第一四話 かくれんぼ(二〇〇〇年八月二五日 二三時半頃)
私たちは窓を背に、机と机の間に作り出したスペースを向いて座っていた。並んで小さな池を眺めているみたいだった。場所を変えて二次会を始めたようでもあった。座った辺りにはカーテンの開かれた窓からうっすらと星明かりが差し込み、スペースの向こうでは食卓の上の電気が淡く光っていた。
もう最後まで話を聞く覚悟はできていた。出張ではなく休暇で来てよかった。眠気もまるで感じなかった。そして、この思いがけない妙な時間がとても貴重なものに感じられていた。あらためてあの少女のおかげかなと思った。あの少女の私に対する好意的な雰囲気みたいなものが、この図書室にいまだに漂っているような気がした。
「夫の嫉妬はそのときに始まったわけではなくて、ちょっとでもほかの男性と親しそうに話をしていただけで、たいていはその場ではなく、あとで不機嫌になったんです」
森野さんは唐突に話を再開した。
「電話がかかってきてもそうなんです。結婚して一か月くらいのときに、研究室の男の友だちから電話があって、たまたま家にいた夫が出たんです。すぐに私に替わってくれましたが、やたらと声のでかい奴で、少し離れた場所でも、受話器から漏れ聞こえてくるほどなんです。なんていうかちょっと繊細さにかける奴で、悪い人じゃないんだけど、相手の置かれている立場とか状況をあまり考えないで話す奴だったし、元カレとは同じ観測チームで結構親しかったし、元カレの話でも出たら嫌だなと思って。夫が聞き耳を立てているのは分かってましたから。でも、だからといって別の部屋に行ったらよけい変に思うだろうし。その友だちはまだ博士課程にいて、結婚式の時も東京での二次会の時も観測に行っていて、さすがに少しは大人になったのか、お祝いと欠席のお詫びを言うと、じゃあまたな、って感じで、手短に切ってくれたから、ま、よかったんです。でも、今のは誰、とか、仲良かったのか、とか、いろいろと訊いてくるんですよ。男の人って、そんなに気にするものですか?」
「どうでしょうね、やっぱりちょっとは気になるかな、付き合っている女性に男から電話がかかってきたら」
「ふぅん。でも女だって気になるからおあいこか。わたし的には男がそういうのはどうかと思うんだけど」
「それは男女差別ですよ」
「そうかな、まあそうかもしれないですね。私の男性に対する理想、願望というわけか」
「でもそうありたいとは思いますね。そのくらい自信を持っているというか」
「そうでしょ、そうですよね」
森野さんは弾けるように言うと、嬉しそうに顔をほころばせた。
「いったいどこで調べたのかと思ったけど、例の高校の先輩から、二次会からしばらくして家に電話があったんですよ。半月後くらいに。平日の昼間だったからまだよかったけど。どうやら私の高校の友だちと付き合っているというか、まあときどき寝る関係だったみたいで、そこにあった私の連絡先を見たらしいんです。彼の性欲は——もしくはセックスしたい病というほうがぴったりかな——どこまでいっても尽きることがないみたいで、就職してもまだとっかえひっかえやっていたんです」
「そりゃまたすごいエネルギーだ」
「たしかに。で、電話はそのお誘い。再会したのもなにかの縁だからといって。冗談じゃないわよね。営業マンとしては腕利きらしくて、電話も切らせてくれないし、トークも上手いし、なんか納得のいかないまま、お茶を飲むくらいならいいかと思わせられちゃって。だってもうマンションの下まで来てるっていうんです。嘘だろうと思って下を見ると、本当に手を振っているし。なんなら上に上がってくるっていうから、それよりはましと思って、仕方なく知っている人に会わなそうなファミレスで待ち合わせして、そこで偶然会ったふりまでしたんです。万が一、夫に知られたら面倒なことになるのは目に見えてたから。もちろんそこで話をしただけですよ。あの人、なんかそういうところはちゃんとしているのよね。こっちが本当に嫌と思っていて、はっきり嫌だといえば、ちゃんとそれには応じてくれるというか。だからまあこっちもちょっと安心しちゃうところがあるんだけど。最初は話なんかしたかったわけじゃなかったんだけど、『おまえ、なんか無理して結婚したらしいな。それにこの間会ったとき、あんまり幸せそうに見えなかったぞ』って言われて、なんかそれがぐさっときちゃったんです。自分で押し隠していたことを目の前にバーンと提示されちゃったというか。ほかの友だちとかはみんな、うらやましいという感じでしかいわなかったのに、そんな風にズバッといわれたのは初めてで。ほら、銀行員で給料はいいし、見た目も悪くないし、優しそうだし。女はなぜかそういうのにだまされやすいからなぁ」
森野さんは椅子から立ち上がると、ゆっくりとした動きで背伸びをしてそれから何度か前屈をした。ものすごく深い前屈で、見ている私の方が思わず腰が痛くなってしまいそうだった。バレエをやっていた人なら普通なのかもしれないが、なにしろ脚がピシッと伸びた状態で額がゆうゆう膝についているのだから。
「ところでさっきから何をやっているんですか?」
私は尋ねずにはいられなかった。
「ああ、これはバレエをやっていたときからの癖で、ストレッチです。ちょっと時間があったり、しばらく座っていたりしたら、もう無意識にやってしまうんです」
森野さんはちょっと間をあけて、上半身と頭を脚にびったり付けたまま顔だけこちらに向けて答えた。なんか脚から顔が生えているようなとても奇妙なポーズで、人間ではない別の生き物みたいだった。
「へえ。バレエダンサーなら当たり前なのかもしれないけど、すごく柔らかいんですね」
「そうですか? これでも硬くて苦労したんですよ。でもストレッチだけは長年ちゃんと続けているおかげで、ずいぶん柔らかくなりました」
よせばいいのに、私も立ち上がって、森野さんのように上半身を屈めた。指の先がようやく床に届くかどうかという程度なのに、脂汗が出そうだった。森野さんがくすりと笑うものだからムキになってしまった。
「無理しない方がいいですよ」と森野さんが言うが早いか、私の腰は悲鳴を上げた。腰から背中にかけて太い電流が走り、ウッという重苦しい悲鳴が口から漏れた。
「もう、いわんこちゃない」
森野さんは羽のような軽い感じでさっと寄って来ると、私の頭と背中を優しく押さえ「動かないで」と言った。それからしゃがみ込んで私の顔をのぞき、「どんな感じですか?」と訊いた。
「たぶん大丈夫です」
「たぶん?」
森野さんは厳しい口調で問い返した。
「いえ、大丈夫です。ただ筋がつっただけみたいです」
「そう、じゃあゆっくり起こしてみましょう」
森野さんは私が急に起きないように背中を押さえながら抱きかかえるようにしてゆっくりと私の体を起こしてくれた。柔らかな感触と匂いに包み込まれた私は、もちろんそんなことはできなかったが不謹慎にも森野さんをそのまま抱きしめたくなった。
助けを借りて慎重に椅子に腰を下ろした。森野さんは「念のため、じっとしていてくださいね。今、布団を引いてきますから」と言い残して、宿直室に消えた。「そんな大げさな、大丈夫ですよ」と呟いた私の言葉は彼女の素早い動きに追いつけなかったようだった。
少し悔しかったので、もどってきた森野さんを驚かせてやろうと思った。腰の辺りを気にしながら立ち上がって問題のないことを確認し、隠れるところを探した。
ちょうど一番書棚側のカーテンがなぜだか長く、床すれすれまであったので、そこに隠れることにした。動かした新聞ホルダーが傍にあったので足元も見えにくそうだった。できるだけ音のしないようにカーテンの裏に忍び込んだ。
森野さんは思ったよりも長いこと戻ってこなかったが、待ち構えていたからそう感じただけなのかもしれない。
それでも息を潜めて待っていると、やがて森野さんの足音が聞こえた。
「太田さん、お布団、引けましたよ」と言いながら森野さんは図書室に戻ってきた。
「あれ? 太田さん? 太田さん? あれ? どこいっちゃったんだろう?」
森野さんの声は不安げだった。
「あれぇ、おかしいな」
それから森野さんはしばらく黙り込み、動く気配もなかった。困っている森野さんを想像するとおかしくて、笑いを堪えるのが大変だった。あまり困らせても悪いし、いつまでもじっとしているのも辛いので、次に名前を呼ばれたらばっと出て行って驚かせてやろうと思った。
「うわあ!」
次の瞬間驚きの声を上げたのは私のほうだった。音もなく忍び寄ってきた森野さんが、無邪気にもカーテンの外側から飛びかかるように抱きついてきたのだ。
「つかまえた!」
森野さんは勝ち誇ったような感じで楽しそうにいった。
困ったというか、嬉しいというか、カーテンを開けようと構えていた私の手に森野さんの胸のふくらみがすっぽりと入っていた。左利きの野球のピッチャーが左胸辺りに飛んできたライナーを、適当に出した右手のグラブでキャッチするような感じだった。グラブをしていればまだしも、素手の私にはそのボールはあまりにも柔らかく、それに思ったよりも大きかった。野球というよりはソフトボールだった。手を除けようにもカーテンに絡み取られてしまった状態だったので動くこともままならなかったし、下手に手を動かせばかえって変なことになりそうだった。
「ちょっと、森野さん」
「なんですか?」
怒ったような声で森野さんは言った。
「放してください」
哀れにも私は嘆願した。
「だめです。私のこと驚かそうとしたでしょう。降参するなら、放してあげる」
森野さんはそのゲームを楽しんでいるようだった。さらに強く抱きしめてきた。
カーテンを一枚隔てているとはいえ、さきほどの願望が現実のものとなった状況は心地よく、正直なところまだしばらくそうしていたい気持ちもあった。でも、さっきから何度も妙な刺激を受けているせいか、あるいは少し酔っぱらっているせいか、私の身体はことさら反応が早く、ふくらみ始めていた。それは森野さんの下腹部に当たっているはずで、彼女にも分からないはずはなかった。森野さんの匂いではなく、古いカーテンの匂いのしているのがせめてもの救いだった。
それでも森野さんは力を緩めなかった。それどころかさらに私を壁に押しつけてきたから密着度は一段と高まり、いよいよはっきりと森野さんを感じることになった。私の頭が窓ガラスに当たり、カチャンと小さな音を立てた。
「どうしますか? 降参しますか?」
森野さんは語気を強めた。
意地になって少し頑張ってみたものの、もうどうにもならず明らかに張り詰めていた。白旗を揚げざるをえなかった。
「わかりました。すみません、降参します」
私の言葉が本当かどうかを確かめるようにわずかな間を置いてから、森野さんは言った。
「じゃあ、私がいいというまでそのまま動かずにいてください。絶対に動いちゃ駄目ですよ。カーテンから顔も出しちゃ駄目ですよ」
わけのわからないまま大人しく「はい」と答えると、ようやく力を緩めてそっと私から離れた。今度は森野さんがどこかに隠れるつもりにちがいないと思った。
言われたとおりじっとして、カーテンにくるまれたまま耳を澄ませた。でも、ほとんどなんの音も聞こえなかった。しばらくしてちょっと離れたところで、小さくタンッという、裸足で机くらいの高さから床の上に飛び降りたような音がした。それからその音がさっきよりもずっと近くで聞こえ、少しだけ時間を置いて、また離れたところで音がした。さらに耳をそばだてると、森野さんの呼吸が少しだけ乱れているのが聞こえた。いったい何をやっているのかさっぱりわからなかった。
今度はいきなり、じゅう、きゅう、とカウントダウンする声が聞こえてきた。かがんでいるときのような、ちょっとだけ息苦しそうな声の出方だった。
数え終わると、「はい、もういいですよ」と言った。
私はちょっとバツが悪かったので、そろりとカーテンをどけた。
森野さんはちっとも隠れておらず、夕方研究所の前で会ったときのように後ろを向いてつま先立ちになり、ぐぅっと大きく伸びをしていた。そしてくるっと振り向くと、ペロッと舌を出しいたずらっこのような笑みを見せた。それにつられて私も照れて笑った。
「もう大丈夫みたいですね」
森野さんは何事もなかったように言った。
「ええ、おかげさまで。だから、布団なんて引きに行かなくてもいいっていったのに」と、せめてもの反抗をした。
「まあ、いいじゃないですか、どうせあとでするんだし」
「そりゃ、そうですけど。なんか大けがしたみたいで、情けないじゃないですか」
「太田さんって、見かけによらず、負けず嫌いですよね」
「そうですか? いやまあ、そうですね」
「でも嫌いじゃないですよ、そういう性格。負けても平気なんていう人よりずっといい」
それから森野さんは「だからといって、ストレッチとはいえ急に無理してやっちゃ駄目ですよ」と戒め、部分的なストレッチと呼吸法を合わせたような痛めた筋を治す方法を教えてくれた。そのおかげで今まで凝っていた首から肩、背中にかけての筋肉までもずいぶんほぐれ、体も軽くなったような気がした。
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