エスケープ2
どこまでも飛べるはずだった。
不意打ちのような恐怖心に負けさえしなければ。
(もし、失敗したら)という声がふと耳を掠め、オーレグの集中力を削いだ。インクの染みのような恐怖心は瞬く間に胸に拡がり、無意識に降り立つ地面を求めてしまう。
突然、霧の中から放り出されるように二人は草地の上に出た。足元はゆるい斜面だ。二人分の体重を支え切れず、オーレグはバランスを崩した。危ない、と声をかける間もなく、とっさにガリーナを庇ったまま二度三度転がって、枯草の中でようやく止まった。
「いたた……ガーリャ、大丈夫? どこか打たなかった?」
草の上のガリーナを急いで引き起こしてみると、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「おもしろーい」
「は?」
「世界がくるくる回った、面白い!」
頭に木の葉や枯草をいっぱいつけたまま、ガリーナは薄い水色の目をまんまるに開いて顔を輝かせた。
「飛ぶってこういうことなのね、楽しい!」
あまりにも予想外の言葉にオーレグは面食らったが、とにかく怪我はないようだ。
「ああ風が吹いてる。草がいっぱいだわ。わたしたち草の国に飛んで来ちゃったの?」
しきりにはしゃいでいるガリーナを置いて、オーレグは斜面を駆け上がり、周囲を見て愕然とした。
自分はここを知っている。
草地の果てに灌木が続き、おそらく川があるはずだ。向こう岸には牧草地。目を転じると楡やブナの森、その奥に小さく見えているのは、あまりにも見慣れた灰褐色の屋敷――
「草の国なんかじゃない」
オーレグは呟き、ガリーナの隣に戻ってうなだれた。
「伯母さんちの敷地内だよ、ここ……」
なんてこった。
途中で足を着いてしまったとはいえ、なるべく遠くへ飛んだつもりだったのに。なんのことはない、広大なガートルードの私有地の中を北へちょっと移動したにすぎないのだ。
ソロフ師匠のところからしばしば逃げ出した時には、もっと遠くまで飛べたのに、なぜうまくいかなかったのだろう。
二人分の飛行は初めてだから?
途中で臆病風に吹かれてしまったから?
オーレグの落胆をよそに、ガリーナは相変わらず楽しそうに周囲を見まわし、ふと両手を耳に当てて目を細めた。
「不思議な声が聞こえる。あれはなに?」
「羊だよ。聞いたことないの?」
「羊? まあ、本当にメェって鳴くのね。どこにいるの?」
オーレグは迷ったが、ちょっとごめん、と言ってガリーナを抱え上げた。灌木の茂みの際まで近づくと、木の枝を透かして川向うの牧草地が見える。
「あの白い生きものが羊ね? すてき!それに賢いのね、遠くに行ったりしないでみんな大人しく群れているわ」
「賢いんじゃないよ。ここからは見えないけど、牧草地の周りに空堀があるんだ。空堀に落ちて泥妖精に喰われるのが怖いから、出ていけないだけだよ。ほんとは羊が全力で跳んだらあんな空堀なんて跳び越えられるのにさ、やつら臆病なんだ」
見た目の細さに反して重いガリーナを草の上に降ろし、オーレグは息をついた。
「あーあ、枯草だらけになっちゃったね」
さっき斜面を転がったせいだろう、ガリーナの巻き毛やドレスに枯草や木の葉がいっぱい絡んでいる。
「平気、こうすればいいの」
手袋をつけたままの細い指先が空を指差すと、小さなつむじ風が巻きおこる。そいつはオーレグが驚く間にも絡み着いた草や葉を吹き飛ばしてしまった。
「……すごいね。トーニャたちは爪を弾かないと使えないんだけど、その魔法」
内心はちょっと残念に思いながらオーレグは感嘆してみせた。ガリーナの髪は、戸外で見るとガラス繊維よりも細く輝いている。できることなら、その銀色の巻き毛に触れて、枯草をひとつひとつ取るのは自分の役目でありたかった。もちろんそんなことは許されないと知っているけれど。
「ね、もう一度転がれない? すごく面白かったの」
斜面の上を指差すガリーナは、とんでもないことを言い始めた。初めての戸外に興奮しすぎているのかもしれない。
「だめだよ。こういう草地はさ、見えないところに岩が結構隠れてるんだ。頭を打ったりしたら大怪我しちゃうんだよ、ほら」
オーレグは銀色の前髪を掻きあげてみせた。
「傷跡があるだろ? ここんとこ。小さいときにクローバーの斜面を面白がって何度も転がってて、岩にぶつけたんだ」
「まあ……それって痛かった?」
無邪気に顔を近づけてくるガリーナは、傷跡に指を触れようとさえしてくる。ドキリとして、オーレグは慌てて立ち上がった。
「そ、そりゃね。痛かったし、派手に血が出たし、額が割れたかと思ったさ。ま、表面の傷だけで済んだんだけど」
本当をいうと、あまり詳しくは覚えていない出来事だ。あれは何歳の頃だったのか。大泣きするオーレグを抱き上げて手当てしてくれた優しい手のことだけは覚えているが、あれは母だったのか、マーシャだったのか……
「そういえばこの枯草もクローバーなんでしょう。本で見たのと同じ形だわ、すてき!
ガリーナは何を見ても「すてき!」を連発する。その楽しそうな表情を見ていると、こんなささやかな
「あーあ、伯父さんが生きてたらな。協力してもらえたのに」
「伯父さん?」
「イサーク伯父さんだよ、トーニャのお父さん。夢想家だって言われてたけど、面白い人だった」
「ムソウ家?そんなお仕事があるの?」
「そうじゃなくてさ」
遠くの空から暗い雲が流れてくる。オーレグはこめかみがチリチリ痛むのを堪えながら話を続けた。
「伯父さんは同調魔法が得意だったんだ。いろんな物に同調して心があっち側にいることが多くて。一日のほとんどの時間は夢の中、って感じだった。でもこっち側にいる時は、釣りを教えてくれたり、鳥を撃ちに連れてってくれたりもしたよ。伯父さんは男の子が欲しかったんだって。トーニャが妬けて怒るくらい僕らはいい相棒だったんだ」
そういえばオーレグの絵を褒めてくれたのも、絵の道に進むよう言ってくれたのも伯父だった。
「伯父さんはリル・アレイの森の中に小さな別荘を持ってたんだ。僕が大人になったら譲ってくれる約束だったのに、なんでか軍に志願して行っちゃって、それきり」
肩をすくめてみせたオーレグにガリーナは微笑んだ。
「オーリャは思い出がいっぱいあるのね。羨ましい」
「ガーリャはないの?ブラスゼムの思い出とか」
「忘れちゃった。うんと昔のことは覚えてるけど」
ガリーナはそう言って、首元から細い鎖を引き出した。
「これね、本当は誰にも見せちゃいけないんだけど。オーリャにだけ教えてあげる」
鎖の先端には小さな扇形の銀細工が下がっている。ガラスの蓋が付いたペンダントのようだ。
「数字が書いてあるでしょう。見える?」
顔を寄せてのぞき込むと、扇形の盤面には確かに1から12までの数字が並んでいる。
「なんだろうこれ、時計? にしては変だよ。針が一本しかない。それに今は午後なのに11を指してるし」
「これはね、『行きて戻る時計』。水晶魔女だけが受け継ぐものなの。この針が12を指したら……」
その時、遠くの空でどろどろという雷の音が聞こえた。ガリーナはハッと顔を上げ、急いでペンダントを襟の中に隠してしまった。
「オーリャ、雷だわ!」
オーレグは耳を澄ませ、遠くの空を見てうなずいた。
「鳴ってるね。でもまだうんと遠くだよ。それにああいうのは落ちてこないから」
けれどガリーナは両手で胸を護るようにしながら、青ざめて独り言のように呟いている。
「ああ、わたしったらなんてばか。お外に出てはいけなかったんだわ。そうよ、雷がいつ来るかしれないのに」
「大丈夫だよガーリャ。そんなに雷が怖い?」
「そうじゃないの。水晶が、水晶が変わってしまう……帰らなくちゃ。わたし、水晶を守らなくちゃ」
震えるガリーナは、半泣きになって訴えるように見上げてくる。オーレグは戸惑って涙いっぱいなその目を見返した。
もう少しここに居たい、といったらガリーナは泣いてしまうだろうか。
せっかく脱出できたのに。
どこへ、という確かな宛もない、何の準備もない、それでも二人で力を合わせて飛んできたというのに。
だが確実に雷の音は近づいてきている。雨でも降り始めたら、ガリーナを守ってやる傘さえここにはないのだ。チリチリと痛むこめかみを押さえて、オーレグはとうとう一番言いたくない言葉を口にした。
「……帰ろう」
牧草地から羊たちの怯えたような声が聞こえてくる。
震えるガリーナを抱えながら、自分たちもあの羊と同じだ、とオーレグは惨めに思った。力がないわけではないのに、臆病な羊が空堀を怖がるように、結局は大人たちの掌から外には出ていけないのだ。
* * *
来た時とは違って、帰りの飛翔は一瞬だった。転ぶこともなく屋敷の裏手に降り立つと、
しまった、ばれていたのか。
ある程度予想はしていたとはいえ、どう言い訳しようと考える暇もなく、マーシャが毛布を広げて素早くガリーナを抱き取った。
「わたくしが散歩にお連れしたことにします。お客様はまだ客間においでです。今のうちに坊ちゃんはご自分のお部屋に。さ!」
マーシャに促され、無言でうつむいていると、ガリーナと入れ替わるようにアントニーナが近づいてきた。
「オーレグを叱らないで。ごめんなさい、わたしが外に出たいって言ったんです」
泣きながらごめんなさいを繰り返すガリーナの声は、そのまま毛布にくるまれて屋敷の中へ消えていった。
パン!と派手な音と共に、左頬に痛みが走る。
ああそうだろうな、とオーレグは笑いたくなった。
魔女たちがあれほど尊んでいる水晶魔女を無断で連れ出したのだ。罰は当然だろう。だがその後の言葉は思いもよらなかった。
「なんであんたは、私の大切なものばかり壊していくの!」
どういう意味だ、今日はまだ何も壊してないじゃないか、と睨み返したオーレグは息を呑んだ。
アントニーナの心の『
オーレグの癇癪で割れてしまった古い鏡。
気に入っていたウィッチボール。
そしてイサーク伯父。伯父のイメージはオーレグが記憶していたものとは違って、青黒く病んだ顔をしていた。その目が凝視しているものは古い写真。
読み取れたのは一瞬だった。アントニーナはすぐに心を閉じ、
「私たちの水晶魔女まで泣かせて……だいっきらいよ、オーリャなんて!」
と言い捨てて、屋敷の中に駆け込んでしまった。
ガートルードの影が近づいてくる。今度こそ、平手打ちくらいでは済まないかもしれない。オーレグは身を固くした。
だが伯母は何も罰を与えようとせず、ただオーレグの肩に手を置いて
「ご苦労でした、オーリャ」
と言っただけで踵を返してしまった。
ご苦労? どういうことだ。
まだ痛む左頬を押さえて、オーレグは茫然と裏庭に立ち尽くした。
空は重く暗い雷雲に埋め尽くされている。
帯電しやすいオーレグの髪が、さわさわと揺れた。
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