第5話 君の名は
あおいは窓の外をぼんやりと眺めていた。
「あおいちゃん!」
「わあっ! びっくりしたぁ……」
教室全体に響き渡る快い声とともに、可愛らしい顔が突然目の前に現れた。
「なんか元気ないね、大丈夫?」
紫帆の顔が心配そうに歪む。いつもニコニコしている紫帆だから、なんだか申し訳なくなってしまう。
「部活のことで、ちょっとね」
「部活?……あ!」
何か良からぬことを思い出してしまったような顔で、紫帆はあおいをじっと見つめた。
「ど、どうしたの」
「あおいちゃんに言わなきゃいけないことがあったんだった」
紫帆は辺りを見回しながら、声を潜めて続けた。
「あおいちゃん、アイドル部を探してるって言ってたでしょ」
「うん」
「あのね、聞いた話なんだけど、そのアイドル部……」
紫帆の顔が真剣味を増していくほどに、あおいの申し訳なさは急上昇していく。
「活動停止してるらしいよ」
まさに今そのことで頭を抱えているのだということを、あおいは言い出せなかった。口にしてはいけない話でもするかのように紫帆が話すからなのか、もしくはそんな部活に入りたいと熱く語った自分が恥ずかしくなっていたからなのか、それはあおいにもよく分からなかった。
「そ、そうなんだ」
「なんか、去年の夏に事件があったとかで」
「事件」
“事件”については初耳だった。
「どんな、事件なの」
「詳しくは知らないんだけどね。喧嘩?みたいなのがあったとか何とか。それでアイドル部の子には近づかない方がいいって、軽音部の先輩が言ってたの」
部室で出会った先輩達を思い出す。“事件”や“喧嘩”という響きが、感心するほど彼女達の顔にピッタリとはまった。
「喧嘩ねえ」
「やりかねない」と漏れ出てしまうのを、あおいはすんでのところで抑えた。
「だからあおいちゃんに「気をつけて」って言おうと思ってたんだった!」
「……ありがとう」
「もう遅いよ」と言いたくなるのをなんとか堪え、できる限り精一杯の感謝の気持ちを、笑顔の紫帆に伝える。
「でね、あおいちゃん。アイドル好きってことは音楽も好きだよね。もし興味あったら軽音部においでよ。 そうだ、今日もこれから一緒に行こうよ!」
あおいはただ嬉しかった。知り合ったばかりで、こんなにも良くしてくれる友達に巡り会えたことが、とてもありがたかった。こだわることが何もないのなら、軽音部であれ何であれ、
けれどあおいにとって、アイドル部はこだわりでしかなかった。この学校へ来た理由が、そのためだけだと言っても過言ではないのだから。
「ありがとう。でも、ごめんね。もうちょっと考えてみるよ」
それを聞いた紫帆は残念そうな顔にはなったけれど、そこにある明るさは決して変わることはない。ほとばしるような笑顔は、しぼみつつあったあおいの気持ちを、いつの間にか少しだけ元気づけてくれていた。
「そっかー、分かった! 気が向いたらいつでも来て。視聴覚室でいつもやってるから」
そう言うと紫帆は、自分よりも背の高いギターケースを背負った。片手にはスクールバッグを引っさげて、風が吹き抜けるように教室を後にする。あおいはその残像に向かって、ゆらゆらと手を振った。
「喧嘩、かあ」
あおいの頭の中で少しずつ、パズルのピースがはまっていきつつあった。
職員室での嶋の話と、クロから聞いた話。そして今聞いたばかりの紫帆の話。それぞれの話を結びつけているのは、記憶の中にこびりつくようにして残っているあの日の出来事。あのとき出会った二人の先輩と、その部室。
あの部室は確かにアイドル部の部室だった。きっとクロに何も言われなかったとしても、部室の中を一つ一つ覗いていれば、間違いなくあの場所を特定することができたはずだ。あれほどの仕打ちを受けておきながら、あおいにとってあの部屋は、輝いてしか見えなかった。
「やっぱりきっと」と、あおいは思う。
あおいは、噂話よりも、自分の直感を信じようとしていた。
とはいえ、実際に今は活動していないということに変わりはない。
放課後の教室には、あおい以外誰もいなくなっていた。
「でも、どうしたらいいんだろう」
途方に暮れたあおいは、力なく席を立つ。ぼそりとつぶやいた独り言が、廊下へすっと抜け出ていった。
「こらあ! 廊下を走るんじゃなーい!」
教室の外は、やけに賑やかだった。男性教員らしき大きな声と、女子生徒の悲鳴に似た音が、人の少なくなった廊下に響き渡っている。
「わ」
教室を出ると、横から勢いよく飛び出してきた大きな物体に衝突した。あおいは尻もちをついたが、手に持っていたスクールバッグが程よくクッションになって、痛みは軽くすんだ。
「おあっ! す、すまん」
勢いのわりに、ぶつかった痛みはほとんど感じなかった。大きく柔らかい布団に飛び込んだような感覚。
「だ、大丈夫かい」
あおいは驚きで一瞬顔をしかめたが、どうやら体はなんともなさそうだった。
「は、はい」
「あ」
衝突してきた物体、正しくは、さきほど声を張り上げていた男性教員は、あおいの顔を見下ろすとすぐに何かに気がついた。
「大原あおいさん、だね」
「え」
名前が呼ばれてようやく顔を上げると、大きな体がゆっくり腰を落として、ニッコリと笑っている。
大きさのわりに威圧感はない。瞳がすっかり隠れてしまうほど細くなった目からでも、その奥にある優しさが感じられた。
「えっと……」
しかしそれは知らない顔だった。先生というのは、自分で授業を持たない生徒の顔まで覚えてしまうのだと、勘違いをした。
「ああ、失礼。直接こうして話すのは初めてだったね」
両手で持っていた紙の束を床に置くと、男性教員はあおいに手を差し伸べた。
「
はっきりと聞きとりやすい声。それに促されたようにして、あおいは榎本の手を取った。
「あ、ありがとうございます」
あおいはスカートを手で
「先生たちは、他の学年の生徒の名前まで覚えてるんですね」
「そんなわけないだろう」
「え」
「クラスの生徒だけで精一杯だよ。名前を覚えた一年生は、まだ君だけだ」
「ど、どうして」
あおいの中にある不安という不安が増幅し、急速に大きくなっていく。無意識に身の回りの安全を確認していた。
急に不審そうな目つきになったあおいを見て、榎本は笑った。
「入学早々、職員室の扉をぶっ壊したからだ」
「がははは」という笑い方は、体に似つかわしく豪快だった。
あおいの顔がじわじわと赤くなっていく。
「すいませんでした……」
しゅんとして目線を落とすと、さっきまで榎本が持っていた紙の束が目に入った。そのうちの何枚かがパラパラと舞う。廊下に面した窓の隙間から、少しだけ風が吹き込んでいた。
「これって」
あおいは、自分の方へ飛んできた一枚を拾い上げ、じっと見つめた。
“アイドル部へようこそ”という文字が、薄桃色の蛍光色でポップな感じに描かれている。
「勧誘チラシだ」
あおいの顔が勢いよく榎本を見上げた。
「もしかして先生が顧問なんですか」
宛もなく探し求めてきた頼みの綱を、やっとのことで手繰り寄せたような感動が、一枚のチラシを強く握りしめさせる。
「ちがうよ」
「へ」
「顧問は別の先生だ。俺じゃない」
シワの寄ったA4用紙が、あおいの手から舞い降りる。
「なんだ」
「なんだとは何だ。先生だってな……」
榎本の気丈な声はそれ以上届いていない。
あおいはしょぼくれた目で
「じゃあこれは」
「さっきから言ってるだろう。勧誘チラシだ」
「でも先生は顧問じゃないんですよね」
「顧問以外が勧誘しちゃならん、なんてルールは無かったぞ」
「ちゃんと調べたんだ」と自信に満ちた顔をしながら、榎本は覚えたばかりの“部活動要項”の話をくどくどと語り始めた。腕まくりをしているシャツに、汗が滲んでいる。
あおいはキョトンとしたまま、その場でしばらくフリーズしていた。
アイドル部に入って全国大会を目指す予定だった。
なのにその部活は活動すらしていない。
学校中に満ちた、その部活動を口にしてはいけないかのような不穏な気配。
部室に行けば、アイドルとは縁もゆかりもなさそうな怖い先輩達。
しかし、得体の知れない先生がその部活の勧誘をしている……
一体何がどうなってるんだ。
「アイドル部の話は聞いたかな」
パニックの入口まで来ていたあおいは、久しぶりの問いかけによって何とか現実に戻ってくることができた。
「少しだけ、ですけど」
「なら話は早い。部員は最低五人、顧問は俺が説得する」
ブイン、ゴニン、セットク……
榎本の発した音だけが、頭の中をただ通り過ぎていく。
「何がですか」
「アイドル部を再興させよう」
あおいの足元に落ちたままになっていたチラシを拾い、榎本がそっと差し出す。
あおいはそれが何を意味するのか分かっていなかったが、目の前に出てきた紙きれを反射的に握っていた。
「君の力が必要だ」
廊下の窓がガタガタと音を立てた。
わずかに開いた窓の隙間から、強めの風が二人に向かって吹きつける。
あおいの短い髪も制服も、手にしたチラシも激しく靡いた。
揺らぐことがなかったのは、まっすぐ向かい合う二人の目だけだった。
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