この世界で生きるということ
――もう何日ガリーナに会っていないだろう。
オーレグは憂鬱な雲を映す窓を見上げた。
ここしばらく、オ-レグは自室に閉じこもって楡の木に登ることさえせずにいた。誰に禁じられたわけでもなく、ただ気まずかったのだ。
来客があった時には相変わらず家族全員で迎えるよう命じられたが、なんのかんのと言い訳を作っては部屋から出ずにいた。伯母に対する初めての反抗だ。けれどこれといってお仕置きを受けるわけでもなく、淡々と日常は過ぎた。拍子抜けするほどだ。
楡の木は黄金の木の葉を風に散らし、本来なら一年で最も美しい姿を見せる季節のはずだが、とても楽しめる気分ではなかった。オーレグは何十回目かのため息をつき、今日こそは楡の木に登ってみようか、せめて窓の外からガリーナの様子だけでも伺い知れないだろうかと庭を歩き始めた。
「あら、壊し屋くんじゃないの」
後ろから声をかけてきたのは、クレーブの秘書の魔女ジェインだった。
「あんたにはお礼を言わなくちゃと思っていたのよ。おかげで水晶の結晶化が一気に進み始めたわ。」
なんのことだ、と訝しがるオーレグをからかうようにジェインは続けた。
「あのやせっぽちな水晶魔女を連れ出して、エスケープごっこをしてくれたんだって? やるじゃないの」
なんでこの魔女がそれを知っているのだ。
「どうせたいしたことはできなかったでしょうけど。でもそうね、いい仕事をしてくれたわ。ガートルードも一番害のない相手を用意してくれたもんねえ」
「……どういう意味だよ」
魔女ジェインは素知らぬ顔で、おくれ毛を指で弄んでいる。
「あたしはねえ、以前から忠告してたのよ。水晶魔女だって魔女には違いないんだから、ただお綺麗に、世の中の塵あくたから護っているだけじゃだめだって。力を得るには今までのやり方をぶっ壊して、感情を揺さぶらなくちゃ。たとえば恋をするとかね。でもジグラーシの魔女連中ったら、頑なでさあ。何百年も同じやり方を続けてりゃ勝手に水晶ができると思ってんだから、呆れちゃう」
長い爪をひらひらと舞わせ、魔女ジェインは蓮っ葉な口調でしゃべり続ける。赤い唇が嫌な艶を纏って、光る毒虫のようだ。
「まだわかんない?」
ジェインが憐れむように眉を寄せ、紅い爪でオーレグを指差した。
「あんたはね、ガリーナの安全な恋愛ごっこの相手としてあてがわれたのさ。あの大魔女ガートルードにね!」
何を言われたのか、しばらくわからなかった。
だがじわじわと毒に侵されるように言葉の意味が理解できてくると、今までにない怒りと嫌悪に、オーレグの体は震えてきた。
怒りのあまりに血の気が引くこともあるのだ、と初めて思い知る。
恋愛ごっこってなんだ。そんなんじゃない、そんなつもりは。オーレグは混乱したまま首を横に振るしかなかった。その間にもジェインの言葉は容赦なく降ってくる。
「間抜けなクレーブを出し抜いていい気分だった? 牢獄からお姫様をさらって、英雄気分だった? あんたの行動なんて何もかもお見通しさ。だってここは、この庭は、ガートルードの懐の中だもの。あんたはあんたの役目を果たしたんだ、水晶魔女はその役目を。すべては計算通りってことさ。ありがとうねえ!」
世界が青白く光った。
ジェインの言葉が終わらないうちに、オーレグの指先から光が走った。それは稲妻の形をしていたかもしれない、気が付けば魔女の足元の草は焦げ、オーレグの頭の中には千の音叉がでたらめに鳴っていた。
「おまえなんか……お前なんか! きたない魔女め、ガーリャに二度と近づくな!」
それだけ言うのが精一杯だった。オーレグは息を切らし、ガンガンする頭を押さえてジェインを睨んだ。
「へーえ……」
魔女ジェインは感じ入ったように足元の焦げた草を見、オーレグを見ている。
「さすが、ガルバイヤンの姓を継ぐだけのことはあるねえ。杖がなくても雷使いってわけだ」
そうしてハイヒールで一歩踏み出すと、指先でオーレグの顎を捕らえてクイと上向かせた。
「でもね、自分の力なんて簡単に見せるもんじゃないよ」
ジェインの指先は冷たい。まるで死体に触れられたようだ。払いのけることもできず金縛りのようになったオーレグに、ジェインは顔を近づけて声を落とす。
「いいことを教えてあげようボウヤ。今この時代に世界を動かしているのはね、魔法でもない、科学でもない。もっと歪で巨大な、おぞましい力だ。一度大きな流れが起こり始めたら、もう止めようがないのさ。あんたやあたしがこの世界で生き残りたかったらね、この国を統べる力に恭順を示すか、とことん自分の力を隠して生きるかなんだよ。特に一番大きな力は、いよいよの時まで隠しておくもんだ。そうでないと、呑み込まれちまう……オーリガやイサークのようにね」
母と叔父の名前を耳にして、黒い雷が頭の中を走った。と同時に金縛りのような力が解けて、ようやくオーレグは冷たい指を払いのけた。
ジェインは元通りの蓮っ葉な口調でしゃべり続けている。
「クレーブなんかもっと分かっちゃいない。純粋水晶を手に入れられるってだけで舞い上がっちゃってさあ。魔女なんかと契約するからには相応の犠牲を払わなくちゃいけないんだけど、わかってるのかね。ま、あたしは貰うもの貰ったらどうでもいいんだけど」
* * *
頭がガンガンする。
自分の部屋までどういう足取りで帰ったのか、オーレグは覚えていない。気が付けば、明かりも点けないままで自室の床に座り込んでいた。
床の上に石灰の粉が散らばっている。顎がひりひりする。ジェインの冷たい指に触れられた部分から毒が沁み込みそうで、自分が腐っていきそうで、混乱したまま稚拙な消毒を試みたのだ。だが毒は簡単に消えてくれそうになかった。
――何処までが仕組まれていたんだ。
水晶魔女と呼ばれる少女がこの家に来たこと。
毎日のように楡の木に登って夢中で話をしていたこと。
飛行術で勝手に連れ出したこと、失敗したこと。
すべてガートルードの計算のうちだったとしたら、自分はとんでもない道化ではないか。アントニーナは知っていたのか。ガリーナ本人は?
改めてここが魔女の家だということを思い出し、オーレグは震えた。ここでは自分だけが男の子で、魔法使い。いわば異分子だ。ジェインの言葉通りなら、その特性の違いを身内に利用されたことになる。吐き気がしてくる。
ドアをノックして、マーシャが夕食を運んできた。真っ暗な部屋に明かりも点けず塞ぎこんだオーレグを心配して、あれこれ言ってくれる。だが今日ばかりはマーシャとすら口をききたくなかった。彼女は魔女ではないし、この家でただ一人オーレグの味方になってくれる人だ。それでも。
マーシャは諦めたようにため息をつくと、夕食の盆の隅に何かを置いた。
「ガリーナさまが、これを」
オーレグがのろのろと摘まみ上げてみると、それは黄金色の楡の葉だった。いつかと同じように、裏側に魔女の爪印が見える――会いに来て――というサインだ。
だがオーレグはそれを手の中で握り潰すと、硬い靴底でさんざんに踏みつけ、ベッドに突っ伏した。
信じない。もう魔女なんて信じない。
誰が会いになんていくもんか。
お夕食だけは食べてくださいましよ、と声をかけてマーシャが髪を撫ぜていったことも、もはやオーレグにはどうでもよかった。
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