第4話 僕のいる場所

 窓の向こうに太陽が、いつもと同じように昇る。寝ぼけ眼には眩しすぎるほどの朝日を、榎本健はベッドに横たわったまま、限りなく細めた目で仰ぎ見ていた。

 目覚ましが鳴り出す時刻よりもまだ早い。目をそむけて二度寝することもできたが、日の光に急かされるようにして、大きな体をゆっくりと起こした。


 まだ少しだけ残る新居の消毒臭。おそらくつい最近張り替えられたであろう真っ白な壁は、穏やかな朝の光をカーテン越しに受け止めて、網目状の影を映し出している。


『それでは次のニュースです。今日未明、東京都新宿区のビル街で……』


 ベッドから起き上がる動作の中で、テレビの電源を入れる。時代がどんどん変わっても、ここから聞こえる音と映像だけは、いつまでも変わらないような気がする。


『外国人の男がオフィスビルに押し入る騒ぎがありました』


 今日も順調に、ニュース番組が朝の憂鬱さを増してくれている。キッチンとさえ呼べない流し台へと向かい、その隅に置かれたシリアルのパッケージを持ち上げると、榎本健はうなだれた。


「カスしか入ってないじゃないか……」


 はあ、と溜息をつくと、よりいっそう体が重たくなった。


「ああ、しまったしまった」


 そんなときはいつもこうして目線を上にやる。それは決して“どんなときでも前を向け”というような根性論ではない。こうして見上げるだけで、どんなときも同じように見守ってくれる存在がいてくれることに救われるのだ。


「おはよう」


 壁、もしくはそこに貼られた一枚の紙。そこへ向かって神妙な面持ちで挨拶をしている姿は、はたから見れば不思議な光景だろう。

 何かの返事が来ることを期待しているわけではない。そこにいてもらうだけで、受け止めてもらうだけで、ただ救われるのだ。


『男はゼルコバ国籍で、不法滞在の可能性があるとして、警視庁は入管難民法違反の疑いも含めて、調べを進めています』


 寒々としたテレビの声よりも、好きなアイドルのポスターから聞こえる無言のエールのほうが、よっぽど世界を平和にできる。


 手にしたシリアルのパッケージをゴミ箱へ投げ入れると、榎本健は勢いよく蛇口をひねった。冷たい水に顔が触れるだけで、少しだけ爽やかな気分が戻ってくる。頭が冴え始めるとともに、昨日の記憶がゆっくりと思い起こされていた。


 “アイドル部”


 新しく赴任したばかりの学校で、まさかそんな言葉に出会うとは思いもしなかった。気付けば同僚の教員を質問攻めにしてしまっていた。


「運命、なのかもしれないな」


 クローゼットからスーツを一着取り出す。榎本健はもう一度ポスターに向かって目をやった。いつもと変わらない笑顔で、一人の少女が彼を見下ろしている。しかしその目はどことなく、心配そうにしているように見えなくもない。








「まだやってるんですか」


 窓の向こうにあるはずのグラウンドは、すでに真っ暗になって何も見えない。夜が深まる職員室は、必要なところだけの蛍光灯が灯されるだけで薄暗かった。


 誰もいなくなったと思いこんでいた榎本は、急にってきた声に驚き、イスの上で体を跳ね上がらせた。


「嶋先生っ、まだいらっしゃったんですか」


 細身で色が白く、重たそうなまぶたをした細い目。音もなく現れ、近づいてきたそのさまから、榎本は思わず彼の足もとに目を向けていた。


「脚は、あるな」


「なんですか」


「い、いえ、なんでも」


 相手が幽霊ではなかったことにホッとしたのも束の間、嶋はいつの間にか榎本の近くまでやってきている。


「そういうのは、自宅に帰ってからにしたらどうですか」


 嶋は榎本のデスクの画面を覗き見ていた。動画サイトにアップされた映像が再生されたままになっている。


「ああっ! これはその、ちょっとした息抜きでして……!」


 表情だけでため息をついてみせる嶋を見て、榎本は震える手で動画を閉じようとする。

 画面の中では十代くらいの少女達が、大きなステージの上で踊っていた。真ん中にいる少女の顔にズームがかかったところで、ちょうど画面が閉じられる。


「いや、なんかすみません」


 猫背になりながらいくつかのブラウザ画面を閉じていく榎本の様子を、嶋は何も言わずにじっと見ていた。すべての画面を閉じきった榎本がようやくそれに気づき、恐る恐る振り返る。


「な、なにか」


 嶋は表情を変えずに、口だけを開いた。


「気になりますか、アイドル部あの子たちが」


 本来、嶋からすれば、それは問いかけるまでもないことだった。今、目の前で閉じられていったWEBページの全てに、“高校アイドル”という文字が冠されていたのだから。


「いや、その、前の学校ではそういうのがなかったもので」


 嶋は榎本を見据えたまま、言葉だけを続けていく。


「珍しいでしょうね。あっても私立。私達のような公立高校の教員が目にすることはほとんどない」


「ですよね」


「でも、それだけですか」


 榎本が嶋に顔を向けると、嶋は見向きもせずに自分のデスクへと歩いていく。


「前の学校でのこと、聞きました」


 背を向けたまま、嶋が言う。


「聞いた限りの話なら、榎本先生のしたことが間違っていたとは私は思いませんし、人の趣味趣向に口を出す気もありません」


 榎本は何も言わずに、ただ黙っている。


「ただ、感情だけであの子達にあまり肩入れしすぎないことです」


 冷たく無感情にも聞こえる言葉には、それを正しいと思わせてしまうような力があった。

 嶋はそのままバッグを手にしてデスクを去ろうとする。


「活動の希望とかは、本当に出てきていないんでしょうか」


 榎本は嶋を追いかけるようにして、その場に立ち上がっていた。


「ええ」


「もし、もしですよ。もしこれから出てきたら。たとえば昨日ここへ来た生徒のような子が」


「昼間に話したとおりですよ。お先に失礼します」


 ゆらぎのない歩みで、嶋は職員室を後にした。

 引き戸が開いて、静かに閉まる。昼間に異常音を鳴らしたその扉からは、ほとんど音がしなかった。


「活動停止か」


 アイドル部の話を初めて聞いたとき、榎本はにわかに信じることができなかった。

 嶋が言ったとおり、高校でアイドル部があるところなど、全国を探しても多くはない。だからこそ、そんなニッチな部活へ入るくらい強くアイドルに憧れた生徒達が、たかだかくらいで、それ以降活動しなくなったなどということは考えられなかった。

 たとえどんな苦難が訪れようとも、アイドルに憧れる者が望んだものを簡単に手放してしまうはずがないのだ。


 榎本がキーボードの“Ctrl+Shift+T”を同時に押すと、さきほど閉じたはずの動画がもう一度表示された。

 ステージ上で高校生グループがそれぞれの衣装を身にまとい、歌い、踊る。メイクはしっかりしているけれど、そのほとんどが流れる汗で落ちてしまう。それでも彼女達の目はキラキラと輝いている。浴びている照明のせいじゃない。うちから湧き上がるものが、彼女達を常に照らし続けているのだ。


 榎本の中で、画面上の映像と前の学校での記憶が、お互いに相対あいたいして向かい合っていた。


 頭の中にある理想と過去が拮抗きっこうし、そのまま動くことができない。“つりあっている”という、理科の授業で聞いたフレーズを思い出した。勉強の内容はほとんど覚えていないが、言葉のイメージだけが残り続けているというところは、国語教師らしいところでもあるのかもしれない。


 そこへ小さな女の子が現れた。可愛らしい目をしてはいるが、背が小さく、丸っこい体型。お世辞にもアイドルらしいとはいえないその女の子は、榎本の中で“つりあう”二つの力をじっと眺めている。

 

 ふと、彼女が朝陽高校うちの制服を着ていることに気が付いた。




「あ」


 ぼーっと画面を眺め続けていたことを、間の抜けた自分の声に気付かされた。時計を見ると十一時を過ぎてしまっている。


「いかんいかん」


 榎本は早々とパソコンの電源を落とし、帰り支度を始める。

 職員室の灯りを消して、急いで外へ出た。


「お」


 正門の近くまで来ると桜の木があった。

 三月の終わりに降った雨で、どこの桜もほとんど散ってしまっていたから、この学校にあるものにも気付いていなかった。


 いま見つけたその枝にだけ、まだ少しだけ咲き残りがある。榎本はそれを目で追いながら、正門をゆっくりと出ていく。

 通り過ぎてからそのまま視線を落とすと、自分が歩いてきた校内路があった。真っ直ぐに校舎へと向かっているはずだが、その先は真っ暗でほとんど何も見えない。道の脇にあるグラウンドとそれに隣り合う古びた部室棟だけが、薄暗い街灯に照らされて浮き上がっているように見えた。


 榎本は、さっき頭の中に出てきた少女のことを思い出す。


 少女は、“つりあっていた”理想と過去に向かって、走って突っ込んでいった。大きな音を立てて衝突すると、理想も過去もどこかへ飛んでいってしまった。

 残っていたのは、前のめりになって倒れた少女だけ。心配になって近づこうとすると、少女はむくりと立ち上がった。理想よりも、過去よりも、少女は遥かに強かった。


 そしてまた少女は走り出す。その目はいつまでも生きいきとしている。

 どこへ向かっているのか、その先までは見えていない。

 ただ、それだけを見据えて駆けていく少女を見ていると、それがどんなところなのか、どうしても見てみたいと榎本は思っていた。思えば少女の顔は、職員室に駆け込んできたあの生徒の顔によく似ていた。




 それまで止んでいたはずの春風が、穏やかに榎本に触れた。


「なにをやってるんだ」


 そうつぶやいた榎本は、わずかに咲いた桜の花を後にする。


「俺は教師だろうが」


 丸く広い顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。

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