第33話 棋士は頭が柔らかい

USOYOTOYOSU-。アルファベットの回文をいとも簡単に完成させた長崎愛香に、小6男子たちが妙に感心している。小笠原広海は、何手も先を読む棋士の頭の中を想像してみた。将棋の対局では、休憩の際に相手側から盤面の駒の並びがどう見えるか確認する棋士もいるらしい。複雑な駒の動きを普段からイメージしている愛香にとっては、両手で余る程度の数のアルファベットの並べ替えなんか朝飯前なのだろう。

「でも“課長”、まだあんまり笑える状況にないと思うんですけど」

愛香の脳内分析をやめて、我に返った広海の後ろから、

「みんな、案外目のつけ所はいいんじゃないか。偶然にしては出来過ぎの感のある言葉遊びだけど、都の職員にとってはカウンターのフックのように強烈なパンチに違いない。ある意味では本質を突いたオシャレな皮肉だね。柔軟な見方や刺激は脳を活性化させる。大学入試では役に立たないが、大学生になったら教授は点数をくれるかもしれない。少なくても頭の体操にはなることだけは保証するよ」

笑顔で語る喫茶『じゃまあいいか』のマスター、渋川恭一にも支持されて、志摩耕作は満面の笑みを浮かべると、右手でセルフレームの眼鏡の縁を上げた。


9月14日、共産党と前後して問題の地下施設を視察・調査した公明党都議団は19日、視察時に採取した水産卸棟の地下水を外部の調査機関で分析した結果、シアン化合物が検出されたことを明らかにした。国の基準値レベルで言えば、量の多寡ではなく検出されてはいけない物質だった。東京都がその前段階の7回の検査で、水産卸棟、青果棟など、それぞれの建物の地下に溜まった水から国の基準値以上の有害物質は非検出とした公表と矛盾することになった。

「大体、建物の下に地下空間があること自体、専門家会議や都民、国民に対して公表してこなかった東京都でしょ。地下水の検査だって、当事者の都に『有害物質は検出されませんでした』って発表されても、ちょっとね。第三者の調査じゃないと」

懐疑的な意見の広海。みな口にしないだけで、内心では頷いていた。

「マスコミも、まんま鵜呑みの報道だしね」

と愛香。

「鵜呑みっていうのは正確じゃない。マスコミは『都の調査で有害物質は検出されませんでした』って事実関係を発表しているに過ぎないってことだ」

微妙なニュアンスで正す恭一。ややこしい言い方だ。

「マスコミに地下空間を公開して取材に応じた時も、都は地下水や空気の採取は認めなかったらしいよ」

と大宮幹太。何が含まれているか分からないから危険だ、というのが都側の理由だった。

「何で? それ自体、おかしいでしょ。何も有害物質なんてないんだから。逆にマスコミに外部の研究所で成分を分析してもらえばいいじゃない。堂々と」

広海が言うように、後ろめたさがなければ別に地下水を採取されても構わないはずだ。何しろ土壌汚染対策だけで3,000億円近い税金を使い、都の調査では、過去7回の調査でいずれも有害物質は検出されなかったのだから。しかし、9月28日、東京都が行っていた豊洲新市場のモニタリング調査で、環境基準値を超える有害物質であるベンゼンとヒ素が検出された。9回行う調査の8回目のことだった。

「そう受け止められても仕方がないだろうな。やましい所がなければ、禁止する理由がない。少なくともビビッたことは確かだな」

と恭一。そして、実際に有害部室が検出されることになる。

「取材時間も、それぞれの地下空間ごとに10分くらいだったらしいわよ。テレビで言ってたわ」

表向きの理由は危険を避けるためだったが、市川深雪には時間をかけて細部まで調べられるのを嫌った都の姿勢は容易に推察できた。新築の卸売り棟の地下に危険な空間があること自体、奇妙な話だ。

「地下に溜まった水だって、専門家の多くが『地下水の可能性が高い』って主張するのに対し、都は『地下水ではなくて雨水だ』って譲らなかったんだ」

と幹太。一流の会社が建てた真新しい施設が雨漏りする欠陥を自ら認める神経も神経だが、盛り土をしなかった上に地下水の管理・処理が不十分なのはもっと責任を問われる深刻な問題だからだ。

「それは、溜まった水が地下水だってことになると、汚染物質が混ざってくる可能性を否定できなくからでしょ。元々、地下にたくさんの有毒物質を含んだガス工場があった場所だもんね」

「東日本大震災の時には、あそこは液状化現象で埋立地の砂が吹き上がってきたっていうものね」

豊洲の液状化の現実は、高岡美佐子も市川深雪も新聞報道で知っている。

「移転を決めた頃の調査では、確か基準値の4万倍以上のベンゼンも検出されていたっていうから、理由もなく安全だって言われても心配っちゃ心配だよね」

と恭一。

「確か4万3.000倍って言ってましたよ」

幹太がスクラップブックをめくって正確な数字を挙げてみせた。

「広海は、どっちを信じる?」

愛香は広海がどう考えているか気になった。

「それだけじゃ、何とも言えないんじゃない。情報量が少な過ぎるかなって感じ。伝えられている情報だけの印象では都の方が分が悪いとは思うけどさ」

東京都のいい加減さを指摘する声が多数を占める中で、意外に広海は冷静だった。煮え切らない広海を諦めて、愛香は恭一に明快な答えを期待した。

「マスターは?」

「だから俺は、あんまり興味がないって。利害関係や対立関係にある立場同士の主張っていうのは、それぞれの言い分だけで判断するのは危険だ。判断ミスをする可能性も高いんじゃないかな」

愛香の問いにも恭一は自分の本音を保留した。

「確かに」

「それよりも、、もっと別なことが気になっているんだ」

何となく頷いた愛香をよそに恭一が意味深な発言をするので、みんなの関心が集まる。

「別なこと?」

「地下空間の存在が明らかになって以降、議員やマスコミが視察と取材で現場に入っているのは、みんなも知っての通りだ」

地下に溜まった水が地下水か雨水か、何で手が届かない所に配管したのか、そもそも専門家会議の提言を無視して、何で盛り土をしなかったのか。他に気になることがあるのだろうか。広海は思った。

「マスコミは置いておいて、視察に行ったのは誰だっけ?」

幹太はスクラップした新聞記事をめくる。18歳選挙権の導入が決ってから、気になるニュースは切り抜いて取っておくことにしていた。

「えっと、日付順に共産党、民進党、そして公明党の都議団です」

「知事選挙の時に、小池百合子候補のライバル候補を擁立したのは?」

クイズのように質問する恭一。答えたのは美佐子だ。

「自民党」

「『議員本人はもちろん、親族も小池さんを応援しちゃだめ』ってお触れを出したんだよね、確か」

都知事選を思い出しながら広海。

「立派な憲法違反だよね。まあ、そのくらい切羽詰まっていたってことさ」

投票の自由や投票の秘密は憲法で保障された権利だ。

「小池知事が当選して挨拶に行った時にも、幹部がいなかったのよ、確か。自民党の都議団って」

テレビの情報番組で繰り返されるシーンに、大人気ないなと美佐子は思った。

「あっ、そっか」

気づいた幹太が口に出すより、恭一の方が早かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る