第1章 向かい風に吹かれても
第1話 アイドル部、なかったかもしれない
「以上で今年度の、
「気軽に部室まで足を運んでくださいね」という、はつらつとした女子生徒の声を聞きながら、あおいは改めて思い直していた。
なにかがおかしい。
小さな頃から憧れていたアイドル。地元の中学校や高校にその部活を持つところはなかった。だからこそ、高校はそれがあるところを選んだ。それも、アイドルで一番になることができる学校を。
しかし今のいままで行われていた部活動紹介では、花形であるはずのアイドル部が現れることはなかった。それどころか配られていたパンフレットにも、アイドルという記載さえ、影も形も見当たらない。
「……ちゃん? ……あおいちゃんってば!」
どん、と横からどつかれて、あおいは我に返った。
「どうしたの、怖い顔して」
こーんな顔してたよ、と眉間を人差し指で上に引き上げながら、おかしな顔を披露してくれているのは、初めてできたあおいの友達。
「ぶははっ! ご、ごめん、
「ちょっとー、あおいちゃん笑いすぎ」
と言いながら、紫帆もお腹を抱えて笑っている。
「和泉ー、大原ー、早く立てー」
いつの間にかあおい達のクラスが退場する順番になっていた。二人は転がっていた上履きを慌てて手に取り、勢いよく立ち上がると、アリの行列のように一列になって体育館を後にする。
出口の近くで、体育館が外の空気を吸い上げる。通り抜けようとする生徒たちには、正面から力強い風が浴びせられていた。乱れる髪をかばいながら、女子達は悲鳴を上げて
大勢の生徒でいっぱいになり、ムンムンとしていた閉ざされた空間から抜け出すと、爽やかな解放感に包まれる。理不尽な風を受けきった生徒たちの顔には、もうなんでもできるのではないかというような万能感が満ち溢れていた。
「あおいちゃんは部活決まった?」
「うーん。決まってたんだけどねー」
「ああ」
紫帆が「わかるよ」といったような表情になる。
「今の見て、気が引けちゃった感じ?」
「いや、そうじゃなくて」
「逆にがっかりしたとか?」
「いやあ」
「なになに」と迫ってくる紫帆の好奇心をむき出しにした様子は、小さな子供のような無邪気さでいっぱいだ。
あおいと同じくらいの小柄な背丈。丸みを帯びた顔についた、クリっとした真ん丸な瞳。それが笑顔でくしゃくしゃになる様子は、余計にそのあどけなさを強調している。
「それどころか、なかったんだよね」
「……なかった?」
紫帆は漫画に描かれた一コマのように見事に首を傾げている。
「うん。出てこなかったし、パンフにも載ってなかったの」
「それって何の部活?」
丸く筒状にしていたパンフレットを、平たく伸ばしながらパラっと開いてみせる。
「アイドル部、なんだけど」
「アイドル部…?」
紫帆が開いたパンフレットは、片方の手を離すと、ぺらっともう一方の手に向かって自然な動きで閉じていく。視線が宙を舞ってから、すぐにあおいの方へと向けられた。
「聞いたことないんだけど」
やっぱり、なにかがおかしい。
がらららっ
「せん……!」
……がたん!!!
職員室へ轟く凄まじい音とともに、引き戸になっている入口の扉が開いて、閉まった。その合間に生徒らしき声のようなものも、かすかに聞こえたような気がする。
がががががっ
明らかに最初とは違った音で、もう一度その引き戸が開き出した。
「せんせいっ……」
そこにいた“せんせい”全員がそちらの方を向く。入口には小さな女子生徒の姿。一人を除いたその多くが、元の場所へと視線を戻した。
「大原、扉は丁寧に開けなさい」
入口近くに立っていた “せんせい”だけが、引き戸に向かって試行錯誤しているあおいのもとに近づいていく。
「す、すいません……」
「どうしたんだ」
「まったく」とつぶやきながら、引き戸をあおいから引き継ぐ。乗っているはずのレールから、戸が大きくはずれてしまっていた。
「すいません、嶋先生。ちょっと聞きたいことがあって」
あおいの息が少し弾んでいる。ホームルームが終わって、教室から急いで先生を追いかけてきたのだろう。
「なんだ」
大の大人で、男性でもある嶋先生から見ても、引き戸はレールから思いのほか大きく外れてしまっていた。さっきまでよりも力を込めながら、あおいの話に耳を傾ける。
「アイドル部に入りたいんですけど」
いまだ外れたままの戸から、がしっとおかしな音がした。
あおいの言葉は届いていたはずだったが、嶋先生は何事もなかったかのように、もう一度態勢を変えて戸に向かい合う。
「……それで?」
あおいは勉強が得意ではない。いわゆる頭がいい生徒ではなかったが、勘だけは鋭かった。あおいには自分が発した言葉に対し、少なからず嶋先生が反応を見せたように思えた。それは紫帆に話をした時とは全く違う反応だった。
「あるんですね、アイドル部」
嶋先生は、それについて何も答えようとはしなかった。
「だめだな、これは」
「あるんですよね」
腰に手をやり、ぼそっとつぶやく嶋先生に向けて、あおいはそれまでよりも力強く迫った。
「あるといえばあるが……」
頭を掻きながら嶋先生が振り向くと、あおいの顔がぱあっと輝いていた。
嶋先生が少しだけたじろぐ。あおいの頭の中では、「気軽に部室まで」というマイクを通した女子生徒の声が復唱され続けていた。
「部室はどこですか!?」
「そりゃ、部室棟に……」
「ちょっと待て」という嶋先生の声が、すでにあおいが走り去った後の廊下に切なく消えていった。
「まいったな」
あおいも、壊れた戸も。両方含めて、嶋先生の心の声が漏れる。
「あるんですか」
急に現れた背後からの声に、嶋先生がビクッと体を震わせる。
「榎本先生」
「あ、すみません! 盗み聞きしていたわけではなかったんですが……!」
背丈は嶋先生と変わらないくらいだが、一回り大きなその体型からは、より力強い声が発される。声だけ聞けば若々しくもあるが、まさにいま力仕事をしていた嶋先生よりも、なぜかその体はひどく汗ばんでいた。
「今年から入った先生は知りませんもんね」
「アイドル部のことをですか」
「ええ、まあ」
言葉を濁すようにしている嶋先生の様子が気になったが、あおいの後を引き継ぐようにして榎本先生は問いかけ続けた。
「じゃあ、あるんですね」
「まあ」
そう言いながら嶋先生は、片手で頭をかきながらもう一度言った。
「ないといえば、ないんですがね」
そう言いながら、嶋先生は榎本先生の脇を通り過ぎる。
すると背後でカタッという心地よい音が聞こえたような気がして、嶋先生は意識もせずに振り向いていた。
「その話、詳しく聞かせてくれませんか」
笑顔の巨漢が後ろ手に戸を転がしている。引き戸はスルスルと動き、何の取っ掛かりもなく静かに閉まった。
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