第5章
バァンッ!
二回目の破裂音、いや、まちがいなく銃声。しかもさっきよりも近い。機関車の方だ。
「……まさか」
リヒトの心中には一つの嫌な予感が生まれた。トンネルの出口、破裂音。そして、カレドニアから最速を奪取しようとするエースオペレータに届けられた新型機。
もしかしたら……。リヒトはいてもたっても居られなくなり、アッシャを追いかけていた。不安は増すばかり、通路を全速力で走り抜ける。客車を抜け、荷物車に駆け込む。万が一不審者がいても、一人や二人だったらお構いなしだ。アッシャが捕らえられる姿を一瞬想像したが、それを振り払って角を曲がった。郵便荷物車の先にあるドアは開け放されていた。その先にはウルトラマリンブルーの壁。炭水車の後ろ側になっている。
梯子が取り付けられており、ここを上ると炭水車の上に上がることができた。だが、列車は百マイル近くの速度で走っている。今、減速が始まった。待ってくれ、落ちたら死ぬ!
リヒトは梯子にしがみつく。振り落とされないようにとにかく必死だ。
しばらくすると減速は終わる。どうやら、まだきちんと運転されているようだった。思い過ごしか?
だが、炭水車に上がった時それは最悪の形で思い知らされることとなった。
「アイルさんっ!?」
アイルは運転室の床にぐったりと仰向けに倒れていた。その上半身を赤黒く染めて。
「アイルさん!!」
「リヒト、聞きなさい!」
アッシャの声がした。風を切る音がうるさいのに、なぜか非常によく聞こえる。彼女は音がした途端にコンパートメントをとび出して機関車に向かったはずだ。いったいどこにいる。そもそも、アイルを放っておいて……。
いや、いた。想定外の場所に座っている。
「アッシャ!? どうして運転席に」
「いいから、聞きなさい。非常事態よ。オペレータが走行中に狙撃。腹部から多量出血。至急措置が必要になるわ」
「狙撃って……」
走行中に撃たれた、ということなのか。いったい、誰が?
「聞きなさいと言っているでしょう? 今すぐ、ありったけのシーツをかき集めてきなさい。車掌には乗客へのごまかしを頼んで来て!」
「……わかった」
来た道を戻る。そして、車掌に……、撃たれているんだ、はやくしないとアイルさんが大変なことになる。リヒトは自分の真っ青な顔を張って、通路を走った。
マッケンジーと言う車掌は、はじめ、リヒトの言っていることを信じようとはしなかった。だが、あまりにも鬼気とした表情だったのか、何かが起きたんだと車掌も頷いた。
予備のシーツは十枚ほどあり、それらを抱えて通路を走る。何人かのまだ起きていた乗客たちは怪訝な顔をしていたが、構っていられる暇はなかった。
「遅い! さっさと応急処置を」
「わかった」
状況を車掌はわかっておらず、その場であたふたとしている。
「マッケンジー、聞いて」
「は、はいっ! って、プリムローズ!? なぜお前が」
「いいから、言うとおりにして! 負傷したオペレータを最優先で治療させるために、このまま運行します。ダーリントンでアイルを下ろし、治療を受けれるように手配しなさい」
「りょ、了解しましたぁっ」
マッケンジーが車内に行こうとする。
「……待て……、お前たち……」
「喋らないで。死にたいの?」
苦しそうに声を出すアイル。顔色が真っ青だ。
「……俺が撃たれたこと……を、院に言うな……!」
「……わかったわ。だから、喋らないで」
アッシャは頷く。
「どうすればいい、プリムローズ!」
「本社と鉄道院にこのことを連絡しないで頂戴。ごまかしは後でわたしがするから」
「おい、待てアッシャ。本当に連絡するなって」
リヒトはもがき苦しむアイルを見ていられなかったのだ。
「アイルさんがそう言ってるのよ。それに……」
アイルがそう言った理由を、分かっているようだ。
「……お……い、プリム……ローズ」
「アイルさん!?」
「……客が……乗ってるんだ……ダイヤ守れ……」
「喋らないで。もっと血が出るわよ」
できるだけ傷口を見ないようにして、胸部をシーツで縛っていく。巻いたそばから赤く染まっていき、何度も何度もぐるぐると巻く。少しは血が止まったか、アイルは意識を失った。
「一応応急処置は終わった」
「オーケー、わかったわ。それなら、手伝ってくれない?」
「ああ、何をすればいい? 運転のマニュアルでも探してくればいいか?」
「操作くらい分かってるわ。そうじゃなくてこの列車のダイヤを教えてくれないかしら。普段のアルテシアどおりであってる?」
「普段通りだ。二時四十分ダーリントン着。十二分停車」
二時四十分……。あと三十分以上もあるのか。本当にアイルは大丈夫なんだろうか。
「前方に列車はいるかしら?」
「ダーリントンまでの間に、ってことか?」
「ええ」
「いない。……この区間の速度限度はない。制動距離になったら俺が合図を出すから、おもいっきり出していけ!」
「リヒト、分かってるじゃない!」
アッシャは手元の円形ハンドルを時計周りに回した。グンッ、と列車が加速するのが分かる。
「百十マイルで走ったら何分に到着できるかわかる?」
「十五分から二十分の間には到着できる……と思う。無駄な減速がなければ」
「オーケー、任せて」
アッシャはてきぱきといくつかのレバーをいじると、丸いハンドルから手を離す。他のレバーに操作が切り替わったということだろうか。視線は列車の行き先といくつかのメーターとを目まぐるしく行き来する。速度はやっと百マイル。まだ加速は続いていた。
リヒトは何もできなかった。アイルを支えているため、その場から動くこともできない。自動給炭機を使って石炭を投げているらしく、釜の火を直接見ることもできない。何より、アッシャが機関車を運転している、その事実を未だに信じられずに目が離せなかったのだ。それに、リヒトはこんなにも夜の運転席が暗いとは思わなかった。今まで機関助手として乗務に入った時は常にランタンが運転室にぶら下げてあった。この機関車にはそれはないのだろうか……?
「暗く……ない?」
「ランタン消したもの。暗いわ」
なるほど、装備されていないのではなく、アッシャが消したらしい。
「見えるの?」
「夜の運転は信号さえ見えればいいのよ?」
「でも、標識とか」
「だから、聞いたでしょ? ダイヤを」
リヒトは速度計の数字が暗くて読み取れなかった。だが、どうやら針は振り切っているようだ。
「こんな無茶な運転、あなたが刻示士でなければやっていないわ」
「でも……」
「だから、安心して。アイルをきちんと見ていて……五秒後、ウォータートラフに突入するわ」
「え、ちょっと待って」
炭水車の管が動く。目測、時速百十マイルオーバー。通常では考えられない高速で給水に突入。数キロガロンの水が汲み上げられ、その飛沫がリヒトを襲った。
「どうしてこんなに早く到着しちゃったんですか!?」
「さあ、新型機ってすごいのね」
車掌相手にしらを切っている。ダーリントンに到着後、待ち構えた担架にアイルは運ばれていった。一刻も早く、そうリヒトは何度も念を推した。
アッシャは車掌にそれなりの言い訳をし、ここからエディンバラまでは他のオペレータに運転を依頼する。アイルは狙撃されたあとも、死力を尽くしてこの列車をダーリントンまで走らせた。そしてついに倒れこんだ、とアッシャは説明をした。車掌は口をつぐむ。
「……やっぱりアイルさんだったんですね。あんなすごい運転はじめてみましたから」
車掌はひとりごとのように言った。
リヒトもこれには驚くしかなかった。ダーリントン駅構内までは制限速度いっぱいの時速五十五マイル。プラットホームに灯りと担架が見えるやいなや、最初は徐々に、そして急ブレーキに入る。アルテシアは時間のロスがほぼゼロの減速で運転室を担架の脇へと横付けしたのだ。あんなにシビアなコントロールは見たことがない。
そこまでやったが、機器やボイラーへ兆弾の可能性のある機関車で運転続行をするわけにはいかない。予め替えのオペレータと機関車を用意し、数分で付け替えられた。念のためにスワローエンゼルは自社の検査工場であるドンカスターへと送られることになった。
リヒトはアッシャと二人で、列車の引き継ぎを可能な限り代わりのオペレータに伝達していた。
「おい、何の騒ぎだ?」
幸い、ほとんどの乗客は車掌の嘘に騙されてくれたが、疑り深い乗客が降りてきたようだった。
「お客様、えっとですね……、あなたは!!」
「堅苦しい挨拶は抜きだ。二十五分も早着なんて協定違反だが」
「フェリックス運転士が運転中に狙撃されたとの報告から」
「ちょっと、何バラしてんのよ!?」
「え、あの傷は撃たれたんですか!?」
あっさりと車掌が言った。代わりのオペレータもそれは聞いていない、と驚く。
「でも、さすがに報告しないと」
「ほう……。走行中に狙撃された、で?」
「一刻を争う状態だったため、ダーリントンまでダイヤを無視して運転した、とのことです」
車掌はちらり、とアッシャの方を見た。
「……なんであなたがここにいるのかしら」
「出張でアルテシアに乗って何が悪いのかね?」
白髪の目立つロマンスグレー。額には深い皺が何本も走っている。神経質そうなその表情は紛れも無くその人だった。
「……で、それを聞いてあんたはどうするつもりだ萩峰吾郎」
アッシャをかばうように、その副司令の前に出る。
「別に何も? 乗務員の健康管理の問題だからな」
「撃たれたのが健康管理ですって!? っていうか鉄道院がやったんじゃないでしょうね!?」
「小娘が。誰に向かってそんなことを」
「プリムローズさん、そろそろ」
車掌は割って入ろうとする。
「こんな真夜中にオペレータを走行中に狙撃なんて、ミッドランドの負けを望んでいる連中のしわざよ。でもね、カレドニアはそこまで堕ちちゃいないわ。それなら鉄道院が」
「アッシャ、君は本当にそう思ってるのか?」
できるだけ冷淡を装ってリヒトが制止する。この男の口車に乗ってはダメだ。
「乗客が乗っている列車のオペレータだもの……、さすがにありえないわ」
「そうだよな。だが、俺もあんたたちは信じられない。それだけは覚えておいてもらいたい」
「ガキめ。よくもそんな口が聞けたもんだな」
リヒトが萩峰を挑発する。
「アルビオンとカージナルの事故、あのダイヤを引いたのは」
「そうだ。確かに俺だ。だが、ダイヤを無視して走ってたのはオペレータだ。俺には関係ない」
萩峰の眉が引きつってきた。リヒトは自分が嫌な汗をかいていることに気がつく。焦るな。平静を装えばいい。
「それよりも、プリムローズ」
「なによ」
「それにこのガキもそうだが、どうして機関車のところにいた? お前たちは非番のはずだ」
……何故そこまで把握している? アッシャも見当違いのことを言われて、言葉が続かない。
「それは……」
「走行中、発砲音がした。非番とはいえ、俺とアッシャは車掌とその見習いだ。万が一を考えてオペレータの元に向かった。それのどこが悪い」
「いや……。途中から運転が変わったように思えてな。まさかとは思うが、お前たちが運転した、なんてことはないだろうな?」
「わたしたちはコンダクターよ。機関車に乗ること自体がまずありえないわ」
一つ一つの言葉が棘のように鋭い。
「免許の持たない者が運転をしたら、即刻解雇だ。そのことは知っているんだろうな?」
「当たり前よ」
「この事故については俺の方で報告する。即座に報告しなかったのは、ミッドランドの教育が腐っているからとも付け加えておこう」
「好きにすればいいわ。わたしは面倒な調査で本線を止めたくないからそう判断したまでよ」
「長期的に見て乗客を脅威にさらすことは考えなかったのか?」
「そこまで考えたらすべての人間は家から一歩も外に出ないことね」
萩峰相手に一歩も引かない応酬。ここまで攻撃的な姿は見られたものではない。
「萩峰副司令」
アッシャはやけに「副」を強調して言った。
「約束しなさい。この事故をきっかけに、競争の終わりを早めたりはしないわよね?」
「あり得ない。俺からすれば馬鹿どもの児戯だが、鉄道院が反感を買いかねんからな」
「それなら、報告くらいすればいいわ」
きっぱりと言い放った。萩峰はそれを聞くと、客車に戻っていった。
その後、運行は再開された。エディンバラまで、オペレータはおっかなびっくりだったに違いない。アッシャはコンパートメントに戻るとすぐに寝息を立てていた。たかだか二十分程度とはいえ、あれだけの運転をすれば疲れるだろう。そんなアッシャとは対極的に、リヒトは全く眠くなかったのだった。アッシャ・プリムローズとはいったい何者なのか、アッシャはもしかしたら本当のオペレータではないだろうか。運転がうまいのはこの目で見た。前々からコンダクターとしては変だとは思っていたのだ。
なにせ、小さい。アッシャはコンダクターに最低限必要な五フィート五インチの身長にはどう見ても足りていない。ヘルマンはアッシャは投炭をしたことがある、そう言っていた。だが、あれは普通のコンダクターがすることのない作業のはずである。リヒトがやったのは、あくまでも現場の勉強の一環である。今はコンダクターの仕事だが、ファイアマンはオペレータの仕事の見習いだ。彼女はいったい何者か。考えても答えが出る訳ではない。
「……ということで、弾丸は肺の上を貫通。出血多量ではありますが、命の危険はもうないとのことです」
神妙な面持ちのクロエが読み上げると、会議室のあちこち安堵のため息がする。
「フェリックスさんの無事もわかったところで、ミッドランドの勝利に向けての第二回戦略会議を開催したいと思います」
夜も明け、その日の夜にロンドンで戦略会議が開かれる運びとなった。
乗客には、新型機運行においてのトラブルと説明がなされていたが、エースオペレータであるアイルが狙撃されたというニュースは、乗務員の間ではすぐに伝わった。ミッドランドだけではなく、カレドニア鉄道の乗員たちもそのことを知り、詳細を手当たり次第ミッドランドの人間に問うてきた一日だった。
「提案なんだが」
会議の場に初めて姿を現した男の声。
ヨーゼフ・ゲント。運行管理部長という肩書を持っていたはずである。公式でアナウンスされて以来、この競争にいい顔はしていなかった。
「敗北を宣言する気はないだろうか。……あー、私が今日ここに来たのは、つまり、それを言いたかったからなんだ」
「……詳しく、お話願えないでしょうか?」
クロエが促す。もっとも、彼女も何事かと彼を凝視していた一人であるが。
「アイル・フェリックス運転士の狙撃事件の犯人はまだわかっていないが、おそらく競争でカレドニアが勝たないと損をするなんらかの人物である、と我々は予想した。ミッドランドが勝たないと困る人間もいるだろうが、そんな連中に大事なオペレータが下手をすれば殺される、なんてことがあってたまるか。役員会では競争をここで打ち切りたい、そう考えている」
副社長以下、数名の重役会議で決まったことならば……。これを言い訳にすれば負けも致し方ないな。みんなそう考えた。
アイルは病院に担ぎ込まれたが、アルテシアは無傷で走り抜けることができた。新型機スワロー・エンゼルの性能の高さはアッシャとリヒト、そしてあの場にいた乗客たちが知っている。今朝のエディンバラ発のアルビオンにはまだ戻ってきていないが、明日には復帰できるらしい。
「しかし、新型機の性能であれば、カージナルに勝つことも可能だと思われます」
珍しく、アッシャが敬語で反論する。
「では、誰かアイルの代わりに専任運転士として乗務を希望するものは居るか?」
運行管理部長が言う。皆目を反らした。
「ということだ。サーフィールド、言いたいことはわかるが」
「わたしがやるわ!」
「アッシャ! それ以上は」
慌ててリヒトが止めに入る。萩峰にこのことがバレてしまえば大変なことになるからだ。
「あの機関車はテスタ・ロッサよりも早く走れるわ。それにあわせてリヒトがダイヤを」
「ダメだといっている。いいか、プリムローズ。オペレータになるには免許が必要だ。それがないお前には、たとえ運転技術があってもアルビオンを任せるわけにはいかない」
「でも……」
「ミッドランドからお前を失いたくはない。いずれ正式に免許を取得してから志願してくれ」
ヨーゼフはアッシャのことを把握済みだった。場の勢いで彼女がオペレータをする! なんて言い出さないように止めに来ていたのだ。アッシャはその親心をわかってしまったのだろう。
「……すみません、退席します」
誰とも目を合わせずに部屋を出る。リヒトは、何故追わないのだと冷たい視線が辛かった。
「……アッシャ!」
会議室を出ると、アッシャは一直線に本社の社長室に向かったのだった。
「無理じゃな」
「どうして!?」
「正規の訓練は最短でも半年以上かかる。それをやってからであれば免許は交付されるが……、それさえもあと七ヶ月待たんとさせられんのお」
ウェッジウッドもどうやらアッシャが運転ができることくらいは知っていたようだ。
「社長、あと七ヶ月というのは……」
「サーフィールド、聞いていないのかの? 十八にならなければ正規の乗務員にはなれんのじゃ」
聞く耳持たず、ウェッジウッドは二人の前から去った。
アッシャは運転ができる。このことは思ったよりも結構な人数が知っていることらしい。
ウェッジウッドにつづいて、シグナレスのヘルマンの元を訪ねたがとりあってなどもらえなかった。二人は一度キングス・クロスに戻り、アイルに変わってスワロー・エンゼルのオペレータ志願はいないかを問うたが、もちろんそんな命知らずはいなかった。
「おい、もう諦めよう」
「どうしてよ」
「このまま競争を続けてたら死人が出るぞ!」
「わかってるわよ。でも」
アッシャは一歩も引かない。
「でも、何なんだ。アッシャがここまで勝ちにこだわるのは」
ここで負けるわけには行かなかった。リヒトとて負けたくはない。だが、アッシャを危ない目に合わせたくはないのだ。
「……。ちょっとついてきて」
車庫に向かう客車に飛び乗る。その姿は、ただの乗務中のコンダクターと人々には映る。その客車の中では、なかなかアッシャは口を開こうとはしなかった。
「……アルビオンの事故、覚えてる?」
長い溜息のあと、アッシャはそう言って話しだした。
「わたしとリヒトが初めて遭った日のことだけれど」
「もちろんだ」
「あの時、アルビオンはカージナルよりも速かったの。なのに、カージナルが無茶をしてきた。だからあんなことになったのよ」
あの嫌な記憶。元になるダイヤを引いた責任はいつまでもリヒトについてまわるのだ。
「アルビオンは世界一の列車なのに、あんなことになっちゃって……」
「……で、世界一であり続けるために?」
「そうよ。……こんな理由じゃ駄目?」
ふてくされて頬を膨らませるアッシャは、確かに成人には程遠い少女の顔をしていた。
「本当の理由、教えてくれないか?」
一体誰のために。それが気になったのだ。
「……あのね、ミッドランド鉄道が吸収されちゃうかもしれないの」
「は?」
「遠くない将来、カレドニアがミッドランドを吸収合併するんだって噂があるの。知らない?」
そう言い出すと止まらなかった。戦後多くの負債を抱えながらも膨れ上がった二社は多くの無駄を持っているために、合併しなければやっていけない。どのような形であれ、合併の際に優劣がついてしまう。会社としての規模はカレドニア鉄道の方が大きく、未だに合併がされていないのはウェッジウッドがミッドランドの社長であるから、という。元鉄道院総司令の名はいまだ健在だ。
「それは、あくまでも噂なんだろ?」
「ええ、でもこの噂は鉄道院から広まったものよ。競争は合併に影響しているはず」
「デマじゃないのか?」
そうだ、とも違う、とも言えない表情。
「話は変わるんだけれど、アルビオンの事故って偶然なのかしら」
「あれは」
リヒトのせいだ、とアッシャが言いたいわけではなさそうだ。
「わたしは、あのアルビオンが仕組まれたんだと思う。じゃなきゃ、新米のあなたなんかにダイヤを引かせるわけないもの」
「俺なんかに……ね」
「あの日、カージナルは数分ロンドンを早発したわ。あれだけ早く出発したのはあとにも先にもあの日だけだったの」
早く出ても遅く出ても、度が過ぎれば事故が起きてしまう。五月までの両者のスピードレースは数分の範疇を飛び出ることはなかったのだ。
「それに、あの日は荷物車が最後尾に連結されていたわ」
「そういえばそうだったな」
「そこに乗ってたのはわたしとリヒトだけよ。接触事故の被害を被ったのもあの車両だけ」
そして、カージナルの機関車だ。双方ともに一瞬の接触だったために怪我人もない。
「示し合わせて接触事故が起きていたらどう思う? 新任にダイヤを引かせて、ダイヤを守らない二列車が合流地点で軽い接触事故。そうすればこの競争になるでしょ?」
「しかし、示し合わせであんなこと……」
「アイル・フェリックスとエーフィア・トンプソンは十年来の親友よ。それに、ふたりとも数フィート単位での機関車の扱いができるわ」
「じゃ、じゃあ本当に……?」
そうだ、とは認めることはできなかった。
翌朝、リヒトとアッシャはヘルマンに呼び出された。
「アルビオンを降りろ、……ですか?」
「そうだ。お前たちはこのひと月、既に労働基準時間を大幅に越えて乗務してもらっている」
「先生、そんな人いっぱい居るわ」
「そうですよ司令。アイルさんだって」
「そんなことをしていたから奴はあんなことになったんだ!」
一喝、気まずい空気が漂う。
「それに……だな」
ヘルマンは少し間をとってから言う。
「お前たちがアルビオンに乗っていると列車をハイジャックしかねない」
「どういうことよ」
「今のミッドランドには無茶をしても勝とうとするオペレータは誰も居ない。アッシャが運転を奪わんとも限らんだろうが」
「ですが」
「これは命令だ。少なくとも今月中のアルビオン、アルテシアのコンダクターにお前たちは入れない」
「信号所からの命令ではないですよね。誰ですか? 運行管理部長ですか?」
「……リヒト?」
「本来であれば、二十九日と三十一日のアルビオンは我々の乗務です。余裕のない現在、無理やり誰がコンダクターをするんですか? それに、司令からこの命令が来るのはおかしいです。誰ですか? この指示は」
「萩峰吾郎鉄道院副司令だ。お前たちが何をいってもかなう相手ではない」
おそらく萩峰もアッシャが運転できることは知っているのだ。先手を打ったのだろう。
「そして、スワロー・エンゼルは運行中にオペレータが負傷したものだ。今一度、きちんとした検査を受けさせることになった。だからアルビオンはいままでの機関車で運行される」
「ちょっと待ってよ、そんなことをされたら」
「アルビオンは時速百マイルで走る列車だ。その際中にボイラー破裂でもしてみろ。今度こそ怪我じゃすまないんだ!」
「……スワロー・エンゼルはいつ戻ってくるのかしら」
「今月中には無理だ。……おそらくはな」
「エドガーに言ってよ。間に合わせて、って」
「俺だってグレズリーには言った。だがな、ムリなものはムリだ」
「とりあえずどうするつもりだ?」
「機関車なし、オペレータなしって状況よ。明後日の朝九時半までにどちらも揃えないと始まらないわ」
やみくもに動いても意味は無い。だから、作戦をたてるために二人は食堂に入った。
腹が減っては戦ができぬ。
空腹を抑えようとナポリタン・スパゲッティを注文したが、これが異常な量だった。
「これが普通盛り!? 特盛りに大盛りを追加したような量じゃない!」
「……見ただけで胸焼けがする」
アルビオンの食堂車や寮での食事ではあまり感じないが、ブリタニアの食事は美味しくない。どうしてここまで裕福で平和な国なのに飯がこんなにまずいのか、リヒトはいつも思う。ゲルマンはあまり土地が肥沃ではないため、おもに黒いパンやライ麦が主食になるが、工夫して美味しいものを食べていたのに、ただのトマト味の麺なのに普通ここまで不味くできるだろうか。しかもすごい大盛りである。せめてもの救いなのは、これがたったの二ポンドであるということだ。こんなにも不味いものをポーカーフェイスで完食できるようになって初めてジョンブルと呼ばれるようになるかもしれないが、別にそう呼ばれても嬉しくもなんともない。
アッシャは美味しそうに完食すると、鞄から一冊帳簿を取り出した。
「って、まだ食べてるの? それでもコンダクターなの? いらないならもらうわよ」
そう言うとリヒトから皿を奪っていった。アッシャの味覚が心配になる。
「それ、ミッドランドを出たオペレータ一覧よ。まだオペレータの資格が残っている人を片っ端からあたってみて。だれでもいいわ」
「俺が?」
「ええ。わたしは機関車を探すから」
機関車って個人が探せるものか? そう思いながらも頷く。
「オッケーね。じゃあ、二十一時にここで」
一日かけずり回り、再び食堂に戻ったのは約束を十五分も過ぎてからだった。
「収穫は?」
「……すまん。まだ一人も」
「ハァ!? 何をやっていたのよ!」
ダンッ、とアッシャがテーブルに拳を下ろす。あきらかにイライラしている。この様子だと、アッシャの方も上手くいっていなさそうだ。
「朝から百件以上電話したし、行ける所は直接行った。けど、全部ミッドランドからなのか鉄道院からなのか、禁止令が出てる」
「……そっちもなのね」
「そっちも、ってアッシャもなのか」
プリムローズとサーフィールドには協力するな。そんな声がどこからか回っているらしい。
「機関車も無理、代わりのオペレータも無理なんじゃ、三十一日のアルビオンは絶望的ね」
「信号所の準備はできている。カージナルのダイヤがどうなのかは俺もよく知らないけど」
「これ、明後日のアルビオンのダイヤ。これまでで最速の予定」
何人かの退役オペレータ達を尋ねる途中、信号所に立ち寄ったリヒトはヘルマンからの言伝としてこのメモを受け取っていた。ヘルマンだけは最後まで中立の立場でいてくれた。だが、機関車もオペレータもヘルマンにはどうにもできない。
「五時間五分……ね」
「さすがに最後の日くらいは他の列車を退避させてくれるようだけれど、アッシャからみてこれって可能?」
「無理じゃないと思うけれど、スワロー・エンゼルと同等の機関車じゃないと無理だと思うわ。テスタ・ロッサなら……、ギリギリ可能なラインでしょうね」
はじめてカレドニアの機関車の評価をまともに聴いたように思えた。
「ミッドランドはおそらくスワロー・エンゼルを出す気はない、司令もそう言っていた」
「新型の高速機でなければ乗務していいって人はいっぱいいると思うわ」
「プラン九十五はどうなんだ? 癪だけれどあいつは結構早いぞ」
「無理ね。百マイル以上で連続走行できるとは思えない。」
悩んでいても仕方がない。まだ明日がある、とリヒトはアッシャに向けてなのか、自分に言い聞かせたのか、そう言ってから食堂をあとにした。
コミュータに乗り、鉄道院に向かう。前に一度来たきりであり、普通ならば用事のない場所だ。一瞬入ることをためらったが、アッシャのことを思うと歩みを止める訳にはいかない。
「どちらさまでしょうか」
「信号所の、ヘルマン・アイヴァットの使いで来ました。リヒト・サーフィールドです」
「アイヴァットに用でしたら、本日はずっとシグナレスにいるはずですが……」
「いえ、司令に用事ではなく、萩峰副司令に用事がありまして」
「そのような話は伺っておりませんが……」
「ええ、司令の方から内密に、会えば分かると聞いていまして」
もちろんそんな約束などない。
「俺がなんだって? サーフィールド」
するはずのない声がする。
「アイヴァットさん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
受付嬢は眉根をピクリとも動かさずにヘルマンに声をかける。
「そうでしたか。では、この人は何ですか?」
「呼ばれたというのはこいつからでな。な? リヒトくん?」
明らかに笑っていない。額に寄っている皺はまとまって一本に見えた。
「では、俺はこいつと部屋にいるんでな」
「あ、待ってくださいアイヴァットさん。入所許可を」
ヘルマンは書類にサインを入れる。リヒトは自分で書こうとしていたが、ヘルマンはそれを許さない。書かれたくない名を書かれる。ヘルマンのお墨付きとなり、機械的に入館許可バッジを渡された。受付嬢は、書類の名前を見ると二度ほどリヒトの顔と見比べて、黙ってしまう。
「では、行こうかリヒトくん」
強制連行というのは、こういうことを言うのだろうか。
「で、わざわざ院の本局まで何をしに来たんだサーフィールド」
信号所司令とプレートに書かれた居室は意外にも広く、シグナレスにあるそれよりも司令の部屋にふさわしい雰囲気だった。計算機と下書きのダイヤグラムの紙で埋まった信号所に比べ、ここでは本局の会議で使われる書類が整理整頓されて並べられている。
「オペレータが居ない? 山のようにいるだろう」
「ですが、アルビオンのオペレータが居ないんです!」
「アルビオン? フェリックスでなくとも、ニールとかウェンとかバルディックとかいるだろう」
「彼らがオーケーしていればここまで来ませんよ」
「だが、現に今日のアルビオンはウェンがロンドン発、バルディックがエディンバラ発を運転している」
「それは、スワロー・アーク型が牽引だからです」
ニール、ウェンそしてバルディック。アイルばかりでなく彼らもアルビオンなど特急専任のオペレータである。アイルの穴を埋めるように連日連夜長距離を運転している。リヒトは彼らをよくは知らなかったが、アイルに勝るとも劣らない腕をもつオペレータなのだ。
だから、真っ先に彼らにスワロー・エンゼル牽引のアルビオンの乗務を頼みに行った。先の会議では了承を得ることはできなくとも、直談判であればだれかが乗ってくれると思った。しかし、現実は非情だった。アイルの狙撃というニュースは彼ら屈強なオペレータ達を委縮させるには十分だったのだ。我先にとアルビオンの乗務、アルテシアの乗務から手を引こうとしたのだった。懸命に頭を下げると彼らは『スワロー・エンゼル牽引でなければいい』という。怪我をしたくないが故に彼らはカレドニアとの競争には関わりたくない、とのことである。
「スワロー・エンゼルじゃなきゃ駄目というわけか」
「いえ、スワロー・エンゼルに準ずる性能を有する機関車であれば何でもいいんですが」
「ミッドランドにはスワロー・エンゼルしかないということだな」
「そうなんです。だから今アッシャが探しに行っているんですが……」
そんな機関車はないだろう。リヒトはそう思っているのだ。
「なるほど、ミッドランドの事情はわかったが、ここにきてもオペレータも機関車もないぞ」
「ええ、でも権力ならある」
「……関心しねえな」
「もう明日のアルビオンしかないんです。そんなことを言っている場合ではないんです」
「……俺は何をすればいい」
重い腰を上げて、ヘルマンは言った。
「失礼するぞ」
「ああ……、おい。何しに来たアイヴァット」
「俺の用じゃあねえ。頼まれてこいつを連れて来た。入れ」
「誰だ……何だお前か。帰れ」
要件を聞くまでもなく、顔を見ただけでそう言われる。これは予想の範疇だった。
「萩峰吾郎鉄道院副司令、折入ってお願いがあります。聞いてはいただけないでしょうか!」
間伐入れずにとりあえず頭を下げる。これで折れては意味がない。
「リヒトがこれだけ頭を下げているんだ。聞いてやってはくれんか」
「それは……、シグナレス司令としての頼みか?」
「そうだが、むしろこいつを見て来た刻示士としての頼みといったほうがいいか」
萩峰は、少しだけ考えて言った。
「五分、それで説得できるならやってみろ」
鋭い眼光がリヒトをあざ笑うがごとく、こちらを向いていた。〆たものだ。リヒトはミッドランドの不運さを大袈裟に力説した。冷血無慈悲、人を蹴落としてのし上がってきたこの男にどれほど通用するか知らないが、だとしてもこの牙城を崩すことに全力を注いだ。
「……ということなので、どうか、よろしくお願いします!」
深く深く頭を下げた。だが、これでいいのか。リヒトはその疑念を払拭しきれていなかった。
「……顔を上げろ。坊主、お前は俺に何を頼みたいんだ。それすらもまともに言えないのか?」
嫌味な声。すべてを見透かしているような萩峰の言い方にリヒトは気がつかされた。
「機関車かオペレータが欲しいのか。そういうことととらえていいのか?」
「明朝十時発、エディンバラ行きに間にあうのであれば、そのようにしていただけると」
「できる訳ねえだろうが。馬鹿」
脳天からぶんなぐられたような気がした。やはりこうかとヘルマンも肩を落とす。
「だいたいミッドランドには機関車もオペレータもあるだろうが。何が間にあうように、だ。現在のミッドランドとカレドニアに条件上での不公平はないはずだ」
「ですが、オペレータが狙撃されたこともあり」
「狙撃されるリスクをわかって乗務に入るオペレータはどこの会社にもいない。お前の言ったようによそからバーターすることはできても、誰もそんな条件に応じるわけがない」
「人が撃たれているんですよ? これはどうとも思わないんですか?」
「表沙汰にはしないでくれ、これはミッドランドの総意じゃないか。警察に届け出れば今よりも安全運行ができたはずだ」
アイルの事件は届け出なかった。今後の運行差し止めを恐れ、アッシャがそう言った。そして、それが許された。
「……萩峰副司令、オペレータの免許を発行してくれませんか?」
「お前が運転するというのか? 機関助手もまともにできないくせに」
「アッシャに、アッシャ・プリムローズがオペレータであることを許可してはいただけないでしょうか? 副司令であれば、それは可能なはずです。その権限を……」
「あの小娘が運転だと? そんなことを許せるものか。だいたい年が満たないじゃないか」
「ですが……」
「くどい。この俺にそこまで言えるお前は何様だ? え? 何様なんだお前は」
これが最後のチャンスだ。ここで幻滅されては先が無い。なんと答えればいい? 刻示士か? コンダクターか? それとも……。
「俺は……刻示士……です」
「いっぱしの刻示士風情がそこまで言うか。帰れ」
逃げるように鉄道院を出る。ヘルマンからも逃げるように、ロンドン運転区に戻ってきた。
「サーフィールドか。さっきからおっさんが待ってるぞ」
「あぁ、そうでしたね……」
そういえば約束をしていたのだった。時刻は過ぎている。減俸当然の遅刻である。
「遅い!」
「……すみません」
深く頭をさげる。その様子がいつもよりもずっとしおらしく、ゴドレットは不思議に思った。
「それより、俺に用たぁ何だ? 九月からまた石炭投げたいか?」
おっさんはリヒトの顔を見ると浮かない顔しやがって、と大きな口を開けて笑い出した。
「えっと、ですね、おっさんに……、ゴドレッドさんに明日のアルビオンのオペレータになってほしいんです」
「ほぅ……」
リヒトは、萩峰に言われたことも総括して思いのたけをぶちまけた。ミッドランドが不遇なこと、アイルが撃たれたときのアルテシアのこと、アッシャがアルビオンの中で語ったこと、恐れおののいているオペレータたち、機関車もオペレータも自分たちに回してもらえないこと、アッシャがあの時運転席で運転したこと、そして、アッシャがすごい技術を持つオペレータであるということ。話し始めれば堰を切ったようにこれまでの出来事が出るわ出るわ、どうすればいいかわからず、頼れるオペレータがおっさんしか思いつかなくなったということ。
「俺がやるのは構わんぞ」
「……へ!?」
長考するまでもなく快諾した。
「事前に危なそうな箇所に、見はりや警察を張らせておけば狙撃の心配はねぇだろうしな」
アイルの狙撃事件は、公式にはなかったことになっている。しかし、もう二度と同じ手は食わないようにしろというのだ、
「だが、坊主は本当にそれでいいのか?」
「え?」
「お前の話じゃあ、プリムローズも動いているんだろ? 新しい機関車探しで」
「え、あ、はい」
「それは俺が乗るための機関車じゃねえよな?」
それは、どういうことだろう。
「お前たちはプリムローズがオペレータとして乗る機関車を探している。そうじゃねえのか?」
「確かに、アッシャをオペレータにできないかとやってみましたが……」
そもそも十八にならなければその資格は得られない。アッシャには縁遠い話しである。
「やってみましたが、じゃない。お前はプリムローズがいい。そう思って動いていたんじゃねえのか? だから、面倒でも、プリムローズに味方してた。俺あそう思ってたんだが」
「……よく、分からないんですが」
「簡単なことだ。あの娘の運転する姿を一度見たら、もっと見たくなる。俺がそうだった」
おっさんの言葉はよくわかっていた。アッシャの運転はアイルやエーフィアのそれとは根本的に質が違う。一度だけだが、それをものの間近でみて分かったのだ。ミッドランドが勝つのは、彼女が列車を運転すれば容易いだろう。さまざまなものがそれを阻んでいる現状をまだ理性的に受け入れてしまっているだけなのだ。
「単純だ。答えはもう出ているだろうが。 何が一番大事なのか。それもわからねえようなタマじゃねえ」
「でも俺は」
「あいにく、俺のようなオペレータではお前の望みは半分しか実現してやれねえな。ミッドランドが勝つ。それだけだ」
ミッドランドが勝つ。アッシャは喜ぶだろう。アイルも喜ぶし、リヒトだって嬉しい。
「だけどな、お前が安いプライドを捨てたら、お前の望みが全部実現するんじゃねえか?」
「おっさん?」
「……悪ぃが、お前の正体ははじめから分かっていた。ただの刻示士じゃない。だから俺の教えられることはほとんど教えたはずだ」
ヘルマンはわかっていたが、おっさんも知っていたようだった。それをわかってて知らんぷりしていたのはゴドレッドの親心としか思えない。
「でも、ただの刻示士ってのと」
「刻示士は世間的にはエリートだ。努力してつかみ取ったもんだからな。だからそれを妬むのはお門違いってもんだ」
世間ではエリートの称号がついてまわる刻示士は、ひとりで五年間必死に努力して得た勲章のようなものだ。しかし、努力や金銭でどうにもならないものもある。
「ですが、俺は生まれが違うわけで……」
「生まれながらに持っている者は妬まれるさ。自分じゃどうにもならんものだっていっぱいある。それを利用しろ、と言ってんだよ」
利用すれば、これまで築いてきたものが一瞬で崩れるかもしれない。
リヒトは考える。言われながら考える。
結局、ミッドランドが勝ってほしいかなんてことは、リヒトにすればどうでもいいことだ。ミッドランドに籍を置いているが、別にカレドニアが勝ったところで残念以上の感想はない。だが、それを死ぬほど悔しがる少女を一人知っている。そう、アッシャ・プリムローズだ。アッシャは悔しがるだろう。その姿をリヒトは見たくない。だから、おっさんに頼みに来たのだ。
おっさんは運転を引きうけてもいいと言った。それでは望みの半分はかなえられない。
アッシャの望みはなんだ。
今頃アッシャは、あちこち駆けずり回って機関車を探しているのだろうか。萩峰はおそらく既存の機関車すべてを貸さないように命令を出しているはずで、アッシャは確実に奴にマークされている。それでも、アッシャは一人だけでも戦っている。恐怖を振り払って、前に進んでいる。あの小さな身体に、鉄道員としての誇りをたっぷりと詰め込んで。
恐怖を振り払え。立ち上がり、闘え。リヒトの勝手な望みはなんだ。
「……アッシャが自ら勝利をつかむこと」
「それが坊主の望みか」
「そうです!」
「であれば、最大限使えるものを振り回せるな」
「……はい」
「明日は非番だ。いざとなれば代わりに入ってやろう。だから坊主、やれるだけやってみろ」
おっさんに頭を下げると、リヒトは元来た道を走って行った。
ドンカスターの帰りにカレドニア鉄道のクルー工場、グランドウェスタン鉄道のスウィンドン工場にも寄ったが機関車を借りることはできなかった。どいつもこいつも腰ぬけだ。単にオペレータ免許をもっていないというだけで門前払い。ヘルマン・アイヴァットの名もガイア・ウェッジウッドの名も、ベルクシュプール技師長エドガー・グレズリーの名も彼らには通用しない。それは当然なのだ。彼らから貸出委託の書類の一つでももらっていれば可能性があっただろうが、そんなものは持っていない。貸すほうが常識を疑われる。
ロンドンに戻ったらもう日は沈んでいて、リヒトとの待ち合わせには二分ほど遅れてしまった。
「……もう帰っちゃったなんてことはないわよね」
落ちあうのはキングス・クロス駅の改札前だった。駅員に尋ねたが、まだ来ていないらしい。
「誰かオペレータは見つかったのかしら」
詰所に行って、明日三十一日のアルビオンの担当を見ると、オペレータはバルディックになっている。リヒトが説得してこうなったのかもともとなのか、アッシャはわからなかった。
「もう、どこにいるのかしら。本当に間に合わなくなるのに!」
やるせなさはため息となって外に出る。
「でも……あれ、書き置きね」
目に入ったのは、掲示板にチョークで殴り書きされた見覚えのある字。リヒトのものだ。
「遅くなる。先に休んでいてほしい……?」
どういうことなのあいつは。オペレータが見つかったのか、見つからなかったのかそれをどうにかして聞き出さないことには休むに休めない。アッシャは別の駅員を捕まえると、リヒトがどこにいったかを問い詰める。ベルクシュプールに行ったと言う。
「ベルクシュプール……リヒトが何しに行ったのかしら」
操業時間はもう終了している。仮に正門に行ったところでアッシャは入れない。リヒトは操業時間内に行ったのだろう。連絡が取れればあとから入れてもらえることもできるかもしれないが、なにしろだだっ広いベルクシュプールで落ちあうことは容易ではない。
まさか、リヒトもあの機関車を?
無理だ。リヒトじゃあの機関車にはたどり着けない!
「こうなったら……、わたし一人で行くしかないのかしら」
掲示板に「そちらこそ先に休んで」と上書きすると、安宿に向かった。
二十二時。二時間近くリヒトを待ちはしたが、結局姿を現さなかった。あそこにたどり着くには、まともな覚悟では不可能だ。黒いシャツに黒いズボン。長い髪は黒い帽子で上手い具合に束ねることができた。今から闇に紛れるのだ。けれども、さすがに顔を煤で黒くするのには躊躇があった。結局深く帽子をかぶることによって見えにくくするところを妥協点にした。
すぐに戻る素振りを見せて宿を出る。ロンドンという街は眠ることを知らない。二十二時半では列車の本数が減ったといっても五分も待てばコミューターは来るのである。
キングス・クロスからピカデリーを経て、ロンドン塔最寄の地下駅に到着した。三十分もかからない。駅員の目を盗んで、ホームの端から線路に降りる。普通であれば立ち入り禁止で、そもそもそんなところには誰も入らない。そう皆が思っている盲点だった。
アッシャは周囲に注意して、目的地へと歩き出した。
古いトンネルにはライトというものが存在せず、四十マイル程度の速度で走る地下鉄(チューブ)にとって前照燈(ヘッドライト)だけが光源である。それに見つからないように壁にそって歩けば、チューブのオペレータに見つからない。乗客に見られることはあっても、何かの勘違いと思ってくれるだろう。テムズ川をくぐると、別の路線と線路が隣同士になる区間がある。そこから『外運河線』に乗り変えとなり、目的の扉に向けて足取りも軽くなっていた。バレてはいけないから、口笛の一つも吹けないが。
「ここね」
目の前には、作業員退避用よりも一回り小さい空間。そこには小柄のアッシャもかがまないと通れそうにない扉があり、そこの取っ手には南京錠がかけられている。取っ手をがちゃがちゃと引っ張ってみると、鍵は南京錠だけのようだ。
「もうすぐ来る……か」
遠くからトンネル内に響く轟音。その音の大きくなる感じではせいぜい時速三十マイルがいいところだろう。そんなに遅いのに、音は耳を押さえたくなるくらいにやかましい。
列車が通過する。光の束がアッシャを後ろから照らし出す。
轟音に紛れ、光が途切れるその〇.一秒に合わせ、
引き金を引いた。
小さな扉の先には数十ヤードにわたる横穴が続いており、そこを抜けると天井の高さが六フィートくらいまでの地下通路に合流した。幅は三フィート。大人がすれ違えるくらいには大きい。ここの大きな地下通路にも灯りはなく、誰かのいる気配もない。記憶をたどり、どこに行けばいいのかを思い出す。
地上までの梯子は百フィート近くあった。途中でここはいつもの穴とは違うことに気がつく。
上がっても上がっても工場の灯りが入ってこない。マンホールを変えたということがあるかも知れないが、穴の形までは変わらなかった。だが、この時間には誰もいないだろう。
そう思って、上り切るとマンホールを押し上げた。二時間近く地下をさ迷っていたので夜風が妙に心地よい。天を仰げばぽつりぽつりと星が見える。明日は新月のようだ。そういえばここ数カ月まともに星なんて眺めてこなかったなと思う。大きく深呼吸し、あたりを見回す。
「……え?」
「…………あんた、誰だ?」
一番面倒な所に出てしまったようだ。瞬間、ホルスターに手が伸びる。
ベルクシュプールでは、本線で使われる大型機を製造している。
そして、もうひとつ意外な一面をもっている。軍用の列車を作っているのだ。
終戦と同時に発布された航空機禁止条例をかいくぐって国を守るために軍は装甲列車の開発と試験に余念がなかった。軍事機密としてその姿すら誰も知らず、ベルクシュプール内でも軍事車両部門だけは入るのが非常に面倒な場所にある。そこに入るのを許されるのは鉄道院の幹部クラス以上と噂されているが、その真実はどうなのか、わからない。
「やめてよ! 撃たないでよ!」
「そっちが先に撃った!」
警備員なのか軍人なのか、迷彩服を着た男が発砲しながら追いかけて来る。相手も手加減をしているのだろうが、それでもアッシャが逃げおおせるほどの加減ではない。
「おい、動くな。ゆっくりと手を挙げて投降すれば死なないようにはしてやる」
アッシャは壁際に追い詰められた。男に背を向け、ゆっくりと両手を挙げる。
「ばかに正直だな。それでいいんだ」
背中に銃口がつきつけられるのがわかる。持っている拳銃をもぎ取られる。
「武器は他に持ってないのか?」
今だ!
アッシャは転ぶように身体を重力に預ける。そして左手の着地で受け止める。肘のクッションで全身を支え、壁をける反動で、その大柄な男に体当たりする。一瞬の出来事で、何が起きたかを理解したその時、再びの今度は頭部への鋭い蹴りが気絶する前の最後の景色だった。
拳銃を奪い返す。マンホールからだいぶ離れてしまった。いったいここはどこなんだろう。
ところどころのガス灯がぼんやりと明るい。それをたどっていけばマンホールはみつかるだろう。当分はこの男も起き上がるまい。ポケットから補充用の弾丸を取り出し、補填していく。
直後、サイレンがけたたましく鳴り渡った。『侵入者! 侵入者!』どこかで誰かがそう叫んでいる。あの男、救援信号を出して居やがった!
走る。走る。マンホールがどこにあったかは分からないが、方角だけはなんとなくで走る。逃げなくちゃ。おそらく、人がたくさん集まっているだろう。拳銃を握る手に力が入る。
「そこまでだ!」
声は斜め上から降ってきた。大きなサーチライトがアッシャを闇から切り取った。
「何よ!」
「お前は完全に包囲されている。大人しく投降しろ。これは最終警告でもある」
声の主はサーチライトの所に一人。ライト操作が一人。前方に一人に後方に一人。そして、右側からも誰かが来る。銃で二人まで仕留められたとしても、どうしても誰かに背中を見せてしまう、そういうことだ。完全に囲まれた。嘘じゃない。どう逃げよう。暗闇に逃げ込まない限り、アッシャはどこかから撃たれてしまう。投降するか? ここまできて? 目と鼻の先、ベルクシュプールで新型機関車が待っているというのに?
まずはあのサーチライトだ。あれを撃てば一瞬だが連中の視界を遮れる。そこを逃げるしかない。撃った瞬間に動かないと、背中を見せているため撃たれてしまう。
タイミングにかけるしかなくなった。だが、どのタイミングだ。逃げられるのか?
アッシャの注意は周囲を目まぐるしく動き回る。いつだ。今か。まだか。
ライトの脇で何かを言っている。どうせ何もしなければ撃たないとか言っているに違いない。どこかで発砲音がしたような気がする。
覚悟を決め、銃を握る右手を挙げる。だが、なぜだろう。怖くてなかなか上がらない。それでも、ミッドランドのために、そう、ミッドランドの……。
更に銃声。今度は近かった。皆、その音の方向に注意が行く。その隙に逃げればよかったが、唖然としてとても動けたものではなかった。
「よかった、ここにいたんだな」
聞き覚えのあるこの声。何故、その声が、いまここでするんだ?
「ごめんごめん、オペレータ探しに手間取っちゃってさ。それよりも何でこんな所に居るんだ?」
声の主はゆっくりとアッシャのところまでやってきた。サーチライトからこちらを狙う銃とアッシャの弾道上に、かばうようにして立つ。
「リヒト、どうしてここに」
小さな声でアッシャは言う
「細かいことは後だ。俺も後ろから追われてる」
「追われてる、ってどうしてそうなるの」
「正門から入った直後にお前が追われてることが分かった。で、駈けつけようとしたら怪しまれたんでつい撃ってしまって」
あの発砲音はリヒトのものだったのだ。
「ハァ? 何してるのよ」
さらに上から煩く言っている。自分を無視して二人で話し出したのが気に食わないのだろう。
「とにかく逃げよう」
「そうね」
一人なら八方ふさがりでも、二人なら突破できる。
「前か後ろの奴を狙ってくれる? あとは走って。わたしが手を引くから」
「手を引いてもらうなんて気が進まないな」
せーの、とアッシャが囁く。瞬間、視界から光が無くなる。アッシャがサーチライトを、リヒトは後ろから狙う男を撃った。銃を弾き飛ばされた男のうめき声がする。がしっ、と腕を掴まれ引かれる。なすがままにされ、右腕を押さえる男の脇を走りぬける。下手をすれば指の骨折くらいはしているかもしれないが、知ったことか。
「おい、アッシャこれはどういうことなんだ!」
「いいから、走って!」
ジェットコースターのように向きを変えながらアッシャはリヒトを引っ張っていく。だが、その手を引く姿は闇の中で全く見えない。右手に建物があるらしく、そこを曲がるとガス灯のある通りに出た。石畳の回廊、まだここには誰も来ていないようだ。
「あそこから逃げるわ」
アッシャの指さす先にあったのは、マンホールだった。
「あそこ、ってマンホールじゃないか!」
「あの先には地下道が」
「いたぞ!」「逃がすな!」
どうやらもう見つかったらしい。
「離さないでね?」
ぎゅっ、と手のひらを握って来る。あそこに逃げ込むまで、何かをやらかす気か。
「わかった」
リヒトはその言葉を信じ、そう言った。
アッシャは手近のガス灯に向けて発砲する。火が、消えた。その発砲音が引き金に、軍の連中がこちらに向かってくる。アッシャは走りだす。走りながら次のガス灯の火を消す。そして次、そのまた次。アッシャとリヒトを照らす光はどんどんと暗くなり、マンホールに一番近いガス灯の火が消えると再び闇になる。
重い蓋が動く音がする。アッシャが手を引っ張り、下に降りる梯子の取っ手を掴ませた。
相変わらず何も見えない。だが、梯子はずっと下まで続いている、それは分かった。竪穴の下の方から冷たい風が吹き上げて来る。奈落の底に下りていく気分だった。
「走れる?」
「……ああ」
百フィートは下まで降りて来たのだろうか。コンクリートの通路だということはわかるが、他の様子は一切見えない。
「火は点けないで。まず逃げないと」
アッシャが手を握ってくる。左手に右手を引っ張られる。リヒトは無理やり振り解き、アッシャの右手を自分の左手とつないだ。
「何するのよ」
「誰かが来たら、俺が撃つ」
アッシャの手を、もう汚させたくない。だから、その利き手を塞いだのだ。
「……任せるわ」
再びアッシャが手を取り、視界ゼロの中を走る。すごく怖い。
「どうしてわたしの居る場所が分かったの?」
「ベルクシュプールに来ることはおおかた予想がついた。忍び込んだのはいいんだけれど、どこにいけばいいかわかんなくなった。そしたら奥の方から銃声がしたからアッシャだと思って」
「でも銃声よ。ただ事じゃないでしょ?」
「アッシャが銃をもっていたことは知っていたからな。容赦なく引き金を引くことも」
そんなことを言うリヒトも銃なら持っている。我が身は自分で守らなければならない。
「……いつ知ったの?」
「アイルさんが撃たれた時だ。スワロー・エンゼルに俺が行った時はもう先頭車のドアがこじ開けられていたけれど、あのとき鍵をもっていたのは車掌のマッケンジーだけだろ。それに、あの日運転している時にポケットからグリップがはみ出ているのを見て、ね」
「オペレータやコンダクターに関係なく、ミッドランド鉄道乗員は自衛武器携帯が許可されているわ。みんな小銃のひとつでも持ち歩いているし」
こうやって話していると、暗闇の恐怖がまぎれるようだ。
「そうだ、それよりもアッシャ、どうしてこんなに暗いのに……」
迷わず進めるんだ、と言いかけた時、アッシャは歩みを止めた。
「リヒト、ライター点けてもいいわよ。追手はまいたわ」
小さな灯りがトンネル内を照らし出す。
「……ここは?」
「戦時中の防空路線と言ったところかしらね」
ロンドンの深い地下に張り巡らされたシェルターの噂があるが、その正体がこれである。地上よりもさらに複雑な路線網。ところどころのトンネルは崩れ落ち、レールは錆び果てている。
「連中はこの路線の地図を把握していないわ。だから下手に追って来れない」
「追って来れない、ってこれじゃあ俺たちも」
それは大丈夫、とアッシャは近くの壁を叩く。小さなノブ、隠し扉の用だ。
「このあたりの線路は、どこからでもベルクシュプールに行けるように設計されているの。軍の連中やチューブの職員に知られている地下道とは別にね」
アッシャが通ってきたものとは、また別の地下道がある。この都市の地下がどうなっているのかも疑問だが、それを何故アッシャが知っているかも謎である。
「……そろそろ教えてくれないか。アッシャはいったい何者なんだ」
リヒトは勇気を振り絞って聞く。いままでずっと聞けなかったその問いを、今聞かなければずっと聞けないように思えた。
「フフッ、何者だと思う?」
「……たぶん、オペレータ」
「正解よ。わたしはコンダクターじゃない、本当はオペレータよ。ほかには?」
「だから、ロッソ・スプリンターに間にあったのもアッシャの仕業でしょ。……あと、絶対暗い所でも目が見えてる。そんでもって、……偉い人たちと知り合い」
「なにそれ」
「でもそうなんだと思った」
「少し、お話しましょうか。おとぎ話。有名な新月の夜作戦のお話。そして、私の話」
含みのない、子どものようなことば。しかし、そう言うのが一番いい時もある。
「そうね。言うとおりよ。これまでに他のオペレータの代理で何度もダイヤを回復させているし、わたし、生まれつき暗闇でもはっきり見えるの」
話の流れがわからない。アッシャはゆっくりと話し始めた。ライターの小さな灯りが、目深に被った帽子の横顔を照らしている。
「七年前、わたしの父は戦争で亡くなった。空軍の飛行士だったの。優しくて、自慢のパパだったわ。でも死んじゃった。その遺品を届けに来てくれた人達にね、ママがわたしが暗闇でも目が見える、って何かのはずみで言ったらね、その人たちがわたしをオペレータにできないか、って。真っ暗闇で命を運べるオペレータにしたい、って。でもね、あんまりうまくいかなかったわ。戦争も悪化しちゃって疎開の列車を運転したことは数本だけ。あとは全部貨物列車」
二人が歩いたあの地下線路は、かつて敵機が来襲するロンドンから、地方に人を逃すための発着地点として使われていた。アッシャはそのほとんどをくまなく知っているのだ。
「約一年。運転し続けたわ。来る日も来る日もやってれば十歳でも運転くらいできるものよ。それで、ある一つの作戦に参加させられてね」
その作戦は成功し、停戦協定が結ばれた。それこそが新月の夜、調停官を載せ戦場を夜間走破した特別列車の伝説である。
「わたしはウェールズに戻った。でも、そこには誰もいなくて、家は売られちゃってた」
「じゃあ、他の家族も……」
「いいえ、ママもお姉ちゃんも遠くに疎開して無事だってはがきをもらったことがあるわ。終戦後、数年は海外渡航が禁止だったからまだ再会していないけれど」
「そんな……、おかしいよ。アッシャはみんなのためにオペレータになったんでしょ? それなのに離れ離れなんて」
「多くの人が亡くなったけれど、わたしの周りに居た人たちは無事で、今鉄道院やそれぞれの会社に散っている。半ばその人達へ脅迫みたいにして、コンダクターとして雇ってもらったわ」
これは、コンダクターとしてルール違反の十四の時だという。
「おじさまはわたしをかわいそうだ、って言うけどそんなことないの。ママもお姉ちゃんも生きているわけだし。あと一年もすれば正式にオペレータになれるから、それまでは背は足りないけれどミッドランドでがんばろう、って思った」
「つまり、アッシャの正体ってオペレータだった人ってこと?」
「そうね。今はコンダクターで、たぶん今後も難しいと思う」
「どうして? 来年になれば」
「もし、ミッドランドが負けてカレドニアに吸収されたら、その機会はないと思う」
「カレドニアもオペレータになれるのは十八からだ! アッシャが出来ないなんておかしいよ」
「鉄道院にはわたしを煙たく思っている連中が結構いるわ。副司令の萩峰吾郎なんでその最たるクソ野郎よ。カレドニアが勝って、ミッドランドと合併するとね、真っ先にコンダクターとして背が足りないからわたしを追い出すわ。そして、もう二度と現場に入れなくする。最前線の現場から戦争協力者を排除したいのよ。わかるでしょ? 萩峰に会ったことがあれば」
だからアッシャは、萩峰吾郎にあのように攻撃的な態度を取っていたのか。ルールを順守していないことの足がつけば即刻クビだといったのはこのような背景があるのだ。
「……ミッドランドがこのまま負けちゃうと、わたし居場所がなくなっちゃうの」
避けていたその言葉がついにとび出した。ミッドランドはアッシャにとって唯一の居場所なのだ。ハイスクールにも行かずにずっとオペレータとして、そしてコンダクターとして生きて来た。全部大人の都合だ。それでも、帰れる家族もいないアッシャにとって、居場所はミッドランド鉄道にしかないのに、自分たちの都合でその居場所を取り上げようとしている。アッシャが必死で隠し、忘れようとしていた真実がこれだ。
「……大丈夫だ。そんなことはさせない」
「いいのよ。……わたしが勝ちたいのはね、そんな自分勝手なのよ。これがね、わたし」
アッシャはすべてを話してくれた。百戦錬磨のアッシャも、ただの少女なのだと初めて思った。
「アッシャの居場所は俺が守るから」
「そんな、はげましてくれなくても」
「本当さ。まず、オペレータは見つけた」
「本当に!? 誰? 危ない乗務なのに」
「ア……、アイルさんだ」
「え?」
アイル・フェリックス。彼だけがこの身でよければ、とリヒトに約束してくれた。
アッシャが驚いたのも無理はない。病床のアイルは座っているのがやっと。立ち上がるのは数秒が限界だったのだ。まさに満身創痍。五時間も過酷な特急の運転が務まるわけがない。
「で、その新型機関車で勝つんだろ?」
「そうよ。そのためにわざわざここまで来たんだからね!」
やっと、威勢のよい声になってくれた。
それから一時間ほど地下をさ迷った。アッシャの昔話がまるで嘘のような、十八歳と十七歳がするような、他愛のない会話。どんばちやっていたことが嘘のようなそんな時間だった。
「ここね。今度は間違いないわ」
たどりついたのは大きな縦穴だった。機関車一両を乗せられるエレベータだという。なぜ、ロンドンの地下に大規模にこんなものがあるのか。ベルクシュプールが何を考えているのかますます分からない。アッシャはすたすたと隣の階段を上って行く。
「入るわよー」
数年ぶりだが、ここは何も変わっていない。工場というよりも、秘密基地。
灯りが付いている。しかし、声をかけても姿はない。ついさっきまで誰かが居たような、そんな生活感が漂っている。
ベルクシュプールの中枢部、プレハブに近い工場も多い中、この工場は堅固な煉瓦積みだった。天井も高い。入り口からどんどんと奥へと向かう。まもなく会えるはずだ。きっと。絶対。
「ここよ。せーの、で開けましょう」
観音開きの長い別屋。これまではここに機関車が置かれていた。ロンドン広しといえども、ここ以外にあの機関車がある場所は思いつかない。
「せーのっ!!」
二人は扉を開け放つ。
いた。
その中にはオペレータを待つ機関車が一両、鎮座していた。
アッシャの予想通り、ロッソ・スプリンターとすれ違った機関車だった。
その機関車を見た時、リヒトはあまりの美しさに言葉を失ったようだ。
銃弾をくぐり抜け、一晩中ロンドンの闇の中を這いずりまわっただけの価値は十分にあった。
少女は再び、新月の夜におとぎ話のような冒険をしたのだった。今度は、二人きりで。
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