第3章
八月一日。列車の写真が見出しを飾った。それはまさに晴天の霹靂だ。
『カージナル、世界一の列車へ』
誰がどう吹聴したのかは知らないが、現在国内最速を誇るグランドウェスタンの特急「カシオペイア」を超えるという噂になり、それがなぜか堂々と記事となっていた。
新たな機関車を一目見ようとセント・パンクラス駅に多くの人が詰め寄った。ミーハーな連中が見に行くのは構わないのだが、その影響がミッドランドに降りかかったのは非常に迷惑である。
「またチケットキャンセルです! これで四十件目」
「たぶん、キャンセルせずにカージナルで行こうって人も多いわ。定刻発車でいきます」
駅員がカレドニアに流れて行く客の様子をアッシャに伝えた。行楽シーズンも盛りに突入しようというのにもかかわらず、今日のアルビオンは五割程度の乗客しか乗っていない。途中で乗り換えたり降りたりする乗客を除けば、カージナルと同じ区間であるロンドン‐エディンバラを乗り通す者は数名しかいなくなったのだ。
午前十時。定刻通りに発車したアルビオンは、これまた時間通りにウォータールーに到着した。ここでの停車は、アルビオンとカージナルの乗客乗り換えのためのものである。
だが、減速するアルビオンの向かい側を、軽やかにカージナルが加速していったのである。
「馬鹿にされたものね、全く」
「待って、アッシャ! 今日改定のカレドニアのダイヤ通りだ!」
渡されていた運行表には、カージナルのダイヤもしっかりと記載されている。
「なん……ですって?」
「時刻表だと同じ時間に発車だけど、ダイヤだと十時五分零秒着三十秒発がカージナル。で、アルビオンが三十秒着で十時六分零秒発になってる」
「それじゃあ乗り換えできないじゃない! どうすんのよこれっ!」
胸ぐら掴まれて揺さぶられても困る。
アッシャは早朝からずっとイライラしていた。乗客の前ではそんな様子はおくびにも出しはしなかったが、そのツケはすべてリヒトに回ってきたのだった。
「ちょっと来て」
そういって連れて来られたのは、三等車だった。
「荷物を網棚に上げてあげて?」
「これは……?」
「もちろん、コンダクターの仕事です」
そんなこと、わざわざ呼ばなくとも良いではないか、そう思う。昨日までの投炭作業で、まだ肩とか腕とかすごく痛むのだ。ウォータールーを出ると、列車は北へ向かう。ピーターバラ、ドンカスター、ヨーク、ダーリントンへと停車し終点エディンバラまで走る。事故からは一度も停車駅を通過することはなかった。
八月一日改定ダイヤによれば、所要時間は五時間五十分。対するカージナルは西岸本線を五時間四十分で走ることになっているのだ。
イライラはしていても、見習いとしてのリヒトをきちんと指導するつもりもあるらしく、
「まず、検札。ちゃーんと本物の切符を持っているのかどうか、一人ひとり見て回ることね。一応乗客リストはあるけれど、たぶん今月は参考にならないから」
アルビオンは荷物車に車掌室が併設されている。そこがコンダクターの居室である。二人は乗客を守り、安全に旅ができるように気を配り、送り届ける義務が発生する。
「切符を拝見しまーす」
まさか、自分がこれをいう立場になるとは思わなかった。
乗客は事務的に切符を取り出し、リヒトに見せる。その時間三秒。受け取り、行き先を確認し、乗客の顔を一度見る。そして、改札鋏で切れ込みを入れると笑顔で返す。
リヒトはアッシャに言われたその行程を、十秒以上もかかった。なんとか行き先までは確認ができたが、乗客の顔をちらりと見た程度では覚えられそうになかった。そして、改札鋏の使い勝手もよくわからないまま、ひきつった笑顔でそれを返した。
普通であれば、一両あたり一分強。十六両編成のうち、客車は十三両あり、これらを二十分程度で終わらせる。アルビオンのような停車駅の少ない列車はいいが、駅と駅の間が三十分に満たない急行列車では、このペースで検札ができないと検札漏らしが出てしまうのだ。
「遅いわ」
すべての検札が終わった頃には、二つ目の停車駅であるピーターバラは目前だった。
「仕方ないじゃないか。初めてなんだから」
「まあいいわ。アルビオンはすべて指定席だから、乗客がいるかどうかは予めわかるの」
なるほどそうか。かつて一度、乗客としてアルビオンに乗った時は、ウォータールーから飛び乗ったため、予め切符を買わなければならないとは知らなかった。
「でも、空いていれば切符の販売はするわよ?」
ドンカスターからヨークまでは一時間以上停車しない。三十分に一回の頻度で乗客の様子は見て回ることになっているが、昼食時間後は座席でゆっくりと休む人が多いようだった。カージナルのことを考えることもなくなったのだろう。アッシャの機嫌も戻っていた。
「お昼、食べに行きましょう」
アルビオンには食堂車が二両連結されている。もともとは一両だったが、利用者も多いので、二両に増やしたのだと言う。
「いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
食堂車に行くと、すぐにウェイトレスがやってきた。すらりと背が高く、カフェにいてもおかしくない給仕姿。
「あーっ!」
「初常務はどうですか? リヒトくん」
ウェイトレスはにっこりと、営業スマイルで微笑んだ。
「え、なんであんた、どうしてここに?」
昨日会った女車掌だった……はずだが、今はエプロン姿のウェイトレスだった。
「あら、クロエを知っているの?」
「ええ、昨日来られましたので」
アッシャに睨まれたように思う。別に言わなかっただけなのに。
「クロエ・スプリングス。コンダクターです」
「コンダクター、ってどう見ても食堂車のウェイトレスじゃないか!」
「え、もしかしてリヒト知らなかった? 厨房以外の食堂車はコンダクターが担当するのよ?」
知らなかった。そのうちやらされそうで怖い。
「大丈夫よ。見習い程度ができる仕事じゃないわ」
ひどい言われようだ。しかし、見習いではない、チーフ・コンダクターのアッシャもウェイトレスとして接客をするのだろうか?
「ああ、でもわたしは当分ウェイトレスをやらないから」
「へ?」
「おおかた、わたしのウェイトレス姿でも考えていたんでしょ?」
「な、何言ってんだよ!」
図星を当てられリヒトは慌てた。
「それよりも、グラスをお願い」
「かしこまりました。それと、ランチは?」
「いつものを、二つでいいわ」
クロエは厨房に引っ込むと、グラスを一つ持ってきた。
「でかくないか?」
「別に、何かを飲むためのグラスじゃないわ」
そのワイングラスは一回り大きかったのだ。小ぶりなサラダボウルに脚をつけたもの、と言った方が近いのかもしれない。向かい合う二人のまん中にグラスは置かれた。そこにクロエは水を注ぎ始める。結構な量の水が入るグラスだ。
これは何のつもりだ? アッシャは何かをたくらむような目で、注がれる水を眺めていた。
半分を超えて、七分目、八分目……
「入れすぎですよ! クロエさん!」
「え、なんですか? リヒトくん」
クロエは手元を見ずにこちらに微笑んで来る。それよりもグラスを見てくれ! 水はグラスに文字通りなみなみと注がれた。触ったらこぼれそうだ。
「では、料理、今お持ちいたしますね」
クロエは戻っていったのだった。
「ちょっと、これどうするの?」
「どうする、ってどうもしないわよ? へたに触るとこぼれるし」
そうなると、テーブルクロスも制服もびしょぬれである。動いただけでひっくり返しそうだ。
「どうしてそんなに落ち付いていられるの?」
「見てー。いま時速百マイルで走ってるわー」
のほほんとした声で壁にかかっている速度表示計を指さした。真新しい物で、カージナルとの競争が激しくなる時にでも取りつけたのだろう。乗客へのささやかなサービスである。
「百マイル? これが?」
百マイルといえば、現在の東岸本線で出せる最高速度だ。ダイヤグラムを引いたリヒトはそれを数字でだけ知っていた。貨物列車に二ヶ月乗務し続けていても、六十マイルが関の山。ほとんどが時速五十マイルの生活だった。
窓の外を見る。延々と広がる穀倉地帯。青々と茂る牧草地。遠くには工場の煙がかすんで見えた。それが、目まぐるしく車窓を移り変わっていく。
そして思い返す。ここは、走る列車の車内である、と。
レールの継ぎ目やカーブ、加速減速で常に揺れがある車内である、と。
目の前にあるグラスの水は、ギリギリまで注がれているが、ほとんど揺れていない。
「嘘……だ!」
リヒトは勢いよくグラスの脚をつかむ。
「あ、ダメ! ……言わんこっちゃないわね」
想像よりもずっとグラスは重かった。そして触ったことで揺れてしまい、手元に水がこぼれた。
「本当に水だ」
「本当に水って、……ぷっ、あははははっ」
不思議そうに手を眺める。その様子をみてアッシャは思わず噴き出した。口元を抑えて微笑む目元には涙がうっすらと浮かぶ。そんなにおかしいか?
「リヒトって思ったよりもばかなのね」
「何を!」
「素直に信じたらいいのに、トリックだと思ったんでしょう? 揺れなさすぎるから」
図星だった。ロンドンを出てから、滑るように列車は走り続けていた。普通の地面の上で業務をするのと変わらないように思っていたのだ。
「そうだけどさ、何も笑わなくてもいいだろ」
東岸本線では百マイル程度では全然危険は考えられない。自分の引いたダイヤにはまだまだ修正の余地がある、と思った。
「アルビオンに限ったことじゃないけれど、ミッドランドの列車は世界一。そうわたしは思っています。その自慢の一つがこの、とんでもない快適性。どう?」
アッシャは胸をはって、まるで自分の手柄のように話した。
「俺たちは……世界一の列車のコンダクターなのか……」
「そういうことよ。もっと誇りを持ってほしいわ」
今日アッシャから習ったことで、たぶん一番忘れられないことになった。
急いでスパゲッティを流し込むと、乗務に戻った。
ヨーク、ダーリントンも過ぎれば西日が燦々と差し込んできてまぶしい。
「そろそろ合流地点よ! リヒト!」
アッシャに襟を引っ張られてその考えは霧消した。現在のダイヤでは、前のような事故は絶対に起きない。だから、このキンバリー・ジャンクションは安心して通過できるはずだった。
「もしかしたら、カージナルよりも先にエディンバラにつけるかもしれないわ」
「いや、それはないだろ。向こうは新鋭機だぞ」
「だからよ。新鋭機には初期不良はつきものだもの。結構多いわ。起こるに決まってる!」
あのときに比べれば、ずっと静かにオーバークロスに差し掛かった。アッシャは遥か向こうに見える西岸本線を見ていた。緋色の列車がいないか探していたのだ。といっても、カージナル以外のカレドニアの列車はすべからく同じ塗装を身にまとっているのだが。
「いないわ。もっと遅い」
「なんてことはあり得ないだろ。ダイヤ見たか?」
「……わかってるわよ」
しぶしぶ車掌室に引っ込む。カージナルばかり新鋭機をあてがわれてうらやましいのだろう。キンバリー・ジャンクションを過ぎれば、終点エディンバラまでまもなくである。
「あれ、カージナルじゃない!?」
アッシャが叫んだ。そんなわけないだろ。
「いいえ、カージナルよ。絶対そう!」
そんなバカな、と車窓を見る。そこには西岸本線が伸びるばかり。列車の気配などない。
「そっちじゃないわ。エディンバラの方よ!」
慌てて車掌室に入ると、反対側の窓からは北に延びる線路がばっちりと見えていた。向こうからもうもうと煙が南下してきている。
「あの速度、間違いなくカージナルよ!」
アッシャは悔しそうだった。南行きのカージナルは北行きと同じく十時発なため、厳密に言えばカージナルではない。今日デビューの新鋭機が引いている列車をそう称したのだ。
「いや、ちょっと待てよ。ってことは、あれはエディンバラまで行って、向きを変えて、南へ走っていくってことか?」
アルビオンは下り坂にさしかかる。西岸本線との合流だ。
「そうなるわ。あまりに性能が高くて速く着いたのだとしたら……」
二つの列車は間もなくすれ違う。
「今後、カージナルはもっと早く走ることになるわ。アルビオンはもうほとんど限界なのに!」
アルビオンの運転席で、アイルは舌打ちをした。カレドニアの新型機とよもや、初日からすれ違うことになるとは。弾丸のようなシルエット。まちがいなく、今朝機関区で見た奴だ。
乗客たちも先ほどから気がついていたのだろう。すれ違うカレドニアの新型機の姿を皆気になっていたのだ。ウォータールーで置いてけぼりにされた、その宿敵の姿を。
「来るぞ!」
アッシャは、そう叫ぶリヒトに、窓に背を向ける。誇り高きミッドランドのコンダクターとして、その姿はあまりに残酷な現実をたたきつけるに十分たるものだったからだ。
何よ、今日はあんまりじゃないの。せっかくリヒトが見習いで来る日なのに、カージナルの新鋭機といい、乗客のキャンセルと言い、クロエとさっさと仲良くなってるし……。なんなのよ! ぎゅっと目を閉じて、自ら闇の中に閉じこもった。
そして、轟音が迫ってくる。
二日後、車掌の乗務で初めての休みがやってきた。先程までずっと忙しかった。エディンバラでアルビオンを下りると、更に北行きの急行の車掌を引き継いだ。そして、終点アバディーン発のエディンバラ行き乗務から次の日の夜までは、アッシャとは別の乗務となった。数人のベテラン車掌について仕事を見よう見まねでやってみたが、どれにもあまり熱は入らなかった。
そして、一睡も許されないまま、その晩のキングス・クロス行き夜行列車『アルテシア』の乗務を言い渡された。ペアとなるコンダクターはクロエ・スプリングス。今度は正真正銘の車掌の姿で指導してくれる立場にあったが、会話のないままにロンドンに辿りついた。リヒトからは一言も話しかけなかったし、クロエも何も言っては来なかった。
丸二日乗務をして、これほどベッドが恋しいと思ったことはない。次の日の夜からまた乗務のため、日中はこのまま寝台車で寝ていよう。と、回送されていくアルテシアのベッドに横になると、その柔らかい布団に身体が吸い込まれていくような感じがした。
「……なさい」
夢うつつで声が聞こえる。夢の中でもアッシャは命令口調だ。
「起きなさいよ!」
一瞬で世界がひっくり返った。何事だ!?
眠っていたはずのベッドから転がり落ちていた。その視界に、アッシャが入り込んでいる。
「起こすなよ……」
「いつまでも寝ているな! ちょっと付いてきて」
大あくびをしながら起き上がる。時計を見れば三時間も経っていない。
「今日は非番なんだけれど……」
「出向の研修生に非番なんてないわ!」
休ませろ! と叫びたいのをぐっ、とこらえた。叫ぶのも疲れる。
「付いていく、って何処へ?」
「付いてくればわかるわ」
教えてはくれないらしい。アッシャはとても機嫌が悪そうだった。その原因はリヒト自身もなんとなくわかっている。エディンバラからの夜行列車、アルテシアでの常務で、ペアとなったクロエ・スプリングスの様子とそっくりだったのだ。ぶつけることのできない怒りを溜め込んだように震える口角。刺のある声。そして、ギラギラとした目。
コミューターを乗り継いで二人がたどり着いた駅は、つい最近にも降り立った場所だった。改札を出てからアッシャは左には曲がらずにまっすぐ進んだ。
「シグナレスじゃ話にならないわ」
「話にならない、ってそっちは鉄道院だぞ!」
鉄道院はシグナレスの隣、同じく赤レンガの建物だ。豪奢な迎賓館と身紛う入り口前には、鉄道の父の銅像が建てられていた。
「そうよ。わたしはここに用事があるんだもの」
鉄道院。運輸省の一部門ながら、古くから独立した組織である。
嘗て、世界中に植民国を持ったこの国では、本国に物資を送らせるためのネットワークを作るために組織を独立させたのだ。戦争も佳境に入った時、国内の路線は全て鉄道院傘下に入ったことがあった。その名残もあってか、各鉄道にとっても都合がいいのか、それぞれが独立後も鉄道院の指示を仰ぐことが多い。そもそも、信号所の上位組織であり、ここの決定は絶対だ。
もちろん、ただのコンダクターがいきなり来てもいいところではない。
どうせ守衛に捕まるか、門前払いされるだろうと思い、わざわざ止めもしなかったが、アッシャは一言何かを言っただけで通過を許されたのだ。慌てて追いかける。
「あら、リヒトも簡単に入れたわね」
「信号所の名前を出したら簡単だ……けど、なんでアッシャは入れたんだ?」
「あなたと同じことよ」
ヘルマンの名前を出したということか。いったいアッシャとどんな関係なんだ?
「それで、わざわざ鉄道院まで来て何をするつもり? そろそろ教えてくれないか?」
そう言って聞く。できればこんなところさっさと出たい。上階へ往くエレベーターに乗って、ようやく切り出したのはあまりにも遅すぎる。
「え? 言ってなかったっけ?」
何一つ聞いていない。
「……あら、最上階ね。残念、タイムオーバーね。大丈夫、悪いようにはさせないわ」
言うつもりもないのか。絶対にわざとだ。
鉄道院最上階。ここには来たくなかった。しかも狙ったかのように、今の時間は週に一度の首脳会議の真っ最中である。
「入るわよ?」
ノックもせずアッシャは扉を開け放ちやがった! それを止める隙はない。
「総司令は何処かしら?」
臆せず、ずかずかと足を踏み入れる。
「何だ貴様は!」
上座から怒号が飛んだ。参列者の視線は突然の来訪者に注がれる。
「ミッドランド鉄道、アルビオンのチーフ・コンダクター。アッシャ・プリムローズよ」
何をやっているんだこいつは! さっさと引っ張っていって帰ろうとそうっと会議室に入る。できるだけ目立たないように、低い姿勢で。
「あとは、機関車工場(ベルクシュプール)の責任者とカレドニアの社長はどこかしら?」
自分はただの車掌のくせに。敬語ですらない。やばい。本格的にこれはまずい。
「生憎じゃが」
最上座から唸るような声がする。恐怖に俺は動けなくなった。
「二人共に欠席なのじゃよアッシャ。そして、鉄道院へようこそ。リヒト・サーフィールド」
そこに鎮守していたのは、七十は過ぎているだろうか。小柄で禿上がった男である。
「それよりも、予め連絡をしてくれたら良かったのに、いきなりとは穏やかじゃないのお」
その老人はアッシャを見知っているようだ。
「おじさまに言っても意味ないのよ。ベルクシュプールに言わないといけないんだから」
「ベルクシュプールに? なんの用じゃ?」
「単刀直入に言うわ。ミッドランドに新たに機関車を寄越しなさい。以上よ」
声高だかにアッシャはそう言ったのだ。意味が分からない。
何故、それを言うためだけにここまで来た? わざわざリヒトを連れてまで。
「すべての顛末は鉄道院も知っているはずよ? 四ヶ月前、ミッドランドがベルクシュプールにアルビオンのために新しい機関車を発注したわ。そして三ヶ月前、カレドニアもカージナル用に発注した。なのに、何故カレドニアの機関車が先に来たのかしら?」
「そういえば、まだ来てないようじゃが、そんなに気にすることかの?」
老人はとぼける。
「おじさまは呑気にしてちゃダメよ? カージナルの現在の記録わかっているんでしょう?」
「無論。しかし、ミッドランドも十分に健闘しておる」
どうやら、おじさまと呼ばれる人はミッドランドの偉い人のようだった。
「このまま指加えてミッドランドが負け続けるのを見ていろって言うの!?」
その言葉には、一昨日の光景を見たものにしか言えない恐怖がにじみ出ていたのだ。
西岸本線に合流したアルビオンは十秒後。マンチェスター行きの急行列車とすれ違った。カージナルと同じ編成。機関車も同じだ。数秒に満たない邂逅ながら、その強烈な邂逅は鮮やかに脳裏に浮かぶ。その姿は、決して車輪の上に円筒形ボイラーを載せた形の古典的な蒸気機関車とは言えなかった。スマートな覆いを機関車全体にかけていた。先頭部は航空機のように風を切り裂くノーズを持っている。
これまでにない形。全く常識外のデザイン。
カレドニアのクリムゾンに金の帯を走らせている。地上を星が走るように見える。
風の抵抗をどこまでもなくしたフラットな外装により炭水車までなめらかに覆われており、列車の足取りはいとも軽そうに見えた。
五時間半でロンドンとエディンバラを繋ぎ、その疲労も感じずにまた走る。他の機関車では走れないダイヤをヴァージンランでこなす性能を持っている。ミッドランドは、この機関者一台に駆逐されてしまうのだ。地を這う獣が束になろうと、風を超えて飛ぶ鳥には敵わない。
――新型機関車は戦闘機のデザイナーが描いたらしいよ
――近々、スピードテストもやるんだって
――「テスタ・ロッサ」って名前、「赤の王者」って意味なんだって
カージナルこそ、列車の王者。それを牽くのに用意された牽引機。それこそが「テスタ・ロッサ」だった。夕刊で見出しを飾った異形の機関車は、凱旋する英雄のごとく崇め奉られた。
「その辺については、この会議で決定が下された」
ヘルマンは一服煙を吐き出してから説明を始めた。
「来月一日を持って、東岸本線と西岸本線における『競争』とやらは、権限で一切禁止とする」
あれから、互いが新型機を発注、そして新型客車を発注。線路の整備には倍の数の人数を投入するようになった。ますます危険を伴うため、信号所は無理やりにでも競争をいさめなければいけないと判断したのだ。
「明日発表される。一月もしないうちに事態は収束するだろう」
「ええ。それはそれで一つの結末になるわね。それで? 来月からはどうなるの?」
アッシャもリヒトもさほど驚かない。カレドニアのあまりにも挑発的な態度は鉄道院もシグナレスも野放しにはできなかったのだろう。
「東岸本線は六時間。西岸本線は六時間十五分のダイヤを規定とし、それを順守しない列車は運行差し止めにする。これで文句は?」
「もちろんあるわよ。来月からきちんと走れというのならそうするわ。ダイヤ改定にあわせての措置でしょ。でも、つまり今月中に勝負をつけろ、ってことでしょ? ……何か言いなさいよ!」
二十人近くいる大人たちは、アッシャと決して目線を合わせようとはしなかった。しかし、その中で敵意を持ってアッシャに声を投げる男がいた。
「営業列車で勝負とは、馬鹿な会社があったものだな。規定ダイヤは私もはじめから賛成だった。役員会のOKが出るまでいったいどれだけ時間を取ったと思っている?」
ヘルマンも、おじさまとやらも、アッシャを諭すように相手取ったが、明らかにこの男は違った。少女相手でもむき出しにされた敵意。その対象はアッシャだけではなく、アルビオンもカージナルも含まれているような言い方だ。
「……萩峰副司令」
その男、すべての鉄道会社の決定に対し、承認権を持っていた。決して姿を出さない総司令にかわり、事実上の鉄道院におけるトップである。
「萩峰、そのことは良いだろう」
「だが、アイヴァット。たかだかコンダクターにこんなことを言わせておくのはどうかと思う」
「所詮はコンダクターじゃないか」
アイヴァットは萩峰副司令をなだめると、アッシャに語りかける。
「来月からはアルビオンの方が速く走れるぞ。プリムローズ」
「そんなことはどうでもいいわ。現在のミッドランド不利な状況、火を見るより明らかなの。さっさとどうにかしなさい」
「ほう……。コンダクター風情がそこまで言うか。じゃあ、配備されたとしてどうするんだ?」
萩峰は不敵な笑みを浮かべ、アッシャをもてあそぶ。
「最速列車を仕立てて、カレドニアにひと泡吹かせるまでよ」
「おい、プリムローズ!」
さすがのアイヴァットもアッシャの暴論は口を挟んできた。
「信号所はそんなことは認められない」
「先生は関係ない。これはミッドランドとカレドニアの問題なの」
「じゃあ、儂は口を挟む権利があるの」
ここで、禿頭の老人が立ち上がった。
「実は、じゃな、前に起こったアルビオンとカージナルの接触事故は儂としても看過できんのじゃよ。乗客がどう言おうと、我々は時間通りに列車を動かす義務があるのじゃ」
「それは来月からやればいいわ。おじさまだって悔しくないの?」
「列車を動かすには金がかかるんじゃ。最速列車をわざわざ仕立てるほどの余裕はない。それに、そんな列車を作ってもアイルはアルビオンから外させはせんぞ」
「ミッドランドで一番のオペレータは確かにフェリックスだ。プリムローズ、いい加減に」
「じゃあわたしが運転するわ。 それなら文句は」
「いい加減にしろよアッシャ!」
アッシャは彼女一人ではどうにもならない怒りを、まるで自制の聞かない幼児のように撒き散らしているにすぎなかった。アッシャのそんな見苦しい姿を見ていられなかった。
「プリムローズのご無礼、申し訳ありません!」
リヒトはアッシャの頭を掴んで、一緒に下げさせたのだ。会議室の視線すべてが集まった。
「ヘルマンよ、彼がサーフィールドか?」
「そうです」
老人がリヒトに興味を持ったようだ。
「しごいてもらっているらしいな。新人」
「はいっ! ミッドランドの素晴らしい環境で勉強させていただいております!」
「うむ。……みんな、ここはこの礼儀正しい新人に免じて若者を許してやろうじゃないか?」
老人は振り返り、巌のような声で銘じる。誰ひとりとして逆らえないオーラがあった。
その人こそ、ミッドランド鉄道社長、元鉄道院総司令。ガイア・ウェッジウッドである。
「できれば、じゃが」
ウェッジウッドはこちらを向いて言った。
「儂も記録が欲しいのぉ」
「ウェッジウッドさん、何を言っているんです?」
これに噛みついたのは萩峰だった。先程まで散々競技を重ねて勝ち負けではないと説得したではないか。
「世界で一番豪華な列車はアルビオンじゃない。カージナルでもない。そして世界で一番長い距離を走るのも、乗客が多いのも、何を取ってもアルビオンもカージナルも一番じゃない。じゃがのぉ、スピードに関してだけは世界でもトップクラスなのじゃよ」
「だからと言って、先程我々は将来に備えて」
「将来に備えはする。しかし、将来誰もがおののくような記録があると少しは良いのではないかと思ったまでじゃ」
萩峰は一瞬たじろぐが、冷徹に言い返した。
「この会議のどこかで言おうと思ってはいたが、ミッドランドもカレドニアも、それにシグナレスまで加えて、どうしてそこまで勝ちにこだわる?」
アルビオンとカージナル以外では、ミッドランドとカレドニアの関係は良好だ。互いに列車の乗り入れも行っている。
「萩峰、まさか副司令がそんなこともわからないのかのぉ?」
老人のたわごとのような発言だったが、これにアッシャは何かを思ったらしい。直後、リヒトはアッシャにネクタイを引っ張られ、強制退場と相成った。
「あー、こわかった!」
赤レンガを出た途端にアッシャが開口一番そう言ったのだ。
「怖かった、だって?」
「こわかったわよ。だって、あそこにいる人のほとんどがわたしたちをクビにできるのよ?」
だから連れて行かれたというのか!?
「じゃあ、どうしてわざわざ」
「だって、悔しかったんだもの」
食堂車で、アッシャはアルビオンが世界一の列車と教えてくれた。そしてその後、みじめなまでにカージナルが現実を突き付けて来た。その悔しさを感じるのは、アルビオンに、ミッドランドに誇りをもっているアッシャだからこそ、なのかもしれない。
「おじさまが新しい機関車が欲しいって言ったってことは、たぶん来るわ。新しい機関車」
半ば確信をもって言う。
「おそらく、テスタ・ロッサと同等の物が納入される。おじさまはそれを知っているのよ」
狸爺、という言葉がリヒトの脳裏に浮かんだ。何がおじさまだ。
「じゃあ、それを待てば……」
「いいえ、違うわ。こっちからアクションを起こさないと」
「どういうこと?」
「さっさと記録を作れってことよ!」
具体的にはこういうことだった。ミッドランドには確実に機関車が納入される。だが、おそらくそれはもう少し先。八月末だろうという推測である。
「最終的なスペックを模索しているんだと思う。ミッドランドにはとても有能な技師がついているから、できるだけ良い物にしたいのよ」
「なるほど。じゃあ、できるだけ高スペックなものにすればいいんじゃない?」
「高ければいいってもんじゃないの。アルビオンを引いてちゃんと走れる馬力をもたせないと」
馬力を持たせると、最高速度は落ちてしまう。そのバランスが難しいとのことだ。
「で、ミッドランドはどうするのさ?」
「アイルの機関車で速度試験をするのよ。そうすれば、乗客の注目はミッドランドに集まってくる。それである程度の記録が出たら、カレドニアも試験を行ってくるわ」
テスタ・ロッサの最大スペックを少しだけ上回る機関車がミッドランドにやってくれば、それに対応したアルビオンが走らせられる。という考えらしい。
「じゃあ、速度試験をすればいい、と」
「その通り。本社に行って、一緒に提案するわよ」
「俺も?」
「本当は鉄道院で、テスタ・ロッサがいかに酷い機関車かを話してもらおうと思ってたの。それを運行担当に言ってくれたらいいわ」
また大変なことを。コミューターに乗る頃には、気疲れがまぶたに襲いかかって来た。
アッシャの提案は、さっそく周りにいたオペレータたちの賛同をもらった。更には、隣の待機所にいた車掌たちに歓迎された。あれよあれよと人が集まっていき、電話が何本も飛んだ。
現在、国内における蒸気機関車の最高速度は時速百八マイルだった。この記録を持つのは、ミッドランドでもカレドニアでもない。グランドウェスタン鉄道が昨年生んだものである。
「わたしたちの敵はカレドニアじゃないわ。グランドウェスタンよ!」
「おぉーっ!」
「めざすは百十マイルよ!」
「おぉーっ!」
その輪の真ん中では、アッシャが拳を振り上げていた。
そうそう簡単にはスピードテストが行えるわけではないだろう。そう思いながらシグナレスに向かった。ヘルマンに再び指導を受けるためである。
「ミッドランドで速度試験? 無駄だ無駄だ」
ヘルマンに『宿題』を提出した時に速度試験をしたいと懇願したが、一蹴された。
「乗客なしでやるのはダメなんですか? ベルリンとハンブルクの間ではよくやっていますし」
ゲルマンに居た頃、何度もその様子が新聞に載っているのを見て来た。科学技術を披露する名目で、様々な試験が本線封鎖で行われたはずだ。
「いいか、サーフィールド。ミッドランド鉄道の走行列車数はいくつか言ってみろ」
今月、八月は旅行シーズンのために、大幅増量中。
一日に走る列車数は北行き南行きを合わせて六百三十四本。これは乗客を運ぶものだけだ。
「そうだな、実際には貨物列車を除いたものが六百四十一本ある。アッシャはどのように言っていたのか知らんが、ミッドランド鉄道で速度試験ができる区間がどこにあるか知ってるか?」
パイプに火をつけながらヘルマンは言う。煙草を深く吸い込んだ。
「ヨークとドンカスター、あとはピーターバラ付近ですか?」
「ほう、どうしてそう思った?」
「あのあたりは石炭を投げるのが楽なんです。どの列車でもそこだと苦労せずに走れたので」
二か月の経験から、東岸本線のどこでスピードが出せるのかはだいたいわかっていた。アルビオンはその区間では百マイルで走行する。
「その通りだ。……だがな、サーフィールド。ダイヤを思い出してみろ」
カーン、とパイプを灰皿にたたきつける。
特に、ドンカスターとヨークの間は各駅に止まる列車でも二時間弱の距離。ミッドランドのすべての列車が一番速度を出す区間だ。それは、他の区間に比べて、同じ時間で遠くまで移動できる区間ともいえる。この区間はヨークまでの通勤客も多い。
「列車本数が多い区間、ってことですか?」
「そうだな……。刻示士として、その区間で速度試験をするとしたらお前はどう思う?」
「どうって、そんな漠然としたことを言われても……」
といったものの、なんとなくは分かっていた。最重要区間と言ってもいい区間を閉鎖して速度試験をするのは、多くの利用者に迷惑をかけることになる。まして、カレドニアには勝てないことの証明のために、なのだ。まったくほめられたことではない。
「ダイヤ……を書くのが、えーと、非常に面倒だと思います」
言葉を選ぶ。刻示士の自分が不可能と判断するが、二か月も働けばどうしてもミッドランド贔屓になってしまっている自分がいるのだ。不可能とは言いたくない。
「まあ、いいだろう。原則、試験列車の前後三十分に列車の走行は禁止になっている。利用者の妨げにならないように試験列車を設定することは無理だ」
投げやりにそう言った。
「それに、速度試験をやるってことの面倒くささをミッドランドのほとんどの奴がわかっていないと思う」
そう言うと、提出したダイヤグラムを返却した。東岸本線の臨時列車の設定をもっと効率的にどうすればいいかという難題で、リヒトの書いた線のほとんどは朱が入っている。かなりがっくりした。走り書きで、『車掌としての配慮をもっと勉強せよ』と書いてある。最初に出した「最速達列車」の課題は未だ音沙汰ないが、それ以降は週に何度もこうして課題を添削してもらっている。
シグナレスを後にしたリヒトは、次の日の夜まで社員寮で寝ることにした。幸い、ロンドンのミッドランド寮は信号所のすぐ近くだった。
「お帰りなさい、どこに行っていたの?」
妙に笑顔のアッシャが待っていた。嫌な予感がする。少なくとも、すぐに眠れそうにはない。
「ちょっと信号所に……」
「カレドニアに勝てるダイヤ、できていた?」
まさか。今月は臨時列車の影響でシグナレスは大変なのである。
「そんなことわかってるわ。わたしたちが色々と準備していたのに、少しは配慮してよ」
「でも俺は」
「ああ、そうよね、刻示士さんだったわね。でも、ミッドランドの味方よね? ね?」
そう言われると中立だとはいえない。
「一応……味方ではあるけど」
不敵な笑み。墓穴を掘ってしまったのだろうか?
「戦略会議をするわ」
寮の会議室には、既に多くの乗務員が集まっていた。
「おもに東岸本線の乗務をする人たちよ。一応、上には機密ということで。ゲント運行管理にバレたら大目玉だから」
運行管理は現場とシグナレス、鉄道院との橋渡しをしている役職で、ヨーゼフ・ゲントはその部長だ。いざこざを好まない彼にたくらみが知られると非常に面倒なことになる。
「おう、来たな。速度試験をやるって言うんなら、俺達は協力してやらぁ」
おっさんがどん、と構えていた。その周りには屈強なオペレータが二十人近く集まっている。貨物運用をするオペレータは皆こういう男たちなのだ。
「ありがとう、ゴドレット。あなた達の協力はもちろん不可欠よ」
アッシャは屈強な連中に対等に激を飛ばす。
「おい、始めるぞ。何分待たせる気だ」
壇上でアイルが呼んでいる。何分待たせる、と言われてもこの会議がいつから始まるかなど知らされてなど居ない。
「何分、って定時じゃねーか!」
野次が飛んだ。鉄道員たち特有のジョークなのかもしれない。
「アイルさん? 始めますよぉ~?」
ステージ脇から別の声がする。クロエだ。彼らアルビオンの乗務員は、アルビオンの乗務からそのまま来たようだ。
「そうだったな。お忙しい中集まってもらってありがたい。アイル・フェリックスだ。この度、我々ミッドランド鉄道労働組合はカレドニア鉄道の広告を宣戦布告として受け取ることにしたい。その是非を問いたいが、意見をくれ」
誰もが感じているフラスコレーション。アイルはその代弁者だ。
「受け取ったとして、具体的に何をするつもりなんだ?」
中年のコンダクターが挙手をし、言った。
「それについても本日決めていきたいと思う。現在乗務中の人間は明日の昼と夜に同様に集まってもらいたい」
「なるほどな……。じゃあ一つ。現状のアルビオンをスピードアップすることはできないと思う。それに代わる列車を立てることはできないか?」
「どういうことかしら?」
アッシャが割り込んできた。
「列車長ならわかってるだろうが、現状ダイヤでもすでに相当無理しているだろう?」
「そ、そんなことないわ!」
一瞬、リヒトの方を向いたように見える。
「フェリックス、お前はどうなんだ?」
「それは……。正直なところ、現状のアルビオンでは今のダイヤが精一杯だ。保線が万全な状態でもこれ以上スピードを出すのは無理だと思う」
「可能よ! 東岸本線の線形のよさは国内随一なのよ!?」
「いや、プリムローズ。そう言うことを言っているんじゃない。現状だ。今月のダイヤを思い出してみろ」
アイルがそう言うとアッシャは少し考え込む。露骨に嫌な顔をして、揃ってこちらを睨みつけてくる。
「お、おいなんでこっちを見るんだ」
「何で両数が増えているのよ」
機関車の性能差が言われると思っていたが、客車の両数についてとは思っていなかった。
「乗客が増えるからだ。アルビオンはミッドランドの稼ぎ頭なんだぞ。乗せられるだけ乗せるのは当然だろう?」
「カージナルはどうなのよ?」
八月一日のダイヤ改定において、アルビオンは二両の増結をしているが、カージナルは両数を増やしていない。「テスタ・ロッサ」のデビュー以降常に満席と聞くため、もしかすると両数を増やすことを考えているかもしれないが、あの機関車ならば数量増えたところで所要時刻に影響は出ないと考えていいだろう。
「俺にそんなことを言われても困るぞ」
ぷいっ、と向こうを向いてしまう。
「あ、でも機関車の両数を増やしたらいけるんじゃないすか?」
若いオペレータから発言が出る。
「と、いうと?」
「スワロー級って確か数両ありますよね? 重連にすればスピードが出るんじゃないか、って」
このやり方は確かに効果的だ。現状十六両を一両の機関車で引っ張るのが大変であれば、二両で十六両を引っ張ればいい。特急用機関車「スワロー」級は七両製造され、うち五両がミッドランド鉄道で使われている。しかし、十五両を引っ張って時速八十マイルで走れる性能というスペックを超えた仕事をさせている。これは褒められたことではない。
そうか、重連か! いったいどれだけの時間短縮になるか考えてみた。客車が八両に減ったアルビオンがどれだけの速度を出せるのか、考えるだけで夢が膨らむ。
「馬鹿じゃねぇか貴様ら」
少しの間を置いて怒号が飛んだ。
「アルビオンのダイヤは単機牽引だから可能なもんだ。フェリックス、お前も呆けたか?」
そう言ってゴドレッドがため息をつく。
「この中で重連運転をしたことのあるオペレータはどれだけいる?」
ぽつぽつと手が挙がる。そのどれもが恐る恐るだった。
「間抜けどもが。お前らを最初にしごいたのが俺だと思うと泣けてくらぁ」
「おっさん、どういうことなのかそろそろ教えてくれないっすか?」
「おお、新入りは重連しないままだったな。そうさなあ、ケンブリッジからバークシャーまで走った日の事を覚えているか? ウォータートラフでびしょ濡れになっただろ」
忘れもしない。給水操作ミスで頭から水をかぶったのだ。まったくおっさんも人が悪い。初めて扱うのだからきちんと説明くらいはしてほしかったのに。……そうか、そういうことか。
「重連だと給水に支障が出るってことですね」
会議室が一瞬静まり返った。
「そうだ。とくにスワロー級は一回でほとんど吸い上げる。この重連は設備的に無理があるぞ」
急行用の機関車は、ウォータートラフと呼ばれる溝から走行中に給水をする。これは画期的なアイデアだ。機関車次位につながれた炭水車の車輪の間には、水をすくい上げる可動式の管が存在する。本線上に設けられた給水区間ではレールの間に水を蓄えてあり、ここで管を下げると、タンクに向けて水をすくい上げるという算段である。この利用は重連だと確かに難しい。
「じゃあ、機関車にタンク車でもつなげばいいんじゃない?」
「待て、プリムローズ。ミッドランドの看板列車が客車と貨車を一緒に引くというのは……」
乗務員たちは、スワロー・アークがタンク車を連結する姿を想像した。
「じゃあ客車を減らせって言うの?」
その言葉にアイルは躊躇する。スピードアップは至上命題だが、なにより注目度が欲しい。重連運転は確かにその足掛かりになるような気がするのだ。
「あのー、アッシャ、ミッドランド鉄道には蒸気機関車以外に動力車ってないの?」
リヒトは何気なくそう言った。会議室内の視線がすべてこちらに向けられたような気がした。
「そうね……、いくつかあったんじゃないかしら。わたしはよくわからないけれど」
「アルビオンで使えないかなと思って」
「それは、車両担当に聞くしかないわね」
ゲルマンのミュンヘンには、ベルリンとの間にガソリンエンジンを動力とした高速列車が走っていた。最高速度は蒸気機関車と遜色はない。どうやら「ないこともない」という。ひとまず、それを試してみることとなった。その日はとりあえずお開きという形になり、三日後までに各自が案を用意してくることになった。本来、それを伝達するための集まりだったらしい。
翌朝、アッシャたちに予告された通り、鉄道院からの発表がなされた。
辞令 特急「アルビオン」と特急「カージナル」の公式競争について
鉄道院は左記の内容を規定事項とする。
ミッドランド鉄道特急「アルビオン」と、カレドニア鉄道特急「カージナル」は、かねてよりダイヤグラムを大幅に無視し運行されていた。
九月一日零時をもって、改訂されるダイヤグラムを厳守することを命じる。
改訂以後の、両列車の所要時間は拮抗され、以前のような事故が懸念される。よって、どちらの列車がエディンバラに早着するかは非常に重要事項となるため、九月一日零時までにロンドン―エディンバラ間をより早く走った側が望んだダイヤグラムに以後設定される。
改訂までの二十日間、直通列車は事前宣告に限り、自社内でのダイヤの調整を認める。走行可能なダイヤグラムでない場合、走行は許可しない。
鉄道院総司令 アリス・オペル=マトリカリア
事前に聞いていた内容は九月一日以降の競争の禁止だったはずだ。しかし、これは全く違う。九月一日までは競争が禁止だが、それまでは好きにやれということだ。二人が退場したあとどのような協議がなされたかは知らないが、どうせやるならとウェッジウッドやカレドニア社長のスタニアー、それにヘルマンまでもが動いたのだろう。おそらく、鉄道院は折れた形でこの事例が出ているに違いない。少なくとも、萩峰吾郎がこのような粋な対応をするはずがない。
競争を喚起する事例に乗員たちが騒ぐも、列車は定刻通りに動き続けている。この日、アッシャとリヒトの乗務はアルテシアで、ヨークからだった。そこまではアルビオンで移動する。カージナルに客をもって行かれたままなので、ガラ空きのコンパートメントに座って行けることになった。この日のアルビオンは早速「新車」の試験的導入ということで、宣伝はせずとも乗務員たちは期待が隠せなかった。例の車両担当が大急ぎで用意してくれたという。
「今日の乗車率も、奮わないようね」
そんなアルビオンに比べ、カージナルは連日満席で、週末にはセント・パンクラスを十時十分に発車する増便も検討されているらしい。
「でも、今日のアルビオンが上手くいけば」
「ええ。カージナルなんかに負けな……から……それ……ない………………!」
「え、なんだって?」
ふいにアッシャの声が聞こえにくくなった。喧騒とした駅の天井に轟音が響いた。
アルビオンの入線だ。
「カージナル! なんかに! 負けないんだから!」
「そうだな! それより! これがアルビオンなのか!?」
「みたいね!」
近距離なのに、叫ぶほどの音量じゃないと聞こえない。
「なんて! ……こった」
確かに蒸気機関車ではない。アルビオンはリヒトの想像とは全く違う姿になっていた。
「プラン九十五、ですか?」
「試験的に作られた車両で、プラン九十五はコードネームだってよ」
アイルは車両担当から事前に操作方法やスペックを聞いていた。
「公算出力はスワロー・アークの二.五倍らしい。」
クロエに苦々しい表情姿を見せた。
「これ、本当に大丈夫なんでしょうか?」
「運転区の人たちはそう言っている。ドンカスターにも確認したが、走れるそうだ」
そうは言うが、アイルはこの列車を運転したくなかった。確認としてあれこれ聞いてくるクロエもおそらくは嫌なのだろうな、と感じられた。
「おはようアイル」
声をかけられてはっとした。早く準備をしなければ。
「無様ね。ミッドランドにこんなイエローなんて、正気を疑うわ」
流線型のディーゼル機関車は、グレーの地に明るいイエローが塗られていた。遠目からでも目立つが、チョコレート色のアルビオンの客車とはまったく吊り合わない。
「なぁアッシャ、おんなじのが後ろにも連結されていなかったか?」
「されていたわね。どういうことなの? ディーゼルだと機関車が二台なんて、情けないわ」
アイルは何も言えなかった。カレドニアに対する打開策はこんなもんじゃない。
定刻十時。プラン九十五が牽引するアルビオンは、発車時に蒸気機関車顔負けの大量の煤煙を駅中にまき散らした。物珍しそうにホームで眺めていた人たちが、まず先頭のディーゼルの煤にやられ、何が起きたかようやくわかった時に最後尾のディーゼルに真っ黒にされた。
二等車で外を眺めていたが、抗議が酷いんだろうなぁ、と他人事のように考える。
駅を出ると、ウォータールーまでタイミング良くカージナルと並走をする。しかし、車掌室からはカージナルがよく見えなかった。だが、あちら側の乗客は明らかに閉口している。二つの列車の間には黒い煤煙が撒き散らされていた。美しい塗装は見る影もなく汚れていった。
とどめに、プラン九十五が引く列車はとても揺れた。前後の機関車の足並みが揃っていないからなのか、細かな振動が途切れることがなかったのだ。
プラン九十五が引くアルビオンは、現在の記録よりも十五分ほど早くヨークに到着した。ヨークの駅員やここから乗る乗客は喜んでいたが、乗務員たちはまったく喜べなかった。
「ねえ、あのアルビオン勝てると思う?」
「おそらく、あの調子だと新記録を出すだろうな」
そう言うと、何故かアッシャは淋しそうな目をした。
「ミッドランドのオペレータたちはみんな、蒸気機関車の運転士としてのプライドをもっているのよ。あのディーゼル機関車がカージナルよりも早くエディンバラについた時、あの人たちはたぶん競争を放棄すると思うわ」
遠く、終着駅を見るアッシャ。リヒトは何も言えなかった。あんなことを言わなければ。ディーゼルの提案をしたこと、昨晩の自分が恨めしい。
発車の汽笛は、とても物悲く聞こえた。
ディーゼルの牽くアルビオンは、結果として四十分の短縮を果たした。
カージナルの持つ記録を十分以上短縮。暫定的に勝者となった。ディーゼルの結果を受けて、予定されていた二度目の戦略会議は延期となった。
とりあえず、それなりの結果を出している。もう暫らく様子を見てみようというのだ。
明朝、アッシャたちが乗務したアルテシアは定刻にエディンバラに到着する。
「何をしていて? アッシャ・プリムローズ」
列車回送の準備に入った二人の前に、濃い紅の服を着た少女が現れた。
「……はぁ」
その姿を見た途端、大きなため息をついた。会いたくない奴に会ったのだなと傍目にも分かる。背が高くスレンダーで、ブルネットの髪に眼鏡をかけている。アッシャほどではないにしろ、顔立ちは整っていた。カレドニアの制服を着ている。この娘も見習いか何かだろうか?
「あら、ちんちくりんにも男ができましたの?」
「はぁっ? な、何を勘違いしてるの? 見習いを指導しているだけよ」
「ふーん。すると、あなたがファイアフラッシュに傷をつけたダイヤを書いた人でして?」
からかうようにこっちを見る。その視線はとても冷ややかだった。
「……刻示士のリヒト・サーフィールド……です」
「特別急行カージナルの天才イケメンオペレータ、エーフィア・トンプソン様のもとでコンダクターをしております、カルティナ・ピリスですわ。以後、お見知りおきを」
恭しい礼をしてきた。何者なんだこいつは。
「きのうはさぞ、悔しかったでしょうに。カレドニア鉄道は」
「あんなチートまで使って勝って、さすがミッドランドね」
アッシャは苛立って慇懃無礼に言い放つ。
「ちょっと、二人とも」
「そうそう、そんなことをいいに来たんじゃなくてよ。プレゼントをあげようと思って」
「情けならいらないわ」
「情け? ミッドランドにかけるくらいならば、そこらの駄犬にでもあげた方が有意義ね。これを受け取りなさい、アッシャ・プリムローズ」
カルティナ・ピリスは封筒を取り出したのだった。
「……切符じゃない。何のつもり?」
「列車名をご覧になって?」
「五日後? ……深夜二十四時グラスゴー発? ロッソ・スプリンター……って、あんたたち速度試験するの!?」
ロッソ・スプリンターだって? まさかカレドニアが先手を取って来るとは。
スプリンターは、速度試験列車に付けられる愛称。ロッソはカレドニアが付けた名前だ。
「さすがにあんなのに負けたままにしておくわけにはいかない。エー様が提案した案ですわ」
このコンダクターはオペレータの追っかけでもしているのだろうか。
「テスタ・ロッサの性能がわかれば、ミッドランド鉄道は競争から手を引くでしょう?」
「そうね。何もできない機関車だってわかればわたし達は特にすることもなくなるもの」
「……ロッソ・スプリンターですが、興味があればお二人でどうぞ。その時はお客として扱ってあげましてよ」
そう言うと、カルティナは去っていった。
アッシャはわかっていた。現状ではミッドランドはカレドニアには勝てない。テスタ・ロッサが本気で走行をすれば、ディーゼル牽引のアルビオンは相手にならない。しかし、その日はずっと先だと思っていたのに!
「で……、このチケットどうするの?」
「決まってるわよ。そんなの……」
行くしかないじゃない。
リヒトからチケットをもぎ取った。
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