第6章

八月三十一日。この日のロンドンも霧が出ていた。

九時三〇分。特急アルビオンの客車はゆっくりとホームに横付けられる。クロエによってドアが解錠される。この日のアルビオンはフル編成。前日に引かれたダイヤに従ったものになっている。機関車次位には荷物郵便車。三等車四両。二等車三両。食堂車二両。一等車が二両に一等コンパートメント、二等コンパートメントが二両ずつ。総計十六両。切符はすべて売り切れで、八割以上がロンドン-エディンバラ全行程を利用する。

 ついにこの日がやってきた! 八月三十一日、ミッドランド鉄道とカレドニア鉄道の勝負の決する日である。二社間の公式的なスピード競争が始まったのが二十日前。カレドニア鉄道に新型機関車が導入されてから一ヶ月。普段から七時間半かかっていた行程も最速で五時間二十分。どちらの会社も明日からは決められた時間での運行体型となる。

九時三十五分。機関車がゆっくりとやって来る。その機関車を見て、乗客から歓声が沸く。

「……待たせた」

上着は羽織るだけ、上半身は包帯でミイラのように縛られていた。

「今日はご乗車ありがとうございます。本日の乗務はぁっ……!」

喋るだけで激痛が走る。アイルはその場にへたり込む。

「フェリックスさん!? ちょっと皆さん、どいて下さい! どうして、こんな無茶を……」

「いや、俺が、やらないとミッドランドが……」

クロエは運転席にのぼると無線を掴む。

「こちらコンダクターのスプリングス。至急アイルさんの代わりにオペレータを派遣してください! お願いです! このままさせたら……」

『了解、代理のオペレータはいまそちらに向かっている』

「本当ですか? あの、アイルさんは……」

『安静に』

無線の判断は的確だった。十時まであと二十分ほど。代わりのオペレータが間にあってくれればいいのだが

『スプリングス、その機関車をどかすことは可能か?』

無線の相手からクロエにそう言ってきた。

「え、っとアルビオンにつないであるスワロー・アークをですか?」

『そうだ。五十分までに』

「やってみます」

『あと、オペレータの体調は?』

「鎮痛剤を打ってもらって、すぐに病院へ」

『よかった……、すみませんアイルさん』

「え?」

『いや、何でもない。それよりも機関車だが』

「任せてください! 代わりのオペレータ、よろしくお願いしますね!」

アイルに無理をさせずとも、どうやら今日のアルビオンは運行できるようだ。クロエはそれを知って笑顔になった。本当は今日の乗務はアッシャ・プリムローズとリヒト・サーフィールドが受け持つものだったが……、それを考えるとすこしかわいそうに思える。


「キングス・クロス、どんな感じ?」

「五十分までには準備ができるって」

「アイルさんは?」

「大丈夫、やれるって言っている」

助手席でリヒトはインカムに話しかけ終えると、時計を見る。あと八分でキングス・クロスに着くのは、アッシャだとできるのだろうか?

「余裕ね」

「余裕なものか。アッシャがここまで着替えに時間がかかるとは思わなかった」

「女の子の支度にはこれぐらいかかるものなのよ」

地上に出た二人はお互いの姿がどこもかしこも煤まみれなのを見て笑った。さすがにその姿はよくないとリヒトが言い、着替えたのだ。


九時四十六分。発車まで十五分を切っている。機関車は切り離され、オペレータは医務室で意識を失っているという事態に乗客はどよめいた。すると一両の機関車がバックで走ってきた。

あれが代わりの機関車か。とりあえず、運行取りやめにはならないだろうとクロエは一安心する。スワロー・エンゼルならばアイルでなくとも運転はたやすいと聞く。ミッドランドに勝機が来たのではないだろうか。修理点検を受けてヨークにあると聞いていたが、アルビオンに間に合ったのか。だが、よくよく考えるとスワロー・エンゼルの色はウルトラマリンなはず。なのにあの機関車は明るい、銀色に近いグレー。

機関車は後ろ向きなのに五十マイル近い高速で駅に入ってきた。そして、ブレーキをかける。このままだとぶつかるんじゃないか。そうなると先頭の荷物車は、その次の三等車は、いったい何号車まで被害が出るのか。それを考えると動けなかった。クロエは声も出せない。その異様な光景に喉が乾ききったからだ。

機関車はある地点でブレーキをかけると、スーっと定位置に向けて減速し、先ほどまでスワロー・アークのいた場所に停車する。最後にカコンと小さな音をたて、客車の緩衝器に自らのそれを軽く接触。無駄のない、完璧な停車だった。

「…………この機関車って……何?」

美しい。こんなに蒸気機関車は美しいものなのか。所詮はボイラーで産み出した蒸気をシリンダーに送り推力とする産業機械、のはずなのに。

機関車のボディは丁寧にみがかれていた。駅の天井から降り注ぐ日光に銀色のボディを輝かせている。楔形の流線型、連結器から運転室にかけて流れるような曲線美。その下には大きな動輪が三対、確かに煙突も付いている。間違いなくこれは蒸気機関車だ。陽炎のように薄く煙が出ている。前面部だけ黒く塗られ、いかにも早そうだった。

「ほら、四十六分よ」

運転席から聞き覚えのある声がする。そして制服姿の二人が降りて来る。

「え? アッシャ? リヒトくん?」

「あ、クロエ! おはよう!」

「うん、……おはようございます」

ホームを埋め尽くさんばかりのお客がいる前で、運転室から降りてきちゃだめだと思ったが、手遅れだ。彼女がアルビオンのオペレータであることを知る乗客はとても驚いた顔をしている。

「今日はコンダクター、よろしくね」

「ええ、ええっと、二人とも、この機関車は?」

「新型機、よ」

そんなことは見ればわかる。アッシャは誇らしげに機関車のボイラーに飾られたレリーフを指さした。磨かれぬいた銀細工、天使のような、女神のようなそのレリーフは左右に一つずつ飾られている。そしてその下に飾り文字で機関車の名前が書いてあった。

「ミッドランドの特急用機関車、ヘルメス。このアルビオンでようやくデビューね」

「ヘルメス?」

「ヘルメスは旅の神様の名前だ。アッシャと考えて付けた」

なんだかもうよくわからなくなってきた。いきなり見たこともない新型機関車がやってきて、下りて来たのはアッシャとリヒトだ。

「それよりも、発車まで時間がないわ。アイルに引き継ぎたいんだけれど」

「アイルさんなら医務室ですよ?」

「ハァ?」

アッシャはリヒトをにらむ。とりあえず目をそらした。

「じゃあどうするの? 今から呼んでも十時に間にあわないわ」

「さっき通信で新しいオペレータが来るって……もしかして、さっきの無線って」

クロエに機関車をどかさせたのも、アイルに茶番劇をお願いをしたのも、リヒトだった。

「どういうことかしら」

「オペレータならいるよ」

「だってアイルさんは……!」

リヒトは自信たっぷりに言う。

「アッシャ、君がオペレータだ!」

高らかに宣言した。客車から顔をのぞかせる乗客たちも首をかしげている。アッシャって、コンダクターのアッシャ・プリムローズじゃないか。

「……………………は?」

そのアッシャ当人がこのあきれ顔である。その時だ。

「聞き捨てならねえな」

人込みを割って見覚えのある顔が姿を現した。運行管理部長のヨーゼフ・ゲントである。まさかのアイルがアルビオン乗務と聞きつけ見に来たのである。

「今ここまでこの機関車を運んできたことには目をつぶるとしても、言っただろう? お前はオペレータじゃない」

「部長、これをご覧になってもですか?」

リヒトは懐から一枚の免状を取りだした。


アッシャ・プリムローズ

貴殿を東岸本線における運転乗務に対し、八月三十一日に限り許可を与えるものとする。

ミッドランド鉄道 社長 ガイア・ウェッジウッド 

シグナレス指令 ヘルマン・アイヴァット

ベルクシュプール 技師長 エドガー・グレズリー


「この人たちの許可があれば、とりあえずアッシャの運転は許されるはずですよね?」

あくまでも強気だった。部長はくまなく免状を見る。鉄道院が発行する書状に、彼よりもずっと偉い三人の名前が連ねられている。何故だ。何故こんな書類が存在する。

「まさか、本物のわけがない」

「そう思いますか? よく見てください。社長のサインと司令のサイン、まさか見間違えるわけはないと思うのですが」

「……だまれサーフィールドたかだか刻示士がこんなものを」

部長は怒鳴り散らす。クロエはどうすればいいのかわからずアッシャを見ているが、そのアッシャですら、何故この書状があるのか分からずにいた。

「ごめん、アッシャだましてたんだ」

リヒトは言う。

「誰も引き受けてくれなかった。だからアッシャがオペレータになれるように頼んだ」

「頼んだ、って、あなたが頼んでもこんな書類を書いてくれるわけないでしょ?」

「できることなら、アッシャも俺の頼みを受けてくれないか。オペレータとしてアルビオンを運転してほしい。そして、カレドニアに勝ってほしい」

リヒトは頭を下げる。

「そんなこと言われても……」

「発車まで五分しかない。たぶん、ヘルメスを動かせるのはアッシャしかいないだろ?」

必死にアッシャにオペレータをさせようとするリヒト。どうして彼がここまでしてくれたのだろう。アッシャは促されるままに運転室に乗る。

クロエも時間がないことを分かっていたのか、乗客を誘導しつつ車掌室に向かった。発車の準備は整った。

だが、部長は納得のいかない顔で運転席の脇に居座った。

「おい! やっぱりこんな免状は認めるわけにはいかない。サーフィールド。プリムローズがクビになってもいいのか?」

「いやだなあ、だから、これは本物なんですって」

「それにだ、サーフィールド。文書偽装だって立派な犯罪だ」

「何度も言わせないでください。いいですか? 本物だと言ったら本物なんです。僕が直々にお願いして、三人に書いてもらったんです」

「お前がお願いして書いてもらえるわけがないんだってば。サーフィールド」

時間は発車二分前になった。どうやら、最後の手段を使う時が来たようだ。しかたあるまい。

アッシャはヘルメスに乗ってくれている。ここまでくれば、彼女一人でも大丈夫だろう。

「……そもそも、その言葉づかい、目上の者への意識はないんですかヨーゼフ・ゲント運行管理部長」

精一杯の虚勢で言う。運転席からアッシャは声色の変貌にぎょっとした顔をしている。

「な……き、貴様、いったい誰に向かって」

「あなたこそ、鉄道院副司令が怖くないようですね」

ついに言ってしまった。もう元へは戻れない。

「副司令、って萩峰副司令が怖くないかって? 何言ってんだお前」

「父が怖いのであれば、言葉づかいを改めるべきです」

「父って、あれか? お前は萩峰副司令の息子だとでも言うのか?」

察しがいいな。もしかして初めから知っていたか?

「その通りです。サーフィールドは母の旧姓です。これでいいですか?」

リヒトはポケットからパスポートを取り出す。

そこには、運行管理部長を震え上がらせるに十分足る情報が詰まっていた。


萩峰(はぎみね) 理人(りひと)

×××年××月××日 ××生

父親 萩峰吾郎

母親 エディタ・ハギミネ


「ば、馬鹿なそんなこと。……し、失礼しましたぁ!」

部長は逃げるように駆けだして行った。もう少し骨のある人だと思っていただけに、すこし残念だった。

もう、これしか方法がなかった。……これで、これでよかったんだ。


時刻は九時五十九分。まもなく、カレドニアとの最後の戦いが始まる。

「……リヒト、嘘でしょ?」

「ごめん、アッシャ。本当なんだ」

そう言ってリヒトはヘルメスに乗ろうとする。

「……来ないで!」

反射的に叫んだ。明確な拒絶だった。

それを覚悟での萩峰の名を出したのだから仕方がない。リヒトは素直に従い、アッシャに背を向けた。

そして、信号は青を灯す。時計は十時。発車の時刻だ。出発進行の声なく、音もなく列車は滑りだす。運転室にはアッシャ一人きりだった。彼女なら、きっとカレドニアよりも早くエディンバラまで走れるだろう。一人でも、今までどおり。それにクロエだって乗っているし、ヘルマンは万全の体制で信号所もバックアップしてくれると言ったのだ。しかし。

リヒトの脇を赤いテールライトが流れていく。霧に反射した尾を引くアルビオンに、何か嫌な予感を覚えた。

踵を返すと、人の波をかき分け走り出していた。

列車とリヒトは、霧の向こうに消えて行く。


十六両の客車を引いているのに、いとも軽々と加速してゆく。左側からカレドニアの線路が並ぶように近づいてくる。そして、赤い列車がアルビオンに並ぼうとしてくる。

アッシャは速度を押さえて、カージナルが並ぶのを待った。二列車の頭が並んだと思ったら、もう停車のための減速に入る。

「……やっぱりミッドランドの機関車だったんだな」

停車するやいなや、エーフィアがホームに降り立ちアルビオンのオペレータを呼ぶ。

「プリムローズ? そうか、お前か」

「ええ」

身長差は一フィート。その二人の間に勝利をかけた火花が散る。エーフィアもアッシャの出自は知っていたが、まさか今自分の前に立ちはだかることになるとは露にも思わなかった。

「美しい機関車だ。名前は?」

「ヘルメス」

そう聞くと、ヘルメスを一瞥した。

「そういやあ、あの刻示士の坊主はどうした?」

「……絶対ミッドランドは負けないわ」

眉をぴくりとも動かさずに言った。その並々ならぬ威圧感に思わず言葉を濁してしまう。

「カレドニアが勝つ」

「いいわ。正々堂々走りましょう」

「わかった。これで対等だ」

エーフィアが差し出した手を、アッシャは掌ではたく。ここにあるのはオペレータ同士の奇妙な尊敬だった。その様子は多くの乗客たちが眺めていたが、野次の一つも飛ばせなかった。

二人ともに運転席に戻る。定刻、エーフィアが汽笛を小さく鳴らす。それに呼応してアッシャも汽笛のペダルを蹴り込んだ。ほかの機関車とは違う、甲高い汽笛が空に響く。アルビオンは北へ、カージナルは北西へ、それぞれが走りだした。


 これまで、数多の特急用から貨物用、ときには軍事用の機関車を運転してきたことのあるアッシャだが、ここまで自分の好みに合わせて作られた機関車はないと思った。レギュレータの位置やメーターの位置はアッシャがシートに座った時にちょうどいい高さに設置されている。汽笛もそうだが、ブレーキもペダル式が一番いいと昔言ったことがある。一人でも運転が可能なように自動給炭装置があるのも非常にありがたい。特に今は。

このヘルメスの運転席は、彼女を外界とシャットアウトしてくれるゆりかごのようなものだ。誰の声も聞こえない。アッシャは混乱を隠せないでいた。そして怒りも。

かろうじて残っていた、ミッドランド鉄道の乗務員としての理性が彼女を機械的な操作に従事させる。信号所の与えたダイヤグラムはある程度の余裕が感じられ、神経を擦り減らすような緻密な運転を要求はしていなかった。アッシャがそう思ったのは、ひとえにヘルメスの性能がスワロー・エンゼルに比べても段違いに高かったからである。

「……どうしてわたしをだましてたの? ねぇ……リヒト」


アルビオンの乗客たちは、これまでよりも早い列車に興奮した。今日のチケットを手にすることのできた、ラッキーな鉄道マニアはダイヤグラムが更新されるたびに時刻を記録しており、一月前のアルビオンはまだどこを走っていたということを周囲に言いふらしながら、とても早く走っていることを喜んでいた。もちろん、乗客たちはミッドランドを贔屓にしている利用者のため、新たな機関車、そして若きオペレータを快く受け入れていた。

あのオペレータは何者か? あの機関車はどの程度か?

クロエにも多くの疑問が投げかけられたが、クロエ自身よくわかってなどいない。

「はい、アッシャ・プリムローズです。実はミッドランドの最終兵器だったのです」

「あの機関車ですか? ベルクシュプールが今日に間にあうように作ったものです。ヨークでの停車時間は三分ほどなので、よくご覧になりたいお客様は終点エディンバラでお願いします」

「性能ですか? よくは聞いていないんですが、少なくともカレドニアよりも早いです」

面倒臭いのではったりをかませば、その分喝采が帰って来る。乗客が勝利に酔っているのだ。やはり、誰にとっても銀色の機関車の衝撃はひとしおのものがあったのだろう。


萩峰に息子がいて、そいつがずっとわたしの傍にいた。その事実を思うとぞっとする。

よくリヒト……いや、萩峰理人は信号所に行くとか言っていたが、父親にミッドランド鉄道の動向を知らせるために動いていたのではないか。理人は、わたしと一緒に鉄道院に入ることに全く抵抗はなかった。理人は、アイルが撃たれた時、わたしが運転する様子を見た。それを見たら、萩峰が客車から出てきて……そして理人は、実の父親に向けて……ミッドランドを擁護した。理人は、ミッドランドとカレドニアの事故の時、転びそうなわたしを受け止めてくれたし、ロッソ・スプリンターに乗りに行く時も真っ先にブレーキに跳びついて乗客を守ろうとしてくれた。何より、リヒトはあのとき、ベルクシュプールに駆けつけてくれた。わたしを守ってくれた。なのに、リヒトに酷いことをいってしまった。そして……

「あなたはどうしてここにいないのかしら……」


アルビオンは定刻通り、いや、ダイヤよりもだいぶ早く走り続けた。ヨーク到着は十二時二十七分。ホームに滑り込むアルビオンは喝采をもって受け入れられた。ここでは荷物の積み下ろしが必要で、停車時間は削れない。この間、ホームはお祭り騒ぎだったが、そんなことはどうでもいいと思っていた。あんなことを言ってしまって、早くロンドンに帰って謝りたい。

時間がたてばたつほどに、その想いが募っていったが、今はどうしようもできないのだ。


ヨークを発車、全行程のおよそ半分が終わっている。カージナルが今どのあたりを走っているのが最大の関心ごとでもあるが、彼らよりも一秒でも早く先行通過の無線を飛ばせばいい。クロエはそのことが気がかりで仕方がなく、検札でまともに乗客の顔を覚えるほど見 なかった。

いつもの彼女はそんなミスを犯すことはないのだが。車掌室をノックする客が来た。

「何でしょうか、お客さ、ってどうして乗ってるの!?」

その客はリヒトだった。アッシャの仇敵、萩峰吾郎の息子らしい。クロエ自身それを聞いて驚いた一人だ。

「何か用?」

「いきなり扱いがひどいな」

「そりゃあ……、質問させてください。あなたは萩峰吾郎の息子ですか? ミッドランドの味方ですか?」

「その質問は……、イェスとは言えないな?」

イェスというだろう。そう思っての質問だったため、クロエは驚く。そして、左手でポケットに忍ばせた拳銃の感触を確認する。

「どういうことなんですか?」

「えぇっと、恥ずかしいんだけれど…………の味方だから」

「は?」

よく聞こえない。ぼそぼそと恥ずかしそうに言うからだ。

「だから、俺は……の味方だから」

「よく聞こえないんですよ」

「俺は、アッシャの味方だから!」

赤面顔でそう叫ぶ。クロエは噴き出した。

「……笑うなよ」

「ごめんなさい、わかりましたわ。リヒトくん、私はあなたを信用します」

リヒトは安堵する。

「それで? 何か用事ですよね」

「結局、オペレータ狙撃の解決策は見つからなかった。だからせめてそのリスクを排したい」

「策があるんですね」

「協力してくれるか? コンダクターの力が必要なんだ」

「アッシャを、守るためですね?」

リヒトは深く首肯する。


 ヨークより北、ミッドランド鉄道は海岸線をひた走る。アルビオンの語源でもある、大地から海まで切り立った白い崖。その上を銀色の機関車が走っていく。速度は時速百マイル。 

制限速度解除区間であり、四日前にスワロー・エンゼルが非公式だが時速百十マイルを出した区間でもある。ダイヤグラムによれば、ここは平均百マイルでダーリントンまで走りぬければカージナルに十分なマージンを取ることができるため、アッシャとしてもそこまで速度を出す区間ではなかった。

スワロー・エンゼルであんな無茶をしたのは、アイルが危険だったということがあったためで、ほぼ処女運行である機関車であのような無茶は普通できない。この洗練されたスタイルを有するヘルメスであれば、おそらく時速百十五マイルという最高速度突破は可能と思われる。しかし、誰からも何も聞いたわけではない。ベルクシュプール最深部、技師長エドガー・グレズリーの工場には、完成したこの機関車と一言「ミッドランド新型機」と書かれたメッセージだけが残されており、技師長当人の姿はなかった。時間がなかったために、急いで火を入れて動かしたが、完成からどれだけの距離を走ったのかも分からないようにされていた。まともに試験走行をしたかもわからない機関車をいきなり本線投入するのはあまり嬉しくはない。はっきり言えば狂気と紙一重の行為である。

この区間に突入して、後ろが気になり始めた。まさか居る訳はないが、また狙撃手が居たらアッシャを狙うに違いない。夜間に走行中のオペレータを撃ち抜くのだ。同じ奴が相手だとしたら、運転室のどこにいても逃れられない。持っているのは小さな拳銃だけで、高速で遠ざかる的に当てられるほどの腕前はもちろんない。ヨークまではずっとリヒトのことを考えていたために忘れていたが、もしも狙われていたらどうしよう。それを考えると、表情が固まる。

わたしが撃たれてしまったら、列車はどうなってしまうんだ?

気がつけば、一マイル先に例のトンネルが見えてきた。トンネルを抜けるまでおよそ三分。少しでも狙いにくくするには、早く走るしかない。蒸気圧を上げて、スピードに頼ることにした。石炭の燃える量が二倍近くに上がり、水の消費も上がる。煙突からは黒い煙がもうもうと流れ出した。頭上を火の粉混じりの煙が覆う。この運転は下手くそのそれだとわかっているけれど、それに気がつく余裕もない。そして列車はトンネルに突入した。

 恐怖がレギュレータを緩めることを許してくれない。列車は加速する。百五……百七……百九……。時速百十マイルをメーターが指示したとき、トンネル出口の光が現れる。本当は拳銃を構えて相手に備えたいのに、レギュレータを握る手が離れてくれない。どうして!? 再びの銃撃の可能性もあった、アイルが撃たれた時は全然心配せずに運転できたのに。

 怖い。光がないトンネルでも、こんなにも線路がはっきりと見えているのに。


轟音が聞こえてくる。間違いなくこの音はアルビオンのはずだ。

 トリガーに指をかける。トンネル出口の上にうまく隠れた男は、近づいてくる音から列車の速度を予想する。時速……、百五マイルよりも早い。おそらく百十マイルほどだろうか。仰角をほんの少しだけ修正する。弾丸を叩きこむのは、機関車がトンネルを出て、運転室がここから丸見えになる瞬間。近すぎても遠すぎても駄目だ。

列車が近づいてくる。あと五秒、三、二、一……。

「……なに……ィィッ!?」

視界がまるごと黒煙で埋め尽くされる。白い煙は二流、黒い煙は三流。一流のオペレータは煙は出さないというはずなのに。

だが、ここまでは予想済みだ。煙は上に流れゆく。

運転室は一秒後に、丸裸になる筈……。

轟々とした勢いで、今度は白煙が男の視界を遮った。男はあっけにとられてスコープから顔をどかした。いったい何が起きている。列車火災か? それとも機関車がもう一台あるのか? 重連運転なんて聞いていないぞ!

「荷物車から煙……だと?」

機関車は一両だけだ。だが、機関車に勝るとも劣らない量の煙が郵便荷物車から上がっている。やはり列車火災か?

「いや、違う……発煙筒か……!」

男がすべてを理解した時、ひとつの銃声が挙がった。銃弾はスコープを貫通、二秒前まで男の頭があったところに軌跡を描き、空へと消えていく。

それを見た男は、戦意を既にどこかに喪失していたのだった。


屋根を足で三回蹴る音が合図だった。

クロエは思い切り、窓から発煙筒を投げ捨てる。もう片側の窓から、リヒトが下りて来た。

「成功!」

「やりましたね! でも、列車内に重火器の持ち込みは厳禁なので、私が預かります」

あそこに狙撃手が居るかどうかは一種の賭けだったが、予想通りだった。あれから駆け回って調達した発煙筒の数は二十。これら全部に火を付け、狙撃手の視界を奪ってしまおうという作戦はリヒトのもので、アイルに大怪我を負わせた犯人に一矢報いてやろうというアイディアはクロエのものだった。狙撃手に向けてこちらから弾丸が飛べば驚くだろう、程度に思っていたクロエだったが、リヒトは狙撃手のプライドを打ち砕いたのだった。あの狙撃手が何者なのかは知らないが、今頃ミッドランドの屈強な男たちががんじがらめにしているだろう。

それより、列車内への重火器持ち込み禁止はまともに考えれば当たり前だ。アッシャはいつも持ち歩いているが、ミッドランド鉄道はそれを黙認していたということか? リヒトもあまり他人のことは言えない。

「リヒトくんはこれからどうするんですか?」

「どうって?」

「アッシャに、今のことを話さないんですか? あの娘を守るためにやったんですよ?」

「それは……、俺はいいよ。もうアッシャに顔向けなんてできないし」

明確な拒絶の表情。ルビーの瞳は濁っていて、血の雨のような色でリヒトを見ていた。脳裏に張り付いて離れることはない。

「でも……!」

「明日から俺は信号所本局に行くんだ。だから、もうミッドランドに未練はない。懸念していた問題もクリアしたし、このままいけばミッドランドは勝てるよ」

「リヒトくんはどうするつもりなの?」

「ニューカッスルでロンドンに折り返すつもりだ。エディンバラまで乗っていたらアッシャに見つかっちゃうからな」

「……それでいいのですか」

クロエは言う。萩峰理人でも、リヒト・サーフィールドでもどちらでもいいじゃないか。リヒトのした事実に変わりはないのだから。これで離れ離れなんて、寂しすぎる。

「……いいんだ」

「……わかりました。リヒトくんがそう言うのであれば、私は止めません。アッシャに伝言があれば伝えておきますが……」

その時、本来立ち入り禁止の荷物車のドアが開く。ほかの車掌は居ないはずだ。

「ちょっと、見てきますね」

クロエが出ていく。リヒトはアッシャに何か伝えてほしいことがあるかを考える時間を得た。だが、言葉が見つからない。自分が萩峰理人であることを隠していた。それは言い訳の効かない事実だからである。手紙で弁明しようか? それは卑怯な手段だということはわかっていた。

やっぱり、何も言わずに去るのが潔いのかもしれないな、と思った。

「……えっと、困ります。関係者以外立ち入り禁止です。いえ、そんなことを言われても」

「黙れ」

入口の方での問答がここまで聞こえてきた。車掌の制止を振り切って荷物室に入って来るとは……。どこの酔っ払いか知らないが、運行の妨げになるようなことは迷惑極まりない。大の大人にクロエが叶わないかもしれない、そう思ったリヒトは車掌室を出た。

「やはり貴様の仕業か、理人」

「萩峰……吾郎……!」

いま、最も忌まれる存在がリヒトの前に立ちはだかった。実の父親を睨みつける。

「貴様、ここで何をしているんだッ……!」

「それは俺の台詞だな」

「何をしていると聞いている。鉄道院副司令様ともあろう方が」

「アッシャ・プリムローズをクビにしに来た」

リヒトだけでなく、クロエも萩峰を睨んだ。

「解雇(クビ)? どうしてですか? あの子はきちんとした免状をもって」

「免状? そんなものは存在しない」

「リヒトくん、見せつけてやってよ」

「……ああ。これを見ろよ」

懐から出したアッシャのオペレータ免許を萩峰は一瞥する。そして、それを放り投げた。

「何をする!」

「理人、偽造でもしたか?」

「違う! どのサインも本物だ!」

「俺の名前を使ったか」

「……ッ!」

「別にそれは構わない。萩峰吾郎の息子だというだけでサインを出す、ウェッジウッドにヘルマン、そしてグレズリーが無能なだけだ」

「何だと!」

「その免許が本物? いいだろう。だがな、俺がその免許を停止と言えばそれが事実になる。いいか理人。たとえお前がその安いプライドをかなぐり捨てても所詮それは俺の七光だ。そんなものでミッドランド鉄道が守れるとでも思ったか? 本当に愚かだ。それを出して、オペレータと機関車を用意したか。スナイパーも出し抜いたようだな。だがな、プリムローズの運転するこの列車がエディンバラに到着することはない。走行中に引導を渡し、即刻運転打ち切りだ」

「副司令! あなたはどうしてそんな残酷なことを!」

クロエは後ろから非難する。そして、つかつかと歩いて来て、二人の間に立ちはだかった。

「この競争はミッドランドもカレドニアも騎士道精神をもって正々堂々とやっているものです。あなたはそんなにミッドランドに、アッシャに恨みでもあるのですか!? この恥知らず!」

まずい、とリヒトは思った。萩峰の痛い所を的確についてくる。萩峰は目的のために手段は選ばない。最速タイムを出させないために、そのオペレータを運転中に狙撃する。これが失敗した時のために第二の策を萩峰が用意していないわけがないのだ。

萩峰は何かしらの武器をもっている。アッシャに運転の続行ができない怪我を負わすほどの。

このままではクロエが危ない。

武器を取り出さないにしても、クロエを荷物搬入口から外に放り投げたらひとたまりもない。ずっとこの列車は時速百マイルを保っているのだ。こうなったら……。

「ごめん!」

「えっ?」

できるだけ弱く、鳩尾に拳を入れる。一瞬でクロエは気絶する。

「約束しろ、コンダクターには手を出すな」

「先走るな。別に手をかけようってわけじゃない」

そんな言葉、信じられるものか。

「リヒト、鉄道院に来い。俺の部下として帝王学を修めろ。それを約束すればオペレータに手を出さない。もちろんコンダクターにもだ」

「あ?」

「二年後、航空路の封鎖が解かれる。会社間同士で争っている場合ではないことを、お前は考えたことはあるか?」

「そんなことは分かっている。だが、アッシャを傷つけていい理由には決してならない」

「ウェッジウッドは、欧州の鉄道はこのままでいいと思っている。今回ミッドランドが勝つと更にヤツの権力が全土に広まるんだ。いいか? 目先の勝ち負けなんて気にしているのは愚の骨頂。ウェッジウッドを潰すためにはアッシャ・プリムローズは一番はじめに潰す必要があるんだ!」

この男はぜんぜん変わらない。己の信念に常に真っ直ぐで、常にリヒトと違うことを考えている。会社だろうと一人の少女だろうと、邪魔なものはすべて同列に語る。

「そんな馬鹿な理由で、アッシャを解雇しようというのか」

「お前にとっては馬鹿な理由かもしれないがな、鉄道院とすれば死活問題だ。ひいてはこの国の経済の転換点にいるんだぞ」

「あんたがそのつもりなら、こっちにも考えがある!」

「考え? どんなだ言ってみろ」

「勘当だ! 萩峰吾郎。親子の縁を切ってやる!」

てめぇの都合でアッシャが邪魔ものだから消すなんて許されるわけがない。リヒトは完全に頭に血が上っていた。だからこそリヒトは最後の絆の糸を引きちぎろうとしたのだ。

「縁を切る、だと? お前にそれができるのか? 信号所に入れたのだって俺の」

「じゃあ信号所だってやめてやる! 萩峰の名も何もかも、いっさいがっさい捨ててやるよ」

もともと母方のサーフィールド姓を名乗っていたのだ。今更萩峰の名前なんてどうでもいい。

「ほう……。この恩知らずめ」

「アッシャを苦しめるのが恩だっていうなら、そんな恩知ったことか!」

萩峰は上着の懐に腕を入れる。そして、刃渡り六インチはあるだろうか、大きなナイフを取り出した。リヒトも、腰に下げたホルスターに手を伸ばす。拳銃は預けたのでもうない。もう片側に、リヒトも小柄なナイフを吊っていたのだ。

「抜けよ」

「息子相手に刃を向けるのは本意ではないが……いや、もう息子ではないのだな!」

一閃、抜いた速度が見えない。

大柄の身体から繰り出されるとは到底思えないフェイントを含んだ鞭のような突き。よけるのが精いっぱいだった。この距離では銃よりもナイフの方が早いのだ。返す下段の蹴りを鳩尾で受ける。一瞬息ができない。本気の殺意を感じる。萩峰は俺を殺し、そして機関車に通じるドアをこじ開け、炭水車の狭い通路をくぐり、引導を渡すよりも早くアッシャの喉首を掻っ切るだろう。アッシャは護身用の拳銃は持っている。しかし、非情だが、萩峰には勝てない。

肩口にまっすぐ向かってきた刃を初めて自分のナイフで弾いた。気力だけで身体が反応したのだ。後手に回りながらもどうにか、すんでの所でナイフをよける。剣とは違い、鍔迫り合いはほぼ皆無、体術と体術の世界だ。

まっすぐ突っ込んでくる刃をすんでの所で交わした時、金属のひしゃげる音がする。狙いはリヒトではなかった。機関車へと続く通路の鍵だ。

鍵を壊した腕に思い切りしがみつく。ナイフの先端は砕け、攻撃力は落ちているはずだ。だが、リヒトは振り払われる。一撃をくらわすにも、隙はどこにもない。

「無力を恥じるんだな」

そう言うと、萩峰は通路に足を踏み入れる。リヒトはそれを追いかけるが、打った頭が痛い。立ち上がったらふらふらとよろめいた。急がないと、アッシャが……!

とにかく追いすがるしかない。萩峰までの距離は三フィート。腕を伸ばして、届きそうで、届かない。ここまでなのか……? まさか。エディンバラまであと五十マイルだぞ。確実にカレドニアに勝てるところまできて、負けて、負けてたまるかぁっ!


「アッシャァッ!」

追いすがりながら叫ぶ。そして、萩峰に跳びかかる。だが、萩峰はこの声に気がつき、反撃をしてくるだろう。火を見るより明らか。幅が一.五フィートの通路ではよけることなどできないし、そんな気は全くなかった。跳びかかるリヒトに対し、萩峰が振り返る。


先ほどからずっと後ろリヒトの声が聞こえていた気がした。幻聴だと思ったが、そんなはずはない。わたしの名を叫んだ声ですべてを把握した。炭水車の通路を写す鏡には萩峰吾郎の姿。そしてそれに追いすがるリヒトの姿があったのだ。

リヒトが危ない。

しかし、今すぐにわたしはあそこにいることはできない。助けなきゃ。方法は……なくはない。でも、それをやると……。

ほんの一瞬、そう思う。しかし、それがなんだというのだ。力強くブレーキを踏みこむ。

高速走行に対応したヘルメスは、それを止めるブレーキも強化されている。シリンダーに送り込まれる蒸気が開放され、三対六つの動輪が悲鳴を上げる。

そして、それに続くすべての車両にも強力なブレーキの反動がやってきた。


萩峰が振り返った瞬間、片足を上げた瞬間に非常ブレーキがかかった。勢いで萩峰が後ろ向きに倒れる。後ろで体を支えるが、その体の上にリヒトが上半身からぶつかって来る。その勢いはなんとか耐えることができたが、狭くて反撃ができない。リヒトは現状を理解しないも、自分のいる位置だけはわかったようで拳で自らの父親だった人間の頬を殴る。何度も、何度も。

「さっさとブレーキを戻せ! アッシャ!」

殴る手をやめずに叫ぶ。このままではアルビオンは止まってしまう!

「リヒト!?」

その声に我にもどったアッシャもブレーキから足を離した。

三十発も殴った後だろうか。手が痛くなったのか萩峰を踏んづけて運転室に入って来る。

「アッシャ、良かった。無事で」

姿が見えるや否や、アッシャはリヒトに抱きつこうとする。そして、その姿を見て、躊躇した。

「どうしたのそんなにぼろぼろで。それに……」

リヒトがここにいるのが気になって仕方がなかった。


「発煙筒とは考えたわね」

「クロエの協力あってのものだ」

キングス・クロスからいままでのことを一部始終話すまでに十分近く経っていた。

「ふーん。それよりもリヒト」

「なに?」

「リヒトって、わたしを守るためにミッドランドにいるの?」

リヒトは赤面する。そんなこと誰から聞いた? いや、クロエにしか言っていないぞ。

「なんでそうなるの。そう叫んだじゃないの」

「さ、叫んでにゃい!」

焦ってしまいうまく喋れない。気まずい沈黙が漂う。

「と、ともかく、一応いろいろお世話になったし? 許してあげるわ」

「そ、それはありがとうよ。ほら、もう親子の縁も切ったからさ」

なぜか二人の会話がすれ違う。片言で、よそよそしい。

「……時速七十マイル?」

目がおよいでいたリヒトは、スピードメーターにいきついた。この地点で五十マイルは遅すぎる。百マイル走行の箇所だぞ?

「さっきのブレーキで三十マイルまで落ちちゃって」

「どうにか上がらないのか?」

「今、やってるわ」

キンバリー・ジャンクションまで二十七マイル。このままでは、通過が六分遅れる。一分でも一秒でも早くキンバリーを通過しなければ、そのことをようやく思い出した。

これに負ければアッシャの居場所がなくなってしまうのだ。萩峰に二人で歯向かったのだから当然である。そして、リヒトも同様に、居場所がなくなるだろう。信号所をやめると言い切ってしまった。どうなってしまうのだろうか。迷いを振り払うように、アッシャは忙しそうに手を動かす。惜しげもなく石炭と水をボイラーに投入。レギュレータ全開。さっきのトンネルの時と同様のフル加速だ。しかし、頭上を黒い煙を覆うことはない。陽炎のような煙がたなびくだけだ。十六両の客車はその加速に素直に従い、徐々に速度を取り戻しつつある。リヒトは計算する。時速八十マイル区間を九十マイルで通過すれば、キンバリーでは遅れを回復できる。このままいってくれればいいのだが。

 まもなくキンバリー・ジャンクション。クロエは目を覚ましたと自力で起き上がり無線で機関車に連絡を寄こした。せめて無線くらいは、とリヒトが応対する。すこしでもオペレータの仕事の軽減ができて嬉しかった。アッシャも喜んだ。ヨークからの高速運転と先程からの驚異的な追い上げにより遅れを最小限に食い止めようとする。

 

ついに因縁の地、キンバリー・ジャンクションの丘陵が姿を現した。視界のどこにもカージナルは見えなかった。アルビオンの独壇場。リヒトはガッツポーズをとる。そして、アッシャも。

「クロエ、キンバリー・ジャンクションに先行通過連絡は?」

『あと一マイル先が連絡地点です』

「オーケー」

無線を切り、アッシャに言う。

「ようやくダイヤグラム復帰だ。さすがヘルメス」

「もっと早くてもヘルメスなら行けたと思うわ。そうね、四時間台で走るくらいなら」

キンバリー・ジャンクションを通過すれば、終点エディンバラは十分とかからない。

もう一度、カレドニア鉄道の線路を見渡すが、カージナルの姿はやっぱりない。このままいけば、大差をつけてアルビオンが勝つ。アッシャもリヒトも、その勝利を確信していた。

『……リヒト、くん、あのね』

「こちら運転室。このままいって大丈夫だよな?」

『はい……。減速せずにキンバリーを通過してください』

やけにクロエの声に元気がない。

「どうした? 勝ったんだぞ?」

『リヒトくん、いえ、アッシャも聞いてください。カレドニア鉄道の特急カージナルは、五分前にここを通過しました。私たちの負けです』

無線から漏れる音を拾って、消え行く意識の中、萩峰はほくそ笑んだ。

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