第7話 蜃気楼②

「なに、ポスター?」


 紫帆の話を聞き、あおいはもはや選択肢がないことを知った。どれだけ小さくても、糸口になりそうなものがあれば動いていくしかない。

 何かのきっかけになればという思いで、初めて部室を訪れたときのことを榎本に話した。


「アイドル部の部室なんだから、そのくらいあるだろう」


 束の間ではあったが、あおいはあのとき確かに見つけた。ひび割れた白い壁面に、可憐かれんなアイドルのポスターが丁寧に貼られているのを。


「普通のアイドル部ならそうかもしれません。でも今のあの人達は、アイドル部であってアイドル部じゃない」


 片手間に聞いていた榎本は、あおいの言う意図に気づき、チラシを差し出す手を止めた。


「何も思い入れがないのなら、近くになんて置きたがらないと思うんです」


 それにあおいが見たのはポスターだけではなかった。

 棚の上に雑然と並べられた、それらしきCDやDVD。床にはジャージやシューズが散乱していた。どれも学校指定のものではなく、より激しい動きに耐えられるように作られたもののように見えた。


「なるほど」


 あおいの話を最後まで聞くと、榎本は腕を組みながら顎に手をやった。


「あの人達もまだ、全て諦めてしまったわけではないんじゃないでしょうか」








「いい加減にしろよ!」


 もうここに賭けるしかない。

 決死の思いで、あおいはそこにとどまっている。

 

 「帰らない」と言い放たれたあおいの言葉に、女戦士の耳がかっと赤くなった。

 胸ぐらをつかまれていない方の手が、力強く振り上げられるのを、あおいは見た。


(殴られる……!)


 あおいはとっさに目をつむる。


 しかし拳が飛んでくることはなかった。

 おそるおそる薄目を開けると、振り上げられた拳がそこで時間が止まったように停止していた。


「君の負けだな、鵜久森うぐもり茜音あかね


 榎本が、“鵜久森茜音”と呼ばれた女戦士の腕をつかんでいた。

 鵜久森茜音が力づくで榎本の手を引き離す。


「ちっ! ここは女子棟だぞ、変態教師」


 グラウンドから見て手前側が男子部の棟で、奥にあるこちらが女子部の棟。部室はもちろん更衣室なども兼ねているので、いわば男子禁制ともいえる建物だった。


「ああ、それはすまん。しかし暴力はいかんだろう。担任として見過ごすわけにはいかない」


「何のつもりだよ、あんた」


 イスの上に倒していた体が起こされ、寝起きのようなハスキーボイスがさらに威嚇する。


「担任の先生にあんたはないだろう、堂島どうじまみどり。俺は榎本だよ。エノモト、ター、ケー、ルだ。ちゃんと覚えてくれよな」


 「な」と言って、榎本が堂島翠の肩を叩いた。


「触んな」


 力強く跳ね除けられるが、榎本は動じない。そのまま部室の中を物色し始めた。


「おい、何してんだ変態野郎」


 地べたで睨みをきかせていたすずが、ゆっくりと立ち上がる。


「たしかに大原の言ったとおりだ」


 榎本は感心するように部室を見回している。

 ふと強い視線を感じ、壁際に目を留めた。


「ポスターは、君だったか」


 そのとき頭部に鋭い痛みが走った。


「何してんだって、聞いてんだろうが」


 勢いよく振り落とされた体育館履きが、涼の足もとにころりと転がる。

 遠巻きにその光景を見ながら、あおいはなんとか正気を保つのに必死だった。脚が嘘みたいにガクガク震えている。


 しかし、榎本は笑った。


「はははは! 残念ながら今ので“おあいこ”だ、城山しろやますず! 後輩への暴力未遂、それを抑えるために俺はやむを得ずここへ入った。そして教師への暴力ときた」


 人差し指を真っ直ぐに、城山涼へと向けている。

 涼の背後でドガッという大きな音がした。堂島翠の蹴飛ばしたイスが倒れた。


「……涼、行こう」


 なおも榎本に食い下がろうとする涼を、翠が引っ張って外へと連れ出す。

 残った榎本と鵜久森茜音の目が合った。 


「ちっ」


 鵜久森茜音は何も言わず、二人の後を追おうと、部室に背を向けた。

 

「もうやらないのか、アイドルは」


 外で眺めていたあおいには、鵜久森茜音が一瞬だけ立ち止まったように見えた。しかしそれは“そんな気がした”という程度のものでしかなく、実際には振り返ることもなく、彼女はそのまま部室を後にした。






 部室の外で、あおいは黙ったまま立ちすくんでいる。


「そんな顔するな」


 榎本に背中を押された拍子に、涙がこぼれ落ちてきた。


「やっぱり、だめでした……」


 大きな体がゆっくりと、部室の前のベンチに腰掛ける。


「だな」


 言葉とは裏腹に、榎本の声は明るかった。

 あおいはその表情が気になって、右腕で思い切り涙を拭った。


「俺も今日ここに来て、大原と同じことを思ったよ」


 あおいの呼吸は嗚咽で乱れ、なかなか言葉が出てこない。


「馬場絵里を知ってたのか」


 その名前の響きを聞くだけで、涙が引いていく思いだった。

 彼女こそが、あおいにとっての救世主アイドルだった。必要なことは、全て彼女に教えてもらったと言っても過言ではない。


「はい」


 そしてそれが紛れもなく、部室のポスターに写る偶像アイドルでもあった。


「大きくなる前に解散してしまったから、知らない人も多い。だが彼女がいたFORTEというグループは、間違いなくアイドルを変えた」


 あおいが初めて見る、榎本の真剣な表情だった。


「馬場絵里は言ったんだ。“私達は正真正銘のアイドルです。でも……”」


「「“アイドルである前に人間です”」」


 遠くを見ていた榎本が「お」という顔で、あおいの方を向く。


「よく知ってるな」


 あおいは小さく頷いて、部室の奥へと目をやった。

 乱雑な部屋の中にあるそれだけは、破れたり汚れたりせずにそこにある。少し黄ばんだ白色の壁に乗って、馬場絵里だけがくっきりと浮かんでいるように見えた。


「FORTEは何もできないところからスタートした。もちろん馬場絵里だってそう。本当に全員素人だった。だから彼女達はいつも笑顔でいられたわけじゃなかった。めちゃくちゃ怒ったし、何回も泣いたんだ」


 泣いた、というところに反応して、あおいは残りの涙をふいた。


「あのころはアイドルが乱立していて、それぞれがないがしろに扱われていたこともあった。すべての行動がネットで配信されたり、心身がボロボロになるまで働かされたり」


 榎本もあおいと同じように、部室の中の馬場絵里を見ていた。


「考えてみればはじめから異質だったよ。そうやって配信されてるカメラの前で、プロデューサーに楯突たてつくんだもんな。そんな中での“人間宣言”。あれは痺れた」


 榎本の話したことは全て、あおいももちろん知っていた。けれどそれを聞いていることは、全く退屈ではなかった。彼がその中で何を言いたかったのかも、よく分かった。


「もしかしたらあいつらも、そういうところにシンパシーを感じているのかもしれないな」


 あおいはさっきまでいた三人の先輩達を思い出していた。

 思い出すだけで身震いがする。

 しかしどれだけ恐ろしくても、あのポスターが目に入るたびに分かり合えるかもしれないという期待が、何度も何度も湧いてくる。

 馬場絵里の力はそれだけ強かった。そう思うと、ポスターがあおいに向かって微笑みかけているようにも見えてくる。


「ていうか」


 涙はとっくに引いていた。


「先生、あの人達の担任だったんですか」


「うん」


「早く言ってくださいよ」


「担任といってもホームルームくらいしか一緒じゃないからなあ。あいつら、いつもいないし」


「そういうことじゃなくて」


 少し強めの春風が吹いた。風は部室の中までするりと入っていくと、あのポスターの方にも向かっていく。けれど馬場絵里は風に軽く触れられただけで、何事もなかったかのようにこちらを見ていた。


「授業には出なくても、ここには毎日来るんだもんな」


 榎本の声は、寂しそうでも、嬉しそうでもあった。


「あのポスター、実は私も持ってるんです」


 グラウンドでまばらに聞こえ始めた運動部の声をBGMに、二人はぼんやりとポスターを眺めている。この静かな建物だけが、世界から切り離されてしまったかのようだった。


「奇遇だな」


 榎本の言葉が、グラウンドへと戻る春風の中に溶けていった。


「俺もだよ」








 榎本がいなくなってからもしばらくの間、あおいは部室の前でぼんやりとしていた。

 よく考えれば、先輩達がいつ戻ってきてもおかしくないということに気づき、慌ててその場から逃げるようにして去る。


 放課後の学校はとても広く感じる。

 朝の時間はホームルーム、最初の授業はその教室で、次の授業はあの教室。学校がある間は、自分がどこにいなければいけないのかが決まっている。どこに行けばいいのか分からなくことは、まず無い。

 けれど帰りのチャイムを合図にして、部活に入らない生徒の居場所は突如として消滅してしまうようだ。


 居場所をなくしたあおいがトボトボと歩きながらたどり着いていたのは、体育館だった。


「だれもいないじゃん」


 平日の放課後。部活動のゴールデンタイムだというのに、珍しく体育館ではどこの部も活動していない。人影さえも見当たらなかった。


 小さく開いていた鉄の扉を、両手に体重をかけながら押し開く。入り口で靴を脱ぎ、背中に受ける風圧に押されるようにして中へと入っていく。

 靴下の上から触れる体育館の床は、ひんやりとしていた。

 頭上高くまで伸びている天井。それを囲むように体育館を張り巡らしている大きな窓から、外の光が差し込んでいる。電灯がついていなくても、真っ暗ではなかった。


 正面にステージが見えている。

 あおいの脚が無意識にゆっくりと、その場所へ向かって進んでいく。


 ――ダメなんかじゃないって 空が呼ぶ


 誰もいない体育館では、思ったよりも歌声がよく響いた。








「君は、時代を越えても人を救うのかもしれないな」


 榎本は廊下を歩きながら、スマホの画面を見つめていた。あの部室のポスターと同じ笑顔が映し出されている。


「ん」


 スマホをポケットにしまいながら前を向くと、明るい髪色の生徒が何やらコソコソと動いているのが目に入った。


「そこで何してるんだ」


「……しー!」


 勢いよく振り返りながら、人差し指を自分の口もとに寄せる。彼女はすぐに元のように向き直った。

 体育館の入り口にある扉が少しだけ開いている。そこから中の様子をうかがっているようだ。


「いったい何を」


 薄暗い館内に外の光が、窓枠に沿ったまだら模様に差し込んでいる。

 その光の模様の中を、照らされ、ときには影に隠されて、不規則なリズムで移動している姿は、とても幻想的だった。

 水の中を漂うクラゲ。暗闇の水中に囚われた生き物が、わずかに差し込む光に触れたときの美しさは、この上のない解放感に満ちている。


「大原」


 あおいが体育館を独り占めして踊っている。わずかに口ずさむ歌も聞こえた。


「面白いなあ」


 金色の髪をした女子生徒が、ようやく口を開いた。スマホを向けてあおいの姿を追い続けている。


「面白い?」


「そ。見てるだけで、いつの間にかこっちが笑ってる」


 確かに彼女は、声を出さずにずっと笑顔のままでいる。


「それにアイドル部に入りたいだなんてね」


「面白いのかな、それは」


「面白いじゃない。みんな近づきたくもないのに」


 二人はひそひそ声で話しながらも、その目は常にあおいの姿を追っていた。


「はは。歌、下手くそだなあ」


「ダンスもな」


 二人は同じ方向を見ながら、笑った。


「でも」


 榎本がそう言うと、彼女がすっと振り向いた。そこでようやく向かい合う。


「不思議な子だ」


「だから言ったでしょ。面白いって」


 そうしてまたあおいを見ている間に、彼女はどこかへ行ってしまっていた。

 黒柳千尋。容姿だけでなく、自由すぎる行動や言動からもよく目立つ。学年の中では、既に全ての教員が名前と顔を一致させることができる不名誉な有名人だった。


「本当にひどいもんなんだがな」


 歌もダンスも、誰かに教わったことがあるわけではないのだろう。

 それなのに、榎本は不思議と目が離せなくなっていた。


「いつの間にかこっちが笑ってる、か」


 ――照らしてくれる 僕も君も


 榎本がさっきの言葉を思い返しながら、あおいに合わせて思わず歌をくちずさむ。

 そこに煌々こうこうとした電灯が灯ることはなかったが、外から差し込む日差しはずっと、あおいのもとに届き続けていた。

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