終章
都市部でも珍しく、満天の星空を見ることのできる夜だった。
ロンドンの時計台は、夏時間から冬時間に切り替わる際に一時間停止する。
そのタイミングは、二十三時五十九分からきっかり六十分。時計台が零時の鐘を鳴らす直前、キングス・クロス駅にアルテシアは滑り込んだ。
所要時間三時間五十八分。最後は全く揺れのない停車。クロエが停車を確認し、ドアを開けると鐘の音が空から降ってきた。間にあったのだ。
「間にあったわよ……! これで勝ちよね? ねえ、リヒト」
「……ゥ……」
うん、と肯定したかったのだろうが、リヒトはそれすらできなかった。アッシャが運転席から立ち上がるのを見ると、その場に崩れ落ちた。
ホームには零時にも関わらず多くの人間がいた。ヘルメスを囲むように、アッシャに彼らの歓声の波が押し寄せて来た。
真っ先にアッシャに飛びついてきたのは、コンダクターのクロエだった。
「やりましたね! アッシャ!」
「ええ。本当にありがとう、クロエ!」
二人の少女は抱き合って成功を喜び合う。アルテシアのオペレータとコンダクターゆえに、喜びにもひとしおの物がある。
「これで、また一緒よ」
「あなたがつかみ取ったミッドランドの勝利です! 本当におめでとう!」
満面の笑みのクロエ。その後ろに、看護婦の付き添いを受けたアイルが杖をついて立っていた。
「よう」
「アイルさん!」
「まさかアルテシアでやってくれるとは、さすがプリムローズだ」
「そんな、わたしなんて」
「四時間だぞ! 四時間。俺でもエーフィアでもそんなタイム無理なんだぞ!」
そして、右手同士でハイタッチする。オペレータ同士の信頼と尊敬の証だ。
「あら? トンプソンさんにピリスさんじゃないですか?」
人の輪の外に、苦い顔をしている二人組がいるのをクロエが気がついた。。片方が耐えられなくなったのか、その場を離れようとする。しかし、もう片方が腕を引き、こちらへと連れて来た。
「アッシャ・プリムローズ!」
カルティナ・ピリスが毅然とした表情でエーフィアの腕をつかんでいた。アッシャの前にずい、と立ちふさがる。
「な、なによ」
「おめでとう、アッシャ。あなたの運転に感動しました」
右手を差し出してきた。高飛車の代名詞であるようなカルティナが、素直に祝福してくれるのは意外だったが、アッシャはそれがうれしくて、ついクロエ同様抱きついてしまう。てっきり握り返してくると思ったカルティナは困惑の表情を見せる。
「ありがとう! あなたたちは最高の競争相手よ!」
「そ、そんなふうに言われると、照れてしまいます……」
カルティナの横で、ばつの悪そうに立っていたのはエーフィアだった。
「あー、なんだ、すごい運転だ。俺には到底真似できない」
恥ずかしげに、率直な感想だった。アイルの手前、これが精いっぱいである。
「ありがとな、エーフィア」
アッシャに代わって、アイルが手を振る。エーフィアはそっぽを向くと、カルティナを放って行ってしまった。エーフィアとすれ違いに、別の男が人の波に入って来る。
「アッシャ」
「おじさま!?」
その波を割って現れたのは、ガイア・ウェッジウッド。
ミッドランド鉄道の社長その人だった。
「感謝する。ミッドランドに勝利をもたらせてくれて」
「いえ、わたしがミッドランドにいたいからやったまでです」
「だとしても、驚いたぞ。昨晩、サーフィールドが無理やり儂のところにやって来て、アッシャを救いたければサインしろと脅迫したからの」
「はは……、あいつもそんな無茶を」
リヒトが持ってきた、ウェッジウッドとヘルマン、そして技師長エドガー・グレズリーのサインのことを思い出す。ほとんど見ないままだったが、わたしのために奔走してくれいたんだ。目が覚めたら、改めてお礼を言わなければならない。
「じゃが、もうおしまいじゃ」
「ええ、オペレータで居られる時間は終わったわ」
「そうではない。お前と、サーフィールドはクビなんでのぉ」
英雄であるべきの二人の名は、信じられない言葉と共に発せられた。
「は……?」
「じゃから、お前たち二人は零時をもって解雇。新たに本線には何人かのコンダクターを昇格させることになった」
え、ちょっと、それって
「……待ってください、社長」
機関車の中から声が聞こえる。気絶していたはずなのに……。
「なぜ、……なぜアッシャも解雇になるんですか……?」
「おぉ、威勢がいいのぉ。そんな簡単なこと、わからんとは言わせんぞ」
様々な規則違反。そしてベルクシュプールの襲撃。ヘルメスも、アルテシアの新型客車も、すべて非公式。二人が勝手にやったことである。
「最も、ベルクシュプール軍事車両部からは、なかったことにしてくれと懇願されたが」
兵士が数人がかりで少年少女に叶わなかったということは秘密にしておいてほしいとのことだ。
「でも、社長! ミッドランドが勝ったのはアッシャのおかげですよ! それを考えると」
「ミッドランドが勝とうが負けようが、儂らには関係ないことじゃぞ」
「カレドニアと合併するって」
アッシャは不安そうに聞く。
「合併? そんな話もあったような気もする……けれども、その予定は当分なさそうじゃ。この競争はダイヤグラムの改訂のためのものじゃからのお」
別に誰もそう言ったわけではない。噂が尾を引きそれを信じていただけだと言う。これまでやってきたことが水泡に帰したのか、それとも記録を打ち立てたことでプラスになったのかはわからない。アッシャは解雇され、リヒトは戻る場所を失った。二人で明日から路頭に迷う、それだけは変わらぬ事実となった。
「じゃがのお」
もったいぶってウェッジウッドは続ける。
「アッシャとリヒトのおかげでミッドランドはよい宣伝になる。明日……いや、今日から競争はせずに規定のダイヤグラムでの運行じゃ。客も増えるだろうから、人が少しばかり足りなくなりそうでの」
アッシャもリヒトも、顔を上げた。
「少しばかり求人をしようと思うのじゃ。二人とも、興味は」
「あります!」
「ひとまずオペレータじゃ。十七歳以上。経歴不問。そして、来春大規模なダイヤ改正をする予定があっての。刻示士が一人欲しいんじゃ。詳しくはこの紙に書いてある。明日にでも求人は出るじゃろうからの」
そういって、メモをアッシャに手渡した。
アッシャ、リヒトともにこの条件にあてはまっている。まるで二人のための求人だ。
「来月の二十日に試験を取り行う。それまで住む場所がないのも忍びなかろう? ロンドンの寮を好きに使ってくれ」
ウェッジウッドはそう言うと、去っていく。十七歳のアッシャが正式にオペレータになる機会だ。あのような強引な手段ではなく、正式にオペレータになれと言うウェッジウッドの親心か。アッシャの居場所はなくならない。そう思うとリヒトはまた倒れ込む。疲労が収まる気配はまるでなかった。だが、その笑顔は満面の笑みに包まれていたのだった。
ウェッジウッドが去ると、駅は平穏を取り戻す。予告もなしにアルテシアが記録を出してしまったが、それを祝えるのは朝になってからだ。こんな夜中では、馬鹿騒ぎもできない。コンダクターや駅員たちにはアルテシアの事後処理がたくさん残されている。オペレータの二人だけ、あとは好きにしていればいい。と皆が思ったのか、アッシャとリヒトを残し、ホームからは人が消えて行く。その際、誰もが彼らに礼を言い、あるいは敬礼をし、去っていく。
一時間も経っただろうか。終列車が行ってしまうと、駅は夜の帳に包まれる。リヒトは目を覚ました。アッシャが解雇されて、それで結局正規にオペレータになるとかリヒトもミッドランドに拾ってもらうとか、そんな話を聞いたはずだった。あれは嘘じゃ……ないよな。半分夢心地で、いったい自分がどこにいるのかわからない。少し変な感じがする。リヒトは疲労困憊し、ホームに倒れ込んだはずだ……が。
ここは駅のベンチ? それになんだが、後頭部が暖かい。
「目が覚めたかしら?」
アッシャの声がする。
どこまでも暖かい声。こんなに穏やかなアッシャの声は初めて聞いた。
「動かなくてもいいわ。疲れたでしょう?」
「ああ。もうこんなこと、やらない」
「ええ。今はゆっくり休みましょう」
膝枕したリヒトの頭を、やさしくなでる。煤まみれの顔がたまらなく愛おしい。アッシャがいることを安心したのか、リヒトは再び目をつむった。アッシャも眠くなってきた。眠りに落ちる前、ともにこの勝利をつかみ取った英雄に、彼女は囁く。
「ありがとう、リヒト」
と。
おわり
Bullet Train Streaming. 井守千尋 @igamichihiro
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