第2話 遥かなる部室棟

「はっ」


 下駄箱からスニーカーを取り出すと、そこに向かって勢いよく上履きを投げ込む。

 昇降口から駆け出してきたあおいは、走り出そうとするそのままの姿で急停止した。


「ブシツトウって、どこ……?」



 “アイドル部はある”


 そう確信を得たあおいは、その瞬間に職員室を飛び出してきてしまった。頭の中の迷いが体の動きにそのままリンクするように、体の向きを変え変え、行きつ戻りつを繰り返す。

 

 ふと足元を見つめる。

 今から上履きを履き替えて、職員室へ戻るのは面倒だった。

 あおいはそのまま、校内を自力で探索することに決めた。

 

 校舎と校舎に挟まれた中庭。両側の校舎は、どちらも特別汚くもなければ、きれいだということもない、一般的な学校といった印象だった。イメージしていた“西洋風で洗練された大学のキャンパス”のようなものとは全く違っている。


「現実はぜんぜん違うもんだなあ」


 中庭を通り抜けると、背後の校舎のどこかから楽器の音が聞こえた。それに続くようにして、前方からはまとまった掛け声のようなものが耳に飛び込んでくる。


「お、ここが体育館につながってるんだ」


 入学してから数日経つが、あおいはまだ校舎内の位置関係がつかめていなかった。さっきまでいたのが、教室や職員室があった本校舎。その裏側に隠れるような形になる場所に、体育館が位置していたのだということに初めて気づいた。


 食べ物の匂いがする方へ寄っていく子犬のように、聞こえてくる掛け声に誘われるようにして体育館の中を覗いてみる。

 高い天井からフロアの床まで張り巡らされた網目状のネットが、体育館を二つに分断している。ステージ側でバスケ部がランニングを、もう一方の面ではバレー部員らしき生徒たちが現れはじめ、各々で準備運動をしていた。ステージ上にはバスケ部員が使う大きなタンクやコップ、水筒やらタオルやらが雑然と置かれている。


「体育館じゃないよね」


 アイドル部がダンスレッスンでもやっているのではないかという淡い期待は、あっけなく砕かれた。その場で腕組みをしてみるが、何も思い浮かばない。やはり部室棟をもう一度探すしかないようだ。


 体育館のすぐ裏手に、簡易的な小屋のようなものがある。「まさかこれが」と思いながら見つめているのは、鍵らしきものもついていないような木の扉。あおいは思い切って、そこだけ金属でできた銀色の丸いドアノブを引いてみた。思っていたよりも軽く、そして勢いよく扉が開いた。


「うわああ! ごめんなさい!!」


 開いた勢いそのままを反動にして、扉を無理やり押し閉める。


 バターンっ!!


 一瞬の光景にも関わらず、目に入った映像がくっきりと脳裏に刻み込まれていた。顔がかぁっと赤くなる。扉が開くのに気づき、顔だけ後ろに向けている姿。引き締まった筋肉質の背中。


「こ、更衣室なら更衣室って書いといてよ……!」


 そうしてあおいはまた走る。今度は何かに向かうのではなく、更衣室から逃げ去るようにして。正面から風を受けながら走り続けても、急上昇した顔の熱はなかなか冷めなかった。




 少し離れたプールの裏手。そこまで来たところで、あおいはそのまま座り込んでしまった。ナイロン地に紺色のスクールバッグを肩から下ろし、地面よりも少し上がったコンクリートの段差にどさっと腰掛ける。息を上げて、うつむき加減で膝にもたれた。


 校舎の裏手は日陰になっていて涼しかった。見上げたところにあるプールや、その奥にあった体育館の建物が遮るからなのか、春めいた強い風が吹きつけることもない。グラウンドや体育館、校舎から漏れ出る音々も、どことなく遠くに聞こえている。


 顔の熱と暴れる呼吸は、少しずつ落ち着き始めていた。


「だれだー?」


 穏やかな静けさに心地よくなろうとしていたあおいが、驚いて顔を上げる。

 目を細めて様子をうかがう女子生徒。手には500mlパックのコーヒー牛乳が握られている。この朝陽高校という空間に居慣れた様子の佇まいからは、彼女が一年生ではないだろうことを物語ってもいた。


「ご、ごめんなさい!!」


「いや、……なぜ謝る!?」


 あおいが瞬間的に謝ったのには三つの理由があった。一つは職員室の扉を壊し、男子生徒の着替えを見てしまったという流れから、謝り癖がついていたということ。もう一つは、目の前に現れた先輩の細めた切れ目の鋭さ。そしてその髪の毛が、輝くほどの金色だったこと。


 「ふはは!」という豪快な笑い声が狭い空間によく響く。

 そんな声に誘われてか、気まぐれな太陽が雲の隙間からその陰った場所を覗いた。

 

 あおいは少し安心した。一つはその笑顔から、彼女があおいを咎める様子ではないことが分かったから。そしてそのときの先輩の目元が、とても優しくなっていたからだった。


「一年生? 何してるのー、こんなところで」


 謝った拍子に、あおいはその場に立ち上がっていた。先輩の身長はあおいよりも高かった。あおいの顔を覗き込むようにして、その先輩は優しくそう尋ねていた。


「あ、あの、ブシツトウを探してまして」


「ブシツト? ……ああ、部室が入ってる部室棟ね」


「え、部室がない部室棟もあるんですか」


 部活動紹介に出てこなかったアイドル部は、もしかするとその“部室が入っていない部室棟”のような、どこか特別な場所に存在しているものなのかもしれない、とあおいは思った。


「ははは! それ、もはや部室棟じゃないから!」


 先輩の飾らない笑顔を、日の光が照らす。


「面白いなあ、きみ。部室棟はさー、……あ、ちゃんと持ってるじゃん。ちょっとそれ貸してみそ」


 先輩はあおいの手にぶら下がるバッグのポケットから、生徒証ケースを取り出した。


「ここでしょ」


「あ」と間抜けな声を漏らしながら、さらに間の抜けた表情になるあおいを見て、先輩はさらに笑った。


「やっぱりきみ、面白いよ!」


 生徒証ケースには生徒証だけでなく、メモ帳のような薄い生徒手帳も挟み込まれている。その裏表紙に校内のマップがしっかりと描かれていた。部室棟はその中にちゃんと存在していて、もちろん部室がある部室棟の一種類しかなかった。


「そしてそれを見なくたって、何となく分かるはずだ」


「なんとなく、ですか」


「必要なものは必要なところにあるんだよ。この声が聞こえないかい」


 もう一度、生徒手帳の図面を見る。体育館を境にあおいが走り出した方のちょうど逆側に、部室棟は建っていた。耳を澄ますとその方角から、さっきまでよりも確かにはっきりと、部活動の掛け声が聞こえてくる。


「あそこに入ってるのは、ほとんど運動部だから」


 先輩の一言に、ようやくあおいもピンとくる。


「あ、グラウンドの方」


「そゆこと。うまくできてるんだ」


 先輩はそうしてまた笑った。あおいの足元に目線を落としながら、コーヒー牛乳をちゅーっと吸い上げる。水泳の息継ぎをするように、勢いよく「ぷはあ」と言って、ストローから口をはなした。


「で、何部に入りたいの?」


「アイドル部、なんですけど」


 あおいは先輩の顔色をうかがうようにして言った。

 先輩は何も口にしてはいなかった。けれど彼女の目が一瞬だけ清々しい笑顔から離れ、はっとした様子になったような気がした。


「アイドル部ねえ」


 今度は先輩があおいの様子をうかがう番だった。あおいのつぶらな瞳は純粋な色を保ったまま、先輩へと一直線に向けられている。

 「ふふ」という笑いは、今まで彼女があおいに向けた笑顔とは全く違ったものだったが、そのことには二人とも気づかない。


「面白いなあ、ほんとに」


 聞こえるとも聞こえないともない声を先輩が発する間、あおいは確認しておかなければいけないことを思い出した。


「あるんですよね、アイドル部は」


「あるさ」


 間髪入れずに返された言葉は、二人の間で交わされたもののどれよりも真っ直ぐに響いた。


「案内するよ。これも何かの縁だ」


 親指で自分の胸元を指しながら、“まかせろ”といったポーズを力強くしてみせる。


「いや、大丈夫です……! 本当にありがとうございました。本当に助かりましたから!」


 あおいが何度もお辞儀をするのを、先輩が片手で静止する。小さな体がピタッときれいに止まった。


「私は黒柳くろやなぎ千尋ちひろ。二年だよ。君は?」


「あ、一年の大原おおはらあおいです」


 かしこまらなければいけないという思いから、反射的に敬礼のような手の動きになってしまい、黒柳千尋はまた笑う。


「あの、黒柳先輩、本当にもう……」


「クロでいいよ、金髪だけどクロ」


 ニコっと笑ってみせたその顔とともに、あおいがクロに不安を感じる理由は、これで全てなくなった。髪の毛は金色のままだったが、恐い人では全然なかった。

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