第8話 踊れ、体育館

 ばたんっ


 ラジカセから流れる音楽よりも大きな音を立て、ステージ上に倒れ込んだ。


「おおはらっ!!」


「せ、せんせい……」


「大丈夫か!?」


 あおいがうつ伏せのまま答える。


「もう、だめかもしれません……」


 榎本は足元にあったペットボトルを持って、あおいのもとへと駆け寄った。


「大原っ、水だ、水!」


 あおいはゆっくり仰向けに裏返ると、手渡されたペットボトルを受け取った。

 500mlが数kgのダンベルのように重たい。一度上げた腕が、何かに叩き落とされるようにして、そのまま床に落ちた。


「はあ……。こんなに持たないなんて」


 試しに少しだけ、と踊ってみただけだった。

 ところどころで榎本が停止と再生を繰り返したが、せいぜい二曲分くらいの時間だったはず。その程度でこのザマなのだ、とあおいは落ち込んだ。


「すまん、大原」


 そんなあおいを見て、榎本は似合いもしない真剣な顔をしている。


「何ですか」


「時間で止めるの忘れてた」


「え」


「お前、見かけによらず体力あるなあ」


「え?」


 あおいは体を横たわらせたまま、近くのスマホに手を伸ばす。ディスプレイに表示された時刻を見て、吐き出されたのは妙に甲高い声だった。


「は!?」


「いやほんとすごいよ」


「すごいよ、じゃないですよ!」


 グワッと勢いよく上体が起きた。まだそれだけの体力が残っていたことに、あおい自身が驚く。


「30分以上ノンストップで踊り続けてたよ、大原」


「だから……、踊り続けてたよ、じゃないですって! もっと早く止めてくださいよ!」


「いやすまん。つい集中してしまって」


「そういうのが顧問の役目でしょうが!!」


 顧問。

 その言葉の響きは榎本の鼓膜を越えて、そのずっと内側にある骨の髄まで浸透していった。


「顧問か」


「なに感傷に浸ってんですか」


 自由のきかなくなった体で、あおいが不機嫌そうに言った。

 体育館の扉がそれぞれ全開に開かれていた。それぞれの扉を抜けて、心地よい風がステージ上へささやかな春の匂いを運ぶ。


「まだ、部にすらなってないんですから」


 この数十分で急に吹き出した汗は、風に当たると冷たくなった。ジャージの下に着たTシャツが肌に張り付き、体がブルッと震えた。


「いやしかし、才能はあるぞ」


「才能? 何のですか」


「アイドルのだよ」


 決まってるだろ、とでも言うような顔をする榎本。


「私が、ですか」


「ほかに誰がいるんだ」


「あるわけないじゃないですか」


 小さい頃からの憧れだった。

 あんな風に踊ってみたい、あんな風に歌ってみたい。そう思い、願い、目指し続けて、そのうち自分には到底たどり着けないものなのだと知った。

 しかしその反面、自分にはできないかもしれないと思っていても、やりたいという気持ちが薄れることはなかった。


「ある」


 あおいはそのとき、榎本が本物のアイドルファンなのだと思った。

 自分がそうであったように、彼らは本気で応援する人種なのだ。誰かが何かを目指している姿を、全力で後押しすることを生きがいとする。まさに今の榎本がしようとしていることは、それなのだと思った。だからこそそれほど根拠なき言葉を並べるのだと、理解した。


(それにしても言いすぎだよ)


 と思いつつ、あおいは呆れたような顔で重い腰を上げる。


 体育館が急に、ぐわーっと広がったような感覚だった。たとえそれが高校の小さな体育館だったとしても、ステージから見る景色は、それ以外の場所から見えるものとは全く違う特別なものだった。


 あおいはようやく、体育館中の視線がステージに注がれていたことに気づいた。


 手前のバスケ部と奥のコートにいるバレー部。それだけでなく、それぞれの入り口にある扉のところでは、ちょっとした人だかりができている。

 ざわざわとした声が、少しずつ音量を増すようにして、あおいの耳に届き始めた。クスクスという笑い声や、あざ笑うかのような表情が垣間見かいまみえる。それは、あおいの知っているアイドルに向けられるようなものとは、少しだけ違っていた。


「こんなところでなんともなく踊れないぞ、普通」


「せ、先生がやれって言ったんじゃないですか……!」


 体の火照ほてりは冷めていたはずなのに、あおいの顔がまた赤くなる。


「いやそれにしたってできないね、普通は」


「ぐぬう……」


 榎本は心から感心した様子で、あおいをまじまじと見つめながら頷きを繰り返している。


 自信があったわけじゃない。ただ言われたからやっただけ。あおいにとってそれは、ごまかしでも言い訳でもなかった。


“お前のダンスを見てみたい”


 真剣な顔でそんなことを言われたら、やってみたくなって当然だった。そしてそれが、なんて言われたら、あおいにとってはやる以外に選択肢がなかった。




 そのとき、体育館に別の声が響いた。

 ステージの真正面にある一番遠い扉のところに、明るい髪色の生徒達がよく目立っている。遠目であってもよく分かる。この前の先輩達だった。


 その声は周りの生徒達を我に返らせ、それぞれが思い出したように自分のすべきことに行動を移していく。体育館は、いつもの日常にすっかり戻った。

 ステージ上にいるあおい達とその声の主だけが、距離をへだてて向かい合っている。この作戦もおそらく上手くはいかないだろうと、あおいは思った。









 部室へ向かう茜音あかね達は、いつもよりも口数くちかずが少ない。どんよりとした空気がお互いの間に流れ、それぞれが頭の中で同じモヤモヤを抱えていた。

 昨日、突然部室へ押しかけてきた新入生と男性教師。その顔が頭に浮かんでは、険しい顔で拭い去る。ようやく穏やかになったはずだった自分たちの聖域を、土足で荒らされた気分だった。


「なにあれ」


 他愛もなくすずがそうでも口にしなければ、彼女達のボーッとした視界では、その異様な光景にも気づかなかったかもしれない。


 体育館の周りに人だかりができていた。

 涼は真っ先に駆け出して、群衆の中へと飛び込んでいく。


「……!」


 涼の目つきが変わった。その横顔だけで、こわばるのが分かった。

 人だかりを作る生徒達が涼に気がつき、ちらちらと様子をうかがっている。


「どうかしたの」


 後ろからみどりが声をかけて近寄ると、周りの生徒達はそろそろとけていった。


 翠が、自分よりも一つ分低いところにある涼の頭越あたまごしに、体育館を覗き込む。

 手前にバレー部、奥のコートにはバスケ部がいた。まだ練習を始めている様子ではない。しかしどちらも部員はだいたい揃っているように見える。

 そのほとんどが同じ方向を向いていた。翠はその異様さにようやく気づき、彼らの視線の先に目を動かした。


 頭の中に、音が入ってくる。

 球技の部活が二つあるのに、ボールの音が響くことはない。ステージ上にある小さなラジカセから、ポップな音楽が流れていた。

 多くが呆然としている体育館の中で、唯一動きがあったのはその音楽のかたわらだけだった。誰よりも汗をかいていたのはどちらの運動部でもなく、学校指定の赤ジャージを着て踊る、ただ一人の女子生徒だった。


「ふざけんな……!」


 音楽がちょうど止まった頃だった。

 決して大きかったわけじゃない涼の声が、体育館によく響いた。

 それぞれのコートにいた生徒達がはっとして動き出す。ステージ上の女子生徒もその声に気づき、ステージから最も遠く離れた扉の方を向いた。


 涼は、入り口の扉から身を乗り出して、今にも走り出しそうな格好でつんのめっている。


「なんで……」


 勢いよく振り向くと、涼の肩をがっしり掴んでいたのは、茜音だった。


「ほっときなよ。ウチらに害はない」


「でもあいつら……!」


 茜音はそう言って手を離すと、涼がよろついて重い金属の扉にもたれかかった。


「余計なことしなくていいから」


 涼は茜音を睨んでいる。

 茜音はそれをいなすようにして、その場を去っていった。涼に目配せをして、何も言わずに翠がその後を追った。


 涼の睨みがまたステージに向き直る。

 二つのコートでは練習が始まっていた。いつもと同じ声と熱気がこもりつつ、それぞれのボールの弾む音が反響している。

 その合間、かすかに聞こえる電子音。そこから一番遠くに座っている涼は、何かから取り残されたようにして、ただ唇を噛んでいた。

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