9-Ⅱ 黒山羊の愛撫 Wilderness; a Rouse and Hatred


 何かを切っ掛けとするわけでもなく、一瞬で、椋路むくみちは見知らぬ場所にいた。

 円形の部屋だ。半球状の天井は星々をちりばめた天穹てんきゅうで、出入口は幾重もの黒い帷帳カーテンに覆われ、壁には何冊も絵本が立て掛けられた本棚や、様々な形に損壊され乱雑に積み上げられた屍体が見受けられた。

 子供部屋のようだ、と椋路は思った。かどわかされたのであろう様々な人種の屍体は、腕と脚を捥ぎ取られてそれぞれ逆に縫合されていたり、股から口まで一本の棘で貫かれていたり、傀儡くぐつのように糸を付けられて天井からぶら下がっていたり、骨骼を無視して箱のように折り畳まれていたり、皆玩具のように甚振られ、息絶えていた。

 その中でも、数少ない生存者――、

「ねぇ! 治してよ! 治らないの、戻らないの、痛いの! 私の身体! なんで、魔法少女なのに! 不死身のはずなのに! どうしてよ!」

 首から下の全ての生皮を剥がれた魔法少女と思しき女は、厄災の姿を見るなり懇願していた。

 通常魔法少女は、原初の魔法少女リリスの遺骨により半永久の再生力を身につける。だが、厄災に生皮を剥がれた魔法少女は、うごめくピンク色の筋肉やぷよぷよした黄色がかった脂肪を空気中にさらして、それらからじわじわと血液を沁み出させて、それでも尚、細胞の一片さえも再生しないことにえていた。特異な負傷、即ち身体中の皮を剥がれるという通常起こりえない状況が、彼女を更なる恐慌に陥れているようだった。

「いつもなら跡形もなく治るのに! だから痛みなんて乗り越えてこられたのに! 戦えてこれたのに! ねぇ、厄災! 貴女がやったんだから、貴女が治してよ! お願いだから!」

 魔法少女は、随分と長い間痛哭していたのだろう、れた声でそう叫んで近くの屍体を指差した。それは、同じように首から下の皮を剥がれ、彼女の皮を着せられていた(下腹部に同じ紋様がある)。

 それに対する厄災の返答は、素っ気ないものだった。

「――うるさいなぁ」

 煩わしげに放たれたその声に一瞬遅れて、ごとん、とねられた首が床を転がり、身体が倒れた。断面からびちゃびちゃと血が噴き出し、床と厄災の足を濡らした。鉄錆の臭いが離れたこちらにも漂ってくる。


「…………」

 黒い腕に捕縛されたままの椋路は、抵抗せず見ていることしかしなかった。その理由は二つ。一つは、もし本当に厄災が稲津の居場所を知っているのなら、その情報を得るまでは(甚だ本意ではないが)抵抗の意志を見せるべきではないからだ。そしてもう一つは――これが最たるものだが――、牙を剥いても無駄だと本能で感じ取っていたからだ。

 ここに来る前に折られた全身の骨は、既に治りつつある。常なら完治している頃だが、この場に満ちる異質な魔力による影響だろうか、再生が遅くなっているようだった。

「あーあ、また壊れちゃった……」

 厄災が魔法少女の屍体を見下ろして残念そうに呟いた。

 厄災に罪の意識はない。子供が虫や小動物で遊ぶことに忌避感を覚えないように、厄災もまた、人を殺すことに対する倫理感を備えていなかった。しかし彼女は、存在するだけであらゆるものを渾沌こんとん陥穽かんせいに貶める災禍の化身、いや、災禍そのものだ。放っておけば宣言通りに、人類を死滅させる。

 初めて目の当たりにする厄災に、椋路は己の内で戦闘本能と生存本能がせめぎ合うのを感じていた。そして、どちらが勝ったのかは、言うまでもない。

「まぁ、壊れちゃったものはしかたないか。新しいのがあるし。ね、ざくろ?」

「――ッ」

 名を呼ばれて思わず息を呑む。邪気のない、それ故に危なっかしい、世界の敵に微笑まれただけだというのに。椋路はまるで蛇に睨まれた蛙のようだった。

あんたのもの、かみなは、あそこだよ」

 そう言って厄災はある場所、天蓋付きのベッドを指差して、屈託なく笑った。

 目を向けると、まるでお気に入りのぬいぐるみのように、枕元に寝かされた稲津いなづがいた。右脚は膝から先がなく包帯が巻かれたままで、左脚は大腿部の真ん中から綺麗に切断されており、断面付近は青黒く変色していた。その他には、特に損傷は見受けられない。

上那かみなッ!」

 鋭く叫ぶが、彼の虚ろに開かれた目は反応を示さない。

 椋路はいつの間にか拘束の緩んでいた黒い腕を振りほどき、稲津に駆け寄った。

 息は浅く、顔に血の気がない。低体温で衰弱しているのは明らかだった。切断されて放置された左脚の応急処置をしようとしたが、魔法少女は超常の存在、椋路は一般人の治療器具を常備していなかった。出血は止まっているが、この得体の知れない場所の衛生状態を鑑みるに、何かしらで塞ぐ必要がある。自らの心拍音が煩わしい。周りに何か役に立ちそうな物がないか探す。速く処置をしなければ、稲津の生命が危うい。腹が減った。椋路の辺りにある物は、損壊された屍体、絵本だらけの本棚、黒い帷帳……これだ。椋路は帷帳をびりびりと破いて稲津の脚の断面に当てがおうとして、その大腿部に歯を突き立てようとしていた。

 ……………………。

 ………………。

 …………。

 自分は、今何をしている?

 瀕死の稲津の傷を塞ごうとして、帷帳を破って、それで何故噛みつこうとしているのだ――、まるで、いや、まさしくこれから彼を食べるのだとでもいうように。


「――なぁんだ、食べないんだね。喜ぶと思ったのに」


 いつの間にか傍に来ていた厄災が、フリル付きのドレスを着た小柄な魔法少女の亡骸を抱いて、残念そうに眉を曲げていた。

「前みたいにはいかないね。何がいけなかったんだろう」

「前みたいにはいかなかった……?」

 椋路は自らがしようとしていたことも忘れて、厄災の言葉を反芻した。

「そうだよ。ゴーレム使いのあの子。あのときはうまくいったのに」

 グレーテルのことを言っているのだと理解するのに時間は要らなかった。

「どういうことだ、グレーテルの時は、って、まるで、あたしがアイツを――」

 椋路は途中で絶句した。

 先日の蛸型眷属との戦闘の後、気が付いたら負傷したグレーテルを発見した時のことを思い出す。無惨に腹を切り開かれ、内臓は食い散らかされたようになっていたのではなかったか。あれは、まさか。

「もう隠す理由もないから教えてあげるね。忘れてたのを思い出したみたいだし」

 くすくすと厄災が笑う。嗜虐心をたっぷりと湛えた笑みが、椋路を捉えて離さない。

 嫌な予感、どころの話ではなかった。これから厄災が口にしようとしていることを聞いてしまえば、自己の存在を基盤から揺るがされてしまう気がした。目を、耳を、ろうせよと直感がかまびすしく叫ぶ。脚は後退を望んでいる。警鐘のように心臓がばくばくと心拍数を上げていく。

「ざくろ、あんたはね――、あたしのけんぞくなんだよ」

 厄災の黒い腕が伸びてきて、椋路の腕を掴み、そのままぐいと引っ張られる。

「あたし、が……眷属……?」

 否定することなど容易い。椋路柘榴ざくろは魔法少女で、御伽社おとぎしゃと人類の為に戦う存在だからだ。そもそも厄災に与する動機など思い当たらない。

「だったら、グレーテルを襲ったのも……あたし……?」

 しかし、厄災に告げられた自身の正体が、一種の得心を伴っているのもまた事実だった。グレーテルを負傷させたのは、自分なのかもしれない。その場にいたはずなのに、それに関する記憶はなく、であれば憶えていないだけで自分がやったのだとすれば、辻褄が合う。

「そうだよ。グレーテルはおいしそうに食べてたのに、かみなを食べなかったのはがっかりだったけど」

 厄災が引き寄せた椋路に顔を近付けて囁く。

 厄災の肯定で、推察が明瞭な輪郭を帯びる。眷属としての椋路柘榴は、その間の記憶を奪われ、世界に仇なす存在となっていたのだ。

「グレーテルを食ったのも、上那を食おうとしていたのも、お前の眷属にさせられたから……」

 しかし同時に椋路は安堵もしていた。一度ならず二度までも稲津を食べようとしていたのは、自分のせいではなく、厄災の眷属であるからと、説明がつくからだ。

「それは違うよ。はむ」

 が、厄災は今度は否定した。蠱惑こわく的な笑みを浮かべて椋路の耳に甘く噛みつく。

「――、ちゅ、れろ。あたしは、元々あったざくろの『人を食べたい』って気持ちを強くさせただけ。あたしが何もしなくても、あんたは遅かれ早かれ人を食べてた」

 きっと理性のブレーキが強かったんだね、と厄災が言った。

 つまり、椋路が人を食べたくなるのは、厄災にその原因が帰着されるのではなく、あくまで椋路自身の問題だと、そういうことか。

「あんたはそういう魔法少女だと割り切ってると思ってたんだけど、それは知らなかったみたいだね。――でも大丈夫、あんたの正体がなんであれ、あたしはちゃんと、愛してあげるから」

 途端に、ずぶりと下腹部を熱い感覚がはしった。見下ろすと、厄災の腕が椋路のはらに突き刺さっていた。

「――が、ごぷ」

 少し遅れて血が口から零れる。

 警報アラート。頭の中で鳴り響くそれが、間断なく続いて椋路を埋め尽くす。

 黒い副腕が崩れ落ちそうになる椋路の身体を支え、突っ込まれた手は中をまさぐり、魔法少女に欠くべからざる子宮に到達すると、ひと撫でした。

「かはッ」

 血を吐瀉としゃする。真っ赤な鮮血は厄災の腕に掛かるが、厄災は恍惚としていて意に介していないようだった。

「ふふ、あたたかい、やわらかい、きれい、すてき……」

 次いで腕が抜かれ子宮を露出した肚のあなに、厄災は今度は顔を近付けた。そして、がくがくと身体を震わせることしかできない椋路の子宮に接吻した。

「ざくろ。あたしの愛するざくろ。病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しき時も、あたしはあんたを愛してあげる」

 抵抗の余地もない。跪いた厄災は、剥き出された椋路の子宮に歯を突き立てた。

 全身の血が沸騰するかのような感覚に囚われる。臓腑ぞうふ全てを炙られているかのように神経が悲鳴をあげる。世界中から集めてきたかのような痛みが肉も骨も構わずき尽くす。

 彼女に分かるのは、何か丶丶をされているということのみ。この全身をつんざく尋常ならざる苦痛が、椋路柘榴という魔法少女を変質させうる何か丶丶であるということのみ。

「――――ッ!」

 獣にも似た声にならぬ痛哭つうこくをあげ、それでも尚、椋路を苛む痛みはやむ気色を見せない。

 厄災は、一度ならず三度、杭のように尖った歯を突き立てる。笑みは陶然とうぜんとしており、椋路のさけびなど耳に入る由もなかった。

 皮膚が粟立つ。細胞の一片に至るまで陵辱される。厄災による千の破壊と魔法少女による千の再生が、輪廻の如く繰り返される。

「ふふ、ふふふ、ふふふふふっ――」

 世界全ての悪逆が笑う。無垢な子供のような笑顔だった。椋路の記憶に残っているのは、それが最後だった。

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