第一一話 突然の涙(二〇〇〇年八月二五日 二二時頃)

 話は中途半端だったし、自分から持ち出すこれといった話題もなかったから、森野さんが黙ったままちびちびとグラスに口を付けてぼんやりと天井を眺めているあいだは、テープレコーダーから流れる音楽に耳を傾けていた。誕生日にかけるにしてはいささか物悲しい曲が静かに部屋を満たしていた。私は森野さんを眺めながら、論文の掲載年から計算すると森野さんはまだ25、6歳かとか、いろいろと慌ただしい1日だったけれども悪くない1日だったなとか、くつろいだ気分で思っていた。

 だから突然森野さんが顔をゆがめて声を抑えながら泣き出したときにはびっくりした。はじめに天井を見ていた森野さんの両目から一筋の白いものが流れ出し、体が震えだした。なにが起きたのか、すぐにはわからなかった。それから森野さんは目の前のグラスや皿を脇に除けると机にうっぷして嗚咽を漏らしはじめた。

 やがて抑えきれずに本格的に泣き始めるまで、私は呆然とその状況を見つめていた。それからどうにかしなければという思いで――泣いている理由も分からなかったし、気も弱いのでそのまま平然と気の済むまで泣かせておくという選択肢はなかった――、おろおろしながら机を回ってとりあえず森野さんの横に座った。それ以上のことはどうしていいかわからなかった。頭を撫でたり背中をさすったりして落ち着かせてやるとかいうことは、たとえば相手がもしさきほどの少女ならできたかもしれないが、大人の森野さん相手ではためらわれた。ただ私がそばに来たことで少しは安心したのか、少なくとも体の震えは収まりはじめていた。

 しかし結局のところ、私の数少ない経験からいえば、女性がひとりで泣き出したときは、傍観者である私はなにもすることはできず、ただ嵐が通るのをやり過ごすしかない。

 単に泣き上戸なのかもしれないと最初は思ったが、そうではなかった。まるで魂が震えているかのような泣き方だったからだ。

 おそらく10分ほどして、森野さんは静かになり、それからゆっくりと体を起こした。うつむいたままだった。泣いたあとの顔を見られたくないだろうと思って、失礼にならない程度にそっぽを向いていた。

 ごそごそとポケットからハンカチを出し涙を拭く気配がした。

「ごめんなさい。急にいろいろと思い出しちゃって」

 森野さんが私のほうに向き直り、お詫びのお辞儀を兼ねた感じでちょっと頭を下げながら笑みを見せるのが視界の端っこに見えた。

 私は遠慮がちに森野さんの方を向き、「いいんですよ」と言った。

 しばらくふたりともこの状況をどう収拾していいかわからないまま、黙っていた。外ではいつのまにか秋の虫たちが涼しげな音を奏でていた。さっきのは秋の訪れを告げる雷だったのかもしれない。

「すみません、つまらない話でしたよね」

 森野さんは肩をすぼめて申し訳なさそうに言った。声はちょっとかすれてはいたが、しっかりとしていた。

「いや、こういっちゃなんですけど、けっこうおもしろかったです。それに森野さんのことをずいぶんと知ることもできたし」

「そうならいいんですけど。でももうこれ以上は聞きたくないですよね」

「森野さんが話したければ話せばいいし、もう話したくないなら話さなければいいですよ」

 森野さんはしばらくうつむいて、テーブルを見つめていた。それから私のグラスがほとんど空になっているのに気がついたらしく、向かいにあった私のグラスを取って私の前に置くと、もうだいぶ軽くなっているらしい瓶を持ち上げ「もう少しいかがですか」と控えめに訊いてきた。

「じゃあ、せっかくだから、もう少しだけ」

 なんとなく断るわけにはいかない雰囲気だったし、この日本酒ならもうちょっとは飲めそうだった。

 泣いていたことを忘れたように森野さんは笑顔を見せると、日本酒を私グラスに丁寧に注いだ。それから半分ほどになっていた自分のグラスにも注ぎ足した。

 隣に座っているせいもあって、泣く前よりも森野さんをずっと親密に感じることができた。森野さんが動くたび、例の香りがほのかに漂ってきた。まるでちょっとずつ花が開いていくように香りは少しずつ変化しているみたいだった。最近はそういうタイプの香水があるのかもしれない。

 少しの間沈黙が続き、私は二口ほど酒を味わった。きれいな味、という言葉が頭に浮かんだ。それが思わず口からこぼれ出た。

「えっ?」

 考え事をしていたらしい森野さんはなんのことかわからなかったらしい。

「この日本酒の味、なんか、きれいな味だな、とおもって」

「へえ、きれいな味か。たしかにそんな感じですね」

 森野さんは独り言のようにつぶやくと、グラスを目の高さに持ち上げて、試験管の中の液体を分析するようにのぞき込んだ。グラスにはピンクの口紅がうっすらと付いていた。

 日本酒で酔いが回ってきたのか、自分でも知らないうちに真剣な表情でグラスを見つめる森野さんの横顔に見とれてしまっていたらしい。森野さんが突然パッと私のほうを向いたことでそのことに初めて気づいた。慌てて目を逸らそうとしたが、できなかった。グラスを見つめているときと同じ真剣な眼差しだった。こうして間近で見ると吸い込まれそうなほど美しく、まるで心臓と一緒に体が固まってしまったみたいだった。


 突然森野さんは体ごと私のほうに向き直ると、私の右手を握手でもするようにさっと掴んで、素早く引き寄せた。森野さんの掌は温かく、湿っていた。もう一方の手を私の手に重ねた。花びらに顔を近づけたときのようにあの香りはよりはっきりと私の中枢に入り込んできた。体も思考も自由が奪われた。

 すると森野さんは両の手に力を込め、足元を見つめていた顔を上げると、ちょっと困ったような感じで私を見た。

「あの、いまさらではあるんですけど」

 一度だけゆっくりとまばたきをして、穏やかな瞳であらためて私の目を捉えると静かに言った。

「今夜のことは、私が死ぬまで、絶対に誰にもいわないと約束してもらえないでしょうか。教授とか私を知っている人はもちろん、太田さんの友だちとかたとえ私のことを知らない人であっても」

 なんだそんなことか、と体からすうっと力が抜けていくのがわかった。死ぬまでなんてずいぶん大袈裟だな、と思ったが、さっきの泣き方を考えると少しだけ心配な気持ちにもなった。

「もちろんです。約束します。誰にだって誰にも知られたくないことがあるし、でも誰かに聞いてほしいことがある」

 思ったままを口にしてみたらまるでハードボイルド小説の台詞のようだった。

「よかった」

 心の底から安心したように森野さんは長く息を吐き出し、私の右手を挟んだまま両手を持ち上げた。森野さんに委ねきって完全に脱力していた私の右手を両手で握手するように握り直すと、選挙の立候補者が有権者にお願いをしているみたいな感じに、頭を下げながら小さく上下に振った。私の右手はされるがままになっていた。

「よかった」

 もう一度そうつぶやくと、森野さんは私の右手を、借りていた物を丁重に返すような感じで、私の膝の上に解放した。

 森野さんはグラスを手に取ると日本酒をごくんごくんと一気に流し込み、空っぽになったグラスを机に置いた。見事な飲みっぷりだった。

 それから、おもむろにサマーセーターの腕まくりを始めた。


 話は内容的にまだ中途半端だったが、私が口外しないと約束したことでなんとなく区切りは付いたし、森野さんがもうお開きにして片付けでも始めようとしているのだと思った。

 誕生日の森野さんにやらせるわけにはいかないことを思い出し、私がやるからいいですよと言おうとしたそのとき、森野さんは袖を引き上げた裸の両腕を私の前にまっすぐ差し出した。いつも長袖を着ているらしく、腕も脚と同様に白かった。

 私はなんだろうと森野さんの腕と顔を交互に見た。森野さんは真剣というよりも無表情といった顔をしていた。

「これをみてください」

 そう森野さんはいうと、ボクサーが顔面をガードするみたいに両方の腕をあげた。

 私はギョッとした。両腕の手首の小指側から肘にかけて、火傷の痕と思われる5ミリほどの幅の傷が一直線に走っていた。その部分だけ、ピンク色に皮膚が引きつっていた。

 驚いている私をよそに今度は森野さんは肘をさらに上げ、セーターの袖を片方ずつまくっていった。同じような痕がさらに肘の上から肩に向けて延びていた。

 細い棒で無理矢理つけられたような、不自然な火傷だった。

「どうしたと思います、これ?」

 医者に傷口を見せたあとのように、腕を下ろし淡々と袖を元に戻しながら、森野さんは膝小僧をすりむいた理由を質問するくらいの感じで訊いてきた。

 どう考えても普通の火傷の痕ではなかった。まるで誰かに焼けた鉄の棒を押しつけられたみたいだった。

「夫にされたんです」

 つまらないプレゼントを誰がくれたかを話すくらいの言い方だった。

「夫といってももう離婚が成立しているから、正確には元夫ですけど」

 重要な情報を一度に与えられたせいで私の脳は今日何度目かの混乱に陥り、酔いが一気に回ってきたように感じた。そのなかでかろうじて考えることができたのは、少なくとも話は終わったのではなく、本題に入ったのだろうということだった。

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