第3話 一番目の向かい風

 もうすでに親しみを感じつつあった笑顔が、500mlのペットボトルをそっと差し出してくれている。あおいは震える両手で、それを受け取った。


「……ありがとうございます」


 キャップを開けて、そのまま口にする。思っていたよりも冷たくなかったが、部室棟から必死で駆け出してきたばかりのあおいを落ち着けるには、そのくらいがちょうどよかった。


「もうヌルくなっちゃってるでしょ」


 校舎と校舎をつなぐ、渡り廊下に出たところ。校舎の扉に続く小さな階段の隅っこに、あおいは座っている。そのすぐ隣へ、クロがそっと腰掛けた。


「大原ちゃんと別れた後でソッコー買ったからさ。思ったより遅かったね。何してたの?」


「何してたも何も……。なんか知らないけど怒られて」


「怒られたー? 誰にさ」


「長い茶髪の強そうで怖い人と、短い茶髪でギラッとした目の怖い人」


 並んで座っているクロは少し驚いたように、「へえ」とつぶやく。隣にいるあおいに向けていた顔を、前の方へと向けた。


「あの子たちと話したんだ。度胸あるなぁ」


「話して……は、いないですけどね」


「えー、言わなかったのー? アイドル部に入りたいって」


「もちろん言いましたよ。でも……」


 あおいはあの部室のことを、もう一度思い浮かべていた。


「あの人達が、アイドル部なんでしょうか」


 あおいは、あのときクロに言われた通りの部室に向かった。そして確かにそこにあの人達がいた。あおいはまだ心のどこかで納得ができていなかった。現実にそこで出会ったはずものは、あおいの中にあるアイドルのイメージと、それだけかけ離れているものだった。


「そうだよ」


 クロの答えは明快だった。それでもあおいには、彼女達がアイドル部であるようには思えなかった。というよりも、もっと何か違ったところで、彼女達があの場所にいることが不自然であるように感じていた。


 黙ったままでいるあおいの、そんな心の内を察してか、クロは前を向いたまま続けた。


「あれが紛れもなく朝陽高校のアイドル部だよ。で、多分だけど、大原ちゃんが思ってる通り、部としての活動なんてしてない」


「そんな……」


 そうだった。

 あおいの中で何かが一つにつながる。

 アイドルどうこうという前に、彼女達からはという様子さえ、感じられなかったのだ。


「じゃあクロ先輩は分かってて、私を行かせたんですか」


 クロは少しだけ困ったような顔をした。


「ま、説明するより早いと思ってね」


 さっきまでよりも景色が灰色になって見えるのは、空が少しずつ陰り始めていたからかもしれない。渡り廊下の天井についた電灯が必要なほどではないけれど、その場所は周りよりも少しだけ暗がりになっていた。

 二段だけある階段の端に座る二人の横を、前から後ろから生徒達が行き来をしている。前から歩いてくる女子生徒が二人、今もまた通り過ぎようとしていた。


「あ!クロじゃん!」


 今まで誰にも見向きもされなかったので、あおいはその声に驚いて顔を上げた。


「ちゃんと学校来てるしー!」


 赤茶色の明るい髪の毛と、極端に短いスカート丈。

 派手な生徒が多いところだな、とあおいが思うと、それよりもさらに派手な髪色の立ち上がる様子が横目に見えた。


「ふふふ、私もちゃんと二年生なのだよ! キミィ!」


 クロはどこからか取り出した生徒証をかざした。


「嘘でしょ……! 信じらんない!」


 ケタケタと楽しそうに笑っている二人との間に、見えない壁のようなものがあるのを感じながら、あおいはぼんやりと眺めていた。

 そのうち赤茶色の髪をした生徒が、あおいに気付いた。その切れ長の目があおいの方に向けられる。それまでクロに向けられていたものとは、明らかに違っていた。座ったままでいるあおいを見下ろすその目は、とても冷たかった。


「なに見てるの?」


 言葉はシンプルだったが、何かを屈させようとする力がそこには込められていた。彼女はすでに笑っていない。そう言うと、あおいのいる方に向かって足を一歩踏み出した。


「お子ちゃまは帰る時間ですよー!」


 ぶわっ、と金色の髪が揺れながら振り返る。人を小馬鹿にしたような声が、渡り廊下の高い天井に反響した。

 それはクロの隣りにいた生徒をクスリと笑わせ、同時にあおいの意識をハッとさせた。

 かすかに生まれたその隙に、投げ出されていたバッグを掴み、あおいはまた走り出す。今日はよく走る日だ、とあおいは思う。一体自分はどこに向かっているんだ、と問いかけてもみた。


 また風が少しだけ冷たくなっていた。あおいに向かって吹きつけるその強さは変わらない。校舎と校舎の間を抜けて、正門まで一直線に伸びるアスファルトの上を、全力で駆け抜ける。もう誰も追いかけてきてはいない。それでも走った。ただあおいが、あおいの体がそうしたかっただけだった。

 正門を抜けると、あおいは両膝に手をついて立ち止まった。息切れが今日一番で激しくなる。都合のいいことに、こうして体が悲鳴をあげている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。


 少しずつ落ち着きはじめていた呼吸を整えながら、あおいは体を起こしてゆっくりと振り返る。


「どうしたものか」


 おかしくも他人行儀に思う彼女の目には、グラウンドの奥にぼんやりとそびえる、寂れた部室棟が映っていた。

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