第38話 盛り塩、盛り砂、そして盛り土
「築地から豊洲に市場を移転しない選択肢って、アリですか?」
と大宮幹太。頭の中でようやく白丸元味を完食して、満足したようだ。
「アリかナシか、って聞かれてもな。可能性としてはどっちもアリだろう。誰が、どう判断するかだけの問題だよ」
「だって、もう土壌整備とか建物だってほぼほぼ出来上がっているんだから今まで使った費用がムダになるって話もあるじゃない…」
実際、現在の築地市場の売却益も見込んだ上で、約6,000億円の公費が投じられているのだ。高岡美佐子の心配も無理はない。
「知事が延期を発表した時にも『豊洲新市場がオープンしなくても、一日に約700万円の経費が掛かる』って移転の延期に反対していたでしょ。東京都自体が」
市川深雪には、移転しなくてもかかるといわれる維持費の金額が信じられない。
「それは、何が何でも豊洲に移転したいってことですよ、都が。勘違いしないでほしいのは、小池知事の意向ではないということ。6.000億円近いお金が掛かっているからって安易にこのまま移転した後、大規模な改修や再移転が必要になるかもしれないって考える余裕が、都の幹部にはないんだろう。脅し文句のように、オープンするしないに関わらず毎日約700万円の維持費が発生するって言い出したのも結局彼らだよね。残念ながら、していない盛り土を『しています』って言い続けてきた方々の言い分を、十分な謝罪も説明もなしに、まんまチャラにして鵜呑みにするするほど生憎オレはお人好しじゃないんでね」
小笠原広海は、『関心がない』と言いながら熱く語る渋川恭一に『何だ、結構関心あるじゃん』と心の中でツッコミを入れた。
一日700万円に上る維持費の200万円弱は警備費で、他に照明や空調などの電気代や水道代などの光熱費などと公表されている。概算は後に、700万円から500万円に修正されたが、いずれにしても庶民感覚で莫大なムダ遣いであることは明らかだ。そもそも200万円もの見積もり違いをしたまま、公表する姿勢自体が問題であろう。
「一日に500万円ってビックリだけど、考えたら単純計算で月に1億5,000万円ってことだよね、一ヶ月30日計算で。一年で18億円以上。マジか。移転しなくても掛かる維持費っていうのが厄介よね。営業日も定休日も関係ないんでしょ」
広海には想像もつかない。
「そんな維持費がマジで掛かるかどうかも分らないけど、開業した後も誰がどう分担していくのかも興味あるな、そんな高額の維持費。一番心配なのは、それが最終的に市場で扱われる魚介類の値段に跳ね返ってくるんじゃないかってこと。それだけは勘弁してほしいわね」
深雪の一言は、消費者として、そして主婦としての率直な感想だった。
「福島第一原発の放射能漏れ事故の補償や廃炉の費用も結局、電気料金に上乗せされることになったんでしょ」
広海には、市場移転と原発の廃炉の費用の捻出方法が重なって見えた。
「本来は、国と東京電力が負担しなきゃならないのに。国の負担部分で既に国民は負担しているはずなんだから、おかしな話だよな」
「確かに。そういう意味では、税金の二重取りみたいな構造だ」
恭一が幹太の意見を補足するように言った。
勤務が一段落した横須賀貢がやってきた。一服したら別の教師と交代で部活を見届けなければならない。最初からいなかったことで温度差を感じたのか、豊洲の本筋の話には参加するのはやめて、提案したのは言葉の扱いだった。
「俺は、盛り土を『モリド』と読むのが気に入らない。小池百合子都知事は最初、記者会見で『もりつち』と言っていたんだ。でも、会見の席でマスコミが『モリド』『モリド』って言うから、翌日以降は知事も押されて『もりつち』を使うのを止めてしまった」
「えー、知らなかった」
広海が知らなかったのは『盛り土』の読み方だろうか、それとも意外に細部にこだわる横須賀の性格だろうか。しかし、いかにも学校の先生ならではの指摘だ。恭一はふと思った。
確かに9月4日のTBSテレビ『NEWS23』に出演し、独占インタビューに答えていた小泉純一郎元首相はインタビュアーを務めたキャスターに向かって『モリドは間違っているから直したほうが良い』と勧めていた。広辞苑も盛り土について、最初に『もりつち』と訓読みしている。小池知事も恐らく広辞苑に目を通したことだろう。盛り土を『モリド』と音読みするのは建設関連のいわゆる業界用語で、表記も盛土と書くことが多い。
「みんなは、プロ野球とかJリーグで連敗しているチームのベンチ前に山になった塩を見かけたことはないかな」
「あります、あります。あれ、験担ぎですよね。厄払い。盛り塩(もりしお)ですよね」
横須賀の問いに、間髪を入れずに幹太が反応した。
「昔からお祭りや工事の起工式なんかでも、同じような意味合いで盛り砂(もりすな、もりずな)をする日本の伝統的な習慣がある」
実況アナが試合中継の合い間に取り上げるサイドネタとは違い、こうした儀式の約束事は多くの高校生にとってはアウト・オブ・守備範囲だろう。
「盛り塩(もりしお)に盛り砂(もりすな)ですね。『盛り』の部分に送り仮名の『り』が入った」
一字一句確認するように、ゆっくり丁寧に読み上げる広海。
「モリエンとか、モリサとは言わない。もりつちのことだけ、モリドというのはおかしいくないか。物事に例外があることは否定しないけど、これじゃ子供にも説明できない。まあ、国語の教師でもないがな。だけど、マスコミも全て『右へ倣え』っていうのも気持ちが悪いよな」
そう言うと、横須賀は出されたコーヒーに口をつけた。
「安心なんですよ。同じ方が」
「ビートたけしか」
幹太の相方は耕作だ。
「ビートたけし?」
オウム返しに愛香が聞き返す。
「『赤信号、みんなで渡れば怖くない』ね」
やりとりを聞いていた美佐子。
「マジで~? それって、たけしさんなんですか、言い出しっぺ」
愛香もフレーズだけは知っている。
「世代の違いかな」
横須賀は恭一に目をやりながらポツリ呟く。学校で見せる顔とは違う一面だった。
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