで小学校の同級生と出会でくわした話をした。もっともそいつは私が誰であるか分かっていなかったとあとで気付いたのだが、そのことは話さずにおいた。

「やっぱりそういうことってありますよね。ほんと世間は狭いというか、結婚して東京に引っ越して、彼の後輩の結婚式に夫婦で呼ばれて、その二次会でばったり会っちゃったんですね、初めての人と。私だってその先輩とは二度と会いたくはなかったですよ、あんな話を聞いちゃったし。それによりによって夫と一緒の時に会うなんて最悪ですよ。できるだけ関わりないようにしたつもりなんだけど、その人の方が絡んで来ちゃって。さすがにあのことはいわなかったけど、きれいになったとかなんとかいってやたらと馴れ馴れしくべたべたしてきて。結婚して、夫も来ていると言っているのに」

「それはまた災難でしたね」

「ほんと、困りました。夫はすぐ近くにいたし、結構酔っていたから変なことを言い出さないかって、冷や冷やだったの。話の内容は全部聞こえちゃうような距離だったから。あんまりしつこかったから、最初は知らぬふりをしていた夫も見兼ねてという感じで間に入って来て、その人に挨拶をしたの。そうしたらさすがにその人も急にまじめな態度になって挨拶をしたわ。余計なことを言わないようにって祈るような気持ちだった。そうならないように先回りして、高校の時の知り合いでこんなところで偶然会うなんて、って紹介したの。その人もちょっと気まずかったらしくて、『いや昔が懐かしくてついつい失礼なことを』ってペコペコ頭を下げて謝ってた。夫は別に気にもしてないという大人の態度で名刺を交換して、『新郎とはどういったご関係で』とか、『どちらにお住まいで』とか、まあ結婚式の場としては当たり障りのないことを訊いていたわ。それから『高校時代の木乃香はどんなでした』とか、いろいろ訊くわけよ。でもその人も『や、元気なやつで、よく友だちと騒いでいましたよ。当時は色気とか全然なくて、いやほんときれいになっていたんで驚いちゃって』とかなんとか適当に言ってくれたから安心したんです。でも家に帰ってからが大変だったんだから、もう不機嫌で」

「でもまあその時は無事に切り抜けられたわけですよね?」

「その時はね。私は嫌なことがあっても、一晩寝れば割とコロッと忘れられちゃうタイプなんです。友だちからもうらやましがられてました。帰宅してしばらくしたら夫も機嫌がだいぶ直っていたように見えたし、その二次会の嫌なことももう翌日には忘れちゃっていたんですよ。で、それから一か月ほどした土曜日に夫の友だち夫婦とバーベキューに行ったんです。その友だちは地元の結婚式にも東京からわざわざ来てくれた人なんですけど、クラシック音楽が好きらしくて、私もバレエもピアノもやっていたし、音楽で話が合ったんですね」

 森野さんはふっと何かを思い出したような顔をして、私を見た。

「今かけてくれているの、パブロ・カザルスでしょ?」

「ええ。よくわかりますね」

「やっぱり。彼の音ってちょっと悲しげで、でも優しくて、私も好きです。こうみえても曲の覚えはよくて、だいたい一度聴くと覚えちゃうから、バレエの先生からもピアノの先生からもほめられていたんですよ」

「そりゃすごい。私なんかそんな才能がないから、百回くらい聴かないと覚えられませんけど。でも気に入ってくれたなら嬉しいです」

「ええ、とっても」

「よかったら、このテープ、差し上げますよ。ささやかながら誕生日のプレゼントということで」

「いいんですか? うれしい!」

 森野さんは子供が嬉しいときにわーいとするみたいに両手を挙げた。ルーズなサマーセータの袖が下がって例の傷が見えたが、私はもうさほど驚かなかった。それから、森野さんは何かを思いついたらしく突然立ち上がり、酔っているとは思えない軽やかな足取りで歩いていくと、二列に並んだ机の間に立って、部屋を見渡した。


 机と机の間はちょっとした空間になっていて、観葉植物の鉢がひとつと、地方紙や自治体の広報紙かなにかが挟まっている移動式の新聞ホルダーが鎮座していた。森野さんは新聞ホルダーを本棚の方に寄せると、何をやっているんだろうと訝しげに見ている私に手招きをした。私が近づくと観葉植物の鉢を持ち上げ、「ちょっとそれを持ってきて」といって植木鉢の受け皿を私に持ってこさせ、鉢植えを部屋の隅の自立式スクリーンの横に置いた。それから廊下側の椅子を壁に寄せ始め、今度は窓際に回ってもう一方の机の椅子を窓の方に寄せた。どうやらすこし大きなスペースを作り出そうとしているようだった。森野さんが長い机の端を持ち、「太田さんはあっちをお願い」というので私も反対側に回って机を持ち上げた。二つの長い机をそれぞれ端に寄せ終わると、取り残された椅子たちを机に戻してあげた。

 スペースが出来上がると、森野さんは観葉植物の脇に立ち、腕を組んで、満足そうに頷いた。

 私は森野さんとは反対側、書棚の近くの窓際にいて、何気なくカーテンを少し開けて窓の外を見た。すごい星空だった。思わず「うわー」と声を上げると、森野さんも同じようにカーテンを少し開けて外を見た。

「もうすっかり晴れたみたいですね」と森野さんは星にはあまり関心がないようにぼそっと言った。この程度の星空は見慣れているのかもしれない。私には滅多に見られないほどの星空だったから、カーテンをもう少し引いて上を見上げ、溢れるような光の粒たちを楽しんだ。

 何か言われたような気がして私が部屋の方を振り返ると、森野さんは小さく呟きながら、作り出した空間の端のほうを辿るように、変わった歩き方でゆっくりと歩いていた。一歩一歩なにかを確認するように足を数歩踏み出しては止まり、ひと呼吸置いてまた歩き出した。

 私の興味は星空から森野さんに移り、邪魔にならないように本棚側の一番端の椅子に腰掛け、おまじないか儀式のような森野さんの不思議な行動を眺めた。

 森野さんはそうやって二周すると、私の二つ隣の椅子を引き出して、机を背にして腰掛けた。そして、口も開かず、体操競技の鞍馬のように手を椅子の脇に置いて体を安定させた状態で空間の方に脚をまっすぐに伸ばし、足首をお辞儀をするように曲げたり伸ばしたりした。ぼんやりとした光に浮かび上がる、ほどよく引き締まった白い脚に思わず見とれている自分に気がついて、慌てて欲情を抑え込んだ。私のそんな気配をまるで感じていないらしい森野さんは十回ほどそうしたあとで脚を下ろし、ちょうど新しい曲に変わったところで、今度は目をつぶり頭を下げて腕を組んだ。身体の力を抜いて何かを考え込んでいるようにも見えたが、あれだけ酒を飲んだ後だけに突然睡魔が襲ってきた風にも見えなくもなかった。

 ちょうど一分ほどの短い曲がかかっているあいだ、リラックスした様子でまったく身動きせずにいたが、曲が終わるのに合わせたように、よし、という感じで一度頷き、目を開き、私を見てにこりと笑った。


 森野さんは思った以上に変わった人のようだった。行動パターンは読めないし、何を考えているのかわからないところがある。夫だった人もちょっと特殊な人だったみたいだが、森野さんも決して負けていないような気がする。

 立ち上がって食事をしていた机の方に行った森野さんは、テープレコーダーを指さして、「音楽を一度止めてもいいですか」と訊いた。もちろん構わない、と答えた。カチャと小さな音を立ててストップボタンが押されると音楽が鳴り止み、星たちの声が聞こえてきそうなくらいの静謐が訪れた。ときどき外から聞こえてくる虫の音は部屋の静けさを際立たせた。

 頭の上で手を組んで伸びをしながらゆっくりともどってきた森野さんは、腕をゆっくりと下ろしながら息を吐き出した。腕を上げている間また例の傷が見えたが、もうまったく気にならなかった。人間というのは大抵のことにすぐ慣れてしまうものなのだ。元の椅子に腰掛け、さきほどと同じように脚を伸ばすと、今度はつま先を伸ばしてから足首を外回りと内回りに何度かくるくると回した。

 脚をもどしてきちんと揃え、背筋をぴしっと伸ばすと、森野さんは私の方を向いて、「さてと、続けますか」と言った。

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