Bullet Train Streaming.
井守千尋
序章
その日のロンドンも濃霧だった。鉄道はとくに霧の影響を受けやすく、多くの人間が迷惑を被る。時間どおりに目的地に行けないこともそうだが、旅がはじまらないのがつまらない。
中でも激しく憤りを見せているのが、ウェールズ行き荷物列車アイリッシュ・メイルの運転士(オペレータ)だった。この列車はロンドン・パディントン駅からウェールズの港町ペンザンスへと向かい、アイルランド島へのフェリーに接続する。が、列車が霧で遅れても連絡船は待ってはくれない。これではアイリッシュ・メイルの名が泣く。運転室のなかで、運行再開の連絡を二時間以上も待っていたのだった。
オペレータであるグレイ・マイバッハは、いかに遅れを取り戻せるかをずっと考えていた。ロンドンからウェールズまではおよそ三百マイル(一マイルはおよそ一.六キロメートル)。アイリッシュ・メイルは五時間十分でノンストップ走破する。だが、今出発できたとしても、ペンザンス到着は六時三十五分で、荷物の載せ替えを考えると七時発の連絡船にも間に合わない。それに、ダイヤグラムが大幅に乱れているため、霧が晴れた途端に大渋滞に巻き込まれるだろう。
列車無線が鳴る。
「こちらアイリッシュ・メイル」
『グレイか? パディントンの現状は?』
「霧で駅の外が見えないほどです」
相手は信号所(シグナレス)の運行司令だ。今頃、シグナレスでも濃霧の影響によるダイヤ書き換えが行われているだろう。
「このままだと三時間遅れは確実ですね」
『お前は霧が晴れない限り動けないか?』
「動きたくても、前が見えないのではどうしようもないです。せめて信号機が見える程度に霧が収まればいいのですが……」
アイリッシュ・メイルは夜行列車。暗闇の線路はほとんど見えず、信号機の灯りだけが頼りになる。だが、それすら見えないのではただ走るだけでも危険である。
『我々としても無理はさせられないのだが、今日ばかりは。そうはいかない事情がある』
「と、いいますと?」
『王室庁から向こうの政府に向けての文書が運ばれている、とロンドン郵便から連絡があってな。鉄道院としてはあまり遅れて文が届くのは看過できないんだ』
要するに、天候不順でアイリッシュ・メイルが遅れるのは都合が悪いと?
「だとしても、この霧じゃどうにもなりませんよ?」
『定刻四時十分に到着しろとは言わん。七時発の連絡船に間に合うようにしたい』
「霧が晴れたら線路が詰まりますよ? いくらアイリッシュ・メイルを最優先にしたところで、いったい何本の夜行特急があると思っているんですか?」
『それは重々承知だ。だから、霧がどうであれ、一時三十分にパディントンを出発するダイヤを組んだ。今、代理のオペレータがダイヤを持って向かっている』
「代理ですって?」
生憎だが、代理の人間は存在しない。ブリタニア郵便の郵便列車オペレータはたったの十人で、この時間に代理に来られる人間は一人としていない筈なのだ。
「司令、それはいったい誰です? よその会社のオペレータでは困りますよ?」
『その点は心配ない。もうロンドン郵便に許可はもらってある』
部外者、である。王室が関わっているから多少のルール違反はするということに、いい気分はしなかった。このアイリッシュ・メイルや北へ向かうスコティッシュ・メイルといった高速度郵便列車は、線路を借りている鉄道会社の夜行特急よりも優先される列車である。つまりそのオペレータは高い技術を有する者なのだ。
そのオペレータの居る運転室に、部外者の代理を入れるだと?
「どこの誰です?」
『それは、お前が知る必要はない』
「からかわないでください!」
「すみません! オペレータさんは居ますか?」
その時、機関車の入り口をノックする音がした。そして少女の声。列車の遅れについて聞かれても答えようがないのだが、と思いつつも無線を切り、ドアを開ける。
すると、その影はすーっと運転室に入り込んだ。
「ちょっと、困るよ」
グレイはその少女に優しく注意する。何の用なのかはわからないが、運転室の中をきょろきょろと見まわしていた。
「こら! 勝手にさわるな!」
少女は薄出の外套を脱ぐ。それを畳んで、助手席の上に置いた。そして、グレイが座っていた運転席に腰掛けた。ギア、ブレーキ、調圧弁(レギュレータ)、次々と指差しで確認を始めた。
「いい加減にしろよ!」
グレイは無理やり座席からはがそうとするが、その手を振り払われる。ここで初めて、少女を正面から見ることとなった。ミッドランド鉄道の男性用制服を着ている。身長は五フィートと少しで、よほど小柄なサイズを着ているのだが、それでも少し大きいようだ。帽子もワンサイズ大きいように見え、髪型は判断できない。かろうじて明るい色の髪色であることが見える程度。顔立ちは整っていて、可愛らしい。しかし若い。せいぜい学生だ。
「もしかして、代理のオペレータのこと聞いていませんか? ……わたしが来るってところまでは説明しなかったのかしら? まあいいわ。まもなく発車なので、マイバッハさんは客車の方に移ってもらえるかしら?」
「おい待て。さっきから勝手なことを言って! 司令、今代理だって言う女の子が運転室に入ってきました。追い出していいですよね?」
こみ上げる怒りを押さえて、無線で指示を仰いだ。
『合ってるぞ』
やっぱり。追い出していいんだな?
『いや、その子がわたしの用意した、代理のオペレータだ』
「やっぱり。追い出しますよ。……司令、何を?」
この少女が? オペレータだって? 俺の代理のオペレータだって?
『あとはその子に任せてくれ。あと、その子のことも他言無用で頼むぞ』
「ちょっと!? 司令? 司令!?」
一方的に無線が途切れた。理不尽だ。窓の外を見れば、街灯が流れてゆく。
列車が動いている!?
見れば、少女は再び運転席に座っていた。右手で調圧弁を握っている。いったいいつの間に列車が動き出した?
「おい、お前」
「なにかしら?」
「何を考えている? 勝手に動かして」
「何、って、ダイヤ通りよ」
いつの間に取り換えたのか、新たなタイムスケジュールが運行指示の所に入れてあった。
一時三十分 パディントン出発。グレイが時計を見れば、一時三十分定刻。音も揺れもなくアイリッシュ・メイルは動きだしたということだ。
「お前、本当にオペレータなのか?」
「見て分からないの?」
分かるわけない。むしろ分からない。アイリッシュ・メイルは多くの荷を積んだ非常に重い列車なのだ。それをこの少女はいともたやすく発車させたのだ。
「……俺は何をしていればいい」
「やることはないから仮眠でもしていて結構よ」
あまりに現実感がなさすぎて、グレイは怒りも消えそうだ。
列車は駅をゆっくりと後にする。駅の構内を出れば、あたりは白い闇になった。
「注意、制限三十マイル」
少女は指さし確認でそう言った。信号機は見えない。なにせ一面の霧なのだ。
「適当言うなよ」
「適当って?」
少女はグレイの言っている意味をわかっていないようだった。
「信号機は見える訳がないだろう?」
「あなたには見えていないだけでしょ?」
機関車を動かせても、このままでは絶対に事故が起こる。無理やりにでも非常ブレーキをかけるべきか? と、列車の外、霧の中にほんの一瞬信号機が映った。先程までは赤だったであろうそれは、黄色く灯り徐行進行を示している。制限時速三十マイル。まさか、偶然だろう?
「制限解除。これより、アイリッシュ・メイルの回復運転に入るわ」
「回復運転だって?」
「現在百五十分遅れでパディントンを発車しました。なるだけ定時到着へ近付けます」
「ふざけんなよ! この霧の中で運転を続けようってのか?」
「霧でも嵐でも、それがオペレータの役目でしょ?」
数秒後、制限解除を知らせる青信号が流れてゆく。
グレイはその時思った。この少女は、霧の闇の中でも信号が見える。だから代理で呼ばれたのだ、と。
「……なんでもいい。手伝えることはないか? 俺も協力したい」
「じゃあ、区間ごとの速度制限を教えてくれないかしら? 初めての路線だから」
「……上等だ」
少女の運転はこなれており、どう謙遜してもはじめてには見えない。
列車はみるみるうちに速度を上げていった。景色を見てもわからないが、速度計はいつの間にか七十マイルを超えていた。揺れないし、外を見てもその速さは感じられない。グレイはいつのまにか自分が雲海の中にいるように錯覚した。
霧が晴れたのは、午前四時を回ってからだった。ロンドンから二百マイル走ったところで、いきなり視界がくっきりとする。速度は時速八十マイルを超えている。しばらくすると、夜明けに向けて東の空が明るくなってきた。少女は徐々にここで加速を始める。グレイはもう交代を申し出る気は無かった。二時間以上も無謀と思われる運転を、こともなげにこなした少女の姿は熟練のオペレータそのものだった。
「ここからの区間の最高速度って、何マイルかしら?」
「え? えっと、制限はないけど」
「じゃあ、この機関車の最高速度は何マイル?」
アイリッシュ・メイルという、列車と同じ名を冠するこの機関車は、乗務では時速八十マイルが上限だった。速度計は百マイルまで目盛りが刻まれてはいるが。
「おそらく百マイルまではいけると思う」
「わかったわ。司令に連絡して頂戴?」
「何と言えば?」
「六時の連絡船になんとか間に合わせる。って」
少女はそう言うと調圧弁を握り、微弱ながら更なる加速を始めた。
朝日を受ける少女の横顔は非常に凛々しく、美しかった。
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