果たされた約束 3
もう夜も深い。話の続きは翌日にということで、三人はそれぞれ部屋に戻ろうと廊下に出た。
フシャーッという小さな声を耳にして、オーレグは廊下の奥を見た。老猫のプロジーニィが、居間の戸口で毛を逆立てている。
「どうしたのプロジーニィ?」
アントニーナが声をかけると、猫は暗い廊下の隅に逃げ去ってしまった。いつもは暖炉の前で寝てばかりいる猫の普段とは違う様子に嫌なものを感じ、三人は顔を見合わせた。
居間のドアを開けると、老猫が何を怖がっていたのかがわかった。
レリーフ仕上げの格子天井に、一枠を覆い隠すほどの大きな蜘蛛の巣が掛かっている。ハッとした顔でガートルードが巣の真下に立ち、オーレグとアントニーナを背中で庇うように両腕を広げた。
「二人とも下がっていなさい!」
間髪を入れず蜘蛛の巣が光り始め、見覚えのある紋様を描く。その中央から一匹の大きな蜘蛛がぶらさがった。
『やぁれの、遅うなった。移転の魔女どもをまくのはちぃと骨が折れたぞ』
蜘蛛が発したのは軋むようなジグラーシ語だった。
「リュドミーラ様」
ガートルードは険しい顔で蜘蛛に話しかけた。
「そのお姿でお目にかかるのは久々ですわ。どうやってここへ?」
『造作もないことよ。ガリーナの部屋を出る時に糸の先を壁板の隙間にちょいと貼り付けておいたのでな、それを手繰ってきた。あのドアさえ消してしまえば、
蜘蛛は糸でぶら下がったまま、ぐるりと回転した。灰色の毛の中に黄色い目が八つ、頭を囲むように並んで光っている。
『ふふふそんな怖い顔をするな。ほれ、土産じゃ』
リュドミーラの声に応じるかのように、光る蜘蛛の巣はさらに広がり、その中から白いベールに包まれた人の頭が現れた。
「ガーリャ!」
「ガーリャだ!」
驚く三人の目の前で、ガリーナは頭を下にした姿勢のままベールの中でもがいていたが、やがて自らの重みに耐えられなくなったようにずるりと落ちてきた。慌てて受け止めたオーレグの腕に、ねちりとした蜘蛛の糸が絡みつく。ガリーナを包んでいる白いベールは、蜘蛛の糸でできているらしい。その内側でガリーナは目を見開き、口を開いてもがいている。
「呼吸ができないんだわ。これを外さなきゃ、早く!」
アントニーナに言われるまでもない。オーレグはベールを引きはがそうと力を込めたが、粘性の強い糸でできたベールは、外すことも裂くこともできない。その間にもガリーナの唇は色を失っていく。
「ガリーナ様! 我があるじ!」
ガートルードが今まで見せたことのない形相でガリーナを引き寄せた。そのままベールに爪を立て、目をカッと見開くと、猛禽類が叫ぶような声で呪文を発する。白いベールがびりりと震え、ガリーナの口元の糸がすこしばかり解けた。大きな呼吸音が聞こえる。だが解けた糸はそれ自体が生きているようにまだふよふよ蠢いている。
『そうれそうれ、綴じてしまうぞ。早うせぬか、大魔女どの』
リュドミーラのはやし立てる声が癇に障る。八つ並ぶ蜘蛛の目はどこを向いているのか、オーレグはちらとそれを視界の端に捕らえて覚悟を決めた。
「伯母様、どいて!」
指先を糸の解け目に向けると、視界に青い火花が散る。いろいろやっかいごとを引き起こしてきた力だが、自分が癇癪持ちなのをこの時ばかりは感謝した。ただ、加減を間違えるとガリーナまで傷つけてしまうだろう。オーレグは呼吸を整え、意識を集中し――返せ! と強く強く念じた。
一瞬の閃光。
と共に衝撃。オーレグは弾け飛び、背中を打った。
「ガーリャ! ママ!」
悲鳴にも似たアントニーナの声で我に返ると、薄煙の向こうでガリーナをしっかり抱えて座るガートルードの姿が目に入った。蜘蛛のベールは焼け焦げた糸の束となって床に落ちている。
ガリーナは無傷のようだ。が、代わりにガートルードの左手がしたたか火傷を負っているのが目に入った。
「しまった、ごめんなさ……!」
焦ったオーレグが言い終わらないうちに、ガートルードは左手を顔の前に掲げ、長く息を吹きかけた。見る間に焼けた皮膚はきれいに修復されていく。彼女が得意とする治癒魔法だ。
「やれやれ。オーリャ、やはりお前には杖が必要なようね。いいかげん、力の加減を覚えないと」
やがて何事もなかったように手が治っててしまうと、ガートルードは服に残った焦げ糸を冷静な表情で払い、眉をそびやかしてみせた。
『ほーっほほ。いや面白い見せ物じゃ。わざわざ戻ってきた甲斐があったというものよ』
耳障りな笑い声が聞こえた。灰色の毛むくじゃらな蜘蛛は、糸でぶら下がったまま振り子のように揺れている。
『どやつもこやつも、人の身は面倒じゃのう。あのまま呼吸を止めてしまえば楽になれたものを、なるほど
「貴女はいつまでその姿でいるおつもり? もうガリーナは水晶魔女の役目を終えたのです、用はお済みではないかしら」
ガートルードは怒りを含んだ目で蜘蛛を睨み、アントニーナに命じてガリーナを隣の部屋に移動させた。
『まあそう急くな。替わりの贄を持ち帰るにはこの姿でないと、のう」
ガートルードが目を離した一瞬の隙をついて、蜘蛛は突然大きく弧を描いて飛び、オーレグの首筋に取りついた。
スパークを飛ばす暇もない。噛まれた、と思った時には糸に絡まれ、手の自由を奪われていた。オーレグは小動物のように喚いて暴れた。
『どうれどうれ、お前は印しを持ってないか、え?ないか』
リュドミーラの蜘蛛は後ろの脚四本で立ち上がり、オーレグをいたぶるように残りの四本脚を躍らせた。その動きに合わせてオーレグの身体に糸が巻き付いていく。
「おやめください! その子は男の子です。水晶魔女の印しなど関係ありません!」
『それはどうかのう。オーリガもお前も、賢しのガリーナに心酔しておったことくらい知っておるわ。このリュドミーラを
「知らないよ! 一世代目がそんなに偉いのかよ、この……!」
蜘蛛の糸にがんじがらめにされながら、オーレグは思いつく限りの悪口雑言を浴びせた。普段なら伯母の前では口が裂けても言えない罵倒語だ。その間になんとかスパークを指先に集めようとした。が、両手とも痺れたように動かない。こんな時に限って視界に青い火花も散っていない。足で蹴れば足に、頭を振れば頭に、粘着性の糸はますます絡みつくばかりだ。
ガートルート伯母が叫んでいる。伯母ならなんとかしてくれるはずだ。ガリーナだけは守って、そう言おうとした口が糸に塞がれた。むっとする臭いに、思わず胃液がせりあがりそうになる。
ほくそ笑むようなリュドミーラの笑い声ばかりが部屋に響く。
『おまけに心を読むとはのう、水晶魔女の力とは表裏の合わせ鏡のようではないか。これは奇利と言うべきかのう』
自分の力が知られていると知って、オーレグは愕然とした。
『なぜに知られたか不思議かえ、恐ろしいかえ小童よ。人の心を読む者はのう、自分の心も読まれるものよ。なにしろこの婆の魔力のほうがちぃと強いでの。お前の伯母はそう教えなんだのか、たいした大魔女もあったものよ」
うるさい、と意思表示するためにオーレグは唸り、全身をよじって暴れた。
『のうガートルードや、
「何を……こんな時に!」
オーレグを絡め捕る糸が少しだけ解けた。ガートルードの魔法が解いてくれたのだろう。だがすぐに元通りになってしまうのは、さっきのガリーナの時と同じだ。
『グランネン将軍を知っておるかえ? あの御仁は魔法一族にも寛大ぞ。次の水晶魔女がもう望めぬならば、この童を差し出せばどうじゃ。使えるぞ、おお使えるとも』
詠うように蜘蛛は呟く。
『我が一族、もっと早くにあの将軍の許に入っておればのう、お前の父の雷使いも意地を張らず、
「私の前でその名を言いますか!」
ガートルードの怒りの波が、蜘蛛の糸越しに伝わってきた。オーレグの癇癪どころではない、家ごとびりびりと揺り動かす凄まじい怒りの波だ。
「我が妹はその名の者に抗い、我が夫は恭順を示してどちらも命を落としたのですよ。もうたくさん! 魔女の力は魔女のもの、その子の力はその子自身のもの。我らは誰のものにもなりません!」
ガートルードの爪が蜘蛛のほうを向いた。伯母がこれからどんな禁忌を犯そうとしているのかを察して、オーレグは震えあがった。
突然、ドアが勢いよく開いた。箒を持ったマーシャの姿が糸の向こうに見える。
「奥様、これを」
マーシャが差し出した陶器の瓶をひったくるようにして、ガートルードが叫んだ。
「目をつぶりなさい!」
伯母に言われるまま急いで目をつぶったオーレグの頭上でバシャッと音がし、液体が降ってきた。天井の光る蜘蛛の巣めがけ、ガートルードが瓶の中身をぶちまけたのだ。灰汁のにおいが部屋に満ち、光る蜘蛛の巣が溶けるように消えた。と同時にオーレグに巻き付いていた糸も、粘りを失ってぽろぽろと崩れ始める。
「良かった、間に合った」
アントニーナが戸口で息を切らしていた。
『なにをしおるか、魔女でもない者が!』
リュドミーラの蜘蛛は奇声を上げながら飛びかかった。が、マーシャは箒を振り上げ、慣れた手つきで一撃に蜘蛛を叩き落してしまった。
「ええ、わたくしは魔女ではありません。だから魔女さんのどなたが上だとか偉いとか、わたくしには通用しませんわねえ。わたくしは家政婦の仕事をするだけです」
静かな口調でマーシャは言い、床の上でひくついている蜘蛛を火鋏でつまんで暖炉に向けた。
「焼きます? 奥様」
「いえ、そこまでしなくてよろしい。後で遠くの森に追放します」
ガートルードはさっき見せた殺意など忘れたようにコホリと咳ばらいをした。
天井からまだ薬が滴っている。ガートルードは感心したようにその雫を指に取った。
「夏にアントニーナお嬢様が作っておられた蜘蛛退治の薬ですよ。お嬢様が血相変えて台所に飛び込んでこられた時は何事かと思いましたけどね、ええ。蜘蛛と聞いて、この薬のことをすぐ思い出しましたもので。お役に立ててようございました」
アントニーナはオーレグの頭に残った糸を拭き取りながら、ちょっとはにかんで言い添えた。
「灰汁をベースにした魔法薬よ。この夏は虫が多かったから、マーシャに頼まれて多めに作っておいたの。効き目はあったみたいね」
「じゅうぶんあったよ!」
オーレグは顔をしかめ、口の中にまで入った灰汁くさい薬をペッペッと吐いた。
「でも、噛まれちゃったよ。あの蜘蛛、毒なんて持ってないよね?」
「どれ、見せてごらんなさい」
オーレグの首筋にガートルードの指が触れた。いつぞやのジェインのような冷たい指ではない。幼い頃から何度も治癒魔法で助けてくれた、あたたかな指だ。
「ああ、これは……大丈夫。毒は毒ですけれど、お前には効きませんよ」
ガートルードは含み笑いをした。
「お前は五歳のころに熱病に罹りましたね? あの時に、悪しき魔力に抗う力が体内に出来ているはずです。その髪の色素と引き換えに、自分でその力を獲得したのだとオーリガは自慢していましたよ」
「母さんが?」
「そう。お前は自分を護る力を持っています。幸運な子ね」
廊下の向こうから「猫ちゃん……」というか細い声がした。それに反応したように小動物の足音と唸り声が近づいたと思うと、黒い毛玉が居間に飛び込んできた。
「プロジーニィ!」
飛び込んできた老猫のプロジーニィは、マーシャの足元を見ると笑うように口を開けた。鍋底の炭を塗ったような顔の中で、それは真っ赤な火のようにも見えた。老猫は身を屈め、尻をもぞもぞと振ったと思うと、火鋏の隙間から抜け出そうとしていた蜘蛛に飛びついた。
ギャッという声は、蜘蛛のものか、それともリュドミーラのものか。
いつも寝てばかりいる姿とは打って変わって、プロジーニィは勝ち誇ったように緑色の目を光らせ、獲物を口に咥えたままシャリっシャリっと音を立てた。
「やめなさい、そんなもの。ペッしなさい」
アントニーナが慌てて止めようとしたがもう遅い。老猫は獲物を咥えたまま身を翻し、階下へ駆け下りていった。
「まるで狙ってたみたいだ」
唖然として見送るオーレグの隣で、ガートルードがため息をついた。
「さあ、どうかしらね。昔リュドミーラたちによって人に非ざる者に姿を変えられた魔女がいたとは聞いていたけれど。まあ、私は猫の考えなど知りませんよ。それよりトーニャ、さっきガリーナの声がしたようだけど」
「そう……わたし」
か細い声が聞こえ、廊下に小さな影が揺れた。
「ガーリャ!」
頭からショールを被り、素朴な木綿の服を着た裸足の少女がそこに立っていた。危なっかしく揺れながら、まぎれもなく自分の足で立っていたのだ。
「ただいま」
少女はそう言うと、満面の笑顔を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます