第2章

この国も夏はひたすらに灼ける暑さである。

 アルビオンとカージナルの事故から二ヶ月、両社の間に一応の均衡は保たれていた。

 細かいダイヤグラムの訂正は毎日のように発生するが、概ねの列車は決められた時刻を逸脱することはなく、双方ともにペナルティを受けない状態にある。

ミッドランドもカレドニアも、相手を出し抜くタイミングを虎視眈々と伺っていた。

 

 線路には陽炎が浮かんでいる。列車は勾配を越えるために大量の蒸気を吐き出していた。

「もっと投げ込め! 遅い!」

「はいっ!」

「喋ってねえで手を動かせ!」

運転室の中は釜から漏れる熱がたまってサウナ状態にある。

「あと五回投げたらレギュレータ全開で待避線に逃げ込むぞ」

「はいっ!」

石炭にショベルを突き立て、勢いを付けてそれを釜に投げ入れる。投げるタイミングに合わせて釜の蓋をペダルで開ける。あまりにも暑い。上着は脱いでも汗がとまらない。

速度は三十マイルを切っている。ここで蒸気を上げなければ列車は停まる。それをオペレータはわかっており、リヒトの手元を固く見守っていた。あと二回……、一回……。

「ラスト行きますっ!」

「よっしゃ、いぐぜえ!」

リヒトの教官であるオペレータは調圧弁(レギュレータ)を回す。釜の火が一気に燃え盛る。投げ入れた石炭が青い焔に包まれて、数千度の熱が瞬時に水を蒸気に変貌させてゆく。二百キロポンドもの重量を持つ機関車、連なる五百キロポンドの貨物列車が蹂躙する動力は、蒸気である。

 近代機械の傑作である蒸気機関車は、誕生から一世紀以上この方式で動いているが、それを支えるのは絶えず石炭を投げ、火を操る機関助士(ファイアマン)だった。


 ヘルマン・アイヴァットの命のままにミッドランド鉄道に出向したリヒト。彼処へ行け此処へ行けと言われるがままに辿り着いたのが機関助士だった。二ヶ月現場でしごかれてこいという命令。刻示士とは何一つ関係ないんじゃないか、と思ったがひたすら頷くしかない。

待っていたのは、巌のような厳つい顔をした、ゴドレッドという貨物列車のオペレータだった。リヒトの境遇を知っていたのか興味が無いのか、新入りとしてとにかくこきを使い出した。敬意と悪意を込めて、おっさんと呼ばれている。はじめの二週間は東岸本線を南北に走る貨物列車の石炭を投げる手伝いをひたすらさせられた。おもにヨークとピーターバラの区間を一日に二往復。二日に一度、ニューカッスルまで夜行の貨物を引いて、帰りは空の貨車を引いて走った。その間、倒れそうになりながらも少ない距離から徐々に伸ばしていってもらっていることをリヒトはわかっており、本当に少ない会話から石炭を投げるコツを掴んでいった。体力だけには自信があったが、それでも本当にキツい。

ひと月が過ぎたあたりから、様々な支線に行く列車の乗務に入り、休みなく働いた。


 三十両以上連なった満載の貨車を坂の途中で加速させるのは並大抵のテクニックではない。ゴドレッドを知るオペレータは皆そう言う。おっさん当人も好んでやるわけではないが、逼迫したダイヤを守るにはこれができなくてはいけないのだ。

 徐々に速度は上がり、頂上で四十マイルになる。あとは重力にまかせて走ればいいのだ。

 ようやく路線を覚えつつある。ここでは手を緩めてもいい区間なのだ。窓にもたれかかり、新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。八月も間近の深い緑が飛び込んでくる。

 勾配の途中からブレーキをかけ始め、外側の線路に入る。待避線だ。本線をゆく列車を貨物列車は先行させなければならない。一分一秒を早く行きたい旅客列車とは違い、貨物は必要なときに必要なものがあればいい。とにかくたくさん一度に運ぶことを理念としている貨物輸送はいわばアルビオンの対局にあると言ってもいい。

 貨物列車が止まったとたん、後ろが騒がしくなってきた。後続の列車が駆け上がってきた音だ。丘の頂上で聞き覚えのある汽笛が鳴る。

アルビオンが駆け下りていく。その速度、およそ七十マイル。いとも軽快そうにミッドランド鉄道の最速列車は北とへ走り去った。乗務記録によれば、オペレータは変わらずアイル・フェリックス。コンダクターはアッシャ。あの少女アッシャ・プリムローズだ。

「さて、俺らも行くぞ。さっさと蒸気を上げろ!」

「はい!」

アルビオンがエディンバラに着く頃、リヒトはここで石炭を投げていなければならない。


貨物列車はニューカッスルが終点。この日はその近くの社員寮で泊まることになっていた。リヒトは日課の機関車掃除を粛々とこなす。普通は新米にはさせない作業で、つい五日前にやっていいと許可が出たばかりの作業だった。許可が出た時は素直にうれしかった。

火を落とした機関車の下から石炭の燃えカスをすべて取り出してのボイラーの掃除。これだけで体中が煤まみれになる。だが、ようやくそれなりに扱ってもらえている証拠だと納得して、おっさんのために煤を落としていた。

「精が出るわね」

車庫の入り口から聞き覚えのある声がした。

「……プリムローズ……さん?」

「アッシャでいいわ。やっと掃除させてもらっているのね」

アッシャは涼しい顔をしていた。ミッドランドの夏制服は基本的に冬服の素材を変えただけのものだが、女子社員のものは上着をベストに、ズボンはスカートになっている。

「……あげないわよ?」

手には白いアイスキャンディーを掴んでいた。アッシャはそれをひとつかじっている。煤まみれの姿のリヒトを物珍しそうに眺めていた。

「なんだよ、みんなこうなるんだぞ!」

「そうね、割とそうなるわね」

「割と?」

「だって、アルビオンには機関助士さん乗ってないわよ」

 そう。アイル・フェリックスはたった一人で四百マイルを運転する。アルビオンのように長距離をノンストップで走る列車は簡単には助手の交代ができない。その過酷な重労働を解消するために、特急用機関車はほぼすべて、自動の投炭装置が積まれている。

「それよりも、いつまで石炭投げやってるの? 二ヶ月経っちゃったわよ?」

「そんなこと言われても、おっさんが来いといったらついていくさ」

アッシャはさっさとアイスキャンディーを食べ終わっていた。

「ヨーク運転区で言われたのよ。車掌の研修にいつ来るんだー、って聞いてこいって。信号所の司令直々にうちに送られてきたからみんな直接あなたに口出ししたくないのよ」

その割に、アッシャはちょくちょくこうして口を出してるけど……。

「それよりも、あなたに届け物よ」

「手が汚れたままなんだけど」

「じゃあご飯食べてからにしましょう」


この日はアッシャも社員寮に泊まる予定だったらしい。アッシャのあとをついて寮に入ると、歓声に迎え入れられた。

「あ、どうも」

「おめーじゃねえよ。アッシャちゃんだよ」

こうして何箇所かの社員寮や運転区を回ってきたが、アッシャのような若い乗務員はほとんどいなかった。ロンドンで何人か女性のコンダクターは見たのだが、それでもどこに行っても男しかいない。アッシャは少し遠慮がちに愛想笑いをして、来客用の部屋に入って鍵を閉めた。

 とりあえずシャワーを浴びに行った。どこもかしこも煤まみれで、舌まで真っ黒だった。十五分ほどかけておおかたの煤を流し終える。ここを利用する男たちは皆が煤や煙を流し落とすが、浴室は綺麗にされていた。

 筋肉痛は消えないままだ。食堂で椅子に身体を預けているとすぐにも意識が落ちそうだった。明日の乗務はロンドン行きだ。早朝六時出発、とのこと。リヒトにとって、これがまた悩みの種だった。ゲルマンと違い、この国ではサマータイムを導入している。六から八月までの三か月は一時間時計が早まっているのだ。その慣習のせいでカージナルに乗り遅れたのだ。六時に出発というのは要するに早朝五時には準備完了ということである。

五時におっさんが来るため、四時には機関区にいかなければならない。蒸気機関車は暖まるまでにかなりの時間を要するのだ。

 まったく迷惑な話で、さっさとサマータイムが終わってしまえと思う。人間、そう簡単に生活リズムを変えることはできない。

「煤はとれた?」

突然椅子に寄りかかってこられる。クッション越しに伝わる涼し気な声。

「ああ、この通り……アッシャ、か?」

部屋着というには少し堅苦しい、ブラウスとスカート姿の少女だった。長い銀色の髪はゆるく癖がついている。普段の乗務の時とはだいぶ雰囲気が違う。リヒトよりもずっと若く、いや、幼く見えた。アッシャはリヒトの向かいに腰掛け、持ってきた紅茶に口をつけた。

「今日は何マイル走ったの?」

「ヨークからニューカッスルまで一往復半だから、えっと」

「なんだ、三百マイルにも満たないじゃないの」

「三百マイル、って三百マイルだぞ!?」

「キングス・クロスとエディンバラは四百二十七マイルよ。でも、よく鍛えてもらってるみたいね。腕が少しばかりファイアマンっぽく……」

アッシャはリヒトの腕を思い切りつまんだ。

「痛てえぇー!」

「あ、ごめんなさい。忘れてたわ」

三百マイル分の投炭で酷使した腕は常に悲鳴を上げているのだ。

「酷ぇなあ、もう。それより、用事があるんだろ?」

「そうよ。先生からの手紙」

「先生、ってヘルマン司令?」

封筒を手に取る。差出人、宛名ともに書いてないが、封蝋の印で信号所から出された物と分かる。時計の文字盤と腕木信号をあしらった、瀟洒なデザインで結構気に入っているからすぐにわかった。

封を開けると、気分が重くなった。二ヶ月近く石炭を投げていればいい生活に没頭して、この事実から遠ざかっていたのを否応なく思い出す。

ミッドランドには出向扱いで、あくまでシグナレス所属の刻示士なのだ。

「ダイヤ、ね」

「そうだな」

「東岸本線の、八月のダイヤかしら」

アッシャはリヒトから奪い取る。さすが、本線のコンダクター。一目で八月の物と見抜いた。

「簡単よ。行楽列車の臨時便、赤茶色の線がそれだもの」

「へぇー」

「……やっぱり信じられない。あなた、本当に刻示士なの?」

分厚いダイヤだけかと思ったら、封筒の内側に小さなメモが一枚はりついていた。まだミッドランド鉄道に出回っていないはずのダイヤグラムにアッシャは興味津々だった。幅が七フィート近くあるため、近くの食卓にそれを広げる。それを見て他の乗務員も寄ってくる。

「それは何だ?」

「来月のダイヤですって」

「マジで? 北行き何本くらい増えるの?」

「来月のダイヤだってー?」

わらわらとダイヤに群がっていた。しめたとばかり、リヒトはメモを隠れるように見る。


『リヒト・サーフィールド

テスト その一 

左記の条件から、同梱したダイヤグラム上にロンドン‐エディンバラの最速列車を書きこみ、シグナレスまで持って来い。


 条件一 機関車は時速百マイル以上での走行が可能なものと仮定

 条件二 定期汽船の連絡は無視すると仮定

 条件三 燃料補給と乗務員交代はないと仮定

 条件四 既存のダイヤに手を加えてはならない


ヘルマン・アイヴァット』


ヘルマンからのメモを読んでいる間、アッシャと、ミッドランドの乗務員たちはダイヤから多くのメモを取った。アッシャにはこのダイヤは読む訓練として送ってきたと言い、自分に与えられた部屋に閉じこもった。下手に課題があるなんていうと外野がやかましい。

 リヒトはまじまじとダイヤを読み始める。

 様々な列車がほぼ二十四時間行き交う中に最速列車を設定しろという。現段階でのミッドランドの最速タイムは五時間五十一分。アルビオンが事故を起こした日のタイムである。停車するべき駅を通過しても所定の六時間から九分の短縮にしかならない。

 だが、ヘルマンが自分に課しているのはアルビオンのスピードアップではない。アルビオンを早く走らせたいのであればそう書く。あくまで最速列車を設定しろと言ってあるし、汽船との連絡を無視するということは連絡列車としての側面は必要ないと言っているのだ。どんな人間が運転するのか知らないが、乗務員交代は必要ないというのも……いや、アイル・フェリックスなら全区間を走っているな。やっぱりアルビオンなのか……?


 小一時間考えてはみたが、どう考えてもアルビオンに到達してしまう。そこで、更に上の性能を持つ機関車という前提で、平均速度百マイルの列車を設定することにした。

 現代の蒸気機関車は百マイルを出すことのできるものはそれなりにはある。アルビオンで活躍をする特急用機関車「スワロー・アーク」。アルビオンとの接触をした時には百マイルで走行をしていた赤い特急専用機「ファイアフラッシュ」。その他、速達郵便列車「アイリッシュ・メイル」「スコティッシュ・メイル」用に百マイルという高速で走れる機関車はさまざまある。

 百マイル出せる、ではなく平均で時速百マイルということは、所要時間が四時間弱ということである。実現可能かどうかはわからなかったが、計算をしていくうちに百五マイルから百十マイルを出せる機関車ならば四時間を切ることも可能ではないか。そう結論が出た。

 時計を見ればまもなく二十三時半。翌朝のことを考えれば就寝しなければならないが、まったくその気にならなかった。これが、列車ダイヤを引くということなのだろうか。仮にシグナレスから出された課題だとしても、自分が影のオペレータになったつもりで列車を自在に操れる。それが楽しくてしかたがない。

 東岸本線の地図を取り出すと、六十八ある駅と駅の間に数字を書きこんでいった。それぞれの区間の最高速度。百が目立つが、要は、ここは制限速度があってないようなもの。将来的には具体的な速度制限が生まれるかもしれないが、この区間をすべて百マイルオーバーで走れば最速列車は理論的に可能だ。

 たった一箇所、三十という数字がある。ヨークの周辺である。東岸本線のほぼ中央に位置するヨーク駅は、すべての列車が停車することを前提に存在している。しかし、低速であれば通過は可能だ。通過扱いにする。そして、勾配や直線、トンネルなどの位置関係から加速減速を決めて行かなければならない。きちんと決めておかないとどうしても遅くなってしまうのだ。

いつの間にか、路線はすべて頭の中に入っていた。上り坂は、石炭を投げるのが辛いところだ。直線は楽なところ。トンネルはすごく煙たいところ。鉄橋は音が一層うるさいところ。二か月間ひたすらやってきたことが、ダイヤ作りに役立っている。

すでに完成されているダイヤグラムの列車と列車の間を縫うように、最速の列車が走る線を書き足していく。待避線に逃げてもらうこともやむなしで、退避する列車もすべて遅れの回復が見込めるものだけに絞った。

 書いて行くうちに、グラフ上にぽっかりと時間的な空間が生まれた。その箇所は東岸本線でも直線が十マイル近く続いている、長くゆるい下り坂。しめた、とばかりにこの箇所に、最速列車がその本領を十二分に発揮できる舞台を設定した。こうやって行くと、アルビオンよりも早い列車の可能性がひとつだけ見えてくる。

 しかし。結局こいつは実現できないだろうな。司令に怒られるだろうな。まさに机上の空論だ。それでも、八月のダイヤグラムに最速列車を書きこみ、それに対する三枚にわたるメモが完成したのは、四時過ぎだった。


 四時は七月とはいえ最も冷え込む時間帯である。一睡もしないままに車庫へと向かう。あたりには薄く霧が立ち込めており、線路が露で光っていた。

 前日におっさんから言われていた「六番車庫」は、昨夜掃除をしていた車庫と少し離れたところにあり、今まで入ったことがなかった。普段よりもスマートな機関車が止まっていた。

 運転室に乗り込むと、まずは昨日の新聞に火をつける。いきなり石炭に火はつかないので、それをボイラーに投げ込んで火種にする。三分ほどしたら、細かい石炭の粒を加える。これで一気に火力が上がり、火炎がぱちぱちと音を立て始めた。それから何回か大きな石炭を釜に投げ入れる。ボイラーは火室と呼ばれる燃焼スペースが設けられ、そこにまんべんなく石炭を投げることがファイアマンのすべての仕事と言ってもいいだろう。あとは数分ごとに石炭を継ぎ足せばよいため、ここでひと段落となる。

火を見ているとだんだん眠く……なって……。


ごん。

「おい」

ひどい衝撃だった。まるでショベルで頭を殴られた様な……。

「だらしねぇぞサーフィールド」

「あ、おはようございます」

「おはようございます、じゃねえよ。釜焚きを放置して寝やがって」

どうやら寝ていたらしい。そしてショベルで頭を殴られた。

「えっと、今」

「五時四十分だ」

良かった、眠ってたのは十分程度だ。

「お前の時計で、五時四十分だ」

おっさんはいらいらした声でそう言った。リヒトの時計は大陸時間のままに使っている。つまり、今の時刻は、サマータイムで言うところの……。

「六時四十分!?」

「そうだ、サーフィールド。さっさと出発だ」

痛む後頭部をさすりながら、石炭を次々と投げ入れる。

「はい! あの、すみません」

「無駄口はいい。ロンドン行きは七時ニューカッスル駅出発だ。いいな」

「七時ですね。わかりました……七時ですか!?」

あと二十分しかないではないか。

おっさんはいつになくきびきびと出発の準備をしていた。自分が眠りこけていたうちに石炭も水も満載になっていたようだ。まったく情けない。

「って、ニューカッスル駅っすか!? 客車じゃないっすか」

「だからどうした」

「俺、初めてですよ!」

「なあに、客車なんて貨車よりもずっと簡単さ」

おっさんはそう言うと汽笛単声、機関車をスタートさせた。


七時ちょうどにニューカッスルを発車した急行「サンライズ」は、ヨークまでに三十分近くの遅れを生んでいた。原因は濃霧。視界がいつまでも朝霧に包まれていた。この国では雨が降るよりも当たり前の風景である。

「もっとスピード出せますよ!」

リヒトはイライラしていた。このままではロンドンまでにどれだけの遅れを生じることになるのか、考えるだけでぞっとする。

「馬鹿いってんじゃねえ! 百ヤードも先が見えないんだ。徐行で動けるだけましってもんだ」

「でも、本線のオペレータなら全部の路線覚えてるんじゃないですか?」

「霧ってやつはな、夜の闇と一緒だ。ダイヤが乱れた状態で、夜行列車の運転ができるか?」

そう言われてしまうとリヒトは黙るしかなかった。せっかく初めての旅客列車なのに、遅れてしまう。残酷なようにも思うが貨物列車との差がはっきりと実感できた。

 旅客、貨物の区分は関係なく、線路の上を走っているが、急行サンライズの運転室にいると何本もの貨物列車を追い抜いて行くのがわかる。霧の向こうに停止している列車が見えると、それがサンライズを先行させるためダイヤを変更した貨物列車だということがわかるのだ。シグナレスでは、今この時にもサンライズのためにダイヤ調整をしている人間がいる。

 すべては定刻通りにお客を運ぶ、その理念にのっとった処置である。そのおかげか、霧が晴れればすぐに回復運転ができるまでに線路が空いたのだ。リヒトはすべての貨物を運転するオペレータたちにこころの中で敬礼した。もちろん、ゴドレッドにも。

霧は三時間ほどサンライズの視界を塞いだが、イングランドに入る頃には入道雲が車窓には見え、夏晴れの天気になった。そういえば、明日からは八月だな、そんなことを思う。

「おい、新入り」

「なんでしょうか」

「この乗務が終わったら、次はコンダクターの研修だとさ。せいぜい、勉強してこい」

初耳だった。急行サンライズがロンドンに到着したら、ファイアマンの研修が終わり? ということは、こうしておっさんとペアを組むのが終わりだ、ということなのか?

「そう言うことだ。俺の新人研修は二か月。お前はもう立派なファイアマンだ。……ってそういえば信号所配属のエリートさんだったな」

「……おっさん」

列車は結局五十分の遅れでキングス・クロスに到着した。

サンライズはあわただしくお客を下ろすと、列車の回送に入る。

「いや、お前は信号所に行かなきゃならねえんだろ?」

「なんでそれを」

「今朝、連絡が入った。ロンドンに到着し次第お前をよこせってな。あそこの人間は時間にうるせえやつしかいないからな。さっさと行っちまえ」

そう言うと、さっさと発車させてしまった。短く去りゆく列車に深深と頭を下げると、課題であるダイヤを持って信号所へと向かう。


 ロンドンの中心、王宮の外側に向かって放射状に本線の終着駅がいくつも存在している。これらのターミナルをつなぐのがコミューターと呼ばれる電車路線だ。二度の乗り換えの後、到着したロンドンの信号所は国内すべての鉄道網管理だけではなく、ロンドンを縦横無尽に這うコミューターの集中管理も行っていた。煉瓦作りの三階建。厳重な警備のされている施設である。

 リヒトは身分証明書を見せたが、まだ正規職員ではない。来訪理由が司令のヘルマンに会いたいということであれば、なおさら入所許可は下りなかった。一時間近く待たされて、ようやくヘルマンが姿を現したのだった。

「久しぶりだな。サーフィールド。サンライズは霧で遅れたと聞いている。災難だった」

「お疲れ様です、司令」

ヘルマンは特に怒る様子もなく、信号所の奥へと案内していく。

「で、それがダイヤか」

「はい」

小脇に抱えた封筒を手渡した。

「ゴドレッドは相変わらずか? その顔だとだいぶ鍛えられただろう」

ヘルマンは封筒からダイヤを出す。ぱらぱらと捲りつつ、リヒトが書きこんだページを開いた。それを一瞥すると、再び封筒の中にするりと入れたのだった。三枚にわたるメモは見ていない。

「はい、それはもう毎日が重労働です」

「誰もがやることだ。俺も、フェリックスも、プリムローズもやった」

リヒトは耳を疑った

「アッシャがですか!? 投炭を?」

「ゴドレッドに直接習ったというわけではない。たいていの乗務員は経験したことだ」

 アッシャの細い腕。白い肌。にわかには信じられなかった。運転室で石炭を燃やしているだけで、ごうごうと燃える炎により顔は焦げたように黒くなるのに。

「それより、次の課題を出そう。ついてきなさい」

アッシャがショベルを握ってぜぇぜぇ言っている姿を想像していたリヒトはあわててついて行く。自分の書いたダイヤについて何かしらの指導がある、と思った。

 ヘルマンの部屋に行くと、ミッドランド鉄道のロンドン運転区に向かうように、という指示と書類を渡された。ダイヤについては何も言われなかった。リヒトにしてみれば自信作だったが、怒られるのが怖いのでただ返事をするだけだ。


 キングス・クロスに戻ってから、今度はロンドン運転区へと向かう。ここは駅に隣接し、多くの機関車、客車が置いてある車両基地。その端に、乗務員の集う建物があった。まず名乗ると、あらかじめ通達が行っていたようで、明朝からの乗務を言い渡される。

「明朝から、ですか」

「そうですよー。時間がないって聞きましたもの」

応対してくれたのは、女の車掌だった。アッシャ以外にもいたんだな、と思う。

「列車長。つまり、列車の運行判断はある程度車掌に任されます。責任はオペレータと半分半分程度と思っていいですよ?」

この女車掌、アッシャに比べるととても背が高かった。五フィート半以上はある。「営業スマイル」丸出しな表情を浮かべていた。

「まず、乗務してもらうのはアルビオンです」

「アルビオン、ですか?」

ミッドランドの顔ともいえるアルビオン。いきなり右も左もわからないリヒトには無謀と言えるのではなかろうか?

「そうです。チーフ・コンダクターはアッシャ・プリムローズという女の子です」

「アッシャが?」

「あら……、アッシャを存じているのですね?」

コンダクターはアッシャの名前を出すと笑顔であれこれ詮索し出した。どうせ知れたことだ。と、あの事故の日に乗っていたことを話す。

「そういえば、あのとき乗務していたのはアッシャだったような気もします」

「いいんでしょうか? いきなり乗務に入ってしまっても」

一番の不安はそこだった。ゴドレッドのところでもいきなり乗務に回されたが、石炭を投げるだけの仕事とは違い、コンダクターはお客様を相手取った仕事である。そのような教育は受けていなかった。

「大丈夫だと思いますよ。最初のうちは見て覚えてもらうことがほとんどだと思いますから」

「それなら……、まあ」

「伺っていますよ? ベルリンの鉄道学校主席卒業なんですって?」

「はぁ……、まあ」

突然母校の名前が飛び出して、どう言えばいいのかわからなかった。リヒトの答えも待たずに、コンダクターは奥に引っ込んでしまう。覚えることはたくさんありそうだ。車掌についても少しは勉強したが、あの国とこの国では勝手が違うことも多いだろうな、と考えていると、彼女は大きな包をもって戻ってきた。

「これが制服です。それでは、明日からよろしくお願いしますね。リヒトくん」

「はぁ……、ありがとうございます。」

紺色を基調としたミッドランド鉄道の制服。これからたったの一月しか着ることはないであろう車掌のそれには、きちんと自分の名前が刺繍してあった。誰の采配かは知らないが、乗務への不安と共によろこびが湧き上がる。


 同じころ、カレドニア鉄道の、セント・パンクラス駅ではちょっとした騒ぎが起きていた。

 舞台は毎日カージナルが発車する急行用プラットホームの掲示板である。

非番だったアッシャは、騒ぎを聞きつけてはせ参じたのだった。うまくいけば夕刊でそのニュースを読むことも出来ただろうが、彼女は自分の目で見ないと納得がいかないのだ。

「……ケンカ売ってるのかしら」

その文面を見て、強く拳を握りしめた。

六月、そして七月とあの事故以来、カージナルとアルビオンはあくまで停戦状態にあったのだ。そもそも、競争に躍起になっているのは現場のオペレータやコンダクター。そして乗客たちである。両社の上の方では何も公式的にはノーコメントだったのだ。現場としてもそちらの方がいいし、ダイヤを守って走るという体面は会社としては保てていた。それなのに。

「これを見てミッドランドはどうするつもり……?」

自社も同じ轍を踏んでしまわないか、それが心配だったアッシャは、足早にミッドランド鉄道本社へと向かったのだった。


『八月一日 カージナルに新型機関車導入!

 スコットランドへ、より速く。カージナルはアルビオンを凌駕する』


セント・パンクラス駅に掲示された非常に大きな広告は、ほとんどの道行く人たちに大きなインパクトを与えた。カレドニアを象徴するクリムゾンを基調とした大きなポスターには、誰が見ても宣戦布告とわかるイラストと謳い文句が並んでいる。

そして、戦いの火蓋は翌日、八月一日の十時に切って落とされた。

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