第6話 蜃気楼①

「アイドル部、いかがですかーーっ」


 放課後の校舎に、明るく無邪気な女子生徒の声と、男性教員のはっきりした声が聞こえている。どちらの声もよく通る。


「歌って踊れるアイドルに、あなたもなれる! あ! 君、いいね! あなたならスターになれるよ!」


「……きゃあーーー!!」


 榎本に声をかけられた女子生徒は髪の毛を振り乱し、死に物狂いで廊下を駆けていった。


「こらあっ! 廊下を走るんじゃない!」


「……なんか、先生がやると逆効果な気がします」


「なにぃ? 失敬な。そういうお前には俺のような熱量が感じられないぞ、大原」


 榎本の顔は汗でぐっしょりだった。髪の毛はへたり、シャツの一部が肌にベタっと張り付いている。


「たぶん、それがいけないのではないかと」




 あおいはアイドル部への入部を希望しようとした。

 だが断られた。というよりも、そこまですらたどり着けなかった。なぜならアイドル部が活動自体をしていなかったから。

 榎本が嶋に聞いた話では、言い渡された活動停止期間が過ぎても、彼女達が活動を再開することはなかったという。

 つまり今のアイドル部は、入部も活動もできない状態だった。

 

 そこで榎本が考え出したのが、“新しいアイドル部を作ってしまう”というものだった。

 部活動の結成に必要なことは、部活動要項に記されていた。


 五名以上の部員と、顧問の先生が一人。


 たったこれだけだった。




「大原、いったい俺の何がいけないっていうんだ」


 不満をあらわにする榎本に対していると、あおいは背中を指でつつかれたような感覚を覚えた。振り返るとそこには、見慣れた姿のバンドウーマンがいる。


「紫帆ちゃん」


「あおいちゃん、ほんとにアイドル部やるつもりなんだね」


 あおいが抱えるチラシの束を覗き見ながら、紫帆が複雑な表情を浮かべている。


「うん。やっぱり、私はこのために来たから」


 一人だったら何もできなかった。ただ悩み続けて、そのまま何もできずに諦めてしまったかもしれない。でも今は、自分の気持ちに正直になることができていた。


「紫帆ちゃんは、こういうの興味ないよね」


「ごめんね。私は部活決めちゃったから」


 それでも紫帆は、あおいの差し出すチラシを受け取った。


「周りの子にも聞いてみるよ。でもね、あおいちゃん」


 辺りを見回すようにして、少しだけ音量を抑えて紫帆が言う。


「近くの中学から来た子に聞いたんだけど、やっぱり朝陽高校うちのアイドル部のことは有名らしいよ」


 もともと朝陽高校の近くに住んでいる生徒は、一年前の“事件”とやらのことをよく知っているらしい。アイドル部に興味のあるような子にとっては特にそうで、それがきっかけで志望校を変えた受験生もいたとかいなかったとか。

 つまり、一年生でアイドル部に興味を持っているような生徒は、くらいしかいないということだった。


「それに」


 紫帆の目の先に、男性教師の丸い背中がある。声をかけようとしては、生徒達にあからさまに嫌な顔をされ、足早に立ち去られ続けていた。


「あの先生も結構有名になってきてるし」


 もちろん、いい意味ではない。


「……ふふ」


 あおいは笑った。


「だよね。でも榎本先生は、ああ見えて頼りがいあるんだよ」


 自分の手にあるチラシが誰にも受け取られなくても、目の前にいる先生が生徒達に何度も逃げられ続けても、一人で頭を抱えたときよりは、はるかに前向きな気持ちでいられた。一緒に頑張ってくれる誰かがいるということは、こんなにも大きい。


「へえ」


 そんなあおいを見て、紫帆は何だか羨ましそうな表情になる。


「そっかー、なんかつまんないなあ。悩ましいあおいちゃんも可愛かったんだけどなー」


「な、なにそれっ……!」


 二人で笑うと、景色がまた少し明るくなったような気がした。


「やるって言うならしょうがない。応援するよ。私にできることがあったら、何でも言って」


 ゆらりとこちらを振り向いた榎本の視界から逃げ出すように、紫帆が颯爽と走り去る。


 「うん」と力強く頷いたものの、状況がよくなっているわけではなかった。

 手元に残るチラシの山と、汗だくで機動力の落ちた榎本の姿。このままでいいとは、もちろん思えない。

 紫帆の話を聞く限り、新たに部員を募ろうという魂胆こんたんは、至難の業であるようだ。


 こうなれば、わらにもすがるしかない。

 あおいには一つだけ心当たりがあった。口にしなかったのは、それが確信を持てるようなものでは到底なく、ささやかな直感程度のものでしかなかったから。


 あおいが榎本に声をかけた。


「先生、相談があるんですが」








 あおいは、これ以上ない試練に対峙たいじしていた。

 あのときは何も知らなかったから、まだ良かった。しかし今回はあの恐怖を知ったうえで、ここにいる。


 入口のアルミ製の引き戸とその横にある大きな窓が、完全に開け放たれている。あおいと彼女達とを遮るものは何もない。

 意識がおぼつかなくなり、自分の体から精神だけが抜け出ているのではないかと錯覚した。それでも今度は逃げ出さない。これが最後の希望であることを、あおいは信じようとしていた。


 なにがなんでも戦わなければならない。天下分け目の大軍おおいくさ。運命を分ける戦場は、部室棟の二階、一番奥の部屋。


「なによ」


 あおいは、目の前ににじりよってくる生徒に見覚えがあった。

 赤茶色の髪の毛に、パンツが見えそうなほど短いスカート。

 同じようにここへ来て、ここから逃げ出したあの日、あの後にクロと仲良く話していた先輩だった。


(この人もアイドル部だったんだ……)


 奥に向かって長方形になっている部室の中。その壁伝かべづたいに、小さな木のイスがずらっと並べられている。あおいを追い出した二人の姿もそこにある。全ての視線が、刺すような鋭さであおいを捉えていた。


「だれ、あんた」


 あおいは目の前にいる先輩の目をじっと見ている。

 けれど、何も言えない。逃げ出さずにそうしているのが精一杯だった。


すず、いいからほっときなよ」


 眠り姫先輩は気だるそうにそう言って、並んだイスにごろんと横になる。


「なに、みどりの知り合い」


 翠と呼ばれた眠り姫が、そのままの体勢で大げさに首を横に振っている。ボサボサになった髪の毛が覆いかぶさって、顔が隠れた。


 「じゃあなんだよ」と、目の前にいる涼と呼ばれた生徒が舌打ちをする。


 けれど、あおいは少しだけ気持ちが軽くなったような気がしていた。

 すず先輩とみどり先輩。名前が分かったというだけで、得体えたいの知れないものから、高校の先輩というイメージに少しだけ、ほんの少しだけ近づいたような気がした。


「ア、」


 わずかに生まれたチャンスを逃さぬよう、口を開こうとしたとき、涼の切れ長の目があおいを捉えた。

 あおいは一瞬ひるみながらも、ぐっと目をつぶり、用意していた言葉を懸命に絞り出す。


「アイドル部、活動しませんか」


「しねえよ」


 必死に振り絞られた渾身こんしんの一言は、何の思い入れもない涼の一言に一蹴いっしゅうされた。

 冷たい。ようやく春めいて暖かくなってきたというのに、ここだけは寒気がするほどに空気が冷たい。

 がら空きになった隣の部室に目をやりながら、生き物が住めなくなった惑星のようなものを思い浮かべた。


「さ、帰った帰った」


 涼の手のひらで軽く押しやられたあおいの体が、後ろへふらっと揺らめいた。

 

 けれど、あおいは帰らなかった。

 一度崩れた体勢を立て直して、またその入口の前で仁王立ちになった。

 両手の拳を強く握る。もう一度顔を上げ、涼の顔をまっすぐに見つめた。


「ちっ、いったい何……!」


 涼が声を上げようとしたとき、今度は彼女の体が揺らめいた。

 次の瞬間、あおいはぐっと息が苦しくなる。制服の胸もとが、強い力でねじりあげられていた。


「あーあ、怒らせちゃったよ」


 涼が死んだような目をして言いながら、その場でどっかりと胡座あぐらをかいた。


 あおいの目の前には、あのときと同じ光景があった。上から見下ろす先輩の気迫。それはまさに女戦士そのもの。


「もうここには来るな」


 さとすような低い声が、あおいの体の隅々すみずみにまで深く響き渡る。それまで体を支えていた全てが一気に崩され、その場にへたりこんでしまいそうになる。


 そのとき、部室の中にあると目が合った。あおいは目に涙を溜め込みながらも、確かにそれを見た。全身が重力に逆らおうとしていた。


「まだ、帰りません」

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