第9話 ジェラシー
数日前から続けている"榎本式レッスン"の準備を始めた矢先のことだった。
今、自分の前に繰り広げられている光景を、あおいは何一つ理解することができていない。
無残な姿で倒れている、音の鳴らなくなったラジカセが一台。
そして、突如としてステージに現れたミニスカートの先輩。
ラジカセに手を下した
しかし、瞬時に想像をめぐらした制裁はなかなか下されなかった。
代わりにそれとは違う大きな声が耳に飛び込んできて、あおいは反射的に目を開いた。
涼は既にあおいの方を向いてはいなかった。あおいに背を向けて、全く別の方角を睨みつけている。
睨まれた先には、きれいな茶色の長い髪にすらっとした長身。背筋の伸びたその佇まいから芯の強さを感じ取ることができるそれは、まさに戦士の姿だった。
榎本がそう呼んだ彼女が、涼と正面から向かい合っている。
「なんで止めるのよ」
「余計なことするなって言ったでしょ」
涼が拳を握る方の腕が、茜音にぐっと掴まれている。
「ムカつかないの、あんたは」
自分の体を押さえつけられたまま、涼が茜音ににじり寄る。
「こんなあからさまに見せつけられるようなことされてさ」
「勝手にやらせとけばいい」
「いいわけないだろ!」
涼の声が大きく響くと、バドミントン部がちらちらとステージの方を見やった。
「悲劇のヒロインぶったようなことされて、私達は悪者かよ」
涼の片腕がまっすぐ指す先に、目を丸くしたあおいの姿がある。
「メンツまるつぶれだろ!」
激昂する涼をよそに、茜音は不器用にふっと笑った。
「なに、笑ってんのよ」
涼の腕から手を離して、茜音はそのまま背を向けようとする。それを引き戻すようにして、今度は涼が茜音の肩を掴んだ。
「ちょっと待てよ」
強くワイシャツを握りしめ、茜音をこちらへ振り向かせる。涼が茜音を見上げるかたちになった。
「メンツなんて、もとからないだろ」
バドミントン部の掛け声が活発になる。練習が佳境に入ったのかもしれない。
すぐそこで行われているはずのそれは、あおいの視界に全く入ってきていなかった。
見えているのは、睨み合う二人の先輩の姿だけ。
あおいは茜音の言葉をしっかりと聞き取ることができなかった。けれどその顔を見ていただけで、あおいは茜音が何を言ったのか理解することができたような気がした。その表情は力なく諦念に満ち、もはや女戦士のそれではなかった。
「私達はもうアイドル部なんかじゃない」
そのたった一言は、鋭く尖って突き刺さるようにして、あおいの耳に届いた。パチンという破裂音がした。破れたところから漏れ出る熱いものが、あおいの全身を徐々に覆っていく。
呆気にとられた涼は、何も言わずに茜音を見ていた。そのとき背後に大きな風圧を感じたような気がした。
「だったらなんで……!!」
それは今までのどの声よりも、体育館によく響き渡った。
目の前の先輩達が、吸い寄せられるようにしてあおいの方を振り返る。
声の大きさではない。その小柄な女の子から発された声とは思えないほどの力があった。そこに込められたものの重さが、波動となってぶつかっていった。
だったらなんで、ここまで私達に突っかかってくるのか
なんで、部室なんて来るのか
なんで、あのままの部室を守ろうとするのか……
続かない言葉を、なんとか体から絞り出そうとする。
けれど
「そんなに嫌なら来なければいいのに……!」
あおいは顔を真っ赤にして
それを聞いて、涼が我に返った。呼応するようにして、顔面を紅潮させていく。
「てめえ……!」
しかしあおいはネジが外れたように、言葉を発し続けることをやめない。
「私は……!」
涼が無言でにじり寄る。それでもあおいは止まらなかった。
「私はアイドルになりたい!!!」
あおいは落としていた目線を上げ、前を見据えた。その先には茜音の姿がある。
「この……!」
向かってくる涼を
まっすぐ見下す力のこもった目。
初めて会ったときと同じ光景。
でも、何かが違っている。
あおいが見上げる茜音の姿が、あのときとは少しだけ違って見えた。
誰も近寄らない部室棟、
物で散乱している部室の中、
混沌とした香水のようなキツい匂い、
先輩達の派手な身なり、鋭い視線、荒らげられた声……
でも…………
………違う! 全然違う!!
あおいの頭の中には、一枚のポスターだけが浮かんでいた。
「やりたいならやりたいって言えばいいじゃないですか!!」
後ろから、あおいの赤いジャージが乱暴に引っ張られた。
振り向かされると正面には、すでに赤みのひいた涼の顔。
その冷静さのまま、右腕が大きく振りかぶられている。
あおいが、覚悟を決めて目をつむる。
すでに静寂となっていた体育館に、乾いた音が切なく響いた。
「………え」
あおいが恐る恐る目を開ける。
そこにあったのは、頬を抑える涼の姿だった。
「なに……すんのよ……」
声が震えている。
屈んだところからギラッと見上げる目は、真っ赤に充血していた。
「こいつの言う通りだよ。ウチらが来なければ……」
「茜音のばか……」
涼は茜音に体当たりをして、声も発さずに走り去っていく。
視線だけが彼女を追い、茜音はその場に立ちすくんでいた。
仁王立ちの茜音を、あおいが見上げている。
いつものように力強い佇まいであることに変わりはなかった。
けれど、その目はとても寂しげに見えた。
黒い瞳がすっと動き、あおいの姿を捉える。
「気は済んだか」
聞き覚えのある男の声に、あおいはその場にへたりこんでしまう。
「榎本先生」
「……ちっ」
「こら鵜久森、先生に舌打ちはないだろ」
茜音は、そのまま何も言わずにステージ脇の階段を降りていく。
「こらあ、聞いてるのかー」
榎本の声は、部活動の掛け声にむなしくもかき消された。
ざわめきが残りつつも、フロアでは少しずつ日常が取り戻されようとしている。
「ったく」
大きくため息をつきながら、榎本がゆっくりとあおいの方を振り向いた。
あおいは呆然とした顔をして、ステージにしゃがみこんだままでいる。
「……どうしましょう」
榎本は、手のひらであおいの肩を優しく叩くと、その奥に倒れたままでいるラジカセを起き上がらせた。
「もう、ダメかもしれません」
「どうかな」
もう一度初めからラジカセの電源を入れ直すと、ディスプレイの明かりは
「そんなにやわじゃないよ。むしろこのくらいの方が、あいつらには良かったのかもしれない」
あおいは座り込んだまま、体をねじって榎本の方を向いた。
「やるじゃないか、大原」
ラジカセからは、陽気な電子音が流れ始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます