8-Ⅰ 毫釐の差は千里の謬り Between a Regret and an Impatience


『こちらメアリー。緊急出動要請です。大阪市北区、ヨドバシ梅田前にて眷属一体と信奉者多数による襲撃発生。直ちに急行してください』

「緊急じゃない出動要請なんてないでしょうに」

 魔法少女祭(賽河原さいがわら命名)から休日を挟んで二日、トレーニングルームでスポーツドリンクのボトルを手にする帚木ははきぎのインカムに通信が入った。

 帚木はスポーツブラとスパッツの装いでタオルを首に掛けていた。よほどプロポーションに自信があるのか(単純に動きやすいからという理由もあるだろうが)、引き締まった筋肉質の肢体を惜しげもなく晒している。シャワーを浴びた直後で、烏の濡れ羽色の髪の先から雫が滴り落ちている。

「出動はわたしだけ?」

『はい。椋路むくみちは私用で出払っており、病葉わくらばは京都地区に出向しています』

「柘榴め、またデートか。わたしが梃子摺てこずるようだったら、椋路を呼ぶことも考えといて。それで、目標の特徴は?」

『巨大な蜘蛛の姿をしています』

「蜘蛛、ねぇ」

 帚木は口元のスポーツドリンクをタオルで拭い、ぺろりと唇を舐める。

 彼女はトレーニングルーム脇に設えられたロッカーに歩み寄り、そのうちの「はぎ」と書かれた名札の扉に手を掛け、戦闘装束の掛かったハンガーを取り出す。

 十秒も要らなかった。帚木は長い黒髪をポニーテールに纏め、背中に虎と龍の刺繍が施されたスカジャンを羽織り、ダメージ加工されたスキニーパンツを履き、履き慣れたミリタリーブーツの紐をきゅっと締める。

「コードネーム、マッチ・セラー、出動準備完了」

 当たり前のように露出された下腹部の紋様、子宮にマッチで火を点けるような紋様が、橙色に光った。



 時を同じくして、椋路は、帚木の予想通り、稲津いなづと共に御伽社おとぎしゃ近くのカフェテリアにいた。店内はどの席も埋まるほどの盛況である。

「なァ、その、なんちゃらかんちゃらチーノって、美味いの?」

「ダークモカチップクリームフラペチーノです。美味しいですよ」

「名前長げェよ。寿限無か」

「飲んでみますか?」

「要らん。甘いんだろそれ」

「そうですけど……美味しいのに」

 ずず、と稲津はストローで(前略)フラペチーノを吸い上げる。病葉の食事もそうだが、見ているだけで胸焼けがしそうだった。

「ここ肉料理ないじゃんか。肉食主義なのに」

「じゃあ、後で俺を食べれば……」

「やめろ。あたしが悪かった」

 稲津の言葉を手で制し、椋路はコーヒーで満たされたカップを傾ける。

 帚木の予想は半分当たりで半分外れと言うのが適当であろう。確かに椋路は稲津と共にいるが、これはデートではなく訣別、つまり別れ話が目的だった。未だそれを打ち明けられてはいないが。

 しかしいつまでもこうしてのんびりしてはいられない。魔法少女は個人ではなく市民全体に奉仕する存在であるのだから。この苦味は、きっとコーヒーだけのせいではない。

上那かみな

 名前を呼ぶと、稲津が顔を上げた。何を言うのかと、どんな話をするのかと、心待ちにしているような表情だった。

 ――やめてくれ、その顔を。

 カップを置いて、稲津から目を逸らす。

 ――アンタは眩しい。星のようだ。だからこそ、手に届く距離にあっちゃいけない。

 絞り出すようにして、椋路は稲津に告げた。

「……あたしがアンタに会うのは、今日が最後だ」

 稲津の顔が凍りついた。



 大阪梅田の駅の前。梅田のヨドバシカメラ。の前に、マッチ・セラーが立つ。

「あーあ、酷いなこりゃ」

 見慣れた街並の風景は、幾重に四方八方に張り巡らされた白い糸によって一変していた。

 どのビルの外壁にもその糸が繋げられており、それらによって中空に築かれた白い城はさながら空中庭園のようだ。

 その空中庭園の中心に、全長十メートルはあろうかという巨大な蜘蛛が鎮座していた。黒い体色に、腹部には数本の黄色い横縞模様、八つの赤い目は二列に並んでおり、鋏角や触肢は忙しなく動いている。

 そして母たる巨大蜘蛛の周りには、仔らしき小さな蜘蛛(それでも一メートルは下らないサイズだ)が徘徊しており、粘度の高い糸に絡みついた獲物、竜種や昆虫種や鳥種などにせっせと糸を巻きつけて母の元に運搬している。

 哀れにも捕縛されてしまった彼らの餌の中で、特にその割合を大きく占めるのは、人間だった。スライム型の若い男性も、猫の獣人の中年女性も、エルフ族の子供も、区別なく、皆一様にして全身に糸を巻かれ、これから訪れる死に震え怯えるか、或いは食べ残し然として身体の一部を残すのみとなっているかだった。そのどちらでもない場合は、一切の抵抗を許されぬまま体内に消化液を流し込まれ、スムージーのようになった内臓や体液を美味しく戴かれているその真っ最中であった。

 まず第一にすべきは、人命救助だ。しかし、この数を相手に独りで無茶をすれ、ばミイラ取りがミイラだ。人を救う者は、自己の安全確保を怠ってはなならない。マッチ・セラーは逸る血気を抑え、決然と自らの、いや人類の敵を真正面から見据える。

 彼女に内在する義の精神は、間違いなくあれら無数の蜘蛛を憎んでいる。「人類を愛しているから全員を殺す」などと宣った厄災も、それに加担する眷属も、マッチ・セラーは、帚木はぎは、許すことができなかった。死はあらゆる可能性の消滅だ。生きとし生ける者の未来を恣意的に奪うことは、その可能性を否定し無に帰せしめる冒涜行為だ。断じて看過するわけにはいかない。愛という妄言に冷や水を掛けてやらねば気が済まない。

「この数を独りで……いいや、義を見てせざるは勇無きなり、だ」

 マッチ・セラーは軽く柔軟体操をして、腰を低く落としたかと思うと――、一気に跳躍した。

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。否、将を射よ。

 目標が三十メートルほど上空にいようと、魔法少女にとっては何ら位置的不利を被るものではない。必要であればビルの屋上から屋上へと跳び回ることだってできるし、一級河川を跳び越えることだってできる。そも魔法少女とは、物理的限界を超越し、世界に仇なす存在を誅せんがために存在しているのだから、その程度こなせずしてなんとしようか。

 が、敵もまた理を超えた存在であることに変わりはなく。

 母蜘蛛は突如眼前に現れた下腹部丸出しの女に驚く気色さえ見せず(感情があるのかは置いておいて)、鋭利な八本の脚のうち二本で以て彼女を串刺しにした。

 ずぶり、と腹から背中まで蜘蛛の脚が貫く。傷口から血が漏れ出しぼたぼたと身体を伝って地面に落ちるが、マッチ・セラーもまた動じない。

「肉を切らせて骨を断つ!」

 マッチ・セラーが、腹に刺さった蜘蛛の脚に勢いよく指を擦りつける。

 すると、パチッ、と乾いた音を立てて擦りつけられた部分が発火する。火は忽ち本体にまで延焼し、その黒い身体と白い空中庭園を諸共に焼き焦がした。


 マッチ・セラーの固有魔法は炎と幻惑。その名の通り、あらゆる物質を硫黄と燐のように摩擦で燃え上がらせることができ、その炎によって任意の対象に幻覚を見せることができる。幻は相手が望んでいるものを映し出し、その方法で彼女の殺した端末ぶひんどもは、皆心から幸福な表情をしていたのだという。


 火に悶え、母蜘蛛は魔法少女を突き刺したまま地面に落下する。

 強かに地面に打ちつけられるも、マッチ・セラーはすぐさま腹に突き刺さった脚を手刀で断ち切り引き抜く。一瞬どぷりと傷穴から血が溢れ出すが、あっという間に修復され、最初から傷などなかったかのように元通りとなる。

 慣れ親しんだ地面を踏み締め、マッチ・セラーは拳を握って構えを取る。

「これぞ、調虎離山の計」

 母蜘蛛もまた、体内魔力を用いて消火、修復を行い、威嚇するように鋏角をガチガチと鳴らして二本の脚を振り上げた。

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