帰り着く家 3
最初に描いたのは、何の絵だったろう。
もう定かには思い出せないほど幼い頃から、オーレグにとって絵を描くことは生活の一部だった。
お腹が空けば食を求めるのと同じように、何か描きたい、という欲求が常にあった。紙の切れ端と、鉛筆かチョークでも持たせてもらえればいつまでも退屈せずにいられたほどだ。紙さえ無い時は、消し炭を拾って煤けた壁や床石に描いた。見守る母はそれを叱りもせず、暖炉の大鍋で薬草を煮ながら稚い絵を誉めてくれるのが常だった。
『まあオーリャ、上手に描けたこと。そういうところはきっとお父さんに似たのね』
母・オーリガの柔らかい声がまだ記憶の底に残っている。だがその声が刻み込まれていたはずの小さな生家は、今はもう跡形も無い。オーレグが五歳の時、突然現れた青い炎によって、母と親族のアガーシャは共に焼けてしまったという。
オーレグ自身はその時のことを覚えていない。いや、もっと言えば、その後七歳くらいまでの記憶がまるでないのだ。
なぜ自分だけ無事だったのか、幼かった自分が母の死をどんなふうに受け止めたのか、引き取ってくれたガートルード伯母夫妻や従姉にどんなふうに馴染んでいったのか。それらの日々はまるで、古いカンバスの絵を灰色の絵の具で塗りつぶしてしまったかのように自分の中から消えてしまっている。
母がジグラーシ魔女としては最高位を意味する『賢女』という称号を得ていたという事実を知ったのは、十二を過ぎてからのことだ。
父のことは、あまり覚えていない。数回会ったことはあるのだが、黒褐色の瞳や骨格のしっかりした顎、絵の具の匂いが染み付いた大きな手といった断片的な記憶しかない。
父が遠い東の国の生まれで『龍の血を引く』と言われていたこと。魔法使いではなく、各地の聖堂を回って壁画の修復などを生業とする腕の良い絵師だったこと。それらは全て、おとぎ話のように繰り返し繰り返し母が語ってくれるうちに幼いオーレグの頭の中に刷り込まれたものだ。
だが、と十三歳になった今は思う。
龍の血を引くなんて龍人、竜人ではあるまいし、荒唐無稽もいいところだ。それにそんな遠い異国から来た男が、閉鎖的な社会に生きる魔女と正式に結婚したとは思えない。もしかしたら、半分ほどは母の願望が入った話だったのかもしれない。
姓も肩書きも持たない『シウン』という名前だけの、異国人絵師――母が亡くなる直前に姿を消した父のことを親戚たちは嫌っていたし、伯母も決して多くを語ってはくれない。
* * *
「最初は電球。次はラジオ……」
だれかがぶつぶつ言いながら歩き回っている。
「ウィッチランプのホヤに、呼び出し鏡に、水晶グラス。あーあ嫌になっちゃう。どれだけ壊せば気が済むのよ」
声の主は近づき、オーレグのすぐ傍に座ったのか、クッションの振動が伝わってきた。
「この癇癪持ちの悪童! ソロフ先生のところでもその癖は直らなかったのね」
目を開くと、すぐ間近でアントニーナの黒い瞳が睨んでいた。光の当たり具合によって黒の奥に紺色の紗がかかっているようにも見える、不思議な色だ。長い黒髪が垂れてオーレグの頬にまで触れている。
「うるさいな。顔どけてよトーニャ姉さん、息がくさい」
「失礼ね!」
憤慨して跳ね退く従姉には目を向けず、オーレグはソファの上に起き上がり、銀色の頭を振った。どうやらしばらく意識が無かったらしい。
息がくさい、などというのはもちろん嘘だ。それどころか、最近のアントニーナはオーレグの知らない甘い花の香りがして、他所の人みたいだ。だがもう小さい時とは違うのだし、さっきみたいに不用意に顔を近づけないで欲しい、顔をしかめながらそう思わずにはいられなかった。
居間の中には伯母の姿もさっきの見知らぬ少女の姿もなかった。マーシャが黙々と箒を動かして、床に散ったガラスの破片を片付けている。
ああまたやっちゃったんだな、とオーレグは肩を落とした。あの火花のせいだ。怒りの感情が起こると、彼の身体の回りには青白い火花が散る。時にそれは抑えきれず、細かな目に見えぬ波となって周りの物を壊すことになる。
「今回の被害はウィッチボール一個で済んだわ。あんたが爆発する前にママが気がついてすり替え魔法を使ってくれたからいいものの……一歩遅ければ天井のシャンデリアが全部割れてるところ。お客様の前で恥かかせないでよね」
腕組みをして窓辺に寄りかかりながら、アントニーナは不愉快そうに細い眉を寄せた。前髪を上げて少し大人っぽくなった顔の中で、それは計算されたような綺麗な形に整っている。昨年帰省した時はゲジゲジ眉毛だったくせに、と思いながらオーレグはわざと嫌味たらしく答えた。
「ふうん。じゃ、僕の夕食も安物のガラス玉とすり替えられるんだ、きっと。青豆のソースを掛けたら合うんだろうなー」
「憎まれ口もいいかげんにしなさい」
切れ長の目が再び睨んだ。
「まったくあんたは帰る度に可愛げがなくなっていくのね。素直に『ごめんなさい』って言えないの?」
『まったくあんたは帰る度にオバサンになっていくのねー。素直にガートルードの小型版です、って言えないの?』
オウム返しに声色を真似てみせたオーレグに、硬い部屋履きが飛んで来た。少年はひょいと避け、暗くなり始めた窓の外に身を翻した。
「この――バカ! 恩知らず! 本当に夕食抜きにしてやるんだから。マーシャ、今日こそ許しちゃ駄目よ!」
アントニーナの声が遠ざかっていく。
飛び出したものの、ここは二階だ。オーレグは危なっかしく軒先にぶら下がり、目の前を見て小声で呼びかけた。
「へい、兄弟。君の枝が切られてなくてよかった」
楡の木が近くまで枝を伸ばしている。彼は易々と枝に飛びつき、慣れた動作でよじ登った。
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