第19話 ごめんなさいが言いたくて
「あおいにはちょっと頑張ってもらわなきゃいけないけど、これでいくのがベストだと思うんだ」
中間テストが終わると、すぐに六月だった。
まだ部活として認められてすらいないグループのライブ公演が、すぐそこに控えている。
残すところ、三週間。
このメンバーでパフォーマンスをしたことがないというだけでなく、セットリストすらまだできていない。
とはいえやって来てしまうものは止めようがない。ライブはライブ、チャンスはチャンスだ。
少しずつでも準備を進めていくほかなく、この昼休みでセットリストを決めてしまうということになっていた。
「まあ、全員がゼロから始めるよりはよっぽどいいよ」
「私達が一年の最初にやってたやつだから、そんなに複雑じゃない。翠だって、経験ない中でやってたわけだし」
それを聞きながら、翠はもう一度頷いた。
「やってくれるね?」
あおいのクリっとした目は、初めから力強く茜音の方を向いている。
「当然」
調子に乗るな、というように、茜音があおいの脳天をがっしりと鷲掴みにした。
「ま、やってもらわなきゃ困るんだけどさ」
「ぐわ」
喘ぐあおいの様子を見て、翠が笑った。
「ていうか他校のイベントって言ってたけど、どこの高校なんだろ」
翠の言うように、榎本はイベントが行われる高校までは口にしていなかった。
「ライブイベントなんてやるぐらいだから、私立の有名校だろ。完全アウェー決定だよ」
あおいを開放した茜音が、どっかりと椅子に腰掛ける。
「ま、ウチでやったからといって、ホームになるわけでもないしね」
「たしかに。敵の多さよりも、味方が少なすぎるか」
翠と茜音が冷静な分析を続ける中、短い髪をボサボサにしながら正気に戻ったあおいが割り込む。
「そんなことないですよ。この前だって「応援してる」って言ってくれた先輩もいましたし」
「応援?」
茜音と翠は、奇妙なものを目の前にした様子であおいを見た。
「一体誰だよ、そんな物好きは」
「えっと、たしか二年生の成績トップで……」
記憶をたどるあおいをよそに、二人は互いに目を合わせた。
「そうだ! 菅原先輩、という人でした! とっても美人で、優しそうで、あれで勉強ができるなんて完璧だなーって……」
良いニュースを伝えたはずなのに、空気は逆に淀んだような違和感。
「な、何か変なこといいましたか」
あおいが恐る恐る顔色をうかがう。
「桃子」
翠がつぶやいた。
「
あおいが声も上げずに驚く。
茜音は目線を遠くに向けたまま、それ以上何も口にしなかった。
「だいぶ
じっと黙って見ていた翠が言うと、あおいは不敵にニタリと笑った。
「まだできてないところのほうが多いんだから、あんまり調子に乗らないの」
あおいは少しブーたれながら、確かめるようにもう一度ステップを踏み直す。
それに気付いた翠がゆっくりと頷いた。
「うん。やっぱり三曲目がまだまだって感じだね」
そう口にして、翠ははっとした。
一年前にできていたものを思い出そうとしている自分と、あおいは違うのだ。
あおいにとってこれは全く取り組んだことのないものであり、さらにはダンスの経験すらほとんどない。彼女にとっては全てが初めてであるはずだった。
にもかかわらず一曲目から二曲目にかけての部分では、完璧ではないしろ、特に目につくところがなくなり始めていた。
どれも基本的な動きが多い曲であるとはいえ、ついこの間、基礎レッスンから始めたばかりの素人が二週間ほどで完成できるようなものではないはずだ。
「スキップから手拍子、ターンの繋ぎがいつもぎこちないね」
「うっ、なぜそれを」
「自分でも分かってるならいいよ。外から見てると、もっとはっきり分かっちゃうからね」
(不思議な子だ)
特別優れた運動神経を持っているようには見えない。
派手さや目立った特徴があるわけでもない。
しかしあおいの吸収力や習得するまでのスピードには、目を見張るものがあった。
それでいて周りから浮いたような、異質な感じがするわけでもなく、翠はあおいいに対して言いたいことを言いたい放題に言えていた。
とっつきやすいフワフワとした雰囲気は、持って生まれたものなのだろう。
「そうなんですよね。これ、見た目より結構難しくて」
もちろん翠は知っている。
今回の三曲目だけは、他の二曲よりも難易度が高いものであることを。
ちょうど一年前、茜音からちらっと聞いた覚えがあった。
「みんなでこれができたら、先輩達に見せてやろう。そしたら流石に目も覚めるだろ」
まだ情熱を失う前の真っ直ぐな目で、茜音がそう言っていた様子が思い浮かぶ。
今と同じ体育館の中。
そのときは今いるステージではなく、フロアの方にいた。
誰もいなくなったその場所で、一年生だった彼女達だけが、息を切らして汗をかいた。
現実は、完成させることも、目を覚まさせることもできなかった。
「それにしても茜音さん、遅いですね」
「ちょっとだけ寄ってから行く」と言っていた茜音は、それからなかなか体育館に現れなかった。
どこか強ばっていたような横顔が、今まさに思い出されていた一年前の光景と、翠の中で一つに重なる。
「まさか」
ほとんど
鈍い音を立ててステージの薄い床の上に転がったとき、翠はすでに体育館の出口まで駆け抜けていた。
「翠さん!」
あおいはわけも分からず、翠の後を追いかけた。
「ごめん。先に行ってて」
ゆっくりとその場を去ろうとする友人達が、不安げな眼差しで見つめている。
「桃子」
その元凶である女子生徒は、彼女の
戦士のように凛とした佇まいに、ロングの茶髪。
はたから見ればいつもと同じ
桃子は呼び掛けられて立ち止まりこそしたけれど、それ以外の反応は見せない。
「ちょっといいかな」
途切れ途切れで、歯切れの悪い言葉。
教室はいつの間にか二人だけになっていたが、互いの視線が交わされることはない。
「あのさ……」
「また部活始めたんだってね」
話題を持ち出したのは茜音ではなく、桃子の方だった。
「うん」
「評判だよ。茜音達のことも、あの先生のことも」
ふふっ、と笑ってみせる顔が少しだけこわばる。
「うん、そう」
二人だけの教室から、また言葉が消えた。
「よかったね」
何ということのない相槌を打つような一言が、茜音には悲しく響いた。それが明らかに、アイドル部の外側からかけられた言葉だったから。
遠くの方で廊下を駆ける音が聞こえた。
「じゃあ……、友達が待ってるから」
「あ……」
ガタンっ、と教室の扉が大きな音を立てた。
「茜音……!」
ショートカットの茶色い髪を振り乱し、息を弾ませていたのは
可愛らしく整っているはずの顔は歪み、ひどい形相だ。
彼女の姿を見て気が緩んだのか、茜音は泣きそうな顔で翠の方を見た。
桃子もそこで一度立ち止まり、直立したまま翠をじっと見ている。
「久しぶり、だね」
「うん」
桃子が小さく答えるのと同時に、もう一度、入口のあたりで大きな音がした。
あおいだった。彼女も同じように両肩を上下させ、必死に呼吸を繰り返す。
ちらりと振り返った翠が、もう一度桃子の方へ足を踏み出そうとする。
そのとき覚悟を決めたように、茜音が声を上げた。
「謝りたくて、ここに来たんだ」
桃子がそのままゆっくりと
彼女からは何も語られない。
「ただ、聞いてくれるだけでいい。答えはいらない。勝手なのは分かってる。でも今の私にできるのはそれくらいしかないんだ」
翠もそれに同意するようにして、じっと桃子の方を見ている。
「一年前のこと、謝って済むことじゃないかもしれないけど」
ちらりと茜音が目を向けると、翠は黙って頷いた。
「こんなことになってしまって、本当にごめんなさい」
茜音が深く頭を下げるのに合わせて、翠もそれ以上に大きく頭を下げた。
あいだに挟まれた桃子はどちらも直視していない。
ただ足元の床をじっと見ているだけ。
「桃子はあのとき部室にいなかったから、何があったのか、よく分からなかったかもしれない。次の日になったら急に色んなことが起きてて、すごい驚いたと思う。当たり前だけど、私達だってこんな
「もういいよ」
久しぶりに発された桃子の声は、ひんやりと教室に響いた。
そう言って、ゆっくりと顔を上げる。
「いいんだよ、もう」
「本当にごめん」
「やめて、って」
桃子は笑った。彼女の笑顔はとても優しかった。その優しさは、どこまでが本当であるのか疑ってしまうほどに、優しすぎた。
つややかな黒髪がひらりと舞うと、茜音の前にようやくきれいな顔が現れた。
「もう、終わったことだから」
桃子はまだ笑っている。
けれど茜音は、その笑顔に胸が締め付けられた。
「じゃあね」
もう一度、黒い髪が揺らぐ。
まだ伝えなければいけないことがある。ここでできなければ、一生後悔する。後悔なんて、もうし尽くしたくらいじゃないか。
茜音がもう一歩を踏み出す。しまい込みそうになった言葉を、絞り出すようにして声にした。
「ライブをやるんだ、来週末」
入り口にいる翠の前で、桃子の足がゆっくりになる。
「見に来てくれないかな」
桃子よりも先に、翠とあおいが茜音を見た。
「今さら戻ってきてくれとは言わない。そんなこと、私の口からは言えない。でも、今も同じように一生懸命やってるんだってことは、桃子にはちゃんと知っていてほしいんだ」
上品な佇まいは変わらない。
けれど桃子の手のひらは、ぐっと力強く握りしめられていた。
「考えとくね」
教室の中を風が通り抜けていくように感じた。
その風はほんわかと優しい香りがしたが、優しい気持ちにはなれずにいる。
言い残されたその言葉だけが、しばらくその場にぷかりと浮かんだままでいた。
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