政治的未関心Ⅱ 震災、オリ・パラの教訓とウソよっ!豊洲

鷹香 一歩

第1話 パンドラの箱とトロイの木馬

「久しぶり~」

「おひさ~」

「『おひさ~』って、たかだか1週間かそこいらだろ」

喫茶「じゃまあいいか」のマスター、渋川恭一のツッコミで小さな喫茶店は大爆笑に包まれる。2016年3月-。長かった冬も終わり、春を迎える季節だ。とは言え、今シーズンの冬はドカ雪が降ったかと思えば、季節外れの暖かい日が続いたり。しかし、こんな天気も思えば今に始まったことではない。一昨年も四国や中国地方が大雪に見舞われた。地球温暖化の影響か。一説には地球はむしろ氷河期に向かいつつあるらしい。もっとも、世界的には温暖化ではなく、気候変動と言うのが一般的だ。高校2年生にとっては、いよいよ就職か進学か、本格的に進路を選択しなければならない最終学年を迎える。人生の大きな岐路を迎える春だ。しかも昨年6月に選挙権年齢が18歳に引き下げられたことで、18歳選挙権の“第2期生”としても注目されている。本人たちには明確な自覚はないが、十年もすれば「18歳選挙権世代」と、ひと括りにされて語られるはずだ。3年生の大学入試の関係で登校する機会が減った剣橋高校2年の小笠原広海と秋田千穂は、行きつけの「じゃまあいいか」のカウンターでクラスメートと久しぶりの時間を過ごしていた。

「やっぱりパンドラの箱ね」

「ううん、私はトロイの木馬だと思う」

「何だよ二人とも。パンドラの箱だとか、トロイの木馬だとか。ちゃんと分るように説明してくれよな。会話についていけねえじゃん、全く」

清水央司(ひろし)は不機嫌だ。カウンターの奥でマスターの恭一はニヤニヤしているだけ。

「ゼウスがパンドラに持たせて人間界に送り込んだ禁断の箱よ」

「いいえ。きっと火星人か何かがこっそり仕掛けたトロイの木馬だわ」

「えっ、やっぱ火星人っているわけ。映画の『オデッセイ』にも出てこなかったけど。ゼウスって、ギリシャ神話の全知全能の神だろ。ゼウスって宇宙人? っていうか火星人? 何が何だかマジ分かんねえ」

「バカね、オウジ。喩え話よ、喩え話」

“オウジ”というのは央司のニックネーム。「ハンカチ王子」でも「ハニカミ王子」でもなく、単純に名前を音読みしただけの“王子”だが。

「何だ、喩え話かよ。オレ、てっきり誰かの誕生日のプレゼントの相談かと思ったよ。パンドラの箱だとかトロイの木馬だとか。よく分らないけど最近、JKの間でブームのアイテムとかさ」

広海と千穂はタイミングを合わせたように吹き出した。

「もしバースデー・プレゼントの相談だとしたら、私たち相当な性悪女ね」

「そうね。パンドラの箱もトロイの木馬も、誰ももらって喜ぶような代物じゃないし、正真正銘のワルね。何ならオウジ、あなたにプレゼントしてあげようか。バレンタインにあげなかったチョコレートの代わりに」

「試しにもらってみたらいいんじゃないか」

恭一も悪ノリする。

「ひどいな、マスターまで。人が知らないと思って」

店の入り口で乾いた金属音が響く。ドアのカウベルだ。

「お待たせー」

大宮幹太が入って来た。春の陽気の中を急いで走ってきたのだろう。額が薄っすら汗ばんでいる。

「マスター、アイス・コーヒ、じゃなくてアイスド・コーヒー」

幹太が言い直したのには訳がある。恭一はコーヒーにうるさい。そして言葉遣いにもうるさい。うるさいと言っても頑固というニュアンスとは少し違う。ナーバスというか、こだわりがあるといった方が言い当てた表現だと思う。アイス・コーヒーというのは和製英語で、ネイティブの英米人には通じない。きっと、タレントの厚切りジェイソンにも『Why Japanese People!』とネタにされるのがオチだ。過去分詞を使ったアイスド・コーヒーと言わないと、アメリカのバーガー・ショップでも“アイス・コーヒー”は飲むことが出来ない。そんなことを常連の高校生相手に雑学として提供している。こだわりの一杯と一緒に。

「助けてくれよ、幹太。広海も千穂もパンドラだ、トロイだって、隠語並べて女子トーク。ったく訳分かんねえ。オマケにマスターまで」

「俺はいつでもレディの味方だ。JKやJDならなおさらだ」

冷凍庫からブロックアイスを取り出しながら、恭一はご機嫌だ。

「パンドラの箱とトロイの木馬。パンドラもトロイも他の文脈では聞いたことがない。ギリシャ神話じゃん」

「な、何だ。やっぱギリシャ神話か」

「やっぱ? ギリシャ神話だったら知ってるっていうの、オウジ様」

からかうように千穂。

「太陽神のアポロンだろ、太陽に近づき過ぎて羽根が溶けてしまったイカロスだろ、後は、後は…」

「まあ、そんなところよね。有名どころの神様は。所詮、小6男子だからさ」

広海も一緒になって央司をイジる。が、実際のところ広海自身、ギリシャ神話を人並みに理解している自信はない。

「言うに事欠いて、そんなところってなあ。ったく」

不貞腐れる央司だが、悲しいかな反論できない。何しろギリシャ神話なんてまともに読んだ記憶がない。否、読んでいない記憶がハッキリあった。

「俺もろくに読んだことはないから、人のことは言えないけど」

幹太は知ってる範囲で簡単に説明した。

「パンドラの箱は元々、男だけだった人間世界に神のゼウスが送り込んだパンドラって名前の女性に持たせた箱のこと。『絶対に開けてはいけない』ってゼウスに念押しされていたんだけど、衝動を抑えきれずにパンドラは箱を開けてしまう。すると中から悲しみとか恨み辛み、病気や争い、盗みや裏切りとかさ、ありとあらゆる災いという災いが飛び出して、理想社会だった人間界に混乱を巻き起こすんだ。ゼウスの狙い通りに。箱の一番奥には“希望”も入っていて、ゼウスにも慈悲はあったんだ。もちろん、古今東西で研究されている神話だから諸説があるらしいけどね。トロイの木馬は、また別の話。トロイア軍との戦争で劣勢だったギリシャ軍が敵を欺くために贈った巨大な木馬のこと。トロイアの軍勢は木馬を持ち帰って、勝利の美酒に浸っていたわけ。盛り上がって酔い潰れてて眠り込んでいると、木馬の中に身を潜めていたギリシャ軍の兵士が一斉に飛び出してトロイア軍をやっつけてしまう。確かそんな内容だったはず」

「何だ。パンドラの箱って浦島太郎の玉手箱にクリソツじゃん。っていうか、逆に浦島太郎がギリシャ神話をパクッたのか。えっ、初耳、初耳」

「残念! 林先生は知ってました」

とテレビっ子の幹太。

「まあ、箱っていうキーワードで考えると確かにパクリかもな。でも『絶対開けるな』って言われると開けたくなるのが人情だし、人間の弱さだよな」

「あのさ、確かに弱さではあるけれど、パンドラの箱も玉手箱も箱を開けないことには物語が始まらないし、終わらない。話自体、意味なくない?」

千穂は冷静だった。


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