水晶と嫉妬

「窓をもう少し開けてくださる?トーニャ」

 細い声に促されて、アントニーナは窓を少しだけ押し上げた。寒くないのかしら、という心配をよそに、声の主は目を細めて秋風を吸い込み、左手を窓に向けた。誘われるように、楡の葉が一枚ひらりと舞い込む。


 最近のガリーナは、もう車椅子にさえ座れない。上半身をいくつものクッションに支えられて、ベッドの上から微笑みを向けてくる。

「オーリャは元気にしていて? あれからずっと顔を見ていないわ。わたしのせいで叱られたりしていないかしら」

「あの子なら大丈夫。ずっと部屋にこもっているけど、拗ねているだけです」

「そう……」

 寂しそうに睫毛を伏せると、ガリーナは黄金色の楡の葉を指に挟んで見つめた。


「わたしね、水晶魔女として生まれたことを誇りに思っているけど、ひとつだけ残念なことがあるの」

 ドキリとしてアントニーナは姿勢を正した。。水晶魔女をこの家に預かって以来、できる限り彼女の要望は叶えてきたつもりではあるのだが、何か不行き届きがあっただろうか。

「なんでも仰って。こんな田舎ですから都会と同じ物はご用意できないかもしれないけど」

 緊張したアントニーナの言葉を否定するように、ガリーナは弱弱しく指を振った。

「ちがうの、単なるわたしのわがまま。あのね、文字を……読むだけでなく、一度書いてみたいなって」


 アントニーナは目を見開いた。文字や絵など水晶魔女に関する記録は残してはいけないと聞いてはいたが、まさか。

「あの、もしかして。失礼だけど、ガリーナ。貴女は文字を……」

「書いたことがないの、一度も」

 ふふっと笑ってガリーナは水色の目を向けた。

「驚いたでしょう? 本を読むのはとっても好きなのにね」

 そういえば水晶魔女の部屋に持ち込み禁止とされる物リストの中にペンやインクがあった。アントニーナは声を落として聞いてみた。

「記録を禁じられているから?」

「それもあるわ。養育係から言われていたの、文字は俗世のものだから水晶魔女が自ら書くのははしたないって。ずっとそれを疑いもしなかったけど」

 まるで他人事のようにガリーナは答える。

「今は少しだけ後悔しているの。この手が水晶化しないうちに字を書いてみればよかった。ペンを持つってどういう感じかしら」

 後悔と言いながら哀しむでもなく、淡々とガリーナは呟き、自分の指を見つめるばかりだ。

 それが水晶魔女の宿命なのかもしれないが、あまりにも重い言葉ではなかろうか。どう答えればいいのだろうとアントニーナは苦い思いを飲み込んだ。そして返す言葉を探すうちに、ふとあることを思い出した。


「ガーリャ、タイプライターをご存じ?」

「タイプ? ライター?」

「鍵盤を指先で叩いて、文字を打つ機械のことよ。ペンを持たなくても、指一本でも言葉を綴れるわ」

「ペンが持てなくても? すてき! 今はそんな素晴らしい魔法があるのね」

 ガリーナは目を輝かせた。

「魔法ではなくて、機械と技術テクノロジー、というのかしら」

 アントニーナは笑って首を振った。

「とても高価だから、今すぐというわけにはいかないけど。私はいつか自分のタイプライターを手に入れるつもりよ。待っていてくださるかしら。きっとガーリャのお役に立てると思うわ」

「もちろんよ。ああでも……間に合うかしら」

 ガリーナは手袋に護られた自分の手を見つめ、ぎこちなく動かしている。水晶化というものがどんなものかは俗人には詳しく知ることができないが、日に日にガリーナの指は動きが悪くなっている。それはアントニーナの目にもわかる。

 いずれ、彼女が水晶を生み出す日が来たら……


 アントニーナは恐れ多い考えを振り払うように頭を振った。そして何冊かの本を抱えると、わざと元気な声でベッドを覗き込んだ。

「さあガーリャ、今日は本を読む約束よ。まず何から読みましょうか」

「詩集がいいわ。わたし、詩を朗読するあなたの声が好き」

 ガリーナの求めに応じて、アントニーナは古い詩集を取り出し、椅子に深く掛けた。


 落ち着いた声が部屋に響く。もう何度読んだかしれないジグラーシの詩だ。朗読は途中から暗唱となり、今はもう日常で聴くこともない、祖先たちの言葉の韻律が部屋に満ちた。

『……そして冬の女王は春を羨みたもう……春の乙女は夏に焦がれつ……』

 珍しく声を合わせて詩の一節を諳んじ、ガリーナはふふっと笑った。

「わたしね、ずっと長い間『羨む』って言葉の意味がわからなかったの」

 詩の暗唱を止めたアントニーナは、相手が何を言い出したのかといぶかしく思った。

「でもやっと分かったわ。この間、オーリャが外に連れ出してくれた日に。ほんの短い時間だったけど、とても、とても楽しかったの。楡の森も、草の丘も、白い羊もみんな輝いてて。世界はこんなに広くて、風がいつも吹いているんだなって思うと嬉しくて……それから悲しくなったの」

 深緑色のカーテンを風が揺すっている。窓の向こうの空は、もう夕暮れの色に染まりつつある。ガリーナの目が雲の色を映した。

「だってこんな美しい世界で、わたしが知らない時間を、オーリャとあなたはずっとずっと生きていくんですもの。『羨ましい』ってこういう感情のことを言うんだと、初めて気づいたの。トーニャ、わたしあなたに嫉妬したかもしれない」

「そんな、まさか」

 アントニーナはいたたまれずに立ち上がった。

 この世に二人となく尊い存在の水晶魔女が、自分のような田舎住まいの魔女を羨むなどと。まして嫉妬などと。


 ガリーナは自分の言葉に改めて驚いたように、きゃ、と小さく声を上げて上掛けに顔を隠した。が、すぐに目だけを出すと、はにかんだように瞬きした。

「わたしね、嫉妬って醜い感情だと聞いていたから、水晶魔女には一生関わりがないと思ってたの。でも違った。嫉妬はみにくくて、くるしくて……とってもどきどきする感情だったわ」

 なんという輝きだろう、水晶魔女の瞳はこんな明るい色だったかしら、とアントニーナは戸惑いながら、ガリーナを見つめた。

「不思議ね。美しい水晶を育てるには美しいものだけに触れていなくちゃと思ってきたのに。羨ましいとか妬たましいとか、そんな気持ちが私の中にもあるんだって気が付いてから、どんどん水晶が大きく育ち始めたのよ。わたしね、今初めて自分の時間を生きている気がしているわ」

 そこまで言うと、ガリーナは細い手を出してアントニーナの手を取った。

「嫉妬させてくれてありがとう。大好きよ、トーニャ……オーリャもね。わたしは、わたしの生きているこの世界が好き」


 暖炉の薪が小さな音を立てた。窓から入る冷気のせいか、ガリーナの指は手袋越しにも冷たく感じられた。



 






 

 

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