第7章

霧は晴れ、晩夏の弱々しい西日が差し込む。緯度の高いこの地域では日暮れも早い。

エディンバラで待っていたのは、歓声を浴びるカレドニアのオペレータとコンダクターだった。

「そんな……」

「ッ……!」

落胆するリヒト。そして声もでないアッシャ。誰も敗者を慰めようとなどしなかった。

カレドニアの乗客は、もうお祭り騒ぎだったが、ミッドランドの乗客は茫然とするもの、もうどうにでもなれとカレドニア側で酒を酌むもの。せめてもの救いは、アッシャを責め立てるこころないものがいなかったということだ。ミッドランドの秘密兵器は所詮、年端もいかない少女なんだから仕方ないだろ。と明らかにアッシャに聞こえるように言ってくるものは居たが。

 カレドニア鉄道のタイムは五時間一分。悔やまれるのは五時間を切ることができなかったことである。平均がおよそ時速八十マイルの超特急カージナルは、その赤い車体を誇らしげにホームに止せていた。向かいに止まる茶色いアルビオンの客車はどこか肩身が狭そうに見える。

 アッシャはゆっくりとベンチに身体を投げ出す。昨日から一睡もしていない。何もかもを忘れて眠りたかった。そしてすべてが終わりになればいい。

「なあ、俺たちの負けなんだろうか?」

後ろのベンチから声がする。カレドニアと、萩峰と正々堂々と戦って負けた、戦友の声だ。

「カージナルが新記録を樹立したのよ。早い方が勝ちなんだから、わたしたちの負けなのよ」

「もし」

「なに?」

「もし、俺が萩峰の言葉に甘んじていたら、あそこで鉄道院に行くと言ったら。あそこでアッシャがブレーキをかけていなかったら……勝ってた」

認めたくない真実。覆らない選択を後悔する。

「なんで……そんなこと言うの? どうしてあなたは、そこまで自分を責めるのよ?」

アッシャが淋しそうに言う。

「あそこで……、アッシャがミッドランドにいられないから……」

「あのブレーキはわたしが、わたしの判断でかけたの。そんな心配余計なお世話よ!」

互いが強がって全責任を負おうとする。互いは決して相手の方を向かない。プラットホームの端っこにはもう誰もいなかった。涙をぬぐって、別離の決意をしようとする。だが、リヒトも、アッシャも、一番言いたいことは言えないままだった。

悔しい。お前のせいだ。だから負けた。だから自分の居場所がなくなるんだ。処罰覚悟の特別免許運転までしたのに! シグナレスをやめると言って親子の縁まで切ったのに!

お前のせいだ、なんて言えなかった。俺は言ったのだ。アッシャを守ると。そして、結果として萩峰の凶刃から守ることができたのだから。

お前のせいだ、なんて言えなかった。わたしはオペレータとして走り、大事なお客さんを守ることができたのだから。

優しすぎる二人の棘は誰を刺すこともなく自らを傷つけ続ける。


 三十分もホームでの騒ぎが続いただろうか。カージナル、そしてアルビオンの順番で車庫に回送の時間がやってきた。魂が抜けたようなアッシャに付き添い、リヒトも車庫について行く。ついて行かないと、アッシャがそのまま消えて行きそうに思えたからだ。

「おお、アッシャ!」

車庫に付くと、見慣れた姿が二人を出迎えた。ヘルマンだ。昨夜ロンドンで逢ったばかりなので、おおかたアルビオンに乗っていたのだろうか?

「先生?」

「新型機どうだったか? ……と聞けとグレズリーから言われている」

リヒトがその場にいることを思い出したのか、強面を崩さないままでいた。

「どうだったって、えっと、すばらしい性能よ。今後ともミッドランドの最前線で活躍すべきだし、スワロー・エンゼルも一緒に運用すれば、東岸本線の目玉になるわね、まちがいなく」

あくまでも客観的な意見だった。

「なるほど」

ヘルマンは何やらたくらみがあるようだった。

「そしてリヒト・サーフィールド……、萩峰理人と呼んだ方がよいか?」

キングス・クロスで起きたことを知っているのだろう。ちらりとアッシャを見て言った。

「サーフィールドです。先ほど親子の縁を切りましたので」

「縁を切ったか。ふん。良い心がけだ。あの男はどうした?」

萩峰なら気絶したままで、エディンバラに到着し次第ホームに投げ捨てた。そのうち目が覚めるだろう。

「奴も直接手を上げるとは馬鹿なことをしやがって。自分の立場をわかっているのか」

「司令、言いにくいんですが」

「なんだ」

「アルビオンは、その……」

「カージナルに負けたんだろ? そんなこたぁわかってる」

負けたのに、全然悔しがっているようには思えない。

「先生、アルビオンはカージナルに負けたのよ? カレドニア鉄道に将来的に吸収されるかもしれないのに!」

「それは、ミッドランドが負けた場合な」

「どういうことですか。もうミッドランドが負けたってことじゃないですか!」

「俺はそんなことは一言も言っていないぞ」

ヘルマンは不敵な笑みを浮かべた。

「俺がここに来た理由だが、お前たち二人と取引をしたくてな」

「取引、ですか?」

「実は萩峰吾郎の妨害の件、不問にしてはくれないかと思って来たんだ」

クロエに対する業務妨害、車両の立ち入り禁止区域侵入、扉の鍵破壊。これらすべてをなかったことにしろという。

「……不問? わたしたちを殺そうとしたのよ?」

「だが、あれは過剰防衛だ」

「アイルさんを狙撃したのだって!」

「狙撃についてはまだ細かいことがわかっていない。萩峰のしわざだとは思うが、それはあまり期待できない。奴が自分の手を汚すような手がかりを残しているとは思えん」

じゃあ、ヘルマンは萩峰の味方なのか?

「あれだけのことをされたのよ。それを見逃せなんて、それに見合うことがあるんでしょうね?」

「ある。萩峰は無能だが、傀儡として副司令にいると非常に便利なんだ。不問ということにしてくれれば、ミッドランドに最後のチャンスを用意しよう」

「最後のチャンス?」

「勝率は二割程度だが、ミッドランドがカレドニアに勝つためのたった一つのやり方が残っている。お前たち二人がやるといえば用意する。どうする?」

「やります! いいわよね、リヒト」

アッシャが即答する。リヒトの方を向いて賛同を請うた。無論、断る理由などない。

「よろしい、だが、アッシャは辛いかもしれない」

「どういうことか教えてからそういうことを言って頂戴?」

勝つためのたった一つのやり方。その言葉にアッシャは目の輝きを取り戻していた。

「サーフィールド、お前はだいたいわかったんじゃないか?」

ヘルマンの持つ鞄、ダイヤグラムを運ぶ時に使うものだ。この時間にダイヤの鞄を持っているとすればその理由はただ一つしかない。

「憶測ですが……、俺の引いたダイヤですか」

「八十点。あれに信号所は手直しを加えた」

「ちょっと、話を勝手に進めないでよ」

「二か月前に司令から『最速列車』のダイヤを引いてみろって言われてさ。それだったら、たしかにカレドニアに勝つかもしれませんね」

「そうだ。こいつがダイヤを引いた時点では夢物語だったが、グレズリーの機関車がよほどよいものであれば、アッシャの腕なら可能だ」

リヒトの描いたのは、ロンドン、エディンバラを四時間ではしる超特急(バレットトレイン)。

今日のカージナルよりも一時間早く走る列車だ。平均速度は時速百マイル。東岸本線の線路全区間を制限速度限界。制限速度のない区間では、最高速度時速百二十マイル。

「あれは……確かに……、可能かもしれませんが」

「可能だ。現状ダイヤでは無理だが、そこにこの一本をねじ込む許可。それが交換条件というわけだ。そして実現できるのは今日しかない」

「今日しかない?」

アッシャが聞き返す。

「そうだ。具体的ダイヤだが、エディンバラを二十一時に出発し、キングス・クロスには零時に到着する。所要時間は丁度四時間だ」

「四時間? それは三時間でしょ……あっ!」

懐中時計を見ながら、あることに気がついたのだ。

本日、八月三十一日をもって、夏時間が終了する。一時間早まっていた時計は、本日の二十四時からちょうど一時間停止し、冬時間に変わるのだ。

「でも、どうしてそのダイヤなの?」

「夏時間から冬時間に切り替わる六十分間は多くの列車が運休をする。混乱を招かないためにな。その時間に列車の本数の多い都市部を走行することになるが、前に列車がいる場合に課される速度制限がいっさいがっさいなくなるんだ」

すごい理論である。

リヒトがこれに気がついたのは、彼がこの国の生まれではないからだった。人件費、保守費、ダイヤグラムの作成と訂正。それらを完全に無視し、東岸本線を最速で走れる日は今日。この列車しかないのだ。

「そんな無茶なダイヤ、初めて聞いたわ」

実用性皆無のダイヤだ。破棄されてしかるべきだが、着眼点の面白さで取っておいたのだった。萩峰の不問とこの列車の運行許可を交換条件として、先ほど鉄道院に掛けあってきた。

「あ、ちょっと待って、二十一時発って「アルテシア」とかぶってるわよ?」

「だから、ほら」

ヘルマンの取りだした列車運行表には、「アルテシア(ダイヤグラム変更版)」と記載があった。これは競争として特別列車になるのか? ならないのか? 少なくとも当日のダイヤ変更はご法度。それが許されるというのであれば、萩峰のしたことに目をつぶってやってもいいと思った。

「それよりもお前たち、やるのか? やらないのか?」

アッシャとリヒトはお互いの顔を一度見た。

「やります!」

アッシャとリヒトを心配していたクロエは、エディンバラ車掌区で二人を待っていた。

「クロエ! クロエってアルテシアのコンダクターよね? そうだったわよね?」

ついに気が狂ったか! 目をキラキラとさせ、小躍りでアッシャが走ってきた。自分は違う、と逃げ出そうとも考えた。

だが、秘策でも見つけたに違いない。リヒトくんの目も諦めていない。

「そうですけど、どうしたんですか?」

一部始終を聞くと、そんなことできるわけない、と思った。だが、二人は本気のようだ。何しろ、このアルテシアの運転が成功すれば、エディンバラとロンドンを四時間以内。ミッドランド鉄道の勝利も決まる。ほかにも利用者が増えるし、何を取っても悪いことはない。

 何より、アッシャがこれまで通りにミッドランドに居られるのだ。

「……私にできることがあれば、なんでもお手伝いします」

「ありがとうクロエ。じゃあさっそく、車両の変更を申し出して来て頂戴?」

「……はい?」

「今のアルテシアは客車が古いじゃない。百マイル以上で走るとなると、もっと新しいものがないと困るの。そうね、せめてアルビオンの客車くらいのものはほしいわ」

アルビオンとアルテシア、双方の客車の製造年は数年しか変わらないが、その間に決定的な技術進歩があった。

「と言われましても、アルビオンの客車は翌朝の運行がありますし……」

「ロンドンまで行って、その後空の客車をエディンバラまで持ってくればいいじゃない」

「それならば……、いえ、もっといい案が有ります」

クロエは思い出した。確か九月からだったと思う。

「九月から使われる、夜行用の新型客車があるはずです」

「アルテシアにも使うのかしら?」

「うちの会社で夜行と言えばアルテシアが一番の優等列車ですから、おそらく」

「それ、使えるのならば使いたいわ」

「おそらく、車庫にあるはずです。無理にでも使用許可をもらってきますよ」

話によれば無理やりなダイヤ変更だ。既に無理を一つ通してるのだ。一つ通すのも二つ通すのも、こうなれば変わらない。

「……いいわ。こうなれば、ミッドランド鉄道総力戦よ!」

こうなればもろとも。せっかくの新型機関車のデビューなのだ。客車だって、数週間早くデビューさせてもばちは当たらないだろう。

「他には?」

「ここに書いてある。あと、これがダイヤだ。クロエには無茶をお願いするが……、いいか?」

リヒトが走り書きのメモ数枚とダイヤグラムを渡してきた。

キングス・クロス零時到着、確かにそう書いてある。

このダイヤは信号所もミッドランド鉄道もお墨付きの物だ。

まったく、誰もが狂っている。リヒトだけじゃない。ウェッジウッドも、ヘルマンも、あの場でアッシャに花道を譲ったアイルだって、アッシャ・プリムローズを守るために必死なのだ。そんな、いつも健気でミッドランド鉄道が大好きなアッシャを私だって、守りたい。


 エディンバラの車庫にはベルクシュプールの技師がヘルメスを待っていた。技師長エドガー・グレズリーの姿こそないが、この機関車を作り上げた技師たちだ。

「かなり無理させたな。黒煙を出すようなことをしたのか?」

特に触らなくても、煙突をみただけで異常に気がつく。

「不本意ながら……」

アッシャが状態を説明しているうちに、技師たちは素早くあちこちの分解を始めた。

「ストーカーに負荷がかかりすぎてる。みろ、スクリューにひびが」

自動給炭機に異常が見つかった。最高時速が100マイルを超える運転では、かなりのペースで石炭を投げ続けなければならない。機械でこれを代用するが、まだ発展途上の技術だ。スクリューの根元、石炭を受ける部分に小さなひびがあるという。

「このままアルテシアの運行に入ったら、おそらく途中で使い物にならなくなる」

「それって……、ヘルメスでストーカーは使えないの?」

「ヘルメス……?」

「この子の名前よ」

「どうする。スワロー・アーク型のものと取り替えれば治るが」

「本当? ぜひお願い」

アッシャは他にも幾つか要望と変更点を伝えると、本格的に技師たちは作業にとりかかる。この場に居ても邪魔になるだけと思い、運転室を出ようとした。

「おい、プリムローズ」

一つ言い忘れた、と言わんばかりに呼びとめられた。

「何かしら」

「ヘルメス、いい名前だ。こいつにふさわしいと思う」

技師たちは、作業に没頭し始める。


あちこちを分解し、消耗部品を交換したりボディを磨いたりしている。リヒトはそこに交じって、丹念に銀色のボディを拭いた。特に、妖精のレリーフ。自分とアッシャがペンキに汚れながら描いた「HERMES」の銘板。途中で、岩のように大きな技師から埃一つが速度向上を妨げると聞き、いっそう磨くのが丁寧になる。

「合わない、ですって?」

運転室でストーカーの修理は難航していた。

「すまない、このスクリューは特注だったみたいだ」

「じゃあ、このまま無理やりにでも」

「百マイル以上には耐えられないよ。走行中に折れちゃう」

無理であることを淡々と言う。それを他の技師がききつけた。外野で何やら言い合っている。

「いいから、どうすればいいのか教えてよ!」

放っておかれたアッシャの困り顔を見て男たちが笑いだす。

「簡単なことさ。自動給炭機に頼らなくても石炭は投げられるだろ」

「投げる、ですって?」

「普通の機関車同様に釜の蓋は開くようにしておくから、そこに助手が投げ続ければいい」

「投げ続ける、って四時間よ?」

「四時間くらい、なあ」「貨物列車ではそれくらいかかる列車も多いし」「別に珍しくもない」

「でも、最速百二十マイルでノンストップよ」

「まさかそんな速度だせるわけない」「四時間ノンストップなんてオペレータもファイアマンも倒れるな」「冗談は」

アッシャは技師たちにダイヤグラムを突き付ける。

「あなたたちはどう思うの。ヘルメスなら、このダイヤをこなせると思う?」

男たちは皆少し悩んで首を縦に動かす。

「……三人交代だ。三人のファイアマンが交代でやればこの行程は可能だ」

嫌な誤算。特急機関車に自動給炭機がないのは大きなロスになる。

「……三人ね」

「二十八か所あるウォータートラフの一つでも逃すと蒸気が足りなくなるから注意しろ」

「心がけるわ」

それほどに水が必要か。

「石炭は通路まで満載してギリギリだ。シビアに石炭消費量を考えろ」

ストーカーがなくとも、ヘルメスはまだまだ走れるようだ。だが、なにかおかしい。矛盾していることがある。

「ちょ、っとまって。通路まで満載じゃないと無理なの?」

「そうだ。五時間でよければ石炭は足りるが、それじゃ間に合わないんだろ?」

「ええ。でも、交代できなくなる」

「あ、そうか」「停車時に交代すれば」「待て、あのダイヤはノンストップだぞ」

こんな単純なことにも気がつかないのか、と頭が痛い。こうなれば、あらかじめファイアマンを運転室に三人待機させておくか……。アッシャはそれを考えるとうんざりする。運転室はせいぜい二人用、ファイアマンの座る椅子は一人分。屈強な男が更に余計に二人いる空間を想像し、テンションが下がる。しかし、それ以外に方法はない。すこしうんざりしながらもヘルメスの最終調整を進めていった。日没も過ぎ、あと二時間後にアルテシアは発車する。


リヒトは刻示士としてすることはなく、ただ見届けることしかできなかった。クロエの手伝いをするか、どこか空いている席でひたすら祈っているか、どちらかと考えていた。

「もう一度だけ、投炭をしてくれない?」

だから、アッシャからそう言われた時、とても嬉しかった。アッシャの力になれる。

「……あと二人、乗るのか?」

「四時間、ひたすら平均速度百マイルを保つためにどのくらい石炭を投げればいいのか考えてみて。すごい酷な仕事よ。三人でも少ないくらいなのに」

「俺がやるよ。アッシャと二人で」

特に考えずにリヒトは口走っていた。

「は?」

「四時間くらい、おっさんのもとでは何度もやってる」

十時間以上の長時間乗務だって一人で石炭を投げ続けたこともあった。あの時は、その後三日間ほど腕の感覚が消えた。

「アルテシアを引いて時速百マイルよ?」

「貨物機関車の燃費の悪さを考えたら別にどうとも思わないさ」

虚勢だと思った。だが、言っているうちに思うのだ。ああ、それくらいならできるな、と。

リヒトがそう思ったのは、運転室に、自分とアッシャ以外を入れたくないという我が侭な気持ちがあったからである。

そこまで言うならやってみなさい、とアッシャの言い方が妙に心地よかった。


夕刊は大々的にカージナルの残した大記録を一面に持ってきた。

ありがたいのは、ミッドランドに新型機関車が登場したということは書かれていても、オペレータがどうこうというニュースはなかったことである。アッシャがカージナルよりも早い所要時間でロンドンにたどり着いても、九月一日の零時を超えると免許失効。その記録は無効になり、無免許で運転したアッシャは解雇される。ダメで元々の挑戦は幸か不幸かだれも注目などしておらず、「アルテシア」の乗車率はせいぜい六十五%がいいところだ。

それだけではない。クロエの要望は思ったよりもあっさり受け入れられ、数週間繰り上げられて新型客車が用意されたのだった。 

ミッドランドとカレドニアとの争いにあまり興味を持たない乗客たちは新型車両をいち早く堪能できるはこびとなった。紺色一色だったこの国の寝台列車だったが、この新型車両はまったく違った色をその身にまとう。

 ヘルメスがゆっくりとホームに入って来る。あふれるほどに石炭を満載し、検査を終えたその身は凛々しく銀色だ。あちこちに技師たちが修正を加え、アッシャの要望がより濃く現れた姿になっている。

 既に新型客車はその身を横たえており、丁寧な後退でヘルメスを連結位置に停止させる。

 来月デビューのこの車両がどうしてこの色なのか、ミッドランドの乗務員たちはこの時、初めて答えを知ることとなった。ヘルメスが連結されたアルテシアは、機関車の頭から客車の最後尾まで一つの線になったのだ。機関車と同じ塗装。機関車と同じ車両のサイズ。そして、機関車と同じ、妖精のレリーフが填められている。

まさかこの客車はヘルメスの専用するのでは? とまで思ってしまう。

発車二十分前。

久々にファイアマンの制服に身を包んだリヒトがホームに立った。

「リヒトくん、本当に一人でやるんですか!?」

「やるよ」

一種の開き直り、延長戦ができる喜びから多少の無茶ならなんでもできる。リヒトはそう思っていたのだ。

「二人でなにをされているのかしら?」

「発車まで二十分だぞ。無駄話してる場合か?」

アルテシアの切符を持ってやってきたのは、エーフィアとカルティナ。本日のヒーローたちだ。

「エーフィアさん? どうしてここに」

「明日の昼までにロンドンに帰らなきゃならないんだが、どうやらミッドランドがおもしろいことをすると聞いて来てみた。新型客車を出すには遅すぎたんじゃないか?」

列車を眺めながら言う。エーフィアとカルティナはどうしてアルテシアに乗ることにしたのだろう。おそらくはヘルメスに対する興味だ。カレドニアの最速を揺るがす機関車として、ヘルメスはどんな機関車なのか、オペレータとしての単純な興味だろう。

「アルビオンで何があったか、信号所の司令からある程度聞いてる」

エーフィアもカルティナも、萩峰の蛮行に呆れ果てたという。

「勝負はときの運だ。悪いが、俺たちの勝ちは譲らない。……まあ、がんばれよ」

エーフィアはリヒトと右手同士でハイタッチする。パァン、と小気味よい音が響いた。カレドニアからのエールだ。

「そうそう、リヒト・サーフィールド」

「なんだ」

はじめてカルティナから名を呼ばれた。

「決して手を抜かないでくださいまして? あなただけではなくアッシャ・プリムローズも」

「勿論だ」

「それでこそ私たちの好敵手(ライバル)でしてよ」

あのカルティナが、リヒト達をそう認めてくれたようだ。

「ありがとう、カルティナ」

同じコンダクターとして、礼を言う。すると、途端にカルティナは取り乱した。

「な、わざわざ例なんて言わなくてよろしくてよ! 別にあなた方に勝ってほしいなんてこれっぽっちも、これっぽっちも思ってないんですから! さあ! 行きましょう、エー様!」

「ああ」

二人は指定の号車に向かっていった。

「クロエ、あの人たちにも最大限のおもてなしをね!」

「もちろん、お客さまを区別なんていたしませんよ」

見せつけてやる、どうやらクロエはそう思ってくれたようだ。

「リラックスして。教官に言われたことを守っていれば大丈夫」

「おっさんに言われたことか? ……まともなことを言われた記憶がねえな」

「ふふっ、そうね」

発車五分前。リヒトは釜の中にまんべんなく石炭を積んでいく。火力は押さえがちのようで、発車に備えているようだ。ようやくアッシャが運転席に座る。

「乗客の中にエーフィアさんとカルティナさんが来ている」

「あいつが? そりゃあ見せつけてやらなきゃね」

「手を抜くなって、カルティナが」

「勿論よ」

発車一分前。ホームは閑散としている。誰もこのアルテシアに期待などしていない証拠だ。

クロエが笛を吹いて、ドアを閉める。静かにドアが閉まり、前方の信号が青く燈った。ショベルを握る手に自然と力が入る。

「出発よ」

これから四時間、未知の旅が始まる。


ブレーキペダルを解除、ボイラーからシリンダーに蒸気が送り込まれる。数百キロポンドの列車がゆっくりと動き出す。揺れもなく、滑るようにホームが流れていく。

「制限速度五十マイル。場内信号進行。少し加速するわよ」

一応アッシャが伝えてくれたことに感謝しなければならない。加速の力が襲ってくる直前に、身体をささえることが間にあったのだ。

落下するような勢いで後ろに身体が引っ張られる。客車との連結が解けたのではないだろうか? 息をするのも苦しい状況で後ろを見れば、客車はどうやら連結されているようだった。急激な加速はおよそ二十秒続く。加速からの解放も突然で、今度は前のめりになりそうだった。

「おい! 何だ今のは!」

「だって、ここまで加速が強いと思わなかったの!」

「乗客がいるんだぞ!」

そう、乗客たちはどうなったのか、少し気になる。だが、後ろから悲鳴の一つも聞こえない。

「それより、石炭がほとんどないわ。さっさと投げて」

「は?」

釜の中をみると、本当に残滓が少しだけ、のようだ。あれだけの石炭を今の加速のためだけに使ったのだろうか。リヒトは早速投炭を開始する。

速度計を見れば、もう時速六十マイルに到達していた。発車からたったの三十数秒。普通の機関車なら単機でも不可能な加速度である。

「まもなく南エディンバラ通過。その先は制限速度どのくらい?」

「南エディンバラから三マイルほど八十五マイル。そこからキンバリー・ジャンクションまでは無制限だ」

本来であれば七十五マイル制限区間であるが、刻示士の判断として、脱線せずに走れる上限速度がある。リヒトにこれを聞きながら走るつもりだ。何しろ、このダイヤを引いたのはリヒト当人。印刷されたものを見るよりも、彼に聞いた方がはやい。そんなこともあるのだ。

『ちょっと、早すぎです!』

無線でクロエが怒鳴ってきた。

『キンバリー・ジャンクションを通常より三分以上早通だから苦情がきていますよ!』

「これがダイヤグラム通りなのよ?」

『乗客が怖がっているのに』

「大丈夫、いったん高速域になれば怖くない」

『……わかりました』

キンバリー信号所を通過、東岸本線に突入する。列車の速度は時速百マイルをキープし、ここで一度目の走行中水補給に入った。


 東岸本線にある、六箇所の信号指令所は二十時前後からひっきりなしに電話が鳴りっぱなしだった。原因は、司令であるヘルマンのアルテシア四時間走行の決定にあった。

二十一時から二十四時、そして零時までの四時間の間、アルテシアが追い抜かなければならない列車とすれ違う必要のある列車をすべて逃すには、ひとつの側線に一本の列車が退避するだけの一重退避だけでは足りなくなったのだ。二重、三重退避を並べてようやくアルテシアが今月中にロンドンに到着できる。

 ヘルマンの独断でこのダイヤグラムが設定されたのは、今日の十七時過ぎだった。リヒトとアッシャには承認済みと言ってあるが、ヘルマンが全責任を負うことで無理に通したダイヤだったのだ。その無茶苦茶具合は、ロッソ・スプリンター運行時の振替ダイヤに勝るとも劣らない。そして困ったことに、詳細は現場の端々まで伝わったわけではない。ただ、アルビオンが普段やっている迷惑な運転をアルテシアでもやるとだけ聞いていたのだ。

 普段であればロンドンで監視するヘルマンは、いまエディンバラで東岸本線を見守っている。二十一時、アルテシアは普段通りにエディンバラを発車した。だが、発車した途端にキンバリーを三分もの早通である。この誤差はどんどん広まっていくだろう。広まっていってほしいのだ。一分でも一秒でも早くキングス・クロスへと走ってほしいのだ。

「現在、東岸本線を走っているすべてのオペレータたち、聞いてほしい」

ヘルマンは、列車無線に向かって言う。すべてのオペレータがこれを聞いているはずだ。

「現在、ミッドランド鉄道がカレドニア鉄道に勝つための最後の列車が、キンバリー・ジャンクションを通過した。これから零時までの間にロンドンまで走る予定だ。その妨げにならぬよう、各自注意を払ってほしい。一秒の遅れも許さん。アルテシアに線路を明け渡せ!」

『ちょっと、先生? 何を』

ヘルマンの指示に口答えするオペレータなどまずいないものだが。その例外はアッシャだった。

「アッシャか。お前は手元のダイヤグラムに従って走ればいい」

『え? それよりさっきの……』

「聞こえていたのか? 言った通りだ」

『聞こえてましたけれど……』

ヘルマンは列車無線を切った。そして、何本ものマイクを同時につかんで叫んだ。

「これより、諸君には戦時中と同等の緊張で行動してほしい。アルテシアはまもなくスコットランドからブリタニアに入る。すでに十分近くダイヤから速く走っている。絶対にアルテシアを止めるんじゃないぞ? アルテシアは最後の希望だ。ミッドランドの、最後の希望なんだ。刻示士の底力を見せてやれ。いいな? 誰もアッシャの邪魔をするんじゃあないぞ」

あくまでも、ヘルマンは中立の立場なのだ。だが、今だけはミッドランドの一員がごとく、アッシャのために全身全霊をかけている。

『ドンカスター、了解!』『ヨーク、了解!』『ニューカッスル、了解!』『ピーターバラ、了解!』『キングス・クロス了解!』

すべての信号所からの快諾。その声はアッシャには届かない。

「……頼むぞアッシャ。そしてサーフィールド」


列車は徐々に下り坂へと入っていく。アッシャは少しだけレギュレータを緩める。

「休んでおきなさい、リヒト。橋を超えたらまた長丁場だから」

「わかった。上り坂に入る時は八十五マイルになるようにして」

「任せて」

およそ二マイル半の長い鉄橋を渡り切る前に、再び投炭を開始する。

傾斜一%にも満たない、ゆるく長い上り坂。ここを超えればニューカッスルだ。

時刻は二十一時四十六分。エディンバラからここまで、最速列車でも一時間はかかる。既に十五分ほどの短縮になっているのだ。

三度目の水補給。アッシャは速度計を凝視する。補給の時は水の抵抗で、およそ十マイルほど速度が落ちてしまう。このタイミングをミスしてしまうと取り返しのつかないことになる。リヒトはそんなアッシャの様子を見ている余裕もなく、ショベルを動かし続ける。休んでもいいと言われても、決してショベルは離さない。既に血豆がつぶれて、グリップが赤黒く染まって来ているのだ。運転室は暗くアッシャは前方から目を離さないのでまだ気がつかないが、あと三時間、このペースで続けていくと掌がダメになってしまうのではないか。握力が続くかどうかも心配だ。既に腕の筋肉は悲鳴を上げているが、細かく速度の指示を出し続ける。


二十二時三十四分。エディンバラからおよそ四割のところまで来た。十回目の給水を終え、中間地点のヨークが近づいている。

「まもなくヨークだ。ダイヤよりも二分早い。いいペースだ」

「リヒトこそ、まったくペースが落ちてないわ。教官の指導が役立ってるわね」

石炭は半分近く無くなっていた。あれほど山もりだったのに、これだけ燃えたのか。

既に左手の握力がきかなくなったので、無理やりハンカチで縛りつけた。もともとショベルに左手は添えるだけ、まだまだやれる。アッシャはもうこの機関車の扱い方を完全にマスターしたのか、時速百五マイルを保って走り続けていた。

ひゅんっ、と流星とすれ違う。対向列車とのすれ違い速度は時速百六十マイルにも達する。あまりの速さに、その姿は愚か光を追うのもままならない。

「そろそろ減速すればいい?」

「通過線の制限速度は時速五十マイルだ。そこまでに減速いける?」

「任せて」

町明かりが見えてきた。ふた組だった線路が三組に増え、六組に増え、西の方から別の路線が近づいてきて、まもなくターミナルであることが分かる。頭上にはたくさんの信号が燈っており、アルテシアは赤い星々のなかに煌めく青い光を、星座をなぞるように走っていく。

減速するアッシャが何かに気がついた。

「……おかしいわ。今青信号が燈っていた先、通過線じゃなかった」

「……なんだって?」

「この先、アルテシアがいつも停車するホームになってる!」

リヒトは愕然とした。書いたダイヤも、ヘルマンから渡されたダイヤも、ヨークは通過線を走るような指示になっているのだ。ヨークからロンドンへ向かうと、すぐに長い峠越えになる。勢いをつけてここを越えなければ、予定よりもたくさんの石炭を消費し、速度も、時間もロスしてしまう。下手すれば間にあわない!

「どこまで減速すればいい? ……ねえ、聞いてる!?」

アッシャの視線は先に伸びる線路と速度計の間を行き来している。八十五マイル、八十マイル。通過できるぎりぎりの速度を図りあぐねている。

「……わからないんだ。限界の速度が」

「ハァっ? どういうことよ!」

「ヨークは通過線以外、全部のホームを通過することはできない。だから、速度制限なんてないんだ。この先を通過した列車はこれまでにない!」

たいてい時速二十マイル程度でホームにさしかかり停車する。このダイヤを引いたときは三十マイルでいいかと適当に書き付けた。だから、その程度の速度であれば通過はできるのだろうが、それでは到底間に合いそうにない。

「そんなことはわかってるわ。でも、アルテシアは通過するの!」

「どうすれば……いいのか……」

リヒトは頭を抱える。三十マイルだろうか。四十マイルだろうか。ここで判断を誤れば、最悪脱線転覆だ。あの日の事故が頭の中でフラッシュバックする。

「あなたが決めて。すぐに!」

「でも」

ホームで脱線事故を起こせば、どれだけの被害になるか想像もつかない。通過線は五十マイルだが、停車するホームだ。保険をかけて三十と言うか? 少し冒険して四十?

いくつかの選択肢が交錯する。どうすればいい?

アッシャはどう思うのか、聞こうとした時にこちらを振り返った。

「リヒトは刻示士(オペレータ)でしょ? 自信を持って導いて!」

オペレータはアッシャだけではない。

アッシャはそう一言、笑顔を見せた。リヒトは頷く。

「時速五十マイル!」

一瞬でも無駄にはしたくない。ヘルメスを信じて、アッシャの運転を信じて決めたことだ。


五十マイル!?

 リヒトの決断は予想よりも二十マイルも速かった。ブレーキから脚を離す。怖いけれど、リヒトがそう決めたことだ。ホームが近づいてくる。相変わらず信号は青。

このとき、はじめてわかったことがあった。アルテシアが通過する線路以外、ヨークの二十以上あるすべてのホームも待避線も通過線であっても、列車で埋まっていた。全て、アルテシアを先に行かせるために線路を空け渡した列車たちだった。

「あんなにたくさん……」

侵入速度を感じながら、ホームを睨むアッシャ。リヒトも固唾を呑んでタイミングを見計らう。失敗は絶対に許されない。あれだけ多くの人たちがアルテシアを待っていてくれるのだから。

最後の分岐を通過する。通過は十九番線、プラットホームの灯りが眩い。ホーム上には朝刊を積んだ木箱の山、駅員たちはアルテシアの通過の連絡により、一時駅舎へと退避している。速度は七十マイル。ホーム侵入直前にアッシャはブレーキを踏み込む。

途端、十四両の客車は強烈な音を立てて揺れ始めた。その揺れが足元に伝わると、ブレーキを戻す。五十マイルの速度でヘルメスの先輪はカーブへと突っ込んだ。

徐々にカーブはきつくなる。いちばんカーブが緩いこの十九番線でも、時速五十マイルでは脱線覚悟の急カーブになる。非常につよい遠心力がリヒトをホームに飛ばそうとする。動輪が一瞬、レールから外れた。

その絶妙な感覚をアッシャは感じていた。まだ限界じゃない。

ヘルメスの腰溜めについている車輪覆いがホームに接触しようとする。しかし、押し付けられる空気がクッションとなり、紙一重で当たらない。バサッ、と風に煽られて新聞の束が舞い上がる。

アッシャは中継信号が青信号を灯していることを確認すると、再びレギュレータを回した。減速から加速へ。それを合図にリヒトは再び石炭を投げ始める。

客車はヘルメスの通過した空間をなぞって、急なカーブを通過していく。ホーム側に引っ張られる力よりも、前へ前へと働く力のほうが強かった。

アッシャは大きく息を吸うと、二秒ためて吐き出した。

なんとか、通過できたその安堵からである。


ホームにはアルテシア通過の余波がまだ残る。タイフーンが通過したような惨劇を、別のホームや跨線橋で見る人たちが声も出せずに見届けていたが、更に驚愕を重ねるようなことが起きた。アルテシア通過から一分ほどだろうか? 前照灯を収めて走るアルテシアとは対照的に、大光量のヘッドライトで闇を裂くように照らしながら、一両の機関車が単機で駆け抜けた。ラピスラズリのように燦めく美しいブルー。そのままアルテシアを追うように加速していく。


「これで、よかったかしら」

緊張の抜けない面持ちでアッシャは言った。

「完璧だ」

「ここからはどうすればいい?」

「ひたすら加速してくれ。頂上で百十マイルだ」

現在五十五マイル。提示されたのは過酷な速度だった。

「……やってみるわ」

リヒトは目一杯石炭を投げ続ける。列車全体の加速度はさほど上がらない。しかも中速域からの加速は、平坦線でなければ難しい。

「もっとペース上げて!」

蒸気が足りない。水はどんどん入っていくのに、火力が足りない。リヒトもそんなことはわかっている。投げてはすぐに石炭にショベルを突き立てる。まだ足りない。五秒に一度のペースを四秒にあげる。まだたりない。四秒を三.五秒にあげる。まだ、足りないか……?

「時速七〇マイル!」

その声が、目標に達成できそうなのか、足りなくて憤っているものなのかリヒトはとっさに判断できない。

しかし、アッシャには見えていた。もう見えてしまった。長々と続く上り坂の先に待ちうける、東岸本線の最高地点が。あそこまでに百十マイル必要だというのか。

「もっと、ペースを上げなさい!」

「……わかった」

返答するのがいっぱいいっぱい。肩が外れそうだ。もっとペースを上げないと、蒸気が足りない。火炎の色が悪い。おっさんのいった通りにやらないと……! 歯を食いしばり手を休めない。上がれ、もっと上がれ。腕が痛い? いっそのこと、ちぎれ飛んでしまえば楽なのに、と思う。だが、この痛みの一つ一つがアルテシアを先へ先へと導いてくれるのだ。あきらめる気はさらさらない。ヘルメスでも上りで百十は厳しかっただろうか?

そう思った矢先だった。目の前に揺らめく炎が一層明るくなる。もっと加速できる余裕が発生した。そしてすぐに列車の加速が向上する。速度計がこれまでの二倍のペースで上がっていくのがリヒトにも見える。

「すごい! 何なのこの加速!」

アッシャも驚いている。客車が軽く感じるのだ。勾配が変わったわけでもないのに、列車が軽くなる。何があった。リヒトの脳裏を嫌な予感が駆け巡る。エディンバラからずっと無理な速度で走っている。もし、連結器が耐えられなくなって走行中に外れてしまっていたら、一気に軽くなった列車の加速は上がるだろう。

「リヒト、後ろを見て」

「見えるのか?」

「ええ! 客車がなくなったわけじゃないわ!」

アッシャも同じ心配をしていたようだ。少し手を休めて、窓の外を見る。小さいミラーが客車全体を大きく写していた。

そして、その一番後ろ、最後尾の客車のうしろ、一両の機関車が白煙を大きく上げていた。

「あの機関車、スワロー・エンゼルか!」

「ええ、まちがいないわ。ここで補助がいると思ったのね」

アルテシアから一分の遅れでヨークを飛び出したスワロー・エンゼルは、軽さ故の加速を十二分に発揮して追いついてきた。ヘルメスはスワロー・エンゼルを簡単に凌駕する高性能機だが、客車を十四両も引いていれば単機の敵ではない。追いつき、徐々に速度差を縮め、アルテシアの乗客に衝撃のないように後押しに入ったのだ。


「あのオペレータ、アイルさんよりもスワロー・エンゼルを乗りこなしているわ」

「そう……なのか?」

「ええ、補助機として一切無駄のない運転よ。いったい誰なのかしら」

アッシャはそのオペレータが誰か見当もつかないようだが、リヒトにはわかっていた。他のオペレータはよく知らないが、あれだけ地味で堅実な運転をするのはただ一人しかいない。すべてを悟って駆けつけてくれたことに頭が上がらないが、それで投炭に手を抜くと怒鳴られそうだ。何度も怒られて覚えた基本通りに、燃え盛る炎をコントロールしていく。


さすがはプリムローズの運転だ。

スワロー・エンゼルの役目は、この峠を越えた時点で百十マイルほどに速度をつけてやればいいだけだ。あの坊主の書いたダイヤをみれば一目で分かる。スワロー・エンゼルの蒸気が枯れても、アルテシアの背中を押してやれればそれでいい。

ゴドレッドは使い慣れない特急用機関車のレギュレータを細かに動かし続けた。良い機関車じゃないか、スワロー・エンゼル。これからのミッドランドの標準機になっていく気がする。しかし、あの銀色の奴には逆立ちしてもかなわないこともわかっていた。


スワロー・エンゼルの助けを借りて、アルテシアはついに時速百十マイルに達した。上り坂でこの速度は僥倖としか言いようがなく、半分ほどの乗客は何事か、と窓に殺到している。だが、何も見えない。今宵は月も出ていない。漆黒の闇がひたすら流れゆくだけの峠越えで、信じられない速度で風景が流れていったようには見えなかったのだ。

 この速度で走るのが夜行列車でよかったとも思う。もし、日中にこの速度で走ったら、客車は阿鼻叫喚だろう。たとえ、揺れが少なかったとしても、あまりの速度に人は恐怖を感じるものだ。

 だが、その恐怖を持たない者はいくらか存在する。ここにいる、オペレータたちである。

 速度が百十マイルを超えると、あと押しの間隔が希薄になってきた。スワロー・エンゼルの速度では、ヘルメスの速度に追いつけない。絶望的なまでの性能差が現れた。

 百十、百十一、百十二……

「リヒト、もうすぐ頂上よッ! どうすればいいの!?」

「そのまま突っ走れ!」

「オッケー、行くわよ!」

百十三、百十四……。

今や、カタパルトから射出された様な勢いで、坂を駆け上がるアルテシア。

流線型のボディはまっすぐに風を切り裂き、空気の壁に楔を穿つ。そして、この東岸本線の最も高い地点に差し掛かり、飛翔した。仰ぎみれば天の川、列車は星の海の中を走る。

  

 無意識に調圧弁を切っていた。一秒に満たない瞬間、車輪はレールを外れたのだ。十四両の客車もそれに続き、ほんの短時間だけ、浮き上がった。

 そして、まっすぐ着地する。再び調圧弁全開。ここから、高低差にして千フィートを一気に下り落ちる。アルテシアはこれからの十五分間、ダイヤ短縮のために、流星となる。リヒトの書いたダイヤグラムでも、最高速度は百二十マイル。ここを走り抜けると都市部に入り曲線区域における速度の制約に縛られるため、この十五分がミッドランドに残された最後のチャンスだ。

リヒトがこのダイヤを書いた時点では、アッシャのことも、ヘルメスのことも、まったく想定していなかったの。なのに、そのダイヤに沿って列車はこうして走っている。

俺が、アルテシアを動かしている。ふとそう思う瞬間がエディンバラを出発してからいくつもあった。刻示士はもうひとりのオペレータ。あながち間違ってないんじゃないか、と思った。


二十三時二十分。リーズの頂上を超えたアルテシアは、更に加速する。長い長い下り坂だ。ここからは機関車の性能とオペレータの度胸だけが頼りとなる。

「百十五マイルよ。これ以上はあがらないわ」

「もしかして、ここが上限か?」

 メーターは百十五を示したところで針が止まっていた。石炭は途切れることなく投げ込まれ、蒸気もまだまだ余力が見える。

「ヘルメスのメーターがここでお終いなの」

もしかして、百二十マイルには届かないのか? リヒトは不安になる。

その時希望の光が表れた。ダイヤル式メーターの横に取り付けられた小さな真空管。その中に小さく数字が表れた。百十七。どうやらさっき、ベルクシュプールの技師たちに取り付けられた高速度に耐えるメーターらしい。

「まだまだいけるわ」

「行けるだけ行くぞ。余裕は一秒たりともないんだ」

「それじゃあ、手を緩めないで!」

言われなくても! とリヒトはこれまで以上に石炭を投げる。

時速百十八マイル! 既にテスタ・ロッサの作った国内記録は破られた。残念なのは、それを測る車両がこの列車には連結されていないことである。

対向列車はこの区間では存在しない。ゆえに、光は一つもなく、二マイルごとに流れゆく青信号が列車の外での唯一の光だった。

「アッシャ、真っ暗だけど大丈夫か?」

蒸気機関車の視界はそもそも良くはない。さらに夜行列車ではほとんどゼロだ。ヘルメスのヘッドライトは腰だめに二つ。流線型のボディから走行時にせり出すものなのだが、アッシャは空気抵抗をすこしでも減らすためにエディンバラから一切使っていない。アルテシアは完全なる闇を驀進する。

「昼間と変わらず見えるわ」

百十九を指していた速度計が、ついに百二十の大台に差し掛かる。

食堂車で見ている乗客は、あちらのメーターが上限に達しただろうからこの速度を知ることはできない。アッシャとリヒトだけが知っている、世界記録だ。

「百二十マイル! これならいける?」

「間にあう。……間にあうっ!」

百二十一マイルに到達した時、勾配はなくなった。坂道はここまでになる。

残り六分二十秒。速度を落とさずに走り切らなければならない。補機も、坂道の助けもない。二人だけの独壇場、舞台は整えられた。

「行くわよ」

自分に、ヘルメスに、そしてリヒトにそう囁いた。

 ブレーキからは足を外し、レギュレータに全神経を集中する。紅い瞳は機関車の先に見える、一条の線路をしっかりととらえていた。百二十マイルを超えたが、加速は止まらない。


暗闇でも明るく見えるのはうらやましい、なんて多くの人から言われたものだ。

だが、アッシャにとっても暗闇は恐怖だ。できることならば、昼間の列車を運転したい。全部、そう、全部見えてしまうのだ。時速百マイル以上で走る恐怖。自分以外すべての人間はその暗闇を見なくて済むのに、アッシャだけはずっと全部見えて来たのだ。

見える。全部見える。滑りそうな濡れたレール。線路に紛れ込んだ野鳥の影。小さな傷やズレでも全部見える。嫌でも見えてしまう。それがずっと怖かった。

 しかし、今はそれだけではない。競争に合わせて整備された軌道。枕木。流れる風もアッシャには見える。もっと、もっと早くなれ。もっと見たい。今よりも一マイルでも速い世界を。

 アッシャは限界まで開いているレギュレータをさらに押し込んだ。蒸気の残滓が、ピストンの運動をアシストする。弱々しい、でも確実に加速する間隔が伝わってくる。

 それに、暗闇に恐怖を感じても、今はもう怖くない。腕まで血に染めて、汗でびしょびしょになりながらも頑なに投炭をやめないリヒトが、わたしを信じて隣にいるから。

 

 すべてが見える。見えてくる。見ていたい。

この先がどんな暗闇でも、わたしは何も怖くない。

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