第16話 制服に隠されて

茜音あかねは手出ししなかったもんね」


 一連の出来事を思い返しながら、みどりは噛みしめるようにしてつぶやいた。


「ほんとだよ。あの根性なしが」


 また少しだけ流れる沈黙。踏み出すローファーの音が響いては消え、翠はもう一度言葉を紡ぎ出そうとした。


「悪いことしたね」


 すずがちらりと翠の様子をうかがう。しっかりと見えてはいなかったが、涼が小さく頷いたような気がした。


「翠は、戻らないの?」


 翠が涼の方をぱっと見ると、今度はしっかりと見つめていた。

 いつものように全身から溢れ出るような自信が、そのときばかりは感じられず、不安をまとったような表情をしている。


「私に戻る権利はないよ」


 一度前を向き直してから、涼が何かを確かめるようにして話し始めた。


「翠も巻き込まれただけじゃない。最初に手を出したのは、私だよ」


「ちがうよ」


 翠の声がいつになく優しい。しかしそこに温かみのようなものはまるでなかった。

 両手のひらを眺めるようにしてから、目を閉じて言う。


優子ゆうこ先輩を突き飛ばした感触、まだ残ってるもん」


 大きなトラックが真横を過ぎ去っていく。ちょうど同じ方向へとなびく髪の毛とスカート。その音と風が止んでしまうと、また何もない空間が二人の周りを包み始める。


「茜音にも、そう言った?」


「言うわけないじゃん。そんなことしたら」


「説得される、ね」


「今の茜音なら特にね」


 背の低い柵に囲まれた公園から、子どもたちの声が賑やかに聞こえていた。


「されたらいいじゃん」


「え」


「説得されたらいいじゃない。そしたら翠は戻るでしょ」


 翠は何も言えなくなってしまう。そう反応するのが初めから分かっていたかのように、涼はただ言葉を進めている。


「なんで私達は謹慎までして、先輩達は反省文だけだったんだろうね」


 あの一件のあと、茜音たち一年生には自宅謹慎の処分がくだされたが、上級生は反省文をかいて放免されていた。


「日頃の行いでしょ」


「それを言っちゃ、元も子もないんだけどさ」


 一年生と二年生の喧嘩の末に、ケガを負ったのが二年生だった。ケガをさせた方とされる一年生が、加害者側に仕立て上げられたという理由もあっただろう。

 しかしそれよりも大きかったのは、おそらく普段の生活態度でもあったのかもしれない。

 二年生は比較的成績優秀で素行もよく、先生から好かれる清楚系優等生タイプが多かった。

 一年生はまさにその対極をいっていた。

 見た目からしてもそうで、髪の毛の色は明るくバラバラで、スカートも短い。行動や言動も派手で、悪目立ちしていた。運が悪いことに勉強も不得意な生徒が多く、先生受けがいいとはとても言えなかった。


「思ったんだよ。権利って誰が決めるんだろうな、って」


 涼は「茜音には戻る権利がある」と言った。翠は「自分が戻る権利はない」と言った。

 二年生は反省文だけで“権利”が回復した。一年生は謹慎が解けるまで“権利”は認められなかった。


「学校ってこと?」


「まあ簡単に考えればそうなんだけどさ」


「なにその嫌味な言い方。馬鹿なのはお互い様でしょ」


 翠のパンチが涼のバッグにヒットする。


「そういうつもりじゃなくて。たださあ、私もよくわかんないんだけど、それだけで全部が決まっちゃうわけじゃないと思うんだよ」


 その流れの中で、アイドル部は無期限で活動停止となっていた。

 すぐに“権利”のあったはずの二年生は「調査書に傷がつくから」と言ってほとんどが、結果的に後から復学してきた一年生だけが居残る形となった。

 今の自分達の状態を思うと、翠にも涼の言いたいことが何となく分かるような気がした。


「茜音が戻ったのは、確かにあのおかしな奴らのせいだよ。でも結局さ、茜音がそうしたいと思ってなかったら、こうはならなかったはずでしょ」


 涼はそう言うと、立ち止まって空を見た。


「あーー」


 分厚そうな雲々に覆われた空は、どうやら今日は晴れる様子がない。


「道、まちがえた」


「ずいぶん前が分かれ道だったのにね」


 翠はクスクス笑いながら、涼と同じように頭上を見上げていた。


「言えよ」


「こうしたいと思ってたから言わなかったんだよ、私も」


 女子高生が二人で突っ立ったまま、真上を見上げているさまは、明らかに滑稽だった。

 雲は風に流されているはずだったが、切れ目のない一つの塊となってしまうと、まるでそんな動きがあるようには見えなかった。


「ファミレス行こう」


 涼の言葉に、翠が「うん」と頷く。二人の顔はまだ上向きになったままだった。








 翠は一晩考えた。

 あのときの自分、今の自分、そしてこれからの自分の姿について、ずっと考えていた。これが本当に自分が望む姿なのかということを。


 考え続けた一日後の放課後、気がつくと翠は体育館の前に立っていた。

 まだ誰も来ていない、静かなホールだけが足を踏み入れられるのを待っている。


 もともとアイドルになんて興味はなかった。それどころか部活にも、学校にも、言ってしまえば友達にさえ、興味なんてなかった。

 確かにあの頃はそうだったのかもしれない。あの頃の翠なら、ここに足を踏み入れるのをためらうようなこともなかっただろうし、そもそもそうしようと考えることもなかっただろう。


 けれど今は違った。

 翠はしっかり迷っていた。

 過ちを犯した自分に対し、もがき苦しむようにして考え、悩んだ。

 ドライでさっぱりとした性格であることを自他ともに認める翠にとって、それは人生ではじめてのことだったかもしれない。


「翠」


 不意に後ろからかけられた声は、これまで何度も聞いてきた声だった。

 わざわざ振り返る必要もない。

 声の主も、そんな翠の性格をよく知っていた。彼女の今の気持ちまでをも汲み取っているようで、それ以上は何も言わない。


「何も言わないで」


 そうつぶやいた翠の背後で、黙って頷くのがわかる。




 翠はまた、彼女と初めて言葉を交わしたときのことを思い出していた。

 勢いに押されるようにして、コクリと頷いてしまったあの瞬間から、全ては始まっていた。

 それまでに感じたことのない熱量のある日々。

 大きな過ちと、罪悪感と、切なさと、悲しさと、そして寂しさ。

 これまで翠に足りていなかった感情の成分が、この一年間に凝縮されているようでもあった。


 その間、いつもきまって翠の手は、彼女に引かれていた。

 彼女の持つ強い意志によって、翠は常に導かれていた。

 そしてその手からは、あの日の過ちの感触をありありと思い出すことができた。


 翠はその残像を振り払おうとする。

 しかしそうしようとすればするほど、それらは常に翠から離れず、付いて回るようになった。



 翠はそれをすべてやめることにした。

 起きたことをなかったことにすることはできない。けれどそれをどう捉えるかを変えることはできる。ありのままを受け止めて、それをかてに、動き出すことならできる。


 翠が本当に欲しかったのは、今までの行いから認められるような権利などではなかった。




 決意を込めた眼差しで顔を上げ、踏み出した一歩に淀みはない。

 一段上がるとフロア全体が見渡せた。

 久しぶりに見た体育館ホールは薄暗かったが、不思議なことに外よりも開放感がある。

 光沢のある床に反射する外からの光に目を細めると、背後で見守っていた彼女が、翠の隣にそっと寄り添った。


「戻りたい」


 翠がそう言うと、茜音は何も言わずに頷いた。


「今度は、私がそうしたいんだ」

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