第1章
この日のロンドンは珍しく晴天だったが、気分は曇天だ。
遠くに時計塔(ビック・ベン)が見える。手元の時計との時間差はきっかり一時間だった。
ため息などついては居られない。
リヒト・サーフィールドはサマータイムの施行日が今日であることを忘れてしまっていた。ロンドン到着は一時間近く余裕を持っていたのだ。しかし、一時間以上余裕がなければならなかった。だから既にエディンバラへの速達列車、「カージナル」号は発った後だった。今はこの時計の示す九時三分ではない。時計塔の示す十時三分なのだ。目の前の光景をにわかには信じられないが、どうしても北へ向かわなければならない。駅員を捕まえて聞いたところによれば、もう一本エディンバラ行きがあるという。
十時五分、今度は時間通りに向かいのホームに列車が滑りこんで来る。アップルグリーンの蒸気機関車が牽く茶色い客車たち。エディンバラに向かう特急列車「アルビオン」である。乗り込むとすぐに汽笛が鳴り、ゆっくりと発車する。
車内では個室(コンパートメント)の空席が目立った。アルビオンの利用者のほとんどはスーツ姿の男性のようで、大人数での旅行に利用されるコンパートメントは好まれない。どうせ、次の停車駅まで四十分以上かかるので、先約がどうであれ空いているコンパートメントに荷物を押し込んだ。アルビオンの切符を持っていないが、車掌に言えば発券してくれるだろう。
「切符を拝見します」
早速、車掌(コンダクター)がドアをノックする。心地よいソプラノ、コンダクターは女性のようだ。
「コンパートメントの切符、一枚お願いします」
「学生さん一枚、でいいですか?」
「え、学生?」
車掌はとても若く見える。ミッドランド鉄道の制服は着ているが、その姿はとても若い。リヒトと同じか、それよりも若い。こちらを見る大きな紅い瞳は、確実に少女のものだ。
「はい? なにかおっしゃいましたか?」
「いや、大人一枚で幾らですか?」
車掌は手際よくリヒトの座席の券を発行し、お釣りと切符を渡すとすぐに出て行った。リヒトは唖然としていた。切符のサインから目が離せなかったからだ。
『発券: 列車長 プリムローズ キングス・クロス運転区』
どうやら、今の車掌はプリムローズというらしい。それよりも、列車長(チーフコンダクター)?
ミッドランド鉄道の特急列車であるアルビオンの列車長があの少女? 何かがおかしい。手帳で確認すると、エディンバラ駅には十六時半に到着すればよい。アルビオンでも十分に間に合いそうだ。車窓は飛ぶように流れていく。
昼食を取ると、鞄を開いた。中から大判のファイルを取り出す。荷物といえばこれだけだ。中身はすべて紙束で、横に長い紙を折りたたんだものである。外枠線の中には幾十の斜め線が走っており、その線には幾十の書き込みがされている。その中で、一番傾きの急な線を追った。一番上の線との交点には「十時」、一番下の線との交点には「十六時」と書かれている。
「……やっぱり早いな。早すぎる」
列車が今どこを走っているか、だいたいはわかっていた。車窓に民家が増えている。穀倉地帯から都市部へと入りつつあった。正確な時刻と場所を特定しようと、時計を片手に通過駅を待つ。列車は減速もせず、通過線を走り抜ける。
窓辺から駅名を確認する。
「ニューカッスル……だと? どういうことだよっ!」
言うやいなや、紙を投げ出し、コンパートメントを飛び出していた。
車掌室は列車の最後尾にあった。
ドアを何度もノックをする。中から先ほどの少女、車掌が顔を出した。
「お客様、どうなされました?」
「どうって、今ニューカッスル通過したじゃないか!」
「でも、お客様はエディンバラまでのご乗車でしたよね?」
「そうじゃない、ニューカッスルでは二分間停車後、支線との接続があるだろうが。その乗客はどうなるんだ!」
まくし立てるように攻めるが、一向に非を自覚する態度にはならない。
「本日、ニューカッスルで乗車、下車されるお客様は一人も居ません」
悪びれる様子など一切なく、車掌はそう言ったのだ。
「は? どういうことだ」
「停まる必要がないなら停まらなくていいじゃない?」
口調がかわった。声色も面倒臭さがにじみ出る。車掌はあまりに適当なことを言う。
「あなたもしかしてマニアか何か? 時刻表を読み過ぎよ。あんなもの、ズレることもあるのだから……」
「俺は……、信号所(シグナレス)の刻示士(クロノライナー)だ」
「……シグナレスですって? あなたくらい若い人は、シグナレスにはいいはずよ?」
返答に戸惑う。シグナレスと言えば怯むと思ったのに、この反応だ。この女、プリムローズはシグナレスとつながりがあるのだろうか? 普通の車掌の受け答えではない。
「ヘルマン司令に連絡をしてもいい。俺はシグナレスの刻示士(クロノライナー)、リヒト・サーフィールドだ」
もっとも、リヒトの本当の信号所配属は十月の一日である。四ヶ月先の立場を借りて言うのであれば、せいぜい刻示士(仮)がいいところだろうか。
刻示士(クロノライナー)。文字通り、刻(クロノス)を呈示(ライナー)する士(もの)。
ブリタニア連邦大ブリテン島一万五千マイルに枝葉のごとく張り巡らされた線路を、一日あたり数千もの列車が走っている。
通勤、通学の足となる通勤電車(コミューター)、石炭、木材、穀物に毛織物といった様々なものを運ぶ貨物列車(フレートライナー)、大陸連絡橋を渡り、果てのコンスタンティノーブルまでを走る国際豪華特急(オリエントエキスプレス)、そして時速百マイルオーバーで最短、最速連絡を担う超特急(バレットトレイン)。
用途も客層も時間帯もばらばらな列車たちだが、同じ線路の上を走る。そして、駅に停まり、人を降ろし、人を乗せる。スムーズにより多くの列車を走らせるために画一された「ダイヤグラム」という表が存在している。
すべての路線、列車の特性を把握している者のみがダイヤグラムを引くことを許される。万にひとつの事故も許されない鉄道輸送は、ダイヤに沿って運転されることが大前提だ。それを決める刻示士たちを「影のオペレータ」と呼ぶこともある。
車掌たち、オペレータたちにとってダイヤグラムは絶対であり、刻示士たち、そして彼らの本拠地である信号所は従うべき対象なのだ。
「あなたが刻示士である、ということを信じたとして、何故アルビオンに乗っているのかしら? あなた方は普段ロンドンに居るべきよ?」
プリムローズは明らかに警戒している。その物言いもそうだが、その眼差しはリヒトを刺すように向けられている。
「エディンバラにダイヤを届けに行く途中だ。明後日からの改定分」
「普通、エディンバラへダイヤを運ぶとき、あなた達は金庫室の付いているカージナルに乗るわ。二等コンパートメントでそんな大事なものを運ぶなんて信じらんない。あなた偽物なんじゃない?」
「カージナルに乗れなかったのは、今日からのサマータイム施行を忘れていたからだ!」
「バカね」
とっさに言い返せない。あとから思い返せば車掌の言動出ないのは確かだった。
「……そうでなくとも! カージナルのウォータールー発車は十時四分のはず。ミッドランド鉄道だけでなく、カレドニア鉄道までも時間を守ってないじゃないか!」
「そりゃあ、ミッドランドとカレドニアですもの」
ミッドランド鉄道とカレドニア鉄道は時間を守らないことが当然である、とでも言うのが当たり前のように言い放った!
「ミッドランドとカレドニアだから、って何を言っているんだ、あんたは」
「……冗談よね? あなた、本当に刻示士?」
言い返したかったが、まだリヒトは正規の刻示士ではない。
「そのダイヤを持って来なさい。盗まれたらミッドランドとしても大変なことになるから、車掌室で預かります」
自分の荷物を取って再び車掌室に戻るまでに、本来追い抜くはずではない列車を二本追い抜いていた。ダイヤはコンパートメントに投げっぱなしだった。
「確かに……、信号所のダイヤに先生のサインが入っているわね」
「は?」
先生? サインを書いた司令のことを言っているのだろうか。
「あなた、本当に刻示士なのね?」
プリムローズはようやくリヒトに興味をもったようだった。
「そうだと言っているじゃないか」
「ごめんなさい、入所希望者とかインターン生とかそんな程度の学生とばかり思っていました。お勤め、ご苦労さまです」
謝られこそすれど、何か釈然としない言い方だ。
「それで、何故ミッドランドとカレドニアなのか教えてはくれないか?」
「もしかして、アルビオンかカージナルに乗ったことはないの?」
「今日がはじめてだけど」
「そりゃあ、知らないかもね。……サーフィールドさん、あなた、ブリタニア連邦の出身じゃないの?」
「ゲルマン共和国」
「やっぱり。この国の人なら、アルビオンとカージナルの競争はみーんな知っているもの」
アルビオン。
午前十時にキングス・クロスを発車する伝統を持ち、東海岸に沿って一路北のエディンバラへ向かう列車である。戦時中、爆撃機による空襲の最中でも運行は続けられ、ミッドランド鉄道は最良のサービスと最上の性能を注ぎ込んでいる列車である。
そして、戦後。ロンドン、セント・パンクラス駅から同じくエディンバラへ向かう路線を有するカレドニア鉄道は、沿線西海岸の復興のシンボルとなる列車を誕生させた。それこそがカージナルである。
十一時にロンドンを発車する特急列車。イングランドからスコットランドを結ぶアルビオンに似た列車だったが、アルビオンは東岸本線を、カージナルは西岸本線を走っているため、決して競合することはなかった。
これらの競合が始まったのは一年前の九月のこと。エディンバラの北、フォース鉄道橋の開通を機にカージナルがダイヤを改訂したのが原因である。ロンドン始発の時間を一時間早めたのである。ここに競争の火蓋は切って落とされたのだ。カージナルはデビュー当時のロンドン-エディンバラにおける所要時間を七時間半から六時間二十五分に短縮し、アルビオンよりも十五分早く到着できると喧伝したのだった。
これにアルビオンはひと月待ってのダイヤ改正。六時間半を六時間に短縮し、ミッドランド鉄道広報部は「カージナルよりも早い」という広告をデイリータイムに載せたのだった。この国においては様々な同区間競合路線があるが、百年以上に渡る鉄道史においてこのような挑発はこれが初めてだった。とはいえ、この頃はまだダイヤを守って競争が行われていたのだった。
プリムローズはそのような概要を十分ほど時間をかけて説明してくれた。
「だからって、馬鹿げている!」
「わたしに言わないでよ!こんなことを決めているのはもっと上の連中だもの!」
「現場でダイヤ通りに走ろうと思えば走れるだろうが!」
「あのね、ダイヤ通りダイヤ通りって言うけれど、このダイヤもひどいものよ! 今月改正になったやつなんて、改正どころか改悪だったんだから。サーフィールドさん、刻示士だったら見ればわかるわよね? ほら、これ! ほら!」
プリムローズは運行表を取りだした。本来のダイヤを列車ごとに書き記したものだが、誰かの手によってたくさんの朱が入れてある。
「それは……」
真っ赤なインクに染まる運行表を見ると、リヒトはすぐには言い返せなかった。見なくてもわかるが、実際に現場でここまで変更点を書かれると刺さるものがある。今月の東岸本線のダイヤはリヒトがはじめて任された仕事だったからである。実情も知らずに、学んできた机上での理論だけで書き起こしたダイヤグラム。なまじ自分が刻示士であると主張したばかり、それを書いたのが自分だということがバレるかもしれない、そう思った。黙らずに一緒に糾弾すればよかったのに。
その時である。けたたましく車掌室の通信機が鳴った。
「鳴っているけど、とらないのか?」
「オペレータからの合図よ。キンバリーまで一マイルの、ね」
通信機は数回鳴ると静かになった。そして、プリムローズは別のところに無線を飛ばした。ダイヤ無視の変則運行は、本来であれば各地の信号所から停止信号とともにコンダクターへの連絡がされるものだが、その様子は一切見られなかった。
「こちら、アルビオン。先行通過を許可されたし」
凛とした声。どこかと連絡している。
「ホントにっ!? やった!」
直後、初めて歳相応の喜び方を見せたのだった。通信を切ってからプリムローズはその喜びを隠しもせずにはしゃいで言う。
「カージナルに一分の先行よ!」
アルビオンはニューカッスルを通過して驀進し、どうやら終着駅までに一分の余裕が生まれたらしい。しかし、たった一分だ。
「一分、ってこの先……」
「線路が合流する地点だから、今日はアルビオンの勝ちよ!」
東岸本線と西岸本線は終着駅の十マイル手前、キンバリー・ジャンクションで二つの路線は一本になる。本来の東岸本線はキンバリーまでであり、ここからエディンバラまでは線路を「借りて」走っていることになるのだ。東岸本線の線路が、西岸本線をまたいでから合流する。
遠く、汽笛が響いた。
アルビオンは上り坂にさしかかり、かなりの速度で走り続けていた。その時である。客車の乗客たちが急に騒がしくなった。
「なんだ? ……何が起きているんだ?」
「見て、あっち!」
プリムローズが指したのは、南西に伸びるカレドニア鉄道、西岸本線の線路だ。車掌だけではない。全ての乗客はその光景を、窓にかじり付くように眺めている。特急カージナルが、提示されているはずの停止信号に従わずに邁進しているのである。速度にして、時速百マイル。対するアルビオンは時速八十マイル。このままでは衝突事故は免れない。無線で連絡をした時には一分あった差が、十数秒までに縮んでいたのだ。
アルビオンの最後尾が西岸本線を超える陸橋を通過したとき、カージナルを牽く紅蓮の機関車がその真下に突っ込んできた。轟々と黒煙をあげて。
直後、アルビオンが加速する。下り坂に身を任すだけではない。調圧機(レギュレータ)全開のフル加速。しかし、オペレータの判断が遅すぎる。
リヒトの横に迫る赤い機関車。二列車の速度差は徐々に埋まっていく。
この先の合流までにカージナルとの距離を取らないと、大変なことになる。
咄嗟にプリムローズが車内放送に飛びついた。
「みんな、前へ逃げて!」
いったいどうすればいい?
窓の前から動けなかった。カージナルの機関車はまだ減速が始まらない。前方から悲鳴が上がった。オーバースピードで分岐へ侵入、激しい揺れが乗客を襲う。車体は進行方向右側へ膨らみ、その遠心力で立っていられなくなる。車掌は通路に出ており、最後尾車の乗客が全員避難したのを確認した。
早く逃げないと、頭ではわかっているが、体が動かない。いきなり体が斜め後ろに引っ張られる。最後尾車が分岐に突入した。全体にかかる遠心力。そして、それに耐えようとするプリムローズの姿が見えた。
直後、衝撃が襲ってきた。まともに立っていられない。
鈍い音とともに後方から衝突される揺れが来たのだ。窓からはもうカージナルは見えなかった。プリムローズがよろけるのが見える。
「……まだ、走ってるのかしら……?」
一瞬、衝撃で記憶が飛んだらしい。天井が見える。
「らしいな。……それよりどいてくれないか?」
うまく動けない。無意識に投げ出されたプリムローズを受け止めていたようだ。帽子が脱げ、長い銀髪がリヒトの口元でくすぐったい。つややかで、きれいなロングヘアーだった。
「あ、ごめんなさいっ!」
「どうやらカージナルと接触したらしい。脱線はしてないから大惨事にならなかったみたいだ」
プリムローズはいそいで立ち上がる。起き上がろうとするリヒトに手を差し伸べた。
「助かりました。それよりも、お客様の無事を確認しないと」
「それ見たことか」
リヒトはぽつりとつぶやいた。
「……は?」
「ダイヤを無視して走っていたからだ。ギリギリ助かったけれど、あんなの危険すぎる!」
「……あのね、貴方も見ていたでしょ? カージナルが最後まで減速しなかったの!」
「じゃあこっちを止めればよかっただろう!」
「止めるわけ無いでしょう? キンバリー先行通過はわたしたちにあったのよ? 聞いていたじゃないの!」
「でも向こうの速度のほうが早かった」
「なによ! サーフィールドさんはカレドニアの肩を持つのね?」
「そういうことじゃない! 刻示士は中立の立場じゃないとまともにダイヤを引けなくなる」
「あなたは見てないかもしれないけど、今の東岸本線のダイヤは普通に走っても事故が起こるような酷いものなのよ? 特に今月のダイヤなんて、カレドニアに肩入れしているんじゃないかって疑うくらいよ」
ダイヤのことについてそう言われ、言葉に詰まる。だが、プリムローズとの言い合いは止まらなかった。リヒトは今朝から感じていた、ダイヤを守らず運行しているミッドランド鉄道とカレドニア鉄道への不満を。そしてプリムローズは、信号所が書いて寄越したダイヤが如何に現場を知らずに書かれていたかということを。お互いを罵るように投げつけた。結局のところ平行線にしかならないことなので、互いに言い負かさなければと躍起になっていた。
「ちょっとお!」
車掌室の扉が叩かれた。
「うるさいわね」
「後にしてくれるか?」
「おい、プリムローズ、開けろ!」
今度は窓が列車の外から叩かれた。
「なによしつこいわ……ね。あれ?」
プリムローズはきょとんとしていた。列車はいつの間にか止まっていたのだ。窓の外にはアルビオンのオペレータらしき男が立っていた。
ここはエディンバラ。終着駅におけるドア解錠は、車掌の仕事である。
ドアが開かれると、我先にと乗客がはき出された。皆、最後尾車の車体を見に行こうとしている。だが、解錠に時間がかかったおかげで、既に駅員による封鎖がされていた。
キンバリー・ジャンクションでの揺れによる怪我人がいないか、プリムローズと応援に別の列車の車掌も駆けつけたが、大事に至ることはなく、ミッドランド鉄道では乗客すべての特別急行券払い戻しで丸く収めようとしていた。警察も来ていたが、またあんたたちか、と呆れた顔をして駅長室に入っていくのを目撃した。もともとこんな感じだそうだ。
それでも、宿敵カージナルに僅差で勝ったことは嬉しかったようで、プリムローズやオペレータの男に笑顔を向けて乗客たちは去っていった。
十数分後、カージナルが隣のホームに到着した。
接触後そのまま緊急停車、機関車の制動に問題はないかどうかを確認しやって来たのだった。
ホームに止まるや否や、機関車からオペレータは飛び降り、アルビオンのオペレータとプリムローズのところへやって来た。
近づくと、いきなりアルビオンのオペレータが殴りかかった。
「なんてことしてくれた。下手すりゃ大事故だ」
「黙れアイル。なぜあそこで加速をした。分岐で転覆しかねない速度だったじゃねえか!」
カレドニアのオペレータはその拳を掌で受け止めていた。
「先行通過はアルビオンにあった!」
「そうよ! エーフィアさん、乱暴すぎる」
あの時のカージナルは時速百マイル超。八十マイルで前をゆくアルビオンを追い抜けたのだ。一秒あたりの進行距離は百四十五フィート。十二両の客車を連ねているが、五.四秒であの分岐点を通過できる速度だった。アルビオンが先行通過を信号所から許可された時を同じくして、カージナルも信号所に連絡を飛ばしていたという。一瞬の差でアルビオンが勝ったということであるが、この時カージナルの速度は時速九十五マイル。とてもじゃないが、一分では停車などできない。それはアルビオンも同じであるが、西岸本線をオーバーハングする勾配と合流地点のカーブも手伝って、アルビオンが七十五マイルまで速度を落とすはずだと踏んだのだ。
「列車重量は三百四十キロポンドもある。あの速度からは停止よりも加速のほうが楽だ。だから五秒くらいはどうにかなると思った。だが、アルビオンが加速するとは思っていなかった!」
カージナル専任オペレータ、エーフィア・トンプソンは弁明した。信号所まわりの線形を見れば、至極正当な判断と取れるだろう。
「間違っているわ。アルビオンの先行通過がわかった時点で減速するべきだった。少なくとも、アルビオンと距離を取るくらいにはできたはずよ」
「…………くそっ、俺が馬鹿だった。何を熱くなってるんだ」
エーフィアはそうして非を認める。
「幸い怪我人はなかった。うちの客車とお前のところの機関車が少し傷んだだけだ。アルビオンはこの通りだが、お前のところはどんなだ?」
アルビオンの専任オペレータ、アイル・フェリックスはあくまでも冷静だった。できるだけ事態を沈静化したがっている。
「右側の緩衝器がふっとばされた。と言ってもネジ留めのヤツだ。一日で治る」
「ならば、我々が乗客に謝罪すればそれでいい。今日はうちの勝ちなんだからな。それでいいな? プリムローズ」
ミッドランドの乗客はギリギリで競り勝ったことに気分を良くし、特には追求しないことはわかりきったことだ。カージナルはアルビオンのように、乗客が転倒するようなことはなく、到達時間で比べてもロンドンを早発していたカージナルにとって、この差は既にアルビオンに負けているということもわかっていたのだ。
「カレドニアもそれでいいだろう。上へは俺の方から言っておく」
「よくありませんよ!」
リヒトは我慢できなかった。言わせておけば、ダイヤを完全に無視した運行側の発言の連続だった。結果として事故が起きたというのに、それを軽んじすぎている。
「鉄道院には事故調査室が有ります。このような事態には、本線を止めた現場検証と証言が必要です」
「あ? 誰だお前」
「彼は刻示士よ」
プリムローズがかわりに答えた。
「どうやら、俺達がダイヤを守らず走っているのが気に食わないらしいな」
「当たり前です。俺が言わなくてもわかっているのであればダイヤを守ってくださいよ」
リヒトにとってアイルのほうが話しやすかった。最も、エーフィアに比べて、ではあるが。
「いいか、聞いておけ。刻示士」
エーフィアが言った。
「俺たちオペレータは基本的にダイヤに沿って走ることができる。走らせることができる、と言い換えたほうがいいか。機関車の性能の範疇であれば、大抵のダイヤはこなせる。もともとアルビオンもカージナルも早く到着しがちだから、前後の列車に余裕を持たせて線が引いてある。だが、このダイヤを見てみろ刻示士。アルビオンもカージナルも窮屈そうに走らざるをえない線だ。ミッドランドとカレドニアを何も知らない奴が、路線図と距離を見て書いただけのグラフでしかない。こんなダイヤで走れると思うか?」
「しかし……」
「そしてもう一つ。今日カージナルがロンドンを早発したのは、そうしないと他の路線に迷惑がかかるからだ。特に、三分は早く出発して線路を空けないとウェールズから大陸の連絡ができなくなる。この意味がわかるか、刻示士」
「……オルレアンに、石炭が届かない……」
ウェールズは良質な石炭を算出する地帯である。海の対岸、オルレアンでもこの石炭を速達列車に使用している。このためのウェールズ発の高速石炭列車が毎日一本だけ走っていた。
「そうだ。この東岸本線と西岸本線だけじゃねえ。ロンドンの東には大陸があるってことをこのダイヤを引いた奴はもしかしたら知らないんじゃないか?」
聞けば聞くほど、アルビオンもカージナルもダイヤを無視したほうがすべてまかり通るように思えてきた。すべての元凶は彼らの時間無視ではなく、東岸本線のダイヤグラムであると言わんばかりに。
「それでも事故調査室がどうこう言うか?」
「おい、トンプソン! その辺でやめておけ」
アイルが制止する。エーフィアはそれ以上リヒトを責めはしなかった。
「いや、事故調査室結構じゃないか」
誰もいなくなった、と思っていたプラットホームに一人の男が現れた。
「司令!」
助け舟が現れた。すがるように呼びかける。
「司令……? ヘルマン・アイヴァットか!」
エーフィアとアイルの表情が一変する。
「いい啖呵だサーフィールド。相手が天下のエースオペレータと知っていると喧嘩なんて売らないものだが、俺もある程度はダイヤ通りに走ってもらわねえと少ーし困るもんでな? なぁ? アイル・フェリックス」
「はっ!」
アイルは直立不動で敬礼をする。
「あのエーフィア・トンプソンが先行列車にぶつけて緩衝器(バッファ)吹っ飛ばすなんざぁ、オペレータ辞めっちまえ! このタコ!」
「も、申し訳ありません!」
エーフィアもアイル同様だ。天下のエースオペレータがまるで子供だった。
「それよりも、司令。いったい何故? 約束の時間まではもう少しのはずですが」
「騒がしかったんでな。ダイヤ無視の事故だって?」
「そうなんですよ! ミッドランドもカレドニアもダイヤを無視して、あっ……」
そう言って、リヒトは自分が失言したことに気がつく。
「サーフィールドよォ、お前がダイヤに対して言えた立場か?」
リヒトを諭すように、ヘルマンは自分の持ってきたものを取り出す。
「先生、何故わざわざ?」
「おお、プリムローズ。怪我はなかったか? サーフィールドに変なことはされんかったか?」
ヘルマンはプリムローズを見つけると、直立不動にさせたアイルとエーフィア。立ちすくむリヒトを放り出し、そっちに駆け寄る。
「わたしは大丈夫。お客も怪我はないわ」
「ベターと言っておこう。急行券払い戻しはプリムローズのアイディアだな?」
「ええ」
「さすがだ!」
目尻が緩みきっている。まるで孫娘と爺である。
「あのぉ~。司令。やっぱり俺のダイヤだと……」
「おいサーフィールド。お前はよほど恥というものを知らねぇようだな? お前のダイヤが使えるとでも思ってんのか? あ?」
「『お前のダイヤ』? 先生、どういうことなの?」
プリムローズにとって、ヘルマンは『先生』らしい。その経緯は不明で、アイルもエーフィアも知らない。ヘルマンはアッシャとリヒトを見比べて言った。
「こいつか? 新米の刻示士だが?」
「そんなことは知っているわ」
ヘルマンにプリムローズが噛み付いた。
「いや、そういうことじゃねぇ。こいつは今事故を起こしそうになったアルビオンのダイヤを引いた張本人だ」
オペレータの二人とプリムローズの言葉が続かない。リヒトはヘルマンを直視できない。どうにかこの場から逃げ出したかった。特に、プリムローズのいる前では知られたくなかった。
「今のクズみたいなダイヤを引いたのが、こいつだって?」
エーフィアは唖然として言う。
「来月までにまともなダイヤを書けるのか? ……サーフィールド!」
「は、はいっ!?」
「こんな適当なダイヤで、現場でなめられるようなダイヤで、事故が起こるようなダイヤで列車が走れると思うのか!? あ!?」
わざわざ持ってきたダイヤグラムはカバンごと蹴飛ばされた。
「現場も知らないお前に書かせた俺が馬鹿だった。ここまで無能を採ったのははじめてだ」
「し、しかし、司令」
「十月のダイヤ改定はお前にも仕事をさせようと思ったが、ふざけている。現場を知らなすぎる。ゲルマンで最優秀だから採用ってことだが、あの国は馬鹿ばかりなんじゃないか?」
口答えは意味は無い。これ以上の発言は許してくれなさそうだ。
「今から国に返ってゲルマン国鉄にでも入るか? おい、サーフィールド!」
「……それは……、嫌です」
「じゃあ、どうすればいい? 今のお前は理論しか持っていないわけだ」
アルビオンとカージナルの関係も知らない門外漢が、乗客の生命を乗せた列車のダイヤを引くなんて言語道断である。
「現場を、……学びたいです」
リヒトの顔は、青ざめきっていた。目の光も徐々に消えていく。
「……わかった。その気が本当にあるのなら、ミッドランド鉄道でしごかれて来い。出向だ。詳細は追って通達しよう。プリムローズ、また信号所に顔をだしておくれ」
ヘルマンはリヒトが持ってきたアタッシュケースを掴み、改札口に向かっていった。
「……ちょっと、あなた何者なの?」
プリムローズがリヒトの前に立ちはだかる。アルビオンのダイヤを書いた張本人がここにいる。それが、自分とさほど変わらないような少年である。
「返事なさいよ」
「……あの、プリムローズさん」
「弁明はいいわ。ミッドランド鉄道にも非があるもの。カレドニア鉄道にも」
プリムローズはあれほど喚いた信号所の非を自ら認めた。
「……俺は、正式には十月から刻示士になる見習いです」
「そんなあなたが、本線のダイヤを引いた、ってわけね」
「……はい」
「結果、大事故を起こしかけた、と」
「…………はい」
泣きそうだ。ヘルマンのあまりの剣幕に毒気を抜かれたのか、リヒトをみじめに思ったのか、アイルもエーフィアもどこかに行ってしまった。
「先生はミッドランドで学びなさい、といったわね。あなた、そうする気あるの?」
「……ヘルマン司令が許してくれるならば」
「いいわ」
プリムローズは言った。
「その……、あなたにはさっき、助けてもらった貸しがあるからね。アルビオンとカージナルがぶつかったのは別にあなたの責任じゃないわ。そうよ。たぶんただの不幸な事故よ」
「プリムローズさん……」
自分の責任ではない、その言葉で幾分楽になる。
「アッシャ」
プリムローズはきっ、とリヒトに向き合う。
「アッシャ・プリムローズよ。わたし達の鉄道(ミッドランド)で修行するなら、みっちりしごかれなさい」
アッシャは手を差し伸べる。挑戦的なルビーの瞳がこっちをじっと見ている。
とても怖かった。リヒトは重大事故未遂の原因を招いた張本人だ。ミッドランド鉄道に赴いた途端、どんな目に会うか想像に難くない。しかしその瞳を見ていると、逃げようとか断ろうとか、そんな考えは全く浮かばないのだ。
リヒトは、その手を恐る恐る、そして、しっかりと握る。アッシャはそれを強く、強く握り返した。
長い夏が始まった。
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